(雀はいつも通りに騒々しく餌を探している)

 ぼくのお父さんが言うには、人は誰でも深い穴を持っているそうだ。

 その穴は心のずっとずっと奥のほうまでつながっていて、どんな光も底まで届くことはない。だからそこに何があるかは自分でもわからないし、誰にもわからない。たぶん、神様にだって。

 でもその穴の底には、とても大切なものがある。それがどんなもので、どれくらい大切なのかもわからないけれど、確かに。

 どうして、そんな穴が人の中にあるのかはわからない。

 何のためにあるのかも、誰がそれを作ったのかも。その穴を作ったのは自分自身かもしれないし、もっと別の、自然な作用みたいなものかもしれない。時間とか、運命とか、星の巡りあわせとか、そんなものによって。

 でもとにかく、人はみんな、どんな人であれその穴を持っている。形や、深さや、大きさはそれぞれ違っているかもしれないけれど、必ず。

 ぼくは時々、その話を思い出しては自分の中にあるはずの深い穴について考えを巡らしてみる。それがどんな形で、どんな様子をしているのかを。

 どんなに強い光も、どんなに大きな声も、どんなに長い手も届かないその場所には、一体何があるんだろう。

 光も融かしてしまうその暗い穴の一番底には、一体どんなものが?



 ――目が覚めると、いつもの朝だった。

 空は壊れていないし、地球は回っているし、雀はいつも通りに騒々しく餌を探している。冬の名残りは少し前にもうすっかり消えてしまって、太陽は早起きを心がけていた。

 ベッドの上で少しぼんやりしていると、小鳥のさえずりみたいなアラームの音が聞こえた。ぼくの目覚まし時計は、いつもぼくより少し寝坊をする。でも万が一寝過ごしたりするのも嫌なので、寝る前には必ず目覚ましをセットする。ほとんど必要がなかったとしても、そのほうが都合がよいということはたくさんあった。

 ぼくはベッドから降りると、ちょっとストレッチをした。それは昔、お父さんに教えてもらったやり方だった。ほかの人がそういう体のほぐしかたをしているのを見たことはないけれど、やってみると体はずっと軽くなる。

 机の上には、もうランドセルが置いてあって、学校に行く準備は整っていた。でもぼくは、もう一度その中身を点検する。明日の準備は寝る前にすませてしまうのがぼくの習慣だったけど、朝にはもう一度必ず点検をする。そのほうが間違いが少なくなるからだ。

 教科書やノートには何も問題なかったので、ぼくは着替えをすませてしまう。そうして、脱いだパジャマとランドセルを持って、家の一階に降りる。

 ランドセルを玄関に置いて、パジャマを洗濯機に入れてしまうと、台所に向かった。台所のテーブルには、もうお父さんが座っている。

 居間と一続きになったその部屋は、静かだった。テレビはついていないし、お父さんはコーヒーを飲みながら新聞に目を通している。テーブルには二人分のトーストと目玉焼きが用意してあった。作ったのは、お父さんだ。

 お父さんは必要な時以外は口をきかない。だから、朝の挨拶もしなかった。ぼくはいつもの席に座って、朝の食事をはじめる。

 家の中は物音一つなくて、いつのまにか耳が聞こえなくなっているんじゃないかと思えるくらいだった。でももちろんそんなことはなくて、お父さんが新聞をめくる音だとか、食器の触れあう音、ぼくがパンにかじりつく音だってちゃんと聞こえる。

 それでも不意に、ノートからページを破りとってしまったみたいに、何の音もなくなってしまうことがある。

 いや――

 そんな時でも、よく耳を澄ますと時計の音だけは聞こえる。ぼくは半熟になった目玉焼きの黄身をつぶしながら、居間のほうにかかった時計を眺めてみた。時刻は七時十四分三十秒を指している。

 登校時間まではまだ余裕があるので、急ぐ必要はない。そしてその時計はほぼ正確な時刻を示していることを、ぼくは知っていた。

 何故なら、お父さんが一日のはじめに起きてまずすることは、家中の時計をあわせることだからだ。

 いくつもある時計を一つ一つまわって、お父さんは時報であわせておいた自分の腕時計にしたがって、針を動かしていく。早いものは戻されるし、遅いものは進められる。自分の部屋の時計、居間の時計、台所の時計、玄関の時計――。さすがに、ぼくの部屋の時計まではお父さんも手を出したりはしない。

 でもとにかく、まずそれを済ましてしまわないうちには、お父さんは何もしない。まるで、自分がそうしないと朝の時間がはじまらないみたいに。

 もしかしたらお父さんは、本当は世界中の時計をあわせてしまいたいのかもしれない。それも、現実の時計だけじゃなくて、みんなの頭の中にある時計まで。

 だとしたらお父さんは、ぼくの頭の中にある時計もあわせてしまいたいのかもしれなかった。けど、さすがにそんなことはしない。毎日毎日、ぼくの頭の中を切り開いて、つまみを回すわけにはいかないからだ。

 でも本当は、それだってどうかはわからない。何か方法さえあれば、お父さんはそれをするのかもしれなかった。


 ――何しろ、お父さんは人殺しだからだ。

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