第4話 暗転する世界
耀に許された世界は、この箱庭のような空間のみ。光は、一切知らない。無明の闇の中で、ずっと独りで生きてきた。
「ね、和久。目が見えるってどんな気分かしら?」
和久に何かをねだるとき、耀は決まって瞼を閉じた。そして、顔をゆっくりと庭先に向けると、目を開ける。その一連の動作は何を意味するのか、彼にはわからない。ただ美しかった。
耀には邪気がない。何も見ないからだろうか。人間の弱さも汚さも知らないからだろうか。彼女はただ無垢で清らかだ。
二十二歳にもなって嫁にも行かず、心無い者から『年増姫』と呼ばれている。そんな年になっても嫁に行けないとは、目も見えない上に、よほど見目が悪いのだろうという輩もいる。
耀は美しい。目鼻立ちの美しさも然ることながら、和久が一番惹かれているのは、その清らかな精神にである。
男や化粧、衣にばかり気をもむ、彼女以外の女子は醜悪だ。耀は誰の目にも触れさせたくない。外界の喧騒に触れてしまえば、彼女はきっと壊れてしまう。
「そうだなぁ……まったくもって難しい質問だ」
和久がうんうんと唸り始めると、耀は嬉しそうに、ふふふと笑った。最近の彼女は、和久を困らせることで悦に入るらしい。彼に難しい質問ばかりをする。
「俺にとっちゃあ、なくてはならんものだよ。俺は臆病だからな。目が見えなきゃ、怖くて誰とも付き合えん」
軽く自嘲し、彼女の白い手をとる。
「でもな、俺が『光』知ったのは、耀に会ってからなんだ」
「……どうして?」
ずっと人が嫌いだった。誰とも口を利かず、部屋に閉じこもった。独りでできることを好み、大人に見放されない程度に学問に勤しんだ。それだけだった。
何も見えなかった。自分が生きている理由がわからず、生まれてしまったことの罪深さに苦しんだ。和久は、生まれた時より無明の闇に取り残されたのだ。
「耀に会って、初めて『光』を知った気がした。君が俺を救ってくれた。耀は……その名の通り、光そのものだよ」
すべての歯車が狂い出したのは、その日の夜からだった。平和な日々の終わりであり、悲惨な戦の幕開けであった。
空には薄い三日月。その微弱な光の下で、藩主・政成公が殺された。
いつものように、耀と和久は庭にいた。季節は今、春を待っているところ。彼女の庭では、やがて桃の花が咲くだろう。次第に暖かくなってきた風が心地よい。
耀は裸足で大地を踏みしめ、大きく息を吸い込んだ。
「あぁ、なんだか春の匂いがするわ! 春は好きよ。なんだか、これからいいことばかり起きる気がする! ねぇ、和久もそう思わない?」
くるりと振り向いて彼に見せた笑顔は、まるで光を放つ花のよう。和久は眩しげに目を細めた。
「そうだな。もうすぐ春だ。もっとたくさんの花が咲くだろう」
「そうしたら、またどんな花か教えてね!」
彼女の屈託のない笑顔が悲しかった。何も知らない、汚れない彼女が愛おしくて、胸に痛かった。
「あぁ。……きっとこれからは楽しいことばかりが待っているよ。そうだ! 今度俺が、耀の知らない花を見つけてきてやるよ」
「本当? 嬉しい! 和久、大好きだわ!」
そう言って、耀が無邪気に彼の胸へ飛び込む。それは子供のときからの彼女の癖だ。
「あぁ……俺も、耀が大好きだよ」
和久の声は低くかすれていた。耀は彼の胸に顔を埋めていたが、怪訝に思って顔を上げる。すると、大粒の雫が彼女の頬に降ってきた。
「あ、雨だわ」
空を仰ぎかけた彼女を、和久は強く抱きしめた。耀の白い頬を、幾つもの和久の涙が濡らしてゆく。
「和久、どうしたの?」
和久は、彼女の目が見えなくてよかったと生まれて初めて思った。
「和久……?」
困惑している彼女を、もう一度抱きしめる。
明日、自分が死ぬことを知っていた。
あと一刹那でもよかった。
『光』を見つめていたかった。
耀を抱いていたかった。
「雨だ。内に入ろう」
その言葉に、耀は屈託なくうなずいた。和久は覚悟していた。彼は、ただ静かに泣いていた。
「俺の存在価値は、結局こんなモンなんだよな……」
彼の呟きは、耀には届かなかった。
翌日、耀は捜していた。
「おぉ、耀か。一体どうしたのだ? そんなに慌てて」
「お父様?」
普段ならば気配で人の有無を瞬時に解することができる耀であったが、今はまったく気付かなかった。それほどまでに、彼女は焦っていた。
「お父様! 和久……和久を知りませんか?」
大きな双眸からは、今にも涙がこぼれてしまいそうだ。彼は反射的に顔を背けていた。
「……落ち着きなさい。それを知りたくば、あとでわしの部屋へ来なさい」
早口で言うと、彼は侍女を呼んだ。
「まずは落ち着くことだ」
娘を侍女に任せ、その場を後にする。彼には、和久のことをどう説明すればよいかわからなかった。
ただわかるのは、それを聞いた彼女が悲しむであろうということ。泣き崩れてしまうであろうということ。それだけだった。
「お父様、説明してください」
耀は開口一番にそう切り出した。娘の剣幕に、彼は一瞬たじろいでしまう。
「……まずは、人払いを……」
「そんなことはどうでもいい! 和久は? 和久はどこにいるの?」
最後のほうは、涙混じりであった。彼は気を引き締めた。今から言うことは、耀にこそ伝えねばならぬことであった。
「和久殿は……大義の為、早朝に旅立った」
「大義……?」
耀は息をのんだ。男たちの難しい会話はよくわからない。
「それって……いいことなの?」
彼は止めどなく溢れる涙をひた隠した。無知な娘が不憫でならない。
「和久殿は、わしにそなたを頼むと言ったよ。耀……そなた嫁にゆけ」
耀は困惑を通り越し、怒りにも似た感情を覚えた。
「何故……なぜなの? お父様、なにも隠さないで。わたしは……わたしなら待つわ。和久をいつまでも。どうせわたしは『年増姫』だもの」
「し……知っていたのか」
弱いと思っていた。外界の喧騒に触れたら壊れてしまうと。屋敷という殻で幾重にも包み込み、彼女の儚い心を守らなくてはならないと思っていた。
「そんなことはどうでもいいの。わたしは待つ。一体いつ戻るのか、それさえわかっていれば待っていられるわ」
この娘は、いつの間に強くなっていたのだろう。彼は遠い日の彼女を思い浮かべた。いつだって彼女は笑っていた。それは守られているからだと思っていた。しかし、彼の目の前にいる者は一体誰だろう。たおやかな印象の体躯も顔立ちもそのままで、一体彼女はいつからこんなにも強くなったのだろうか。
「お父様。和久はいつ戻るの?」
「和久殿は……」
彼は、とうとう嗚咽を隠すことができなくなった。
「お父様、どうして泣いて……」
「和久殿はもう戻らん!」
耀は一瞬何を言われたのかわからなかった。鈍器で頭を強く殴られたような衝撃を感じるが、痛みはない。
「もう……戻らない?」
「そうだ! 和久殿は……篤矩様の身代わりになりに……ッ」
耀にはそれ以上何も聞こえなかった。
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