第70話
もう、六月、七月の暑い日差しの中、職人さん達は、背中も、腕も胸も、汗でグッショリと濡れながらの作業が続いていて、私は冷たくて美味しいカキ氷を彼らに振る舞った。午前、午後冷たいカキ氷は彼らに喜ばれ、私は本当に嬉しかった。二、三日もした頃、カキ氷の用意をしている私に、夫人が走り寄って、「何をしているの!」と咎めた。職人さんに出しますというと、「出さなくていい!」とピシャリと夫人が言った。「勝手な事をして!そんな事をする必要はありません!」とすごい剣幕で私を叱責した。
仕方がない。私は職人さんに仕事の指示を出している人に訳を話して、「もう、カキ氷は出せなくなりました。」と詫びた。「なーん、なーん、ヨカーですよ。何の何の。心配は要りまっせん。ハーイ!よかです、よかです。」とその人は豪快に笑ってくれた。
私はこの家の主婦ではない。立場の違いの悲しさを思い知って、懸命に働いてくれる彼らに申し訳なかった。そして、静川さんが危惧していた、あの、蛍光灯の一件が現実のものとなった。
あわただしく、一日が過ぎて、フウーッと一息ついた夕食のあと、コーヒーを飲みながら、夫人は私に、「庭の大理石のテーブルを倒したのは貴方なの?」と言った。エッ!私は思いもかけない突然の質問に驚いて、「あれは地震で倒れたんですよ。」と言った。すると、夫人は今度は「本当にガラスが割れたの?」と言う。私は唖然とした。夫人の目の前で、ガラスは粉々に割れたではないか。そして、「二階の蛍光灯は、本当に落ちたの?」と言ったのだ。私は愕然とした。静川運転手が、「俺は持って行けん。」と言った言葉の意味する所が、今、目の前に、歴然として現れたのだ。成る程、この二人の胸の中には、どこどこまでも、使用人は嘘をつくものと言う、猜疑心が渦巻いているのだと思い知らされて、この二つの立場の溝は埋まる事はないのかと、無念でならなかった。巨万の富があるという事は、確かに羨ましい事かも知れない。しかし、そのために、常に人に怯え、人が信じられなくなって行く事は、幸せと言えるだろうか。夫人の言葉を聞きながら、この二人は、きっと死ぬまで、人を信じる事は出来ないだろうと思った。
一心に、自分を鞭打って、家を守り、主人となる老夫婦を守っている者に対して、たった一言の、労りの言葉をかける事も知らず、どこどこまでも、疑惑に満ちた眼差しでしか、見ることの出来ない夫人を見て、こんな人達がいるのかと私は思った。
この二人の中に渦巻く、底知れぬ疑惑という恐怖を、私にはもう、どうする事も出来ないという無力感が、自分を襲っていた。
人の中に渦巻く、他人が信じられないという悲しさ。人の愛を信じられない無知は、厳しい言葉となって人を鞭打つ。その目の奥にある、信じられないという、自分が作り上げた恐怖を彼らは見ていた。
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