8 寄り添う善意

 ——ある日、いつもの様に美穂は海士の病室へ向かって行った。


 毎日、海士や由香里に会うのが、美穂にとって日課になっている。由香里も美穂に会うのが嬉しいのだ。外国で同じ日本人として接してくれる。それだけでも由香里にとっては、とても心強い存在なのだ。


 いつもの様に美穂は海士の病室のドアを軽く叩く。


「——コンコン……。こんにちは……。あれ、由香里さん? 海士君も居ない? どうしたのかな?」


 美穂は海士の病室に入ってみるが、今日は誰も居なかった。退院した様子もない。というか退院の話はまだ聞いていない。おそらく検査なのだろう。辺りを見ると、ベッドの横に少し大きめの手帳があるのが美穂の目に止まった。


「なんだろう、これ?」


 日記の様でもある手帳。ダメだ勝手に見てはいけない。ダメだ。


 自分を抑えようとしながら、好奇心に負けて美穂はその手帳に恐る恐る手を伸ばす。その手に取った手帳をユックリと開く。手帳の内容は由香里の我が子である海士との闘病日記だった。

 産後発病から現在に至るまで、自分自身の母親の立場から想いを綴っている内容だった。


 一枚一枚ページを捲ると、手帳の文章から目が離せなくなる。ダメだ目が離せない。ズンズンと闘病記の内容に引っ張っり込まれてしまう。これは、言葉が出ない。いや、声が出せなくなってしまう。 


 知らず知らずに読んでいる美穂の頬に涙が落ちて行く。母親の愛情とは、こんなにも気高く深く、大いなる物だとは美穂は気付かなかった。いや、再認識させられてしまった。私の母もそうだったのかも知れない。いや、きっと私が知らないだけでそうだったのだ。確か私が幼い頃の、あの時に、母はきっと……。


 子供を育てると言う事は、自分のエネルギーを分け与えると言う事なのだろう。熱い想いに胸を締め付けられるような気がした。およそ三十分間その手帳を読んでいると、病室のドアが静かに開いた。


「あら、美穂さんいらしてたの? あっ、それ? 私の手帳……」

「ゴメンなさい……ホントにゴメンなさい、由香里さん」

「いいのよ……美穂さんには色々とお世話になっているから……私、文才が無いからその闘病記、変でしょ?」

「ううん、そんな事ない。私、感動しちゃった……。泣けてきちゃった……ごめんなさい……。ウウッ……チョッと涙が……。本当に、ごめんなさい」

「ううん、良いんですよ美穂さん。それより美穂さん大丈夫……」

「取り乱して、ゴメンナサイ……。本当にこの闘病記、素敵ですよ。私、こんなに感動して泣いた事って、いつからかだろう? 本当に感動しちゃったの……あの、由香里さん。差し出がましい様だけど、これをまとめて本にしてみない? 実際の闘病記だから、同じ様な難病で苦しんでいる多くの人々に、エールを贈れる様な気がするんだけど……それに、由香里さんの文章は柔らかいから、胸にすう~っと入り込んでくるの。私、感動して泣いちゃったもの……どう? やってみませんか?」

「でも……私なんか……」

「いえ、絶対にやってみましょうよ。いえ、絶対にやるべきです。私が応援します。私もこう見えても編集者のハシクレですから、大丈夫ですよ。任せて下さい。一緒に、やりましょう。う~ん、そうなったら私の所はボランティア団体だから、月刊誌の数ページになってしまう。勿体ないなぁ、この話は【闘病記】として世間一般に広く、広げなければ……。そうなると、あそこか?……うん、角〇出版しか無いか? 由香里さん、私に大手の出版社の知り合いがいますから、そのあたりをよく聞いておきますから……大丈夫ですよ。私に任せて下さい」


 半場強引な美穂の提案を、由香里は渋々受ける事にした。しかしながらこの提案は、残り少ない自分の寿命を使い、本という形に出来れば海士が大きく育った後、亡くなった母親の事を想ってくれるかも知れない。海士が幼い時、母が息子に何をどう思ったのか、本と云う形で伝える事が出来る。いや、伝えたい。この想いは必ず息子に届けたい。私はこの子が大きくなる姿を見届けれないのだから。


【今は、これをするしかないのか? いや、これは必ずやらなくてはならないのだ】


 由香里は自分自身に問いかけ、手の空いた時間を利用して執筆活動を行った。


 海士の心臓移植手術後の経過は順調だった。心配していた拒絶反応も感染症も発生する事なく、無事順調に回復へ向かっている。そして術後、三ヶ月の入院期間の後、日本へ帰国しても良いと判断された。


 海士が退院する二週間前に、美穂は海士の病室にいつもの様にやって来た。


 美穂がアメリカに来て由香里に会ったのは、海士の手術後の翌月末だったので、約一ヶ月と二週間ぐらいになる。名残惜しいが、そろそろ帰国して海士の取材の編集作業をしないといけない。次の取材も待っている。


 病室のドアの前に立ち、美穂はショルダーバッグの中身を確認した後に、ドアを軽く叩いた。


「——コンコン……こんにちは」

「あっ、美穂さん、海士がね、今月の末で退院出来る様になったの」

「そう、良かったね~……本当におめでとう。海士君、よく頑張ったもんね。由香里さんも頑張ったから、本当に良かった。おめでとう」

「うん、ありがとう美穂さん。美穂さんにも色々お世話になって、私の愚痴ばかり聞いてくれて本当にありがとう。あっ、それから、例の闘病記の原稿出来たんだけど、これで大丈夫かな? 私、字が汚いんだけど、本当に大丈夫ですか? ちゃんと読めますか? 自信ないなぁ」

「えっ、もう出来上がったの? 早いわね~流石、由香里さん」

「だって、海士が寝てる間や検査の時を利用して書いたから……それに、原稿の元は手帳に書いていたから、写すだけだもの……」

「ありがとう由香里さん。じゃあ文字の校正や、話の構成はコッチでやってもいいですか?」

「うん、構わないけど、日本へ帰ったら又、必ず連絡下さいね」

「勿論よ。それから由香里さん、とても聞きづらいんだけど、海士君の治療費はどうなったの? 大丈夫だった?」


  ——ゾクリ——!


 美穂の問いかけに由香里の背中は凍り付いた。忘れていた訳では無い。いつ自分の寿命が尽き果てるかは分からない。夫の勇樹しか寿命を、お金に変換した事は知らせていない。誰も知らないはずだ。美穂と会う事で苦しみというか、恐怖から目を逸らしていただけなのだ。あの日から、事態は何も好転していない。浮かれていた。本を出す事に、浮かれていた自分が悔やまれる。でも、それしか無い。自分の想いを本という書物で愛する息子に伝える手段は、これしか無いのも事実。


 急に、自分の寿命が明日にも事切れるかも知れないと思うと胸が苦しくなる。美穂の言葉で急に目の前が暗転しそうになる。座っている椅子のひじ掛けを握る指に力を入れ、自らの暗転しかけた意識を無理やり引き戻した。


「——ええ……。だ、だいじょぶよ、由香里さん。主人の知り合いに、か・な・り・無理言って貸してもらえたのよ。……大丈夫……ダイジョウブだから」

「由香里さん、どうしたの? 何だか、顔色が悪いけど……だいじょうぶ?」

「ええ、だいじょうぶ……少し疲れているのかも……」


 由香里はとっさに嘘をついた。そんな簡単に三千万円など誰が貸してくれるだろうか。余程の善意の物好きか、何か善からぬ事を考えている悪意のヤツか、それとも頭のオカシイ人でないかぎり高額なお金を貸してくれない。


 だから、美穂には真実は伝えられない。例え、伝えた所で信じてもらえる筈はないだろう。信じてもらえたとしても、現状は何も変わらない。神様がいる事自体、信じる人は少ない。と云うか神様に会った。と言えば頭のオカシイ人扱いにされてしまう。そう簡単に人の運命は変える事は出来ない。


 取りあえずの手術代の請求分は由香里の寿命で支払った。しかし、術後の治療費+入院費など高額医療費がまだ待ち受けている。今後の支払いの事を想うと顔色が曇ってしまう。


  泥棒に会わなければ……。あのお金さえ失わなければ……。今頃はきっと、こんな苦しい想いはしないはずなのに……。


 由香里の顔が次第に下を向く。


 悟られないようにしなければ……美穂さんには本当にお世話になった。これ以上心配をかける訳にはいかない……。


 由香里は無理やり作り笑顔を浮かべた。


「そう、それはよかった、本当に良かったわね。金額が大きいから、心配しちゃったの……あっ、それから一応これは製本に向けての仮契約書だけど渡しておくわね。

 由香里さんに不利な事は書いて無いけど、一度目を通してサインして頂戴ね。

 サインしてくれたら日本の此処に送ってくれたら大丈夫だから。もう、郵便局で処理してあるから切手を貼る必要が無いので、いつでもポストに投函してね。それから、サインしたあとは必ず自分用の控えを契約書から外して持っていてね」

「美穂さん、そこまでしてくれて、ありがとうございます」

「そうそう、一番大事な事を忘れていた……これは、海士君へのプレゼント!はい、どうぞ!」


 由香里の作り笑顔に気が付かず、美穂は自分のショルダーバッグから一枚の封筒を取り出し、由香里に手渡した。


「何ですか?」


 由香里は美穂から封筒を受け取った。封を開き中身を見た。紙切れが一枚入っている。その紙切れを出して由香里は驚いた。


「これって、こ、こ、小切手じゃないですか?」

「そうよ、以前、募金活動をするって言ってたでしょ? 少しだけど集まったから、取りあえず治療の足しにしてね」

「いいんですか、こんなに?……」

「大丈夫よ由香里さん。取材料金だと思って受け取って……お願い……」

「美穂さん、ありがとう……こんなに……本当にありがとうございます」

「それから、由香里さん……実は私、今日で日本へ帰らないとならないの……残念だけど又、日本で必ず会いましょうね」

「はい、必ず。……必ず、日本で会いましょう。わたし、美穂さんに日本で必ず会いたいです……」



 美穂は海士の頭をなでて、由香里から預かった原稿を受け取ると、名残惜しそうに病室から出て行った。病室から出た美穂の背中が段々と小さくなっていく。出口に向かう廊下と、他の病棟から向かってくる廊下が交差する場所で、美穂は振り返った。


 振り返ると病室の前に立っている由香里に向かって両手を振り叫んだ。


「由香里さん~ガンバレ——! 海士くん~ガンバレ——!」と。


 由香里は思わず、美穂のもとに歩み寄ろうとした。エールを贈ってくれてありがとう。側に駆け寄って「ありがとう」と、お礼が言いたい。でも、近づけば別れが辛くなる。明日から日本人は夫と海士の三人だけになってしまう。同郷の国の人が側に居るだけで心が休まる。感謝から始まって、友情にも似た感情が美穂に芽ばえ始めた。

 引き留めてはイケナイ。彼女は仕事でここに居るだけなのだ。


 そう自分に言い聞かせ、踏み出した右足に左足を添えて踏み留まった。そして美穂に向かって深いお辞儀をした。 


  美穂さん……有り難う、本当に、本当にありがとうございます……。


 美穂の姿が小さくなって消えていく。消えていく後ろ姿に、お辞儀をしたままの姿勢の由香里の両目から、足元の廊下に涙が落ちていく。涙を拭こうとはせず、姿勢を戻そうとはしない由香里の手には、募金としての三百万円の小切手が握られていた。




 そして二週間が経ち、海士は無事退院する事が出来た。そして、海士を始め由香里と勇樹は、アメリカでの海士の術後のカルテを手に日本へと帰って行った。


 希望を求め、遥かな国アメリカにやって来た。海士の移植手術も無事成功し、術後の経過も順調だ。ただ一つ不服があるとすれば、治療費を盗まれ、由香里は禁断のあのを使ってしまった事だ。自らの命を削り、我が子を助ける為に使ってしまった。


 残された短い寿命の中、由香里には今後どの様な人生が待っているのだろうか。


 運命の歯車はゆっくりと、カチリ・カチリと確実に回り始めている。

 誰もそれを止める事は出来ない……。







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