4(10月23日)

 その日、サトウはめずらしく、爽やかな気持ちで目覚めた。

 玄関のドアを肩で押し開くようにして外に出る。

 冷たく澄んだ空気を、肺いっぱいに吸いたかった。


 静かだ。


 時刻は午前六時。

 家の前の通りにはまだ、ゴミ出しに出てくる人もいない。

 大きく伸びをすると、肩や腰の関節がゴキゴキと鳴った。


「……ん?」


 サトウは目を細めた。

 遠くから、人影が近付いてくる。

 人影は鮮やかな黄色をしており、とても小柄だ。

 

 あれが子供なら、またこの顔を見て怖がられてしまう。

 朝から甲高い悲鳴を聞かされるなんてごめんだ。

 のろのろと、サトウは家の中に引っ込もうとした。


 ところが、人影はこちらに向かって走り出した。

 その足音に気付いて、サトウは振り返る。


「タクミじゃねえか」


「あの……おはようございます」


「なんだ? 雨合羽なんか着て」


 鮮やかな黄色は、タクミが身にまとうレインコートだった。

 母親の趣味なのか、いつもは寒色系の服装が多いので、新鮮である。

 本日の降水確率は低かったはずだが、水遊びでもするのだろうか。


 ……この時季に?


「どっか行くのか?」


「いえ」


 息を弾ませるタクミは、なにかを言いたそうだ。


「じゃ、うち入るか。母ちゃん、もう寝たんだろ?」


「はい」


 タクミの母親は、おそらくスナックの従業員だ。

 毎日、真夜中か朝早くに帰ってきて、この時間には寝ているらしい。


 タクミが毎晩、アパートの部屋を空にしてサトウの家に入り浸っていることを、彼女は知らない。


「俺も仕事だからあんまゆっくりはできないけどな。そうだ、朝飯食ってけよ」


「ありがとうございます。えへへ、なに食べさせてくれるんですか?」


 タクミは嬉しそうにはにかむ。

 いやに素直だな、と思った。


「菓子パンよりマシなもん作ってやるよ。座って待ってろ」


 タクミに背を向け、サトウは冷蔵庫を覗き込んだ。

 我が子のように思うことはないとはいえ、庇護欲はある。

 育ち盛りの子供が毎日菓子パンで朝食をとっているというのは、なんだかしのびなかった。


 まずはハムと卵――。


「……え?」


 突如、鋭い衝撃がサトウの分厚い背中を襲った。


 サトウは息をのむ。

 温かいものが、着古したTシャツの背面に広がっていく。


 なんで。

 どうして。


 油の切れたロボットのようにぎこちない動きで振り返ると、すぐそばにタクミが立っていた。

 小さな果物ナイフを握り締め、無表情にサトウを見上げている。

 黄色いレインコートが赤く汚れて、その鮮やかさを増していた。


「タク、ミ……?」


「ぼく、サトウはもっと年上かと思っていたんです」


 それは先日聞いた。


 しかし、今刺されたことと、なんの関係があるというのか。

 サトウはよろめき、冷蔵庫に凭れかかる。

 手に持っていた卵が床に転がり落ちて割れた。


「日本人男性の平均寿命は八十四歳なんですよ」


「は……?」


 なにを言われているのかわからなかった。


 サトウは必死に首を捻って、タクミの意思を汲み取ろうとする。

 しかし、意識が遠退く。身体が崩れ落ちていく。

 がくりと膝をつき、サトウは立っているのを諦めた。


 最後に見上げた少年の顔は、


「ぼく、そんなに待てません」


 やはり、怒ったチワワによく似ていた。

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