誓い
ある日のことである。いつもの通り朝6時30分に起きて会社に行こうとするとベッドから身体を起こすことができなかった。頭の中がどんよりと濁っている感じがする。むりやり身体を起こそうとすると右目から涙が、ツウッーとこぼれ落ちてきた。それを皮切りに両目から涙がどんどんあふれ出てくる。何も考えてはいない。涙があふれ出てくる。こりゃだめだと思った。今日は会社を休もう。台の上に置いてある白い手のひらサイズの時計を8時50分にタイマーを合わせる。8時50分になったら会社に今日休む連絡をしようと思った。なんとなく気が楽になった。
親友に電話する。
「どうした? こんな時間に?」
親友の声を聞いて安心してしまい涙があふれ出てしまう。親友はなおも語りかけてくる。「泣いているのか? とりあえず何か言えよ」
「うええ~ん。会社でいじめられた~」
「今日会社は?」
親友が聞いてくる。
「休んだ」
「とりあえず仕事終わったらそっち行くから待っていてよ。家でしょ」
「うん」
8時40分になり会社に電話する。
「アルバイトの蒼ノ山です。今日風邪を引いてしまって起きられなくなってしまったのでお休みします」
「分かりました。お大事に」
それから布団の中で毛布にくるまって寝る。少し納豆臭いにおいがする、くすんだ白い毛布を抱きしめる。とても温かく、涙が出る。毛布にくるまれ涙を出しながら眠りに眠った。昼時間になり何か胃の中にご飯とかを入れようと思ったが身体が思うように動かない。布団に沈み込んで身体が鉛のように重い。それでもなんとか身体を起こし冷蔵庫を開け空の2Lのペットボトルに水を入れて冷やしてある冷水を出し銀色の細長いコップに入れ飲み干す。一杯飲むと何杯も飲みたくなる。のどが渇く。何杯も冷水を飲む。結局2L全部飲んでしまった。冷凍庫に入れてある小分けにした豚肉を取り出し、レンジで温める。しばらくするとレンジから肉の匂いがしてくる。その肉の匂いを嗅いで吐き気がした。身体が肉の匂いを受け付けない。トイレに駆け込み便器の中に顔を突っ込む。吐くが酸っぱい胃液しかでない。もったいないがレンジで温めた豚肉は捨てた。代わりに水を何杯も飲んだ。そして寝る。途中日の光がまぶしいのでカーテンを閉め、部屋を真っ暗にしてまた毛布にくるまった。そして胎児のように横向きになり手足を縮めて目をつむる。
「蒼ノ山、蒼ノ山。大丈夫か?」
目を覚ますとそこには親友の竹丸がいた。
「とりあえず、お茶とおかゆ買ってきた。一緒に食べよう」
「今何時?」
「今は夜の9時だよ」
灯りがまぶしい。ちかちかとする。目を細めぱちぱちとまぶたを閉じたり開けたりする。 だんだん目が慣れてくる。壁に掛けてある時計を見ると9時10分を指していた。
「洗面台借りるよ。うがいと手洗いしてくる」
「いいよ」
それからどったん、ばったん、と音がしてやがてガラガラガラとうがいする音が聞こえる。しばらくして竹丸が戻ってきた。
「さあやるぞ。ちょっとコンロも借りるぞ。おかゆ作ってくる。お前は寝ていていいから。ゆっくり休め」
僕は毛布にくるまり横になる。しばらくして何とも言えない良いにおいがしてくる。お腹が、きゅー、となる。
しばらくして
「さあ出来たぞ。一緒に食おう」
顔だけ竹丸の方に向けると。竹丸はお鍋をちゃぶ台の上に置いていた。お皿とかも用意してある。
毛布をかぶってひきずりながら席につく。二人でいただきます、と声をかけるとお粥をよそい食べ始めた。竹丸が話を切り出す。
「そりゃそうと、今日は一体どうしたんだ。いきなり電話かけてきて泣きわめくからびっくりしちゃったよ」
「ごめん」
僕は会社での出来事を話す。「あなたと私たちの価値観はまるで違うのですよ」と言われたことや会社で存在が浮き始めていることなどである。
竹丸が箸を置いてまっすぐこっちを見る。
「お前、会社に何しに行っているわけ? 誰かと仲良くなるため?」
顔をうつむかせる。
「お前会社に仕事をして自己実現とかお金を稼ぐために行っているんだろう。目的をはき違えているよ」
「でも、でも存在を無視されると辛いよ」
「でもじゃない! 人に好かれる、嫌われるって事ばかり考えていたら仕事が出来ないだろ」
「うるさい! うるさい! うるさい!」
箸を竹丸に投げつける。竹丸は自分が持っている箸を乱暴にちゃぶ台に叩きつけるとどなる。
「何するんだよ。危ないじゃん」
どなる。
「話ぐらい聞いてくれたっていいじゃん。分からず屋! 帰れ!」
「お前その言い方はないだろ。仕事をして疲れてそれでも心配して来てやってんのに!」
「帰れ!」
「分かった! 帰る! じゃあな!」
竹丸は真っ赤な顔をして歯を食いしばった顔をするとがばっと立ち上がった。そして、どしん、どしん、と足音を鳴らしながら玄関まで行く。そして革靴を履き始めた。
心臓がどくどくと鼓動している。苦しいよ。
そして竹丸がドアを開ける。たまらなくなって玄関まで走って行く。そしてドアを開けさせまいとする。
「帰っちゃ駄目! 帰らないで!」
竹丸は真っ赤な顔してドアを開けようとする。
「帰れ、って言ったの、お前だろ!」
「帰らないで! 帰らないで!」
竹丸はドアを開けるのをやめる。そして諭すように語りかけてくる。
「じゃあ言うことあるだろう」
涙があふれ出てくる。
「ごめん」
竹丸はふっと力を抜くと、
「分かった」
僕はその場で泣き崩れる。
「どうして精神障がい者なんかになっちゃったんだよ。会社の経営者も人格者のような顔して腹黒いよ。精神障がい者が苦しんでいるのに見て見ぬ振りだよ。頑張って嫌な仕事でも下積みだと思って一生懸命仕事をしていても、どんどん新卒に抜かれていくよ。新卒に見下される目で見られるのはもう疲れたよ。あいつらはいいよなあ。健常者は! 健常者ってだけでおいしい思いが出来るんだもの。精神障がい者はたとえ良い大学でたって会社の人に見下されるんだよ。もう嫌だよ。生きるのが地獄だよ」
玄関で、泣いて、泣いて泣きわめく。今まで我慢していた感情がどっとあふれ出る。うわんうわんと泣きそしてうめき、呪いの言葉を吐きまくる。竹丸に抱きしめられる。
「辛かったんだな。取り繕うんじゃ無く最初からその言葉を言え」
顔を見ると涙がこぼれていた。
「ごめん。ごめん」
ごめんしか言えなかった。
「とりあえず玄関じゃなんだから、部屋に戻ろう」
「分かった」
竹丸は泣いていた。
「辛いのはよく分かった。俺も精神病抱えているからよく分かるよ。馬鹿にされ続けるって辛いよな」
「うん」
「お前の一生の目標って何?」
「自分にしか作れない小説、イラストや芸術作品を作ること」
「絶対作ってみせろ! 馬鹿にした奴らを見返してやれ! 俺もイラスト頑張るから!
このまま終わるのは嫌だろう」
「うん」
泣き続ける。
「お前の頑張りは俺が見てるから。どんなに否定されても俺がちゃんと見てるから」
「僕な、文章の一流のプロになりたい。馬鹿にしたやつらは二流だ。俺は一流になりたい。障害を抱えていても一流の物書きになりたい」
「なれ。俺も頑張るから。二人で後世何百年も残る大傑作を作ろう。今はお互いに修行だ」 そして二人で泣いて、泣いて、泣きまくった。
次の日、朝5時に起きてシャワーを浴びる。そして水筒に麦茶を注ぐ。そして少しだけ汗と涙を吸い込んでよれよれになったスーツを着て会社に出社する。電車の中は空いていた。座席に腰掛けると画板紙を取り出し今回の騒動のプロットを書き始める。
そして40分後目的の駅まで到着する。画板紙をしまい、外に出る。朝の冷たい空気を肺の中に入れる。気持ちよかった。
会社に着くと二階にあがる。誰もいなかった。野竹の机の前に立った。野竹の机の前には女子ウケのするかわいいマスコットキャラの人形がいくつかおいてあった。人形に手を置きそして誓う。野竹、お前の能力を飲み込んでやる。馬鹿にするならどんどん馬鹿にしやがれ。お前が僕を馬鹿にするたびにどんどん怒り憎み苦しむ。そして怒り憎しみ苦しみを夢、叶える動力に変えてやる。夢を叶える推進力に変えてやる。
見ていろ。野竹!
高学歴高収入健常者のエリートめ!
それからは人を気にせず仕事に専念した。校正の仕事を任された時も人のやり方をいっぱい取り込んで試行錯誤した。
そもそも校正ってどうしてやらなくてはいけないのかとかいろいろと疑問が出てきた。今まで漠然と仕事をしてきたんだなあと愕然とした。
「職人魂って何なのかな」
「今照合の仕事をやらせてもらっている。何年もかけて一生懸命仕事をして自分の魂に職人の魂を宿らせたい」
なんで校正の仕事をやりたいの? なんで出版社? お金のため? 何のため? 何で? 何で?
なんで出版社? かっこいいから? なんでかっこいいの? 本を出版しているなんてかっこいいじゃん。 なんで本を出版しているとかっこいいの? 昔から本に携わりたかったから?
なんで本に携わりたかったの? 昔いじめられていた時も障害にかかって腐っていたときも本で助けられたから。そのうちに本が好きになってあこがれて本に携わる仕事がしたいと思った。また祖母が本好きだったのも影響がある。
で、何で校正の仕事? 昔から職人って言葉にあこがれていた。何で? かっこいいじゃん。無口で無骨で不器用で人間関係が苦手で仕事にはこだわりを持っていて。自分も不器用で人間関係が下手でそれでもものつくりに携わる仕事がしたくて。文に携わる仕事で職人の仕事を探していたら、友達に校正の仕事を勧められた。文章を通して職人魂を学んでみたかった。
テレビで職人の姿を見てかっこよかったから。ものつくりにあこがれていた。自分の小説に職人の魂を宿らせたかった。刀を作る職人の姿をテレビで見たが職人は刀に生命を吹き込むことができるのだという。僕も自分の作った芸術作品に生命を吹き込みたい。だから職人魂を手に入れることが必要だと感じた。それで文の世界の職人と聞いて校正を学んでみようと思った。
剣の達人、柳生宗矩の本『柳生新陰流兵法家伝書』を読んだときに沢庵和尚の話が出てきた。剣道は禅に通じているとのこと。そこから職人の心もおそらく禅に通じているのではと仮説を立てた。臨済宗の沢庵和尚の本を読んだりもした。そして禅の考えを校正に取り込もうとした。
たとえば心を放つという思想である。心を放つという思想は沢庵禅師の『不動智神妙録』という本に載っていた。心など価値観を固定しないとか文字をこうだからこの文字であっていると決めつけないとか自分なりに解釈を考え取り込んでいく。徳間書店の『不動智神妙録』での放心の章にはこんな言葉が書いてあった。
修業している頃は、孟子のいう放心を求めるという心がけが大切です。しかし、最も進んだ所に到達するには、邵康節の「心を放つを要とす」でなければなりません。
中峯和尚の言葉に「放心を具う」というのがあります。これは邵康節が、「心を放つことをかなめとせよ」といったことと同じことで、心を放せ、一つ所に引きとめておくなという意味であります。
また、「退転せざるをそなえよ」というのも中峯和尚の言葉です。退転せず、変わらない心を持てということです。人間、一度や二度のことには、なんとか思うようにゆくものですが、疲れや非常の場面にぶつかっても退転することのないように、身についた心のありかたを持たねばならないということであります。
半年経ったある日のこと、いつものように校正をしているとふっと力が抜けた。すんなりと文字が目に飛び込んでくる。戸惑って一旦顔を上げる。もう一回文字に目を落とす。
その話を年配の社員の人に話した。年配の社員はふっとわらうと
「やっと入り口に立ったね。校正や文の世界は10年やってやっと一人前だよ。頑張りなさい」
野竹に対して今思うのは、本人がいるのに無視するなと真正面からぶつかればよかったのに勇気が出なかった。いい人に見られたかった。大人になったら嫌なことをされたらしっかりと嫌と言えるだけの勇気が必要なんだなと分かった。
頭の中ではしっかりと嫌なものは嫌と言えた。しかし現実の自分は何も言えなかった。勇気が無かったのである。意気地が無かったのだった。
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