8 清算


――やがて和夫の運転する車は、もよりの大きい銀行の駐車場へ着いた。


 和夫は大きな空のボストンバッグを片手に持ち、安江を連れてATMの前まで来てしまった。ここの銀行はATMが四台有る。ひとりが多少長くATMを操作しても苦情は出ないだろう。ATMも複数台無いと、待つのに苦情がでる。和夫達は大金を降ろすので、時間も数分は掛かるかもしれない。だから大きい銀行を選んだのだ。


 先程、安江に説明したあのカードを握り締めて、和夫は静かにATMの前に立っている。これから和夫の最後の仕事が始まろうとしている。


 自分の残りの寿命はどれくらい残っているかは解からない。お金を引き出した途端に、息が途切れる事だって考えられる。刻々と流れて行く時間が無常の様に感じる。


 和夫の額に汗がにじむ。和夫は静かに目を閉じると、大きくひとつ深呼吸をした。再び両目を開くと安江に目で合図を送った。それに答える様に安江が最後に念を押した。


「——ア、アナタ、本当に……い、いいの?……」

「——ほ、本当は……まだ死にたくない……。生きていれば、もしかして……チャンスが来るかもしれない…………。

 いいや、ダメだ、ダメだ。これがワシのラストチャンスなんだ。この機会を逃したら……きっと、いや絶対に後悔するかも知れない……。安江……お前や、弟夫婦や姪にワシの借金で迷惑を掛けたから……ワシは死んでお詫びをする。もう、それしか無いんだ…………。

 頼む、頼むからもう、何も言わないでくれ…………」


 悲しすぎる程の覚悟をつぶやいた。それは自分自身に言い聞かせる為の呟きでもある。自分の会社経営の失敗として、多額の負債を出してしまった。その為に、多くの人に迷惑を掛けてしまった。一番の被害者は弟だろう。自分が早く諦め、早く会社を畳んでさえいれば……。弟に保証人を頼みに行かなければ……。ここまで追い込まれる事は決して無かったはず。決断が甘かったのだ。

 その後悔と自らの罪をつぐなう為に、自らの命を差し出そうとしている。


 緊張感からか和夫の喉がグッと鳴った。ツバを飲み込もうとしたが、喉が渇いている為か巧く喉を通らない。両目は涙で潤み、真っ赤に充血している。禁断のカードを持つ和夫の手が微かに震えている。


 和夫を見守る安江の両目も充血し、涙が潤んでいる。そして一滴、


「……ふぅ~いいか、いくぞ……」

「——ア、アア、……アナタ……」


 最後の覚悟を自らに言い聞かす様に、和夫は禁断のカードをソッとATMに入れた。和夫の手から離れたカードは、静かに器械の中に取り込まれる。


 カードは静かにATMの中に取り込まれた。暗証番号は? と問う画面になった。4・2・1・9し・に・い・くの数字をATMに打ち込んだ。するとATMのモニターは次の画面に変わる。


いくら引き出しますかあなたの寿命ですよ?】


「うわっ!~……って、なんだ!——?」


 ATMの表示を見た和夫は一瞬戸惑った。表示が違う文字に見えたのだ。ATMの表示を二度見して金額の画面に目を向ける。


 ATMでの一回の金額は、最大五十万までなのだ。五十万寿命半年とボタンを押す。



 暫くすると、機械特有の音がキャシュコーナーに響く。そしてATMのお札のゲートが開いた。


 そして現金が現れた――。


「――ほ、ほ、本当だわ……!?」


 和夫の隣で安江が驚きの表情を見せた。と同時に、安江の顔に笑みがうっすらと浮かんでいた事を和夫は気付かない。


 再びカードを器械に入れると現金が現れる。その現金をボストンバックへ詰め込む。この単調な作業が五分続いた。


 例えるなら、ロシアン・ルーレット。リボルバーの拳銃の弾倉に一発の弾がこめられている。何時それを引き当てるのか? 死の恐怖の勢いボルテージが増してくる。一回五十万寿命半年を引き出す度に、銃弾を受ける恐怖が伴ってくる。寿命をお金に替える作業を続けていると、突然死になる。それは確実にやってくる。


 死神の大鎌は、和夫の首筋にあてられている。軽く引きさえすれば、頭と胴が離れ離れになってしまうところまで追い込まれているのだ。自らの寿命をお金に替えるとは、そういう事になるのだろう。


 まるでギャンブルだ。お金を降ろす度に、死への確立が徐々に上がってくる。和夫の両手の震えがひどくなっていく。息をするのも辛そうだ。死へのカウン・トダウンが始まってしまった……。


「――ウッ……!」


 途端に和夫は胸を押さえた。少し動悸がするようだ。呼吸も荒くなっている。額に流れる汗も頬を伝わって落ちる。此処まで五百万円也。和夫の寿命が五年縮んだ。 

 いや、探偵に二百万支払ったから計七年寿命が縮んだのだ。もうそろそろ危ないのかも知れない。心臓を死神に鷲掴わしづかみされている錯覚すら覚えてくる。


 いくら覚悟をしても、やはり死は怖い。突然死といっても、胸をかきむしる程の苦痛を味わいたくない。頭の血管が詰まるか、破れて眠るように死ぬ事が楽だろう。


 しかし、そんな選択肢は与えられない。どのように死ぬかは、選ぶ事は出来ないのだ。自分の命は、もうこのATMの前に居る限り、目の前に見えない世界のことわりに差し出されている。後、数回ボタン操作をする事で、この世とオサラバしてしまうのだ。


 一旦覚悟はしたものの、やはり躊躇ちゅうちょしてしまう。和夫は深呼吸を数回しながら安江に話し掛ける。


「やすえ……。少し、休ませてくれ……」

「——いいわよ、私が代わりにやってあげるわ。暗証番号は4219しにいくで良かったのかしら?」

「——えっ!……ぁぁ……」


 仮にも夫婦だというのに、こんな時に他人事の様に、安江は和夫から例のカードを軽く受け取った。命の重さを分かっていない。先程の和夫の説明を聞いていないのか、覚えていないのか? とんでもない事を平然と行おうとしている。どうして、そんな事が平然として出来てしまうのだろうか?……。


 安江は戸惑う和夫から例のカードを受け取ろうとした。


・————シューワーン


 受け取った瞬間、安江の掌の中であのカードが一瞬きらめいた。


「うわっ——!って、な、なに、このカードって?……見間違い? まぁ、いいわ。さぁ、お金を降ろさないと……」


 安江はカードの異変に驚き、一旦カードを床に落とした。そして、カードを拾い上げるとカードを二度見した。カードに変化は無いようだ。


 そして、お金を降ろす作業を始めた。先程の驚きをものともせず、目先のお金に囚われていた。もはや、お金しか見えなくなってしまった。


 お金・お金・お金・お金・お金・お金・お金・お金は裏切らない……。

 お金・お金・お金・お金・お金・お金・お金・早く、お金を降ろさないと……。


 カードを入れ暗証番号を打つ。出てきた札束を一旦ATM備え付けの封筒に入れて、バッグに入れる。その作業の繰り返しを行っている。五十万円を封筒に入れる事で、現金を数え易くする為だ。


 安江のその行為を、和夫は傍で呆然ぼうぜんと見守っているしかなかった。そろそろワシの寿命も、後わずかしかないのか?……。もはや諦めしかない。重い溜息しか出てこない。


 およそ二十分ぐらい経っただろうか。安江の持つボストンバッグは重たくなったのか、安江は荒い息を数回吐いた。なぜか、安江の額に汗がにじんでいる。


「——ふぅ~……ハァハァ、結構有るわね? 幾ら有るかしら?……」


 どうしちゃったのかしら、幾らでもお金が引き出せれるんですけど。そろそろ危ないんじゃないかしら……和夫さんは、降せれるだけ降ろしてくれ! って言ったけど、本当に大丈夫かしら……。

 

 安江は和夫の顔を横目でうかがった。先程は苦しそうだったが、どうやら落ち着いたようだ。


 まだ、いけるか? まだ、大丈夫か? もう少し、もうすこしだけ……

 自らの欲に押され、更にATMに手を伸ばす……。もう一回。あともう一回。


 お金・お金・お金・お金・お金お金・お金・お金・お金・お金————もっとおかねもっとおかねもっと欲しいお金が欲しい————。


「——えっ? なに? どうしてかしら……目がかすんできてるわ。よく見えなくなって来てる……。はぁ、はぁ、頭が、ボ~ッとするのだけど……。はぁ、はぁ…はぁ、はぁ……」


 それからすぐに、安江は急に床にひざまずくように倒れた。自らの胸を押さえて苦しそうにあえいでいる。


「——つ!……。うっ、う、う~……く、くるし……い……」


 安江の様子に驚いた和夫は、ATMから出たお金と例のカードに手を伸ばした。何故か、お金はコインも数枚有った。お札とコインをかき集めて、ボストンバッグに入れると床で倒れている安江を抱き起した。


「どうしたんだ——! 安江、大丈夫か?——」

「——くっ!……はぁはぁ……。あなた……胸が、むね……いたい……」


 安江は胸を押さえて苦しそうだ。和夫は戸惑っている。


 どうして安江が苦しむのか分からない。俺より年が若いのに、何か持病でも有ったのか? いや待てよ、今は俺の寿命をお金に変えに来ているはずだ。俺の寿命は一体どうなっているんだ。? だれか? たすけてくれ……。


「おーいーだれか——? 早く、早く、救急車を、救急車を呼んでくれ———!」


 和夫はATMから、銀行の受付に向かって叫んだ。


「早く! 早く! 早く、安江を助けてやってくれ——! お願いだ、誰か!——」

「くる……し、どう……し、て……ア、アア、……私の、お金————」


 安江の最後の言葉が、和夫に抱き起こされたままの状態で一言呟いた。最後の言葉が、和夫の動転した叫びでかき消された事を安江は気付かない。


 和夫はそれだけ取り乱していた。和夫は銀行の職員へ向かって叫んでいる。安江はもう虫の息だ。胸を押さえ、白目をむいている。ハアハアと呼吸するのも苦しそうだ。ATMの前で横たわり、微かに痙攣けいれんが始まってしまった。


 和夫は安江を抱きしめて、尚も安江に語りかけるように叫んだ。


「安江、やすえ、ヤスエ——! し、しっかりしろ————! 大丈夫か?……お前まで、ワシを、お…おいて逝くのか? 安江…頼むから、目を覚ましてくれ」

「——はぁ、はぁ、うっ、う~…………」


 やがて、銀行の職員によって数分後、救急車が銀行に到着した。救急車によって病院へ搬送中に、救急車の車内で安江の命の灯火ともしびが消えてしまった。


 救急車は一旦病院へ行き、安江は医者の診断を受ける。診断の結果、安江は原因不明の心不全と判断された。急死だと大抵心不全と診断される。


 動かなくなった安江の隣で、和夫が泣き叫んでいる。


「どうしてなんだ——! ど、どうして、ワシの女房達は、死んでしまうんだ。ワシが一体、なにしたって言うんだ————! せ、先生、安江はワシと一緒になってから病気一つ、いや風邪をひく事も無かったんだ……。それなのに、どうして? どうして?」

「ご主人、それは何とも申し上げれません……。お悔み申し上げます」

「…………やすえ、ヤスエ……どうして、ワシより先にってしまったんだ。百合恵と同じで、お前まで、ワシをおいて逝くのか? やすえぇぇぇぇぇぇぇえ————」


 和夫は目の前で亡くなった安江の状態が、ただ信じられなかった。呆然ぼうぜんとしてこの後の事をどうすればいいか、分からないでいた。悲しみの先にある役所関係や他の諸事情の手続きなど、葬儀会社に連絡を入れたりと行わなければならない事は多い。しかし、和夫の頭は回らない。冷静になれない。何が最優先なのか、悲しみで胸が張り裂けそうで考える余裕すら持ち合わせていない。


 和夫は、安江の傍にすがり叫んだ。


「安江、ヤスエ、やすえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえ————————」


 やがて、病院の看護婦によって、『白雲閣』の女将に安江の死亡が伝わった。


 『白雲閣』の女将によって、もよりの葬儀場で安江の葬儀が慎ましく行われた。

 知らない土地から来て、知らない土地で亡くなった安江の葬儀は、参列者も少なくひっそりと寂しいものだった。


 

  どうして、こうなった? どうして、このワシは生き残っているんだ?……。 

 どうして安江は死んでしまったのか?……どうして? どうして? 

 ワシは、又独りぼっちになってしまったのか? なぜなんだ———?


 安江の遺影の前で、和夫は一人つぶやいた……。




 和夫が用意したボストンバッグに、お金はギッシリと入っている。引き出した金額は、締めて42199643しにいくくるしみ円也。わずか、三十七歳の寿命をまっとうしたのだ。本来ならあと四十二年と数か月生きていられたのに……。


 安江は無念の死を、知らずに自ら受け入れてしまったのだ————。







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