第4話 ついてくる痛み
練習も何回か重ねてきたころ。
「尊。そこ、ピッチ低い」
唐突に音楽を止めたのは李里奈だ。
李里奈は大学に入る前に一年海外で生活していて、そのため尊より学年は一つ下だが年齢は一緒だからか、尊にはため口で話す。
そんな彼女が険しい顔で言い放った一言に、いつもはふわふわとしている尊の眉間にもしわが寄る。
「そうかな……」
「低いよ。ピアノの音ちゃんと聞いてる?」
「聞いてる……つもりだけど……」
幼いころから音楽に触れてきた李里奈はチェロを始める前はヴァイオリンをやっていたのでそっちにも詳しい。
そのため合わせをするたびに弓の引き方がどうだピッチがどうだと言ってその度に練習が中断されるのだ。
ピッチは音程のことで、ドやレの音の中のずれに李里奈はかなり厳しいが、ピアノ一本で来た美龍には縁遠いことだ。彼女の楽器は演奏が始まる前にすべてきっちり音を揃えられているのだから。
対してヴァイオリンなどの弦楽器はそうはいかない。
張ってある弦を押さえて長さを調整することで音程を調整するが、それが少しでもずれるとすぐ変わってしまう。
文字通り、音を自分で作っていく楽器なのである。
「つもりじゃダメ。それじゃできてないのと一緒」
二人の間に険悪な空気が漂うのを察して美龍は口を開いた。
「ま、まあ、とりあえずもう一回同じところやってみようよ。場所は……」
美龍が小節番号をいう前に李里奈が一音長い音を鳴らした。
突然の音にほかの二人は面食らって固まる。
「前から言おうと思ってたんだけど」
「なんだよ李里奈」
明らかに話を遮った彼女に尊が非難するが、李里奈はそのまま続ける。
「メントリ、嫌いなんですか? 特に一楽章、ひどいですよ。楽譜通りだけど何にも感じられない。ただ音を追ってるだけ」
「ちょっと」
「あんたはその気持ち悪い独りよがりな弾き方を直してから喋りなさいよ! 私は印南さんに話してるの!」
口を挟もうとした彼はいたずらを叱られた子犬のようにしゅんとして黙りこくってしまった。
美龍はこの曲が嫌いかと聞かれてその答えを返せずにいた。
「なんで黙ってるんですか? 四年間この大学で何をしてきたんですか? 楽譜通りに弾くだけなら趣味の人だってできますよ。音楽が嫌いだから就職したんですか?」
李里奈の問いは明らかに美龍を責めていたが的確で、それはこの三重奏にかける彼女の並々ならない思いがその言葉を出していた。
「私は……」
音楽は、好きだ。でも、こんなに真剣に曲に向き合っている人の前でそんなことを言う資格は私にはあるだろうか。
自分よりも年下で、でも才能があって、音楽を、この曲を好きだからこそ妥協ができないこの可憐な少女はどこか自分の尊敬する先輩の姿に似ていて、そんな人間の前で自信をもって音楽を好きだという勇気は美龍にはなかった。
李里奈の深いため息が練習室内に響き渡る。
「やっぱり無理言ってでも柳沢先輩に頼めばよかったですね」
その時、美龍の頭の中で何かがぷつんと切れてしまって、もうだめだという思いが彼女を支配した。
そしてひったくるように楽譜と荷物を手に取ると、逃げるように練習室を飛び出してしまったのだった。
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