第3話 恋するものたち

「梅はね、この香りと同じくらい可憐な花だよ。……梅はどんな香りがする?」

 和久かずひさが逆に問い返すと、耀あかるは目を閉じて大きく息を吸い込んだ。彼女は鼻がいい。

「甘い匂いだわ。でもその中に、甘酸っぱさが隠されてる」

「そう。甘い匂いは白い部分だ。けれど花心にゆくと、甘酸っぱさと同じくらい、ほんのりと赤いんだ」

 彼女の手を花へと触れさせながら説明する。すると、耀はゆっくりと微笑んだ。彼の説明は、彼女の及第点に達したようだ。

 梅の木の周りに柵があった理由は、すぐにわかった。それは、彼女がなんにでも触りたがるからだ。

 特に花が好きらしく、少しでもその香りがすれば鼻を近づけずにはいられないらしい。目が見えない彼女にとっては、嗅覚と触覚によってしか捉えることができないのはわかる。しかし、顔に傷でもつけられたら一大事なわけだから、あの柵が設けられたのだ。

 柵越しでは、花に触れられない。和久は彼女を囲いの中へ招き入れ、その手を掴んで花に触れさせてやった。幼い耀は大喜びし、和久が大好きになった。

 二人でお願いし、二人が一緒の時は柵の中に入ってもよいという許しを得ることができた。耀にとって、和久は光をもたらしてくれる存在となった。

「白い部分は、そうだなぁ……耀の肌の色かな」

 和久の説明に、耀は首をひねった。

「わたしの肌? じゃあ、和久の肌とわたしの肌は違う色なの?」

 耀の質問は手厳しい。難しいことを容赦なく訊いてくる。

「ねぇ、どうして違うの? どう違うの?」

「俺の手に触れてごらん」

 答えに窮した彼は、彼女の手をとった。

「ゴツゴツしてるだろう?」

「うん。骨と筋がいっぱいだわ」

 耀はゆっくりと指をなぞる。初めこそくすぐったさを感じたが、今ではそれを心地よいと感じる。

「なぜだかわかる?」

 彼女は素直に、わからないと首を振った。

「俺は男だから武術をしてる。だから俺のほうが手も大きいし、筋張ってもいる。耀は女だから、小さくてやわらかい」

 しかし、この説明は彼女の気に添わなかったらしい。

「それはわかったわ。でもなんで、わたしと和久の色は違うの?」

 ぷうっと頬を膨らませて、耀が怒る。和久はその深い追求に苦笑して、彼女の頭をポンポンと軽く叩いた。いつしか、彼の背丈は彼女より頭一つ分高くなっていた。

 一つ年上の彼女は、それに気づいた時、烈火の如く怒った。きっと、置いていかれると思ったのだろう。しかし、彼が二十一歳になった今でもこうして傍にいる。なにも変わってはいない。

「だからさ、外にいることが多いから俺の肌は白くないんだよ」

「……私も同じ色になりたい」

 耀は、昔からよく彼の真似をしたがった。前途したように、置いていかれたくなかったのだとは思うが、和久はこうしたときの耀を説得することほど骨の折れることはないと思ってしまう。

「じゃあ、俺が同じ色になろうか?」

「もう外に出ない?」

 和久は是と答える。

「だけど、そうするとこうして耀と遊ぶこともできなくなるよ」

 その言葉に、彼女は断固反対する。

「それはいやだわ! ……でも、私と一緒なら、一緒の色になるんじゃないの?」

「俺の方が、背ぇあるからな。空に近いから早く焼けちまうんだよ」

 その説明にしばらく黙った耀は、

「少しくらいなら、まぁいいか」と言った。


 耀は二十二歳になっていたが、嫁に行く気はないらしい。一度だけ、彼女は父親に輿入れを勧められた。彼女が十七歳のことだった。

「お前だってもう十七。そろそろ嫁に行って子を成すのが、女としてのお前の幸せであろう?」

 しかし、耀は一言で無碍むげね返した。

「お父様。わたくしは顔を見たこともない殿方の元へは嫁ぎとうございません」

 彼女のこの一言は父親を黙らせ、もう二度と結婚の言葉を出させないようにしたのである。

 この時ほど、彼が自らがつけた名を後悔したことはなかった。娘の目に光はないとわかったのは、彼女が生まれてしばらく経った後であった。輝くような赤子であったし、成長して珠玉のように美しい子になるようにとの願いを込めた名だった。

 『耀』という名は、彼女に花のような美しさを与えた。しかし、光を知らない少女に、光そのものの名を与えたとは、なんと残酷なことだろうか。

 今更変えることは難しい。人の気持ちに敏感で聡明な少女は、そのことで逆に傷付くに違いない。我が子を愛する彼はそう考え、二度と無理に結婚させようとはしなかった。

 ただ一度、彼は娘に訊ねたことがある。

「お前が嫁に行くとしたら、誰のところがいい?」

 彼はその晩、酒に酔っていた。だから訊けた、残酷な問いだった。

 しかし、耀はほんのりと微笑し、それから消え入るような声で言った。

「わたし、和久がいいわ」

 彼には、『和久』という名が熱を持っているように聞こえた。

「わたし、和久が好きだわ」

「そうか」

 彼は微笑ましく思った。何故なら、彼の前で耀はまだまだ子供だったからである。幼い子供同士による友情だと思ったのだ。

「そうか。耀は和久殿が好きか。……それはいい」

 彼は上機嫌で酒を呷った。少し酔いが廻り過ぎたかもしれない。彼は夜風に当たろうと、障子を開けた。梔子の甘い芳香が鼻腔をくすぐる。

「和久殿はいい。文武に秀で、誠実な人柄だ。それに顔立ちも……」

「……そうかしら」

 彼は驚いて降り返った。失言であったと思った。目の見えない娘に、相手の顔の話をするなど、なんてひどい親であろうか。

 彼を見つめてくる二つの目は怪訝そうに曇った。

「そうかしら。なんだかごつごつしているわ。頬はやわらかくてよく伸びて面白いけれど、なんだかうすっぺらい感じがするわ」

 驚く彼に気付くことなく、耀はふふふと笑った。

「でも、好きだわ。切れ長な目も、薄い唇も、冷たい耳も、ごつごつした喉元も」

「耀……お前、本気で……?」

 彼はすっかり酔いが醒めてしまっていることにすら気付けない。動揺していた。

「でも……一番好きなのは、和久の手。筋っぽくて硬いけど、温かいの。優しいの。わたしが手を伸ばせば、いつも触れてくれる……大好きだわ」

 一体、彼女のどこを見て、今まで子供だと思っていたのだろう。こんなにも成長している。あんなにも目を輝かせて、あんなにも恋する女の目をしている。

 彼女の目は、しっかりと光を見つめている。

 彼はもう何も言えなかった。


 和久には、二つ年下の異母弟がいる。けれど、会ったのは一度きり。

 一度だけ、和久は藩主の元を訪れたことがある。十一歳にして神童のほまれを受け、登城とじょうを許されたのだ。藩主の政成まさなり――父親は、結局は会ってはくれなかった。

 下城する時に通った庭園に、その少年はいた。名を篤矩あつつねという。

 篤矩は背丈こそ小さいが、利発そうな少年だった。走ってきたのか、色白の頬が軽く上気していた。丸い目は勝気そうで、彼は一目でその子供を『篤矩』だと思った。

 篤矩は彼を大きな目で睨めつけた。

「わしの名は篤矩じゃ。貴殿がわしの兄上か?」

 子供らしい高い声とはそぐわぬ、大人びた口調で少年が言う。その物腰は、傲慢そのものであった。

「……あぁ」

 和久は肩越しに答える。その面にはうっすらと笑みが滲んでいた。

「俺が和久だ。俺のような者が城におりますとご不快でしょう。わたくしはすぐに退散致します故、ご容赦のほどを」

 和久は流暢に口上を述べ、その場に膝をついた。彼がとったのは臣下の礼。そうして見上げた先で、篤矩は身を震わせていた。

「貴様……下賎の分際で、わしを愚弄するのか!」

「とっとんでもございません、篤矩様! 和久様はあなた様の兄上でいらっしゃいますよ? もし、お気に障るようなことを申しましたのなら、それはわたくしの至らなさ故でございます。責めはわたくしめに……」

 同行していた叔父がなんとかその場を治めてくれなかったら、大変なことになっていたかもしれない。そのくらい、篤矩は手におえない子供であった。さぞかし甘やかされて育ったのだろう、と和久は冷淡に思った。

 それ以来、和久は藩主の元へは出向いていない。義母弟の篤矩とも会っていない。彼は『血』というものを疎んだ。それは父親に対してであり、義母弟に対してであり、叔父に対してであった。ただ唯一、従姉である耀だけを好いた。

 それは恋であった。


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