ぼくのお父さんは人殺しだ
安路 海途
(魂だけになるくらい軽くなったとしても)
時々、ぼくは夢を見る――
夢の中でぼくは、どこかの藪みたいなところにいる。でも、その光景は薄ぼんやりした霧みたいなもので、具体的な場所としてははっきりしない。たぶん、どこかの山奥か、そんなところだと思う。
ぼくはその藪の中で、井戸のすぐそばに立っている。
井戸といっても、本当はそれは井戸なんかじゃない。ぼくはそのことを知っている。底には水なんて一滴もないし、そもそも井戸として掘られたわけでもない。でも、外観は井戸によく似ている。円形になった石の枠があって、その内側だけ地面がすっかりなくなってしまっている。
のぞき込むと、暗闇は丸く貼りつけられたみたいにしてそこにあった。それは変に平板な感じで、何だかその上に足を置いて立つことだってできそうな気がする。
でもその暗闇は、ずっとずっと奥まで続いている。たぶん、世界の裏側まで。そこに落ちたら、もう戻ってくることはない。魂だけになるくらい軽くなったとしても、たぶん。
そんな暗闇をのぞき込んで、けどぼくは怖くなったりはしなかった。石の枠は低くて、身を乗りだせば簡単に落ちてしまいそうだけど、別に恐怖を感じたりはしない。
それがどうしてなのかは、よくわからなかった。ぼくは怖がりというほどじゃないけど、無鉄砲なやつというわけでもない。高いビルの屋上から地面を見下ろせばくらくらするし、横断歩道を渡るときには左右をきちんと確認する。
井戸のことが怖くないのは、それがどういうものなのか、よくわかってないせいかもしれなかった。人はそれなりにはっきりした物影や物音には敏感になるけど、あまりに漠然としすぎたものには、どう反応していいのかわからなくなってしまう。何も描かれていないただの真っ白な紙を渡されても、何も想像できないのと同じで。
いずれにしろ、ぼくはその不思議な井戸に恐怖感を持ったりはしなかった。むしろ何だか懐かしいような、ある種の安心感みたいなものを感じていた。自分でも変だとは思うけど、確かにそんな感じが。
それが善いものなのか、悪いものなのかさえ、わからなかったけれど。
――ぼくは井戸のそばに座って、石枠のところに背をもたれてみる。
そうやってしばらくすると、歌が聞こえはじめていた。
どこかで聞いた気もするけど、うまく思い出すことができない。それはメロディーも歌詞もはっきりしないし、そもそも歌なのかどうかさえ怪しい何かだった。音とか言葉というより、むしろにおいとか、手触りとか、光の感じみたいな。
その正体不明の歌が、どうして井戸の底から聞こえてくるのかはわからない。でもその歌は、ぼくをほっとした気持ちにさせてくれたし、気分を落ち着かせてくれた。何だか、幸せの一番単純で純粋な形みたいなものを思い出させてくれる気がして。
井戸のそばに座って歌を聞きながら、ぼくは目覚めの時が来るのを待った。
――ぼくは時々、そんな夢を見た。
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