第6話 望郷

 いつまでそうしていただろう。知らぬ間に眠り込んでしまったらしい。

「……起きて下さい、和久殿」

 急に聞こえてきた息を殺すような声は、和久のまったく知らないものだった。

「誰だ?」

「しっ! 静かに」

 誰何すいかする口は、その者の手によって塞がれる。和久は目を見張った。その手は、剣術などしたことのないような細い手だった。声を聞かなければ、女と見紛うほど細い。

「……お前は誰だ」

「お久しぶりです、和久殿。篤矩です」

 和久はここが敵陣の真っ只中であることも忘れ、言葉を失うほどに驚いた。よくよく見れば、幼さの残る大きな目に見覚えがある。ただ、あの頃の傲慢さだけがすっかり抜け落ちていた。

「……お、お前……だって、ここ……俺は……」

「わかっております」

 驚きで言葉を失う和久に、篤矩はしっかりとした眼光を向けた。

 敵の狙いは、藩主・政成の嫡流を絶つことにあった。それを知ったからこそ、和久がここにいる。政成公の落胤の存在は伏せてあるため、誰も知らない。

「だから、俺が来たんだ。……わざと捕まるなんて醜態を演じたんだ!」

「それも……わかっております」

 いつか兵を整え、逆襲する。そのためには、嫡男の篤矩が生きていなくてはならなかった。時間を稼ぎ、敵を欺くために和久は身代わりを買って出たのだ。

「それが俺の、存在理由だ」

 何度自分に言い聞かせたかわからぬ台詞を、吐き出すように言う。

 篤矩は沈痛な面持ちで何かを言おうとするが、和久は構わずに喋った。

「わかってる、だ?わかっているなら、なぜ貴様がここにいる?お前は、どこかに隠れていればよかったんだ!お前まで殺されたら……俺はなんの為に生まれてきたんだ!」

 辺りをはばからぬ激しい口調に、篤矩は狼狽する。

「和久様、どうか声を……」

「お前たち親子は俺の血を疎んでいた! それなのに、今度はその血を理由に俺を利用するんだ!己の保身のために!」

 生きることが辛かった。孤独という苦しさに苛まれてきた月日を、篤矩は知らないだろう。いつも冷静沈着であった和久が、感情を爆発させた。死を目前にしたからか、それともこの世の中に絶望したためか。

 呆然としていた篤矩の面に、次第に怒りの色が滲んだ。

「私たち親子を疎んでいたのは、あなたの方でしょう! 初めて私に会ったとき、あなたは臣下の礼をとった! あなたは私を、端から『弟』とは認めてくれなかった!」

 色白の頬を上気させた少年は、異母兄が城に来ていると聞き、捜し回っていたのだ。だが、いざ彼を目の前にすると素直になれず、わざと大人ぶった態度で接した。

「俺は……あの時、ああするのが一番の得策だと思ったんだが……」

「私は傷付きました! ずっと……ずっと会いたかったのに。父の口から誇らしげに出るあなたの名前に嫉妬し、同時に憧れてもいたんだ! それなのに……」

 困惑していた和久だったが、その言葉に愕然とした。

「父が……俺の名を……?」

 それは信じられないことだった。父・政成は、和久の存在を否定しているのだとばかり思っていた。

「父は、和久殿を案じておられました。成長する姿を、よく物影から見守っていたそうです。……ご存じなかったのですか?」

 和久の記憶の中に、父親の姿はない。けれど、優しい低い声を覚えている。

「……かずむね?」

 その低い声は、確かそう言っていた。

 それを聞いた篤矩が、今度は目を丸くする。

「ご存知だったんですか、その名」

 和久は未だ呆然としたまま、首を横に振った。

「本当はそう名付けるはずだったのだそうです。『和宗』と」

 和久の脳裏に、ひとつの情景が広がった。それは幼い頃の記憶。まだ耀に出会っていない、もっともっと幼い頃の記憶だ。

『本当は、こやつの名は“和宗”にするはずだったのだよ』

 声の主は、幼女を膝に抱く武士に言った。

『こやつは、側室にもなれなかった……久子の子供。けどな、わしが一番愛した女が生んだ子なのだ』

 そう言って、幼い和久の頭を優しく撫でたのは誰だろう。

「あれが……父上?」

 あと一刻もすれば、夜が明ける。今が一番冷え込む時刻なのに、和久は熱を感じた。

 目が焼けそうなほど熱かった。

「父上は言っておられた。『和久と共に、この国をよい国にするのだ』と」

 記憶の中の人は、続けた。

『本家を支え、共に国を治めよ――という意味を込めたんだが……あまりにも派手過ぎるとお前が言うもんだから、久子から一字とったんだが……』

『父の愛をわかってくれますよ。なぁ、耀』

 すると、父親に抱かれていた幼女も、

『わかってくれますよー』と舌ったらずな高い声で言った。

「……俺は……愛されていたのか……?」

 眼前に広がっていたやわらかな情景は幻と消え、冷たい牢獄にいる我が身を知る。だが、胸には何かがどしんと詰め込まれたように熱かった。

「父上……」

 政成は死んでしまった。和久は、彼を恨んだまま、死なせてしまった。

 和久は自分の涙に気が付いた。

「……泣いている場合では、ありません」

 やがて、篤矩が強い声音で言った。和久が顔を上げれば、覚悟を決めた表情の彼がいた。

「一緒に……我が国を治めてください。――兄上」

 篤矩の大きな双眸から涙が溢れ出す。

「私と一緒に……国に帰りましょう! ここから抜け出すのです」

「な……そんなことができるはずがないだろう! 俺たちは敵陣のド真中にいるんだ! 奴らも馬鹿じゃねぇ。そう簡単には逃げられねぇよ」

 言葉とは裏腹に、和久の心は瞬時に飛んでいた。耀の待つあの庭へと、帰っていた。

 帰りたい、という言葉を必死にのみ込んだ。

「兄上は、そんなに私を軽んじられるのですか?」

 篤矩は笑った。

「私を誰だと思っているのです。藩主・政成の嫡男にして、和久殿の弟ですよ」

 その笑顔は、幼い頃そのままの、傲慢そうな笑みだった。

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