第2話 過去との再会
「印南さん。もう直ぐ終業時間だけど、大丈夫?」
昔のことを思い出して呆けていた美龍は上司の声かけに慌てて仕事の続きを終わらせる。
少し残業してしまったが走ればいつもの電車は間に合う。
さっさと帰って今日の事は忘れよう、と勢いよく会社を出たところで誰かにぶつかりそうになり彼女は急停止した。
「ご、ごめんなさい……!」
「印南?」
「え、なんで……先輩?」
そこにはパーマのかかった黒髪に黒い服、なんならカバンまで黒い男が立っていた。
黒ずくめの男といえばそのまま伝わる容姿である。
「こんなとこで会うとは……急ぎかい?」
急停止した自分に気付いて美龍はハッと駅の方を見やる。
今にもホームに電車が入ってきそうなのを見とめると彼女は小さなため息をついた。
「急ぎの用は今なくなりました! 先輩はお仕事ですか?」
電車がホームに入っていく音を聞いて彼が微笑んだ。
「僕はちょっと調べ物で近くの大学に用があってね。終わって帰るところ」
「なるほど……」
柳沢太一は美龍にとって唯一無二の存在だった。
美龍が学部一年の頃だった。門下で試験前に試演会というものがあり古典の曲を弾いた後、門下歓迎会でしか顔を合わせた事がなかった柳沢が突然声をかけてきたのだ。
「あそこのスラーの取り方、こっちの方がいいんじゃない?」
その時の印象はわざわざ後輩にアドバイスしに来るなんて、変な人だな、と言ったものだった。
しかし彼の演奏を聞いた時、美龍は雷に打たれたような気になる。
ショパン作曲のエチュード作品25-11。通称木枯しと呼ばれるその曲は、高い音から似た幅の音を少しずつ動かして降りてくる難易度の高い曲だ。その動きが木枯しが激しい風に巻き上げられて舞う様に聞こえることからその通称で呼ばれている。
練習曲とはいえとても緻密に設計された音楽性の高いその曲を、彼は一音も違える事なく繊細に弾ききったのだ。
兼ねてからずっと弾きたかった大好きな曲だからというわけではなく、試験に使うからという単純な理由でその曲を選んだ彼がなぜ自分にあんなアドバイスをしたのか、美龍は悟った。
この人は表現一つのあらにも気づくほど、ピアノを演奏することを愛しているのだと。
同時に自分は彼のようにはなれないという諦めもそこに生まれてしまった。だからこそ、美龍は今こうして普通の仕事をしている。卒業してからというもの、柳沢に会ったのはこれが初めてだった。
「で、どうする? 行く?」
「へ、何がですか?」
「なんかぼーっとしてるよね。大丈夫? ご飯まだなら一緒にどうって聞いてたんだけど」
「あ、ああ! 行きます、行きますとも!」
「とも……?」
美龍の変な返しに首を傾げながら駅前でいいかと柳沢は歩いていく、それにおいて行かれないように慌てて美龍は彼について行ったのだった。
「意外だったよ、就職するなんて」
そう言った彼の目は真っ直ぐだった。しかし学部を首席で卒業して同じく大学院も奨励金で通っている優秀な彼には音楽の道を降りるという選択肢はないのだろう。
「あはは、才能がなかったんですよ」
そう言って白々しく笑う美龍に柳沢はそれ以上追求してこない。
しかし、しばらく考えるように黙り込むと手元に置いてあったビールを飲み干して口を開いた。
「あのさ、相談があるんだけど」
「先輩が私に相談?」
彼は頷く。
「学部四年のヴァイオリンの後輩がさ、トリオを組みたいって言ってて、でもピアノが見つからないらしい。僕も誘われたんだけど課題が忙しくて力になれそうにないんだ。だから印南、どうかと思って」
「トリオですか? またなんで私に」
印南なら大丈夫だと思うから、と曖昧な理由を述べた彼に美龍は首を傾げる。
「チェロの方は運良く見つかったらしいし、本番の日も決まってるんだって。なんで先にメンバーを集めないのかって話だけど。ね?」
「でも、私ピアノはもう……」
たじろぐ美龍に柳沢は続ける。
「話を聞くだけでもいいからさ、一度会ってあげてくれないかな」
柳沢がこんなに熱心に自分に何かを頼んでくるのは初めてだった。よっぽど大事な後輩なのかどうかわからないが、その場で断りきれなかった美龍は、結局その後輩達に会うことになってしまったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます