3章 勇気がないんだ

感情が変になるんだ

 星上さんと話すようになってから星上さんのことばかり考えるようになった。話しているときにくちびるの辺りをたまたま見てしまうとそのくちびるを思い切り吸いたいとおもってしまう。服の上からの胸のふくらみを見ると思い切りもみしだきたくなる。おしりのふくらみをみると下腹部がもじもじしてしまって熱くなってしまう。星上さんと一緒に話していると感情がぐちゃぐちゃとしてしまうのである。黒い色、赤い色、緑色、青い色全部の絵の具を素手で思い切りかき混ぜ画板紙に感情と一緒にぶちまけた感じ。


何だ

この感情は?


 星上さんが話しかけてくる。

「この間の小説面白かった」

 僕は返事するのもままならない。星上さんの声を聞くだけで感情がかき乱されて下腹部が熱くなる。

「よかったです」

「蒼ノ山君、君さあ、あの小説、自伝?」

 ほのかに淡い香水の匂いがする。僕は香水の種類は詳しくないから何の匂いかは分からないが。感情が高鳴る。心臓がばくばくと鼓動する。直視ができない。机に股間をすりつけたくなる。必死に感情を抑える。

「いや、自伝じゃないです。フィクションも入っています。自伝的小説です」

 もうだめ。感情が我慢できない。

「すみません。ちょっとトイレ行ってきます」

 思い切り走ってトイレに行く。そして、洗面台で水を出して、顔をばしゃばしゃと洗う。何回も何回も顔を洗う。感情がまだ揺れている。今度は坊主の頭ごと水で洗い始めた。このよくわかんないぐちゃぐちゃな感情を洗い流すように冷たい水で頭を洗う。ついでに眼鏡も洗う。昼休憩が終わるまでずっと頭を洗っていた。


 仕事中自分自身と対話していた。


 お前は精神障がい者だろう。

 お前は統合失調症だろう。

 お前はお金を稼いで一人で生きていくので必死ではないか!

 お前にどうして家族が持てる?


 相変わらずもう一人の僕は辛辣な言葉を僕に浴びせてくる。とここで口調が柔らかくなる。

 お前は統合失調症にかかったときに誓ったあの言葉は忘れたのか?

 「一生をかけて自分にしか描けない魂のこもった芸術作品を作りたい」と誓ったあの言葉を!

 周りの友を見よ

 女性と付き合い、結婚し生活をする。そのために半ばで夢をあきらめていった友のなんとおおいことか。


 お前は夢をあきらめてもいいのか?

 誓ったあの想いを志半ばであきらめるのか?


 僕はもう一人の僕が放ったその言葉を聞いて考え込むしかなかった。

 星上さんは美人だ。周りにいつも男の人がいる。5時になると営業部の男の人がわざわざ本社からやってきて星上さんの隣で仕事をする。親しげに話している姿を見ると胸がじくじくと痛み、怒りなどの感情がふつふつと沸いてきた。怒りが湧いて来すぎて調子が悪くなったりした。


 僕は精神障がい者だ。僕は夢追い人だ。


 心の中で、

「南無阿弥さん、南無阿弥さん、南無阿弥さん」

 と唱える。必死に感情を抑える。


「体調大丈夫か?」

 気がつくと隣に速水さんが立っていた。心配した顔でこっちを見ている。僕は無理矢理笑顔を作ると、

「大丈夫じゃないけど大丈夫です。5時まで踏ん張ります。どんどん仕事ください」

「大丈夫か? どんどん仕事なんかして」

「むしろ仕事をして嫌なことを忘れたいです」

 速水さんがさらに心配した顔をする。

「なんかあったのか? 話だけなら聞くから」

 しばらく黙るが、

「大丈夫です。こんなのも青春です」

 その言葉を聞いて速水さんは顔を、ぱーっ、と明るくさせて笑う。

「そうか! 青春か! 若いなあ」

「はい!」

「じゃあ、遠慮なく仕事をお願いしようかね」

 それからしばらくして地図の接合の仕事が来た。地図の接合というのは、専用のソフトでA3印刷した紙6枚~9枚を一枚につなげる作業のことをいう。一枚につなげた紙は編集プロダクションや校正プロダクションなどで地図の校正などに使われる。だから文字などはつぶしてはならないのでこれも結構大切な仕事である。この作業にも僕は職人の心を学ぶのに必要な仕事だと思っている。

 僕は隣の部屋の作業台の前に立つ。そして、ガラス板の天板に灯りをつける。作業台に向かうと定規とカッターそれにセロハンテープをとりだして作業に取りかかりはじめた。


 速水さんがそばにやってくる。顔がにやにやしている。気持ちの良いさっぱりした顔である。

「ちょっと青春って何ですか? 話してごらんなさいよ」

「速水さんは精神障がい者に対してどう思います?」

 速水さんがふっと真面目な顔になる。

「そうだねえ。みんななりうる身近な障がいだと思うね」

「じゃあ仮にですけど聞いてもいいですか?」

「うん」

「ある精神障がい者の男性が部署のマドンナに恋をしたとします。それは叶わぬ恋でしょうか?」

 速水さんは眼鏡を外し拭く。

「ああ、そういうことか。そうさな。一つだけ言えることは、恋も人生も何もわからないよ」

「分からないって?」

「今の時代、何が正しくて何が正しくないのか僕にだってわかんないよ。ていうか、分かる人いるの?」

 僕はじっと速水さんの顔を見つめている。

「人の好いた嫌いだもそう。何が起こるかなんてわかんないよ」

「人生はわかんない」

「そうだよ」

 僕はポケットからメモ帳を取り出すとボールペンで今の言葉を書きとめた。


 人生は何が起こるかわからない。人の好いた嫌いかも。


「それにしても。そうなんだ」

 速水さんは一人でうなずいている。速水さんは、

「とりあえずたくさん会話しなさいよ。まずはそこから」

 と言って思い切り笑った。

「まあ、元気そうで安心したわ。残業しちゃ駄目だからね。5時になったら仕事を片付けること」

「はい」

 速水さんはそういうと自分の席に帰って行った。 


 ある日星上さんと話していてふいに星上さんがつぶやいた。

「私、おいしいカレーが食べたいな」

 心がざわついた。

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