1(4月15日)
透明な鈴の音が聴こえて、サトウは音楽雑誌に落としていた視線を上げた。
鍵を開けっ放しにした玄関のドアが、開いて閉まる。
「おう、おかえり」
リビングに現れた少年に微笑みかける。
微笑んだといっても、硬い表情筋が不器用に歪んだだけだったが、
「ただいま」
少年はとくに気にした様子もなく、サトウの腰掛けるソファにランドセルを下ろした。
側面のナスカンに付けられた鈴が、跳ねて軽い音を立てる。
どう見てもホームセンターなどで見掛けるクマよけのカウベルなのだが、この子の親はどういうつもりでこれを買い与えたのだろう。
「タクミ、冷蔵庫にシュークリームあるぞ。不三家だぞ、不三家」
「えっ」
タクミと呼ばれた少年は、驚きの声とともに複雑な表情を浮かべた。
それが、菓子を前に喜ぶ子どものものとは似ても似つかないものであったため、サトウは心配になって軽く首を傾げた。
「なんだ。食わないのか? 嫌いか、シュークリーム」
「いえ、大好きです。いただきます。でも」
タクミが、こぼれ落ちそうな黒い瞳で、サトウの顔をうかがう。
「……サトウが買ってきたんですか?」
「え? いや、そんなわけないだろ? 取引先の営業にもらったんだよ」
「なあんだ。そうですか」
ピンクの花びらのような唇がほころび、タクミはくすくすと笑いだした。
おかしいのがなかなか止まらないのか、彼は小さな背中をまるめて、口元をおさえている。
「なんだよ」
「そんなコワイ顔でケーキのお店に入ったのかと思ったら、おかしくて。でも違ったんですね。ふふふ」
「……」
サトウは近所でも有名な凶相の持ち主だった。
すれ違った子どもに泣かれるなんてことは当たり前。
先日は、逃げようとして転んだ子に声を掛けただけで、職務質問を受けた。
通りかかりの近所の主婦が、こちらを見て、なにやらヒソヒソ話していたのを覚えている。
苦い思い出がよみがえり、サトウは無精ひげに囲まれた薄い唇をへの字に曲げた。
それが“コワイ顔”に拍車を掛けるのだが、タクミは変わらず笑い続けている。
タクミは近所でサトウを怖がらない唯一の子どもだった。
サトウに対し、だけではない。
彼はどんなものにもおびえたりしない。
毎晩、午後八時過ぎ。
仕事から帰ったサトウが、広々としたリビングの灯りをつける。
タクミは斜向かいのアパートの窓からそれを見ていて、部屋を抜け出す。
そして、外灯もまばらな暗闇の中を、たったひとりで歩いてここにやってくるのだ。
ランドセルを背負っているのは、サトウ宅で宿題をやるためだ。
夜道が怖くないのか、と訊ねたことがあるが、タクミは笑いながら首を振った。
しかし、いくら家の灯りが見えるほど近い距離だとしても、夜の八時は小学生がひとりで出歩いていい時間ではない。
かと言って、サトウがアパートまで迎えに行くわけにもいかない。
下手をすれば、近隣の住民に警察を呼ばれてしまう。
もう来るなと言ってしまえばそれまでだろうが、そんな気にはなれなかった。
シュークリームをほおばる、無警戒なあどけない横顔を見て、サトウは心中で深いため息をついた。
彼の親は、クマよけの鈴なんかよりも、防犯ブザーを持たせるべきだろう。
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