エピローグ(10月23日)

「死後の世界?」


「はい。おばあちゃんが言ってたんです。死んでから行ける場所があるって」


 俺の背中に大判の絆創膏を貼りながら、タクミは答えた。

 俺は長年厚い信頼をおいてきた自分の耳を、三年ぶりに疑った。


「おい、まさかお前……」


「ぼく、それを見てみたかったんです」


「はああ!?」


 あの日、タクミは思い詰めたような顔で、自らの手首を切ろうとしていた。

 問い詰めたりはしなかったが、なにかに思い悩んでいるのだと思った。

 学校の友達や、二人暮らしの母親と、うまくいっていないんじゃないかとか。


 ……死後の世界だって?


 俺は激しく呆れた。

 タクミもタクミだが、この好奇心旺盛な少年に、無責任に宗教観念を押し付けたバアサン……。冗談じゃねえ。

 

「でもそれはまたの機会にします」


「そ、そうか」


 ほっとする。


 後ろから俺を刺し殺そうとするとんでもないヤツだが、それでも俺はタクミに生きていてほしかった。


「だから、このノートのカギ、ください!」


 タクミが俺に向かって、モミジのような手を差し出す。


 ……どうしたもんか。


 俺はしばし考え込んだが、やがて観念した。

 きつく目を閉じ、Tシャツの懐に手を突っ込む。

 そして、首から下げていた小さな布の袋を開くと、中から出てきた銀色の鍵を、タクミの手のひらに落とした。


 ここで渡さなかったら、またなにをするかわかったもんじゃない。

 それに、家に持ち帰って鍵のベルトを破壊されれば、鍵が無くても同じことだ。


 タクミは嬉々としてノートの表紙をめくった。


 往生際の悪い俺は、そんな段階にあってもなお、ためらっていた。

 ノートを見たタクミが、怒るかもしれないと思った。


「なんですか、これ」


「タクミ、すまん。実はそれ、ただの……」


「4月15日、これが初日記。書いてるのは翌日だが、今日は会社帰りに不三家に寄った」


 俺が告白する前に、タクミはノートの内容を音読し始めた。


「朝チラシが入ってて、シュークリームがうまそうだったからだ。

 けどやっぱり場違いだった。店員が奥に置いてあるカラーボールをチラ見してるし、女子高生には笑われるし、最悪だ。俺が甘いもん買いに来ちゃおかしいのかよ!」


 声変わりなんてきっとあと十年近く先であろうソプラノボイスで、抑揚をつけて読み上げる。


 黒歴史ノートなんかじゃない。

 半年前から付け始めた、俺の日記を。


「会社関係のやつに貰ったことにしてごまかしたのに、結局タクミにまで笑われた。まあ、なんだかんだで喜ぶ顔が見れたし満足満足かっこわら。4月16日……」


 まさか、目の前で音読されるとは思っていなかった。

 予想以上の羞恥に、背中や脇を冷や汗が流れていくのを感じた。


 黒歴史ノート。

 本当はそんなものなかった。

 いや、俺の実家には中学時代のホンモノが、あったかもしれないが。


 死にたがっているタクミの興味が少しでも引ければ、それでよかった。


 あの日俺は、通販でいかにもそれっぽい――厨二病が好きそうなデザインのノートを買った。形だけでも、黒歴史ノートにするためだ。


 タクミと過ごした時間を、日記につけ始めた。

 俺にとって、日記というのは他人に見られたくない秘密の告白だ。


 だから俺の嘘は、半分は嘘じゃなかった。

 でもいま、半分どころか、そのすべてが本当になろうとしている。


「やめてくれ。たのむ、やめてくれぇ……」


 四十の男の恥ずかしい告白を読み上げ続ける天使のソプラノ。


 俺にはそれが、悪魔の哄笑のように聞こえた。

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