ついてこないでくれますって言われた

 勤務中、とても疲れてしまい会社の部署の人たちから悪口、陰口を言われているのではないかとおもってしまう。この症状は僕の持病である統合失調症の妄想と呼ばれる症状である。いつも自分の子どものように僕に接してくれる速水さんが両手にたくさんの資料を抱えてすたすたと歩いてくる。速水さんは竹を真っ二つに割ったような性格をしている。性格は怒りやすいが怒った後はからりとしている。気持ちのよい先輩だった。

「蒼ノ山君、この資料電子化しといて。解像度とかもきちんと確認してね」

「はい」

 目の視野がぼやけてかすむ。速水さんが心配そうに見てくる。

「大丈夫か」

「ちょっとトイレで休憩してきます」

 神経も過敏になっていた。周りの人の会話、足音、白熱灯の白い明るい光、かちゃかちゃとパソコンのキーを叩く音。全てが凶器となって僕の耳、目に刺激となって襲いかかってきた。早足で歩きトイレの個室に立てこもった。


 他の人の統合失調症の症状である妄想の程度や種類は分からない。しかし僕の妄想の原因はさみしいっていう気持ちから来ていると思っている。人から陰口や悪口を言われているんじゃ無いかっていう思いはようするに自分のことを注目してくれているに違いないって思いから病気につながるのだと思っている。そしてそのさみしい思いは学生時代無視をされ、いじめられたトラウマから来たんじゃないかって思っている。


 自分の妄想の制御の仕方は

「根拠のないことを信じない」

「ウワサなどを信じない」

である。妄想の始まる原因は悪口を言われているんじゃないか、陰口をいわれているんじゃないかって勝手な思い込みから始まってそれがひどくなるとその考えに心が縛られてしまうのである。だからその根本の状態、悪口陰口を言われているんじゃないかって思ったところでその考えは根拠のない考えとして妄想を断ち切ってあげるのである。手ががたがたと震えている。

「悪口を言われている」

「悪口を言われている」

「あの人にもこの人にもみんなに悪口を言われている。僕の居場所はここにはないんだ」

「その根拠を示せ」

「根拠はない。情報源がない。じゃあこれは妄想だ」

 トイレの個室の中でぶつぶつと独り言をつぶやく。携帯していたペットボトルに入っている水をがぶがぶと飲み干す。まだ手の震えは止まらないが、気持ちが落ちついてきた。


「南無阿弥さん、南無阿弥さん、助けて」

「南無阿弥さん、南無阿弥さん、南無阿弥さん」


 南無阿弥さんとは、南無阿弥陀仏を省略したものだ。自分は南無阿弥さんと呼んでいる。昔、祖母に心の中に仏様が宿っていていいことをしたときも悪いことをしたときも全て見通していると教わったことがある

「仏様は本当に心の中にいるの?」

 祖母は、

「いると思えばいる。いないと思えばいないよ」

「どういうこと?」

「自分自身の心がけしだいだよ。仏様の心、自分の心に恥じない生き方をしていればきっと仏様は見守ってくれるよ」


 祈る。祈るしかない。そうしてしばらくしてトイレの個室から出る。相変わらず蛍光灯の光は明るい。人がたくさん歩いている。しゃべっている。ざわざわとしている。心臓がキューと縮んだみたいにギュッと痛くなる。過呼吸になる。ふらふらになりながら自分の席に戻ろうとする。歩く道は一本道である。前に女性社員が歩いている。後ろを歩くのは嫌だなあと思いながら歩調を落として後ろを歩く。


女性の後ろを歩くのは苦手だ。昔、学生のころに女性に散々「豚、死ね!」とか「気持ち悪い!」とか「近寄るな、クズ」とか言われたせいで、今女性を見るとトラウマがよみがえってくるのだった。そして恐怖し、その結果動きがぎこちなくなってしまうのだった。


 しばらく歩くと女性社員が振り返りにらみながら

「ついてこないでくれます」

 と雷を落とされた。

 その瞬間、昔の女性にゴミ扱いされてきたトラウマがよみがえった。心臓がぎゅっと縮み上がるような感覚に陥った。その後、胃のあたりが猛烈に痛くなった。


「やーい、ごくつぶし」

「やーい、ごくつぶし」

「やーい、あほう、あほう」

「やーい、豚ちゃん、豚ちゃん」

「やーい、豚貧民、汚い」

 という幻聴が聞こえる。会社の人全員から嫌われているという妄想が激しくなる。


 茶色い猫が首に赤い首輪をつけそこに鈴がついている猫が、盆踊りをしている幻が目に映る。いつしか幻の中にいた。黒く立ちこめる雨雲、寒くこごえる冷気、地面にたまった黒い水たまり。幻の中で泣きたくなって雨の中公園でぬれたそしてところどころ剥げている緑色のベンチで座っていると白い毛の短い耳が垂れている犬が立ち上がっておしりをふりふりと振っている。右手にはしゃくを持って左手にはひょうたんを持っていた。そのひょうたんの中身をあおっている。犬が踊りながら歌を歌っている。


 ニンゲン、ミンナアホウ

 キミモワタシモアホウノナカマ

 ニンゲンソンナニカワリャシナイ

 キミガジブンノコトヲヘンジンダトオモッテイルノカイ

 マワリモソンナニカワリャシナイヨ

 ミンナコセイガアルアホウノナカマ

 ミンナアホウデチガウニンゲンダカラ

 コトバッテアルンジャナイノカイ

 ツタナクテモイイカラサ

 コトバヲキチントツタエテミヨウヨ。

 キチントツタエナキャワカラナイサ

 アホウナニンゲンダモノ

 ハア、エンコラサ

 エンコラサ

 エンコラサ


 ぬめぬめとした緑の肌(黒っぽい緑のはんてんがある)をし、頭に皿を被った河童が口から青い炎をはき出しながらそこら中を飛んでいる。小さい茶色い狸が汗をたらたらと流し両手を合掌させ一心不乱に祈っている。そして、口から煙を、ぶわっ、と吐き出し雲をつくり出す。その雲が暗雲になり、雨が滝のように流れ落ちた。


はっと気がつくと、トイレの個室で便器に座って眠っていた。

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