嫌なことは嫌という

 いつも昼過ぎまで仕事をしていると野竹先輩に僕の真上だけ蛍光灯を消される。それに入社した当初からいないもの扱いされた。一年近くの恨みがある。どすぐろい怨念がうずまいている。頭の中ではいつも野竹先輩に対して血を吐いてぶっ倒れるまで殴り続けていた。自分が精神障がい者だからって馬鹿にしやがって! 僕だって大学を出て学士号もらっているんだよ。精神障がい者になったから最初から戦力として見てもらえないんだよ。分かるか。この気持ち。 野竹! お前みたいなお坊ちゃんでエリートな奴には底辺の気持ちは分からないんだよ。若い女性からゴキブリを見るような目で見られたことはないだろう。ウジ虫みたいに近づいただけでさあーっと距離を開けられる空しさは分からないだろう。統合失調症を患ったというだけで恋愛も結婚も仕事も全部捨てざるを得ないんだよ。お前には分かるか。この地獄が! お前には・・・・・・。エリートのお坊ちゃまのお前には・・・・・・・。


 泣いている。泣いている。

 うえーん、うえーん、と泣いている。

 狸の子が泣いている。

 歯を食いしばって血を流しながら泣いている。

 透明な透き通った薄氷のような病みきった精神で

 泣いている。泣いている。


 ある山の洞穴の中にこもって狸の子は泣いていた。涙は目から流れに流れ頬を伝い地面へとこぼれ落ちる。鼻水もずるずると垂れている。

「なんで僕が統合失調症なんかになるんだよ」

「僕はもう生きている価値なんてないんだ」

「死のう」

 狸の子は荒縄を取り出すと高い木にくくりつけ始めた。輪を作り、首をそこに入れる。狸の子は一言つぶやいた。

「おっかさん」

 と。

 そしてお空から声が聞こえた。

「お主は本当に死んでよいと思っているのか?」

 狸の子は天に向かって叫ぶ。

「この世は地獄です。それに私の居場所なんてありはしないのです!」

「誰が決めたのだ。誰かに言われたのか?」

「いいえ」

 天の声が響きわたる。

「それに、仮にお主は誰かに生きる価値がないのだと言われたくらいで人生あきらめるのか? 自分の人生なのに他人に生き死にも任せてか?」

 狸の子は、それは・・・・・・と黙る。

「生きるのも死ぬのも本人の自由だ。けれども、お主がそこで死んでしまったら生きているうちに経験できたことを知らずにいるだろう。お主はもし生きながらえるならば何がしたいと思った?」

「本を書きたい・・・・・・」

「もっと大きな声で!」

「本を書きたい! 感情の全てを書き残したい! もし生きられるのならば芸術がしたい!」

「やってみなさい。本を書きなさい。感情を書き残しなさい。行動しなさい。生きて、生きて、いっぱい書き残しなさい」

 狸の子はいつのまにか輪から首を外していた。いつのまにか新たな涙がわき出ていた。狸の子はかけていた。駆けていた。狸の子がいつのまにか目の前に立っていた。狸の子は泣いて笑いながら声を掛けてくる。

「一緒に生きよう。生きて僕たちだけの小説を書き残そうよ。やってやろうよ!」

「まずは野竹の野郎に君の気持ちをすべてぶつけてやろうよ! 言わなきゃ伝わらないよ。まずはそこからだよ!」

 ろうそくの火がぽうっと灯る。周りが一旦暗くなりそして明るくなっていく。


いつの間にかトイレの個室で便器に座って気を失っていた。先ほどの言葉が心に引っかかる。

(まずは野竹の野郎に気持ちをすべてぶつけるか・・・・・・。言わなきゃ伝わらない。まずはそこからか・・・・・・・)

 正論過ぎて何も言うことは無い。そうだ。すべて嫌がらせを受けても黙っていた。周りが気づいてくれるだろうと何も反撃しなかった。反撃したのはすべて頭の中だけだった。妄想だった。そうだ。言わなきゃ自分が嫌がらせを受けて嫌だっていう気持ちも伝わらないよな。きちんと言うことを言わなきゃ先に進めないと思う。

 野竹先輩の席を見る。野竹先輩はガムをくちゃ、くちゃ、と噛みながら足を組んでパソコンで何かを眺めていた。

 昼休みが始まる。いつもの通り野竹先輩は他の社員の座っている席は電気をつけて僕の席の真上だけ電気を消す。とりあえず昼飯に行く。

 今日の昼飯はナポリタンスパゲティーだった。いつもの通り園上さんと一緒に昼飯を食べる。園上さんが僕に言う。

「目がきらきらしていますよ。なんかあったんですか?」

「ちょっとですね」

「ちょっと何ですか?」

「まあいろいろあるんです」

「ふーん」

 そして昼食が終わる。部屋に戻る。やっぱり僕の席の真上だけ電気がついていない。席に座り呼吸を整える。


 そして、野竹先輩のもとに行く。

「野竹さん!」

 野竹先輩はネットを見ていた。こっちを見る。

「何ですか?」

「どうして僕の真上だけ電気を消すんですか?」

 野竹先輩ははっとしてこっちを見る。

「それは・・・・・・」

「もっと言うとどうして僕だけ存在を無視するんですか?」

「存在をいつ無視した?」

「いつもしているじゃないですか! この間だって僕も含めて4人座っているのに3人しかいないって言っていましたよね!」

「うん・・・・・・・」

「そういうことをされると心臓がきゅっと痛くなるんです。寂しくなるんです。僕の居場所はここにはないんだって! 分かりますか。この気持ち!」

 野竹先輩はムニャムニャ言っている。

「僕は発達障がい者です。空気が読めないんです。分からないところで野竹先輩に対して失礼な態度は取っていると思います。言いたいことがあるならしっかりと僕にぶつけてください! 全力で受け止めます! お願いします!」

 野竹先輩は口をぽかんと開けてこちらを見ていた。お辞儀をすると自分の机に戻った。心臓がばくっばくっと高鳴って鼓動している。苦しい。苦しい。トイレに駆け込むと非常用に飲む薬である抗うつ薬を一錠飲む。そして休憩室に飛び込むと置いてあるソファに横になって目を閉じた。意識が遠くなっていく。

「蒼ノ山くん、大丈夫か? もう就業時間始まっているよ」

 おじいさん社員の横井さんが声を掛けてくる。

「ありがとうございます。大丈夫です。すぐ行きます」

 起き上がるとすぐに席に戻る。しかし、抗うつ薬の影響か足下がふらつく。人に話し声がすべて僕の悪口を言っているように感じてしまう。ぐうっー、と精神力が持って行かれてしまう。園上さんに顔を洗ってくるように言われる。顔を洗いに行く。それでも対人恐怖症は治らない。顔がこわばっていく。それでもなんとか17時まで仕事をする。

「お先失礼します」

 と帰ろうとする。

「ちょっと待って!」

 野竹先輩だった。

「はい・・・・・・」

「今まで悪かったよ。次からはしっかりと声に出してむかついたときには蒼ノ山さんにむかついたっていうから・・・・・・」

「はい・・・・・・」

「だから明日もしっかりと来なさいよ」

 温かい言葉に思わず野竹先輩の顔を見る。野竹先輩の目はきらきらときらめいていた。野竹先輩が、ははっと笑う。

「そういうこと」

「ありがとうございます」

 この時にいろいろな感情が濁流のように流れる。帰り道考えそして、悟る。


「そうか。もしかしたら僕は嫌な事をされたらしっかりと本人に嫌と言える勇気を持つことを学ぶために蒼風文社でアルバイトをしてきたのかもしれない」

と。

 しっかりと嫌なことは嫌と本人に言えた。小さな、小さな一歩を感じた瞬間だった。

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