(カチン――音がして、留め具が外れる)
ぼくがそのことを知ったのは、偶然だった。
ある日、ぼくが学校から帰ってくると電話がかかってきた。お父さんからだった。急な用事ができたから、帰宅が少し遅れる、という話だった。その声の表面には、ようやくわかるくらいのささくれがあった。お父さんは事前の予定が狂うのを何より嫌うからだ。
ぼくはわかったと返事をして、電話を切った。さしあたって、お父さんの帰宅時間が変更されても、ぼくのほうに問題はない。とりあえず宿題でもすませてしまおうと、二階にあがった。
そうして自分の部屋に行こうとして、ふとあることに気づく。
いつもなら鍵のかかっているはずのお父さんの部屋の扉が、ほんの少しだけ開いていた。何だか、誰かがその隙間からこっちをのぞき込んでいるみたいに。
普段なら、そんなことはたいして気にしたりしなかっただろう。几帳面なお父さんにしては珍しいことだったけど、家のすぐ隣で火山が噴火したわけじゃない。ちょっとした不注意とか何かの都合が重なれば、それくらいのことは起こってもおかしくなかった。
でもその時、不意にぼくは電話のことを思い出していた。お父さんはまだしばらく、帰ってこないだろう。お父さんの予定が二度も狂うことはまずないから、それは確実だ。
そして気づいたとき、ぼくはランドセルを廊下に置いて、開いたドアに手をかけていた。
正直言ってその時、ぼくはやましさとか後ろめたさとか、いわゆる良心の呵責みたいなものは感じていなかった。誉められたことじゃないのはわかっていたけど、特に問題だとは思わなかった。問題なのは、お父さんにそのことを気づかれることだったし、その点に関しては、ぼくは十分に注意を払っていた。
扉の元々開いていた角度を覚えてから、ぼくはドアの隙間をのぞき込む。とりあえず、開け閉めしても問題はなさそうだった。ひっかかるものも、痕跡を残してしまいそうなものもない。
ぼくは扉を開けて部屋の中に入ると、まずはドアの位置を最初の状態に戻しておいた。そうすれば、出ていくときに間違える確率を減らすことができる。
部屋の入口に立って、ぼくは慎重にあたりを見まわしてみた。
カーテンが閉められているせいで、部屋の中は薄暗かった。ぼくは扉のすぐ横にあるスイッチを押した。電灯は無言のまま、何の非難もせずに明かりを灯す。
とりあえず、入口付近にぼくの侵入を気づかれてしまうようなものはなさそうだった。何かを倒したり、何かを動かしてしまったり、何かの跡をつけてしまいそうなものもない。ぼくは慎重に、一歩奥へ進んだ。
お父さんの部屋は、本でいっぱいだった。壁一面に、ぶ厚い専門書が並んでいる。本たちはぼくのことには何の関心もなさそうに、身動きさえしなかった。たぶん、眉一つ動かさない、というのはこういうのを言うんだろう。
本棚のほかにはベッドと、ずっしりした机が一つ。机の上には、たぶん仕事で使うらしい模型が転がっている。ほかには何もない。お父さんは部屋に余計なものを置いたりはしない。部屋は、空白まで含めてきれいに整頓されていた。
机には三段になった引きだしがついていていた。それ自体は、別に問題はない。でもその一番上の引きだしに、ぼくの注意は引きつけられた。そこにだけ、南京錠がかかっていたからだ。
それは何だか、不自然な感じだった。鍵はあとからつけられたみたいで、妙にそぐわない外観をしている。そのやりかたは大雑把で無神経で、あまりお父さんらしくない。
ぼくは近づいて、鍵を調べてみた。
鍵は四桁の数字が暗証番号になっていて、今は「0000」にあわせられていた。念のために引っぱってみるけど、もちろん鍵が開いたりはしない。確かめるまでもないけど、引きだしのほうも。
ちょっと考えて、ぼくはいくつかの数字を試してみた。
1234とかの続きの番号、家の郵便番号、電話番号、お父さんの誕生日、ぼくの誕生日――どれも違う。
当たり前だ。お父さんがそんな簡単な数字を使うはずはない。
それからまた考えて、ぼくはある数字を入れてみた。「0718」
カチン――音がして、留め具が外れる。
ぼくは開いた鍵をそのままにして、しばらく眺めていた。そうしていたら、鍵が葉っぱとか木の根っことか、そんなものに変わりそうな気がして。
その四桁の数字をぼくが入れたのは、ただの気まぐれみたいなものだった。けどもちろん、お父さんが偶然でそれを選んだということはありえないはずだ。
少しのあいだ、ぼくはその理由を考えてみた。けど、それについては全然見当もつかなかった。もしかしたら、意味なんてないのかもしれない。ただその数字が覚えやすかっただけなのかもしれない――
気になったけど、ぼくはともかく引きだしを開けてみることにした。その前に一度、時計を確認する。大丈夫、時間はまだ十分に余裕があった。
ぼくは最大限に注意を払いながら、引きだしをゆっくり開けた。できれば、中の空気まで動かさないようにしながら。
引きだしは何の問題もなく、すんなりと開いた。
そこには、一冊のノートが置かれている。
ノートのほかには、何もない。文房具も、貴重品も、秘密めかした小物も、怪しげな品も、いわくありげな古い手紙も。
ぼくはそのノートを眺めてみる。
何の変哲もない、ごく普通のノートだった。表紙には何も書かれていない。タイトルも、何かを示すための記号も。ノートの端々は少し傷んでいて、ずいぶん使い込まれているみたいだった。でも丁寧に扱われているらしく、目立った汚れや損傷みたいなものはない。
そのノートを外から見ただけでは、どんなものなのかは全然わからなかった。
ぼくは金魚でもすくうみたいにして、慎重にノートを手に取った。それから、机の上に乗せてページを開いてみる。
――しばらくは、そこに何が書かれているのかわからなかった。
一見すると、それは日記みたいに思えた。日付があって、一日毎の記録が並んでいる。一つ一つに定規をあてたみたいな、馴じみのあるお父さんの文字が書かれていた。
でも、もう少し詳しく読んでいくと、それが正確には日記とは呼べないことに気づく。どちらかというと、何かの報告書みたいな文章が並んでいた。〈観察の結果として……〉〈有利な習慣……〉〈好ましい機会は……〉〈失敗の可能性が……〉〈計画の実行について……〉
――それは、殺人記録だった。
ノートには、今までにお父さんが行ってきた殺人の計画とその結果が、詳細に記されていた。それらはきちんとした文字で、淡々と書きつづられている。〈被害者の名前、住所、電話番号……〉〈容姿、習慣、癖、健康状態……〉〈生活スケジュール、交友関係、趣味、嗜好、生い立ち……〉
そんな情報が事細かに、項目ごとに整理されている。そしてそれに基づいて、綿密な殺人計画が立てられていた。〈いつ、どこで、どうやって……〉〈考えられるリスク、不測の事態への対処法……〉〈目撃者や証拠を可能なかぎり残さないためには……〉
それから、実際にそれをどうやって実行したか。
ノートの文章に感情らしいものはなくて、朝顔の観察記録よりずっと無味乾燥だった。たまに感想らしいものがあっても、それは推測とか、いくつかの可能性についての考察だったりする。それはまるで、宇宙人が別の惑星の生物でも調べているような内容だった。
さすがにそのノートを頭からきちんと読んでいく暇はなかったので、ぼくは一通りのことにだけざっと目を通すことにした。
それによると、お父さんはこれまでに六人の人間を殺していた。
――そして今のところ、そのどれについても犯人としての疑いはかかっていない。
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