第5話 好きという気持ち

 もういい、もういいんだ。

 譜読みをしたときは確かに楽しかった。まだ自分はピアノが弾けるんだというのがうれしくて、断ろうと思っていたこの三重奏も、やってみてもいいかなという気持ちになったのだ。

 でも、李里奈の言う通りで、どうしても楽譜通り以上のことができない。してはいけないような気がする。

 やっぱり音楽から逃げた自分なんかがもう一度始めるなんてのはおこがましかったのだ。

 涙があふれて止まらない。こんな無様な姿を誰にも見られることがないように急ぎ足で大学の門へと歩いていく。

 もう見ることがないだろうこの校舎を振り返ることもせずに彼女はまた逃げようとしていた。

「印南?」

 聞き覚えのある声だった。

 顔を上げると黒で固められた風貌の彼が、心配そうに美龍を見つめていた。

「せんぱ、い。わたし……」

「何があったんだ?」

 今話しかけられたくなかった。よりにもよってこの人に。

 しかしそれとは裏腹に美龍の口からはさっき起きたことや今まであったこと、なんで就職したのかについてぽつぽつと語りはじめた。

「音楽を諦めることを選んだ私が、音楽を続けるだろう二人と同じ空間にいていいのかわからない。先輩に頼めばよかったって、言われてしまいました。私もそう思います」

 それまで聞くだけだった柳沢はその時初めて口を開いた。

「印南はさ、メントリは好き?」

「好き……です。一番初めに触った三重奏で、思い入れもあります」

「じゃあ音楽は?」

「……好きでいていいのかわからないんです」

 美龍の言葉に、柳沢はこれは僕の持論だけど、と前置きをして話始めた。

「好きという気持ちは誰かに許可を得て思うものではないんだよ。楽器が一つも弾けなくてもショパンが好きで毎日聞いてる人だっていれば、絵が描けなくても見ることが好きで美術館に通う人だっている。僕らがたまたま弾く側の人間だっただけで、それが好きであることの許しとなることはないんだよ。何かを好いて、愛することは根本的に自由だ。だからピアノを弾いていないから音楽を好きでいてはいけない、なんてことはないんだよ。だから、印南が音楽を好きだ、という気持ちは事実として君の心の中にあって、それは何者も否定することはできないんだよ」

「私は……」

 その言葉につられて即答しそうになった彼女を柳沢はたしなめる。

「もちろん、僕がこういうから君が何かを好きと思うことが許してもらえる、ということではないんだよ。だから、音楽が好きかどうかも、三重奏を続けるかどうかも、自分の心によく聞いてみるといい。今日はかえってゆっくり休みなよ。明日もまた仕事でしょ?」

 少し突き放すような言葉は美龍のことを心底思ってのことだった。

 今のままでは何も返す言葉がない美龍は、柳沢の提案通りその日は家に帰ることにしたのだった。

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