2(4月16日)
サラリーマンの中年男サトウと、近所の小学生タクミは、年の離れた友達である。
「なにかいい方法はありませんかね」
天井に提げたシャンデリア風ライトの、温かなオレンジ色の灯かりの中。
ワックス掛けしたばかりのクルミの床に膝を崩し、クレヨンで風景画らしきものを描いていたタクミが、ぽつりと言った。
「え? なにが」
サトウが抱えていたアコースティックギターから、顔を上げる。
「なにって、手っ取り早く、楽に死ぬ方法ですよ」
持ち慣れないピックが弦を滑った。
悲惨なメロディが流れ、タクミが嫌な顔をする。
へたくそ、とでも言いたげだ。
子どもというのは、時に――否、大体いつも残酷だ。
「まだそんなこと言ってんの?」
「ずっと言ってるじゃないですか」
「まあそうだけどさ。けど、言ったろ? めっちゃ痛いし、死ねないよって」
サトウが、この少年に初めて会ったのは、去年の秋のこと。
彼が折り畳み式の果物ナイフを片手に、自分の手首をじっと見つめているのを見かけて、声を掛けた。
落ち葉で黄色に染まる、河川敷での出来事だった。
「だから手首を切るのはやめたんです」
「そうだったな」
「……サトウがおどかすから」
タクミが不満げに頬を膨らまし、それからサトウの方を振り向いて、キッと睨みつけた。怒ったチワワみたいだった。
「でも、別の方法を試さないとは言ってません」
「あ、そうなの? けどさあ、どれも大体、痛いし苦しいと思うよ」
「サトウだって、死にたいくせに」
あの日のサトウの左腕には、真新しい包帯が巻かれていた。
睡眠薬をたらふく飲んだのに、全然意識が無くならなかったので、切った。
使った刃物はたしか、息子の道具箱に入っていた、黄色いハサミ。
「ああ、そうだよ。でも失敗したんだって。痛いばっかりで、死ねなかったの」
過剰な服薬のせいで、ひどい吐き気がした。
切れない刃でむりやり作った傷口はとてつもなく痛くて、脂汗を垂らしながらサトウは泣いた。泣きながら、救急車を呼んだ。
死にたかったのは確かだが、痛いのにも苦しいのにも堪えられなかった。
運び込まれた病院で、傷口を縫われた。
幸い、睡眠薬は吐き切っていたため、サトウは料理中に手が滑ったのだと嘘をつき、医師の追及を逃れた。
もし、バレていたら、どうなっていたか。
医師や看護師に説教をくらうだけでは、すまなかっただろう。
ぼんやりと歩く帰り道、サトウはこの少年と出会った。
「おせっかいなおじさんだなあって思いました。顔もこわいし」
話してみると、タクミはサトウ宅の近所に住む子供であることが判明。
そこから奇妙な交流が始まった。
「そのお節介で怖い顔したオッサンの家に入り浸ってんのは誰だよ」
「だってサトウが、サイシに逃げられてひとりだから、いつでもこいって」
「え? 言ったっけ、そんなこと……」
大粒の目に、じろりと睨まれる。
「あ、言ったね、言ったわ。うん」
いま、息子がここに居れば、タクミと同級生だった。
サトウは我が子の成長した姿を、タクミの隣に見ていた。
タクミはひねくれているが、息子は明るくて優しい子だった。
きっと仲良くなれただろう。
学校帰りに、あの子がタクミを連れてこの家に帰って来たかもしれない。
そんな子供が目の前で死を望んでいることが、悲しくて仕方がなかった。
エゴでしかないことは分かっていたが、放っておきたくなかった。
交流を重ねるごとに、ふたりの間に奇妙な友情が芽生えた。
タクミは頭のいい子供だったから、話していて退屈しなかった。
ふたりは対等。もしくは、たまにサトウがちょっと下。
タクミは生意気だが、憎たらしいと思ったことは一度もない。
「なあ、タクミ。提案がある」
「なんです?」
「おまえに、俺の黒歴史ノートをやろう」
「はい?」
タクミが目をぱちぱちさせた。
「だから、黒歴史ノートだよ。
俺の秘密がびっしり書かれた、読まれると超、死ぬほど恥ずかしいヤツ」
黒歴史と言って通じるのかはわからない。
しかし、タクミは頭が良いので、後半部分は伝わったはずだ。
訝しげにサトウを見上げていたタクミの、目の色が変わった。
「あれ。見たくない?」
「見たい。見たいです」
サトウは心の中でほくそ笑む。
そうだろう。そうだろう。
他人の秘密を暴きたくて仕方がない年頃だ。
いくら四十間近のオッサンが抱える秘密であろうと、目の前にあれば見たくてたまらないに決まっている。
わくわくと身を乗り出したタクミを、サトウはしわくちゃの手のひらで制する。
「ただし、条件がある」
タクミが露骨に面倒くさそうな顔をした。
軽いゲンコツをくれてやりたい気分だったが、サトウは我慢した。
暴力はよくない。
「俺がお前よりも先に死んだら、だ」
「なあんだ。そんなの簡単ですよ」
タクミが明るく言った。
「そうだろ? じゃあ、約束な」
ごつごつした太い指と、マカロニのような柔らかな指が、オレンジのライトの下できつく絡んだ。
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