6 探偵事務所



  ――四月に入ったある日の事。



 和夫と安江は同じ日に休みがもらえた。仕事も慣れ、暖かくなりこの町を散策しようと思っていた安江だった。しかし、和夫からドライブに誘われ、思いもよらない事を聞かされた。


「――安江、今日俺に付き合ってくれないか?」

「ええ、いいわよ。でもどうしたの? 顔色が真っ青よ……どこか具合が悪いの?」


 車を運転している和夫の顔は、顔面蒼白となっている。何かを思い詰めているようだ。








 ――三日間前の休日が、和夫の脳裏を横切る――。


 和夫は、最寄の都市の小さな事務所に居た。表通りから少し外れた安っぽいビルの一角にその部屋があった。


 自分ひとりで、浩平一家の足取りを追う事は不可能だ。以前に居た住所から何も手掛かりになるような物は出てこない。浩平の嫁の実家もあたってみたが、空振りで終わってしまった。


 もやは、誰かを頼らなければ……。




 和夫は、ひとり佇んでいた。


 その場所は、私立探偵事務所。


 和夫は、気になっていた。その後の弟の浩平一家の事だ。自分の所為で、弟の家族に多大な迷惑を掛けてしまった。億という、とてつもない借金。簡単に済むはずがない。その後、どうしているんだろうか? と言う疑問詞しか沸いてこない。


「俺の所為で、俺の所為で……。すまん、浩平。許してくれ……」


 自分を責め続ける日々が続く。苦悩が、精神的ストレスを大幅に増幅し続けている。


「で、依頼者の貴方のお探しになっている……」


 事務所の狭い応接室に、真正面に座っている探偵の声が聞き取れない。気力がなえて、意識が集中しない。正面から声が聞こえてきたような気がするが、頭の中に響かない。えっ?…今、何言ったんだ……。


「もしもし、大丈夫ですか?……」

「……えっ? はい。で、弟の所在は解ったんですか?」

「ええ、さっきから、そう申していますが……」

「ああ、すみません……で、?」

「貴方の、探している方……井坂浩平さん、でしたっけ?」

「ええ、そうです……弟です」

「私も苦労しました……大変言いにくいのですが、貴方の負債を浩平さんが背負って、彼は家と工場を追われました……。私は、てっきり実家に戻られたと思っていましたが……」

「実家には親は居ませんし、家も何も、土地も昔に売却して今は何も無い……」

「まあ、これは一応確認でして……。その後、彼等の後を追いましたが……これが、雲を掴むようなモノでして……。これは、偶然です。私の知り合いが、東北のA県に居まして、そこで、訳有りな夫婦が働いている事を聞いたんです。私は、早速現地に飛びました。貴方から頂いた写真を持って……。

 結果を言います。貴方の弟の浩平さんは、A県のO町でダム工事の現場で働いています。勿論、浩平さんの奥さんも、住み込みで給仕をして働いています。

 お二人とも、写真とは、比べ物にならないぐらい痩せていました。恐らく疲労が、かなり溜まっていると思われますが……」

「――む、娘が、居たはずだ……。浩平には? 由香ちゃん、由香里はどうしてる?」

「そ、それは……」


 何かを言いたいが、言う事を躊躇ちゅうちょしている。探偵業を長く続けていても、これほど悲惨な現状に遭った事はない。TVや、ドラマや小説の世界では当たり前の事だが、実際に目の当たりにすれば躊躇する。探偵は言葉を選びながら話す事にした。


「いいんですか? 言っても?……」

「構わん。ワシは、聴く義務がある……あいつ等を、追い詰めたのは、紛れも無いこのワシだ。ウウッ……スマン」

「解りました、いいでしょう。依頼者の貴方の覚悟を聞いたからには、話さない訳にはいかないでしょう。落ち着いて聴いて下さい……」

「姪の由香里さんは、貴方が居た地元のY市で体を売っています」

「——なんだと? か、か、からだを……売っているだと?……」

「ええ、正確には、ソープランドで働いています。【蘭】と云う源氏名で働いています。申し訳有りません……私の調査は以上です。これが、その全ての報告書です。 後で、目を通して下さい……」

「そ、そ、そんな、あの由香ちゃんが……からだを売ってるだと?……う、ううっ……。スマン、本当にスマン……。こんな疫病神を、許してくれとは言わない……。怨んでくれても構わん……。本当に、すまない事をした……。スマン………」


 和夫は泣いていた。弟夫婦が遠く離れた東北のA県で働いているなんて。地元を遠く離れたと云う事は、全てを忘れたかった・と云う事だろう。解っている。自分もそうなのだ。遠く離れた場所は、知り合いも居ない場所。過去を知る人が居ない場所だ。その場所は、途轍もなく冷え冷えとしている。それは今、自分自身が体験している。


 姪である由香里が売春をしている事も、和夫に更なる打撃を与えた。和夫にとって、由香里は清純な姪のイメージしかない。スレている感じは全く無いからこそ、和夫に与えるダメージは大きい。好みの客ばかりでは無い。見るからに受け付けない者も、客としてくる事もある。いや、その方が多い。ソープランドの女性は、客から見れば、女性として見ていない。ひと時の性の捌け口としてしか見ていない。それは、見ず知らずの相手にお金と言う対価で自分の体を与えている。


 信じられない。嘘だ、嘘であって欲しい。体を売る商売は、大金を得る事で、己の心を壊していく。麻痺していく。確かに例外もあるかも知れないが、大抵は自分自身の心を汚していく結果になる。知り合いが客として尋ねて来なくても、自分自身の心には決して嘘は付けない。重く辛い十字架を一生背負う事となる。


 もしも、由香里が売春をしているこの事実を、浩平夫婦が知ってしまったら彼等はどう思うのだろうか? 怒り狂う事は必死だろう。例え我が子が、そうなった場合は、大抵の親は怒り・狂い・悲しみ・嘆く事は避けては通れない。絶望と言う二文字が大きく圧し掛かってくる。


 全ての事実を知った和夫の口は閉じる事が出来無かった。口はだらしなく開き、ハァハァと息をするのもやっとのようだ。両目からは、涙が止め処なく溢れてくる。自分の体液が涙となり、両目から流れ落ちていく。その反面、異常に口の中が乾く。息をするのも辛い。頭が真っ白になってしまった。


 もし、悪魔が居て和夫の魂を抜き取っているのなら、正に、この表情が当てはまるのではないだろうか? 探偵の言葉を聴き、和夫の時間が止まってしまった……。

 弟の浩平の家に借金を頼みに行った、あの出来事が和夫の頭の中で幾度となく再現されていく……。


 もはや、和夫に掛ける言葉すらないのだろうか? 探偵も、暫しの間、放って於く事にした。探偵も気の毒と思っているのだろう。






 ――およそ一時間の時が流れた――。


 和夫は我に帰った。浩平一家に償わなければ、と思ったのだろう。ゼルと云う不思議な男と出会い、やはり自分の命を掛けて償わなければ成らないと、腹を括った。それは、あのカードで己が命を削る意味だと言うことを改めて思った。弟の浩平の居場所は分かった。


 だから、覚悟した。もう迷わない。もうそれしか償う事しか出来ない。


 和夫はポケットからハンカチを出し、自分の顔を拭いた。ハンカチはボロボロであったが、そのハンカチを見て和夫は思った。

 

 このハンカチはワシと一緒だ。ボロボロでクシャクシャだが、役目としては、まだ使える。と…悲しい喩えだった。


 やがて、和夫は探偵に礼金を支払い、報告書を携え安江の待つ旅館へ帰っていった。


 その足取りは、——とても、重かった……。











  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る