第2話 初恋
彼は、生まれた時より日向を知らない。大きくて冷たいこの屋敷で、世間から隠れるように育てられてきた。それは、彼が現藩主の
利発な少年は、今よりずっと幼い頃から、自分の置かれた状況を理解していた。自分には、日向の道は用意されていないのだと。
叔父の屋敷で、彼は生まれ育った。父親の血のお蔭で
父親に会ったことはない。母親は彼を生んですぐに死んでしまった。和久は孤独だった。
屋敷の奥の一室で、彼は手習いをして過ごした。武術を行うこともあったが、彼は極端に人との接触を疎んだ。和久は、その膨大な時間を独りで過ごした。書を好んだのは、手本さえあれば独りで練習することができたからだ。その腕前は、周りの人間も舌を巻くほどであった。
庭から漂う香に、和久はふと顔を上げた。この部屋に面した庭に、花はない。彼は庭に出て、この辺を散策することにした。
ほどなくして、少年は不自然なまでに生い茂る木々を見つけた。ひとつの部屋の前に植えられたそれらは、松だったり椿だったり、
見渡せば、そこは箱庭のようだった。築山があり、小さな池の中では赤い魚が泳いでいる。無造作に植えられている木々も、一年を通してそれぞれの木が見頃を迎えるので、それはそれでいいのかもしれない。
いま見頃を迎えているのは、梅の木だ。しかし、近寄ることができないように、何故かその周りには囲いがしてある。
まるで桃源郷にでも迷い込んだような気分で、幼い和久は梅の香りに包まれていた。
「あら?」
急に背後で高い声がして、少年は固まった。女性の庭に無断で入ってしまったのだ。怒られると彼は思ったが、続いたのは信じられないくらい幼い口調だった。
「今日も墨の香りがするわ。和久くんが手習いをしているのかしら?」
自分の名前にびっくりして、彼は思わず振り向きざまに訊いていた。
「なんで俺の名前を知っているんだ?」
「きゃあ!」
悲鳴を上げ、小さな少女は庭に出ようとした体勢のまま体を硬直させた。
年の頃は、和久と同じくらい。白い頬と赤い唇の対比は、雪面に落ちた寒椿を連想させた。癖のない髪は真っ黒で、人形のように愛らしい。
彼女はつぶらな瞳を極限まで見開き、警戒している。和久は何を言ったらよいのかわからず、ただ立ち尽くしていた。
「ああ!」
すると、愛らしい少女は突如素っ頓狂な声を上げた。
「あぁ。あなた、和久くんね!」
急に警戒を解くと、少女はぱぁっと瞳を輝かせて少年の名を口にした。
「だって、墨の匂いがするもの」
急いた様子で草履を履き、嬉しそうに駆け寄ってくる。しかし、そのまま木の囲いに突っ込みそうな勢いだ。
和久は咄嗟に腕を出し、彼女を抱きとめる。彼の小さな体では無理かと思われたが、少女はあまりにも軽かった。空気のように軽く、やわらかだった。
「この墨の香りがなかったら、わたし、あなたのこと梅の精だと思っちゃったわ。きっと。ふふふ」
少年の腕の中で、少女は屈託なく笑っている。
「ね。あなた、和久くんでしょ?」
「どうして、俺の名前……」
呆然として訊ねるが、少女は澄んだ瞳を輝かせるばかり。
「わたし『耀』っていうの。よろしくね」
「あかる……?」
和久は『耀』という字を思い浮かべようとしたが、わからなかった。それを訊ねると、彼女は屈託なく、
「わからないわ。わたし、字を見たことがないもの」と言った。
「え?」
少女の目は、驚いて訊き返す和久を捉えてはいなかった。
「ねぇ、和久くん。梅ってどんな花かしら。和久くんには見えるでしょ? こんなにいい香りだもの、きっと綺麗なんでしょうねぇ」
少女は大きな目をきらきらと輝かせる。
彼女の目は見えないのだと、和久はこの時ようやくわかった。彼は悲しかった。
「ねぇねぇ。どんな花? 教えて」
「……梅の花は、小さくて、白い花だよ」
彼女の瞳は澄んでいて、本当に綺麗だ。その目が見えていないなんて、和久は信じたくなかった。
「……白ってどんな色かしら?」
その台詞は、彼をより悲しくさせた。梅の花さえうまく説明できない自分が情けなく、腹立たしかった。
「和久くん、泣いてる? どうしたの? 悲しいの?」
彼の嗚咽が聞こえたのだろうか。少女は小さな手で彼の体に触れ、頭を撫でてやる。
和久は涙が止まらなかった。
この日より、和久は少しずつ人に心を開いていく。
意地悪な大人に、
「あんな可愛げのない子供、寺にでも預けて坊主にでもしちまえ」と言われていた彼が、この日より激変した。誰からも好かれる「いい子」になったのである。大人から「可愛い子」とまで言われるようになったのである。
それも皆、耀という盲目の少女に出会った日から起きた変化であった。
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