三つ葉の音色
風詠溜歌(かざよみるぅか)
第1話 印南美龍という人間
──キーボードのタイプとピアノの弾き方は少し似ている。
形だけで言えばほぼ全く一緒だ。でも、そこから生み出される物は全く違う。
もしプロになることができたのなら。
これは、音楽を諦めた一人の人間の、小さな物語。
「印南さん、この資料午後までに仕上げといて!」
ハツラツとした声がオフィス内に響き渡る。
声を上げたのは快活な笑顔の中年の女性で、その声の先にいたのは大人しそうな雰囲気の若い新入社員だ。
「は、はい……!」
上司からの仕事の依頼にいわゆるオフィスカジュアルという服装の彼女はおずおずと書類を受け取り、指示を受ける。
ここに入社してから、研修も含めるともう半年は経つ。今は落ち着きだしてようやく業務に慣れていく準備ができたところだ。
ワープロや表計算ソフトでの資料作成が主な仕事である彼女は黙々とキーボードにデータを打ち込んでいく。
「印南さんがキーボード打つと、ピアノを弾いているように見えるわね」
そう上司が呟いて、彼女は固まる。
「……あ、はは。キーボード打つのとピアノ弾くのってちょっと姿勢が似てますよね」
少しの沈黙の後苦笑いでごまかした彼女は再びパソコンに向き直る。
「あっ……」
今打った文章に誤字があったのを発見して彼女は手を止める。
先ほどの上司の言葉が頭から離れない。
「ピアノなんて、もう何ヶ月も弾いてないのにな……」
高校から音楽科だった彼女はピアノ専攻で、高校の時には全国で入賞を果たしていたほどだったが、大学は日々の課題をこなすのみで特に何か積極的に活動したりということはなかった。
このまま漠然と音楽を続けていくんだろうなと思っていた矢先、進路選択の淵に立たされた。
「美龍は卒業したあとどうするの? 私はね、海外に習いたい先生がいるから留学するんだ」
一番仲が良かった友人の言葉が反芻される。彼女は今遠い異国の地で音楽を続けているのだろう。
果たして自分はどうか。就職するか演奏者として活動していくか。その二つを天秤にかけたとき、周りを見回すと演奏者としての道を選んで行く友人たちはその時には何かしら演奏の仕事や活動をしていた。
その時に、諦めてしまったのだ。大学で首席を取れるわけでもなければ、院に行って勉強を続けようという気もない。そんな人間が演奏していくなんて甚だおかしい。
だから彼女は四年ある大学生活のうしろ半分を就活に当て、ピアノは卒業試験を最後に触ることがなくなっていた。
そんな自分がパソコンのキーボードを叩く姿がピアノを弾いてるようだなんてとてもおこがましくて、そして悔しかった。今触っているのが本物のピアノだったらいいのに。
キーボードを打つことで生み出されるのは文字や数式で、それは人を感動させる創作物ではない。ふとした時に何かを気づかせてくれたり、涙を誘ったりするようなことは今の彼女にはできないのだ。
しかし、ピアノを弾いているときは違った。誰かを感動させたりという素晴らしい演奏ができたわけではないが、弾いてるときはただただ楽しかった。好きなものだけを見ていられる世界、そんな感覚が心地よかった。
だからこそ自らその場所から離れてしまったことに、彼女はとても後悔している。けれどその状況をどうにかしようという気概も、才能もない。
それが、印南美龍という人間だったのだ。
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