5(10月23日)

 なにも訊かずに、ただ居場所を与えてくれる存在。


 サトウがタクミに対し、常にそうあろうとしていたということは、タクミの目から見ても明白だった。


 タクミはサトウが好きだった。


 学校の友達は皆一様に子供っぽくて、話を合わせるのに苦労する。

 友達だけではない。担任や、母親など、周囲の大人も。

 彼らはタクミをなにもわからない子どもだと思っているから、タクミも小さな子どもとして話さなければならない。


 でもサトウは違う。


 サトウといると楽だ。

 必要以上にあれこれ詮索したり、子供だからという理由でタクミの言葉を軽んじることもない。

 サトウの前でなら、タクミはいつも自然体でいられる。


 しかし、サトウは大きな思い違いをしていた。


「ぼく、生きるのが辛くて死のうとしたんじゃないんです」


 動かなくなったサトウの大きな背中に話し掛ける。


 血塗れのレインコートとナイフは、一度家に戻って片付けた。

 居間に置かれた長椅子から、寝言で息子を呼ぶ母の声が聞こえてきたのでドキリとしたが、日頃から寝汚い彼女が目覚めることはなかった。


「ずっと、ぼくが悩んでるって思っていたんでしょう?

 でも、触れちゃいけないと思って、なにも聞かなかった。

 ぼくが死のうとしたことも、誰にも内緒にしてくれましたね」


 タクミはサトウの傍らに屈んだ。

 慈愛に満ちた目で、寝ぐせのついた後頭部を見つめる。


「サトウは本当に、優しいね。こんなに優しいのに、どうして奥さんと子供は、いなくなっちゃったんだろうね」


 答えるものはいない。

 タクミは立ち上がると、倒れているサトウに背を向けた。


 ◇◇◇


 黒歴史ノートは、思いのほかすぐに見つかった。

 二階にあるサトウの書斎らしき部屋の本棚に、特に隠すわけでもなく並べられていた。


 黒くて高級感のあるハードカバーの背表紙に、ご丁寧に“黒歴史ノート”と書かれている。

 細い指で躊躇なく抜き取って、タクミは思わず顔をしかめた。


 カギが掛かっている。


 机の引き出しを開けてはみたが、それらしきものは見当たらない。

 ひとり暮らしのくせに、案外徹底している。


 タクミは鍵をあっさりと諦めた。

 持って帰って、鍵のベルト部分を破壊すればいい。


 ノートを両腕に抱え、一階のリビングへ戻る。

 玄関へ出るには、リビングを通らなければならない。


「もう帰るのか?」


 目の前に立ち塞がった大きな影に、さすがのタクミもぎょっとした。

 顔を上げると、青い顔をしたサトウが立っている。

 どうやら、リビングの出入り口で待ち構えていたらしい。


「死んでなかったんですか?」


「いや、俺も一瞬死んだかなって思ったけど、あんなちゃちいナイフで死ぬわけないんだわ。しかもお前、力弱くて全然刺さってねえし」


「もしかして、死んだフリしてました?」


 タクミはむっとして、やや不機嫌な声を出す。


「そんな器用なマネできるかよ。自分の血ィ見て貧血起こしてたんだよ」


「ぼくのこと警察に言いますか?」


 大きな目が、サトウの凶相をじっと見上げる。

 タクミの普段の振る舞いを知らない相手なら、うっかり騙されそうになる愛らしさだ。

 サトウは眉間に皺を寄せ、浅くため息をつきながら首を振った。


「言わねえよ。お前みたいなちびっ子しょっ引いても、どうせなんにもならねえ。

 それどころか、俺がお前になにかしたってことになりかねん」


「ですよね」


「お前なあ……」


 見た目を完全に裏切った強かさに、サトウは頭を抱えた。

 ぼりぼりと後頭部を掻く。


「後悔とかってないわけ?」


「ないです」


 タクミがぴしゃりと答えた。

 まったく悪びれていないどころか、早くこれを読みたいからそこをどいてくれませんか、とでも言わんばかりである。


「あ、そう。じゃあ、それ置いてけよ」


「どうして?」


「どうしてって、俺は死んでないから」


「でも、あの時は死んだって思ったでしょう? 一度は、ぼくにくれるつもりだったんですよね? このノート」


 タクミの純粋な瞳に、サトウは言い返せなくなる。


「いや、それはそうなんだが……でもなあ」


 サトウが口ごもった。


 生きているうちには、よほど見られたくないものらしい。

 三白眼がしきりに泳いでいた。


 タクミはサトウに歩み寄り、


「じゃあ、ぼくから提案があるんですけど」


 さも楽しそうに微笑んだ。


「ぼくがサトウより先に死んだら、このノート、返してあげます」

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