第78話
すると、七十ばかりのその人の御主人が、「辛抱して!辛抱して!ナッ!ナッ!。部屋ば借りると、家賃の要るけんな!今おる所がイチーバン良か。辛抱して。辛抱してな。」と言ってくれた事があった。まるで我が子に言って聞かせるように、淳淳と、繰返し繰返し、「辛抱して。」と諭してくれたその人の言葉は、長く長く私の心に残った。
まるで、辛抱して辛抱して、父と添い遂げて逝った母が、言って聞かせてくれたような気がして、私は胸が熱くなった。
そうだ!私はどんな事があっても構わないと思って、あの家を飛び出したのではなかったか。あの時のあの覚悟を、私はもう忘れたか。
ハラハラと涙がこぼれて、「そうでした。そうでした・・・はい、分かりました。はい・・・」と涙ながらに帰って行く私を、その御主人は、二、三歩追いかけて来て、「いつでん、相談にのるけん。心配せんで良か、ナッ!」と重ねて言って、私の手に、飴を三つのせてくれた。
私は、自分を案じてくれる人達がいる事が、本当に嬉しかった。いつも、自分は一人ぼっちだと、誰も頼れる人はいないと、まるで哀れな被害者のように思っていた頑なな心が、ほろほろとほどけて行った瞬間だった。
この屋敷に入れて貰ったお陰で、ホームレスにもならず、三度のご飯も頂いて、何の不自由もなく暮らしているではないか。私は何を偉そうにしているのだ。
もう、あなたは要らないから出て行ってと言われたら、困るのは自分なのに、私は何を勘違いしているのだ。私にとって、あの二人は恩人ではないか。誰にだって、間違いも欠点もある。私は、受けた恩も忘れて、まるで裁判官にでもなったように、二人を裁いていたと、涙がポロポロと、ポロポロとこぼれてならなかった。
これまでの怒りも、哀しみも、悔しさも、何もかもが、涙になって解けて行ったのか、最早、もう、あの二人への許せないという腹立たしい気持ちは消え失せて、私の中には、ただ、熱い思いだけが込み上げていた。
やがて、四ヶ月程もかかって、やっと全てのリホームが終わったのは、もう秋。すっかり、秋風の吹く頃になっていた。そして私の人生は、大きな転換期を迎えた。夫の家も半壊し、住み込みで入った家も半壊し、小学校に一時避難していた私に、見なし仮設住宅が、しばらく与えられる事になり、私は田代家を出る事が出来るようになったのだ。
長女が役所に何度も足を運んで、頼んでくれたお陰様だった。
老夫婦は辞めるという私を必死に引き留めた。「そんな、辞めるなんて言わないで!家族として、一緒に暮らしましょうよ。来年は、空いている庭に、お花を植えるって言ってたじゃないの!」と夫人が言えば、老主人は、「大体、辞める時は、二ヶ月前には辞めると言わなければならない決まりがあるんだ!そんな、突然辞めるなんて。聞いた事もない。今までいた人達は、そんな事を言って辞めた人は一人も居ない。」と怒り出す始末。私はズボンの裾を巻くって両足を見せた。金峰山のトイレで、激痛がして内出血をした両足は、両方とも、腫れてズクズクと痛むようになっていた。「足が痛くてたまらないんです。」。私がそういうと、夫人はじいっと両足を見て、「腫れてますねえ・・・」と言った。
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