第四章 四話 里美の覚悟

「ん゛んー。あー、よく寝た。何時だろ?」


 弘樹はもっと早い時間に一度起きたが、里美が「後で起こすので二度寝していいですよ」と言うのですぐにもう一度眠りにつき、今、二度寝から目が覚めた。

 いつになくよく眠れたと片腕を真上に突き上げて大きく伸びをした彼は、大きく息をはいてから時間を確認する。


「げっ。九時半!! 寝すぎた! バイトぎりぎりだ」


 時刻を見て一瞬慌てるが、すぐに家を出ればまだ間に合うと落ち着きを取り戻す。




 朝飯を諦めれば、後は着替えてうがいをするだけでいいな。

 よし。急いで支度するか。

 あれ?

 何か忘れているような。




 パソコンを確認すると通話アプリは切れていて、ゲーム内へのログインもしていない。

 朱音はとうにログアウトしたようだ。


 朱音のことは確認したがそれでもなお、何かを忘れている気がした。

 外出先で携帯を忘れてないか不安になってポケットを探るような、そんな何かが引っかかる感じがして、何となしに部屋を見回す。


 別に何でもなかったか、そんな風に思った直後、視界のはしに見慣れないものが映った気がした。

 あらためて二度見すると、なんと自分のベッドに女性が寝ているではないか。

 グレーのニットワンピースを着て、濃茶のセミロングヘアの女性が身体を横向きにしている。


「え!? えっと……。あ、そうか。里美さんが来てたんだ……」


 一瞬パニックになったが、昨晩も彼女が部屋に来たことを思い出して落ち着きを取り戻す。




 二人して同じ部屋で朝を迎えた場合は朝チュンと言うんだっけ?

 じゃあ、これで俺も朝チュン経験者?

 いや状況だけならそうだけど、これじゃ朝チュンとは言えないな……。

 そんなことより早く彼女を起こさないと、このままじゃ二人揃って遅刻だ。




 くだらないことを考えている時間はないと首を横に振った弘樹は、急いでベッドへ近寄ると身体を横にして眠る彼女の肩を叩いた。


「里美さん! 朝だよ。もう起きないとバイトに遅刻する」


 声をかけられた里美は、眠りが深いのか「うん」と小さく返事をすると寝返りをして仰向けになった。




 え、だ、誰!?

 誰だ、この可愛い娘は!

 あ、いや、里美さんか……。

 ベッドへ横になるときに眼鏡を外したんだな。

 っていうか里美さんって、眼鏡を外すとこんなに可愛いの!?

 一瞬、分からなかったよ!




 弘樹が寝ている里美を上からのぞき込んだまま驚いていると、彼女は薄っすらと目を開けた。


「うーん、弘樹さん、……好き」

「さ、さささ里美さん!?」


 ほんの短い時間二人は見つめ合ったが、里美が急に目を大きく開けた。


「きゃあ」

「ご、ごめん」


 大急ぎで離れた弘樹は、驚きと緊張と照れで心臓がバクバクと脈打った。

 声も出せずにゆっくり里美を見ると彼女も同じ状況のようで、仰向けに寝たまま顔を真っ赤にして口に両手を当てていた。




 こ、これじゃ俺が彼女に手を出そうとしてたみたいじゃないか!?

 ご、誤解されたかな?

 急いで違うと説明しなきゃ。




「ご、誤解だよ。俺、起こそうとして……。そ、そうだ! バイト! 今、九時半なんだ! 早く家を出ないと遅刻する!」

「え、もうそんな時間ですか!? ちょっと寝るつもりが本気寝しちゃった」


 慌てて二人で支度をすると、洗面所でうがいだけして家を飛び出しバイト先へ向かった。


 その日、弘樹と里美はバイト先でぎこちなかった。

 朝、一緒の電車に乗り会社へ着くまでは普通に会話をしたが、仕事が始まると何故か弘樹には彼女と会話をするのが気まずく感じた。

 そう感じていたのは里美も同じようで、弘樹と話す際はあまり目を合わせなかった。


「今日は遅刻するかと思った。朱音もログアウトするなら、いつもみたいに起こしてくれればいいのに」

「だって里美さんが、少し仮眠したいからまた夜会いましょうって言うのよ。仕方ないでしょ」


 当然、朱音は悪くないと弘樹も分かっているが、せっかく里美と仲良くなれたのに変に気まずくなったのが残念だった。


「彼女にちょっと誤解されたみたいで、気まずくなってさ、今日はさすがに来ないよ」

「そうなの? よかったわ。あ、それよりも聞いて! 昨日、凄いことがあったのよ!」


 朱音が急に興奮しだした。

 もしパソコンのチャット通話ではなく直接話していたら、肩を掴んで話すくらいの声の勢いである。

 弘樹も何があったのかと興味が惹かれた。


「何があったんだ? また、せせらぎちゃんが暴走したのか?」

「違うって。誘われたバトロワのクランから連絡が来ないんで、師匠に相談したのよ」


「あれ? クランの連絡用でまとめ役の人へメアド渡してなかったっけ?」

「そう。ずっとメール待ってたのに連絡なくて……」


「そもそも、あれからせせらぎちゃんと二人でバトロワして、今後の話をしたんだろ?」

「違うの。あの日から昨日まで師匠とはバトロワせずに自主練だったわ。クランが始動するまではフレンド登録したり、一緒にプレイするのは目立つからやめとこうって」


「じゃあ、朱音がせせらぎちゃんと直接連絡とれれば一番いいな」

「それなのよっ! せせらぎ師匠がメアドを教えてくれたんだ!! あの師匠のメアドよ!」


 弘樹には、朱音が本当にせせらぎを尊敬して憧れているんだと感じた。


「おお! それでメールしてみたか?」

「もちろん! なのに返事がないの。だから今日、師匠に様子を聞きたくてね」




 せせらぎちゃんは朱音と連絡をとるためにメアドを教えたんだから、返事をしないのはおかしいな。

 アドレスを間違えているんだろうけど、それだと本人に直接確認するしか方法がないか。

 朱音のためだ。

 今日もバトロワで寝落ちして、召喚したせせらぎちゃんと相談してもらうのがよさそうだ。




 そんな訳で彼は今日もバトロワを起動したのだが、そのタイミングで……。


ピンポーン


 気まずい感じになり会社で別れたはずの里美が、今夜も弘樹の部屋にやって来た。


◇◇◇


「来ましたね。匂いフェチの美少女が」


 昨日と同じでベッドに座っていた里美は、自分の横に発生した光を見ながらつぶやいた。


 実際のところ、せせらぎの年齢はアリスと同じ二十歳だが、自分より年下で見た目の印象が幼いため、里美は心の中で彼女のことを少女扱いしていた。


 グレーのカーディガンに濃茶のロングスカートを履いた里美は、足を揃えてベッドに座ったままでせせらぎの転移を見守った。

 座った姿勢で実体化したのはパジャマ姿のせせらぎで、小さな落下をしてベッドに着座する。

 転移した彼女は、アリスと同じで手にトートバッグを持っていた。


「弘樹さんの横に座ってもいいかしら」


 せせらぎは後から来たので遠慮したのか里美に了承をとってから、弘樹の横のデスクチェアに座る。

 彼女の態度に里美は思わず微笑んだ。


 里美からすれば、匂いフェチのせせらぎは随分変わった女性だ。

 人の性癖をとやかく言うつもりなど彼女にはないが、やはり寝ている男性の匂いを幸せそうに嗅ぐせせらぎの姿は、里美には奇異に見えて理解できない。


 それでも里美はせせらぎを好ましく思っていた。

 それは彼女がアリスと同じで、他人を思いやる優しい性格の女性だと感じたからだ。


「朱音さん、こんばんはですぅ。じゃあ、今日もまずは射撃訓練場からですけど、その前に朱音さんにお話がありますぅ」

「え、何?」


 せせらぎがトートバッグからスマホを取り出すと、操作しながら朱音にたずねる。


「昨日、メアドをお伝えしたのに、どうして連絡くれないんです?」

「え? 送ったわよ。師匠にメール届いてないの?」


「メール、来てないですぅ」

「おかしいなあ。ほらこれ、このメールがそう。それで送ったメアドはここ。あ、通話画像じゃ見づらいかな? じゃあ、チャットで……」


 どうやら朱音の送ったメールがせせらぎに届かないようで、二人してパソコンの通話アプリ越しにスマホのアドレスを確認している。


 朱音と話すときのせせらぎは、アリスと一緒でゲーム実況アイドルとしての口調に変化させていた。


 昨日、初めてその口調を聞いた里美はせせらぎの変化に驚いていたが、数時間聞くうちにそういうキャラなのだと認識が上書きされた。

 むしろ今では、このしゃべり口調の方がしっくりくるようになった。




 どうやら、せせらぎさんはこの口調の方がしゃべり易いみたい。

 素のときよりも明らかに饒舌じょうぜつな気がするわ。

 本来は内向的な性格だけど、ゲーム実況アイドルを演じることで外交的な性格にチェンジされるのね。




 アドレスは正しいはずなのに、互いのメールが届かないようでせせらぎと朱音が首をかしげている。


「あの、せせらぎさん、朱音さん」

「あ、はい里美さん。何でしょう?」

「里ミン、どうしたの?」


「試しにお二人から私のメアドへ送信してみたらどうです?」

「うーん。ちょっと前までアリスさんとやり取りできていましたのに」

「げ、原因は朱音かもしんない。ちょっと里美さんへ送ってみるね」


 里美は自分のメアドを二人に伝えたが、朱音からのメールは届いたものの、せせらぎからのメールは届かなかった。


「私からもせせらぎさんと朱音さんへ送りましたけど、どうです?

「困りました。来ないですし、送れません……。転移でスマホが壊れてしまいました」

「朱音には里美さんのメールが届いたから、師匠のスマホが原因かなぁ」


 この後に朱音が電話番号を伝えたが、せせらぎのスマホからは、電話をかけることも受けることもできなかった。


「電波を使わないアプリしか使えないですね。そもそも電波を検知できてないみたい。弘樹さんの家の無線LANは検知してますよ。原因がよく分からないから修理に出すしかないかも」

「ショックですぅ」

「ほら師匠、元気出して」


 スマホの不調に落ち込んだせせらぎは、しばらくふくれっ面をしていたが、急に通話アプリのカメラをオフにして弘樹の方を向いた。


 すると、寝ている弘樹のワキの下辺りに鼻先を突っ込んだのだ。


「ちょっと、せせらぎさん⁉」

「むぐ、大好きな弘樹さんに癒してもらいますぅ」

「え? どうしたの?」


 通話アプリのカメラがオフで朱音から見えないのをいいことに、せせらぎは弘樹の腕と背中を両手で押さえると、なんとワキの下辺りに思いっきり顔を埋めてスハースハーと体臭を嗅ぎ始めた。


「あ、あの、スマホが壊れてショックなのは分かりますけど……」

「ああ。癒されますー」

「ちょっと、何が起こってるの!?」


「ねえ、せせらぎさん! 同情はしますけど、それはやり過ぎですよ?」

「ちょっと匂いが香ばしくてゾクゾクしますっ」

「何だか分かんないけど、師匠が弘樹に変なことをしてる気がする! ねえ里ミン! お願いだから師匠を止めてッ!」


 尊敬する師匠の暴走を感じ取った朱音が、事態の収拾を必死に里美へ頼む。

 慌てた里美が、せせらぎを弘樹から引き剥がしてなんとか落ち着かせた。


 結局、里美の頑張りでせせらぎの暴走を食い止めて、朝まで大人しく朱音とバトロワをさせたのだった。


 大騒ぎしたせせらぎは、夜明けごろに弘樹が目覚めたことで無事転移で帰った。

 ほっと一息ついた里美だが、夜が明けても帰らずに今も弘樹の部屋に残っている。


 実は彼女には、ひそかに企んでいることがあった。


 その企みを実現するために、彼女はあえて昨日と同じように今日も弘樹を二度寝させていたのだ。


 里美は二度寝する弘樹の様子を確認しながら、企みを実現すべく隣のデスクチェアへ移動する。

 彼女が放置されていたパソコンの通話アプリを切ろうとすると、朱音がまだ起きていたようで里美に愚痴をこぼし始めた。


「香ばしいって聞けばワキの下って想像がつくわよ。まったく、師匠は弟子に見えてないと無茶苦茶するよねぇ。あれで恥ずかしがり屋なのよ。朱音が見てるときはすましてるのにね」

「へ、へえ。そうなのね……」


 朱音の話にたっぷりつき合わされた里美は、ようやく通話チャットを切断すると、小さく息をはいてから二度寝する弘樹の寝顔を嬉しそうに眺めた。




 私が弘樹さんの彼女になって、そういう関係になれれば裸で触れ合える訳だから、そのときにいくらでも匂いは嗅げるんだけど……。

 彼の匂いを嗅ぐよりも、自分の匂いを弘樹さんが気に入ってくれるかどうかの方がずっと心配。

 私の匂い、弘樹さんは気に入ってくれるのかしら。

 臭いって思われたらどうしよう……。

 昨日、せせらぎさんから聞いた話だと、好ましい匂いがする異性は遺伝子の相性がいいそうだけど、私と弘樹さんはどうなんだろうな。

 私は弘樹さんの匂い、多分好き。

 弘樹さんも私の匂い、好きだと嬉しいけど……。

 彼との遺伝子の相性が良ければいいな。

 ……知りたい。

 私と弘樹さんの相性を知りたい。

 せっかくこの部屋に乗り込んで来たんだもの。

 確かめよう。

 彼女たちにできなくて私にできること、それは起きてる彼に逢えること。

 だから彼が二度寝から起きたらその後直接……。

 いいよね、ちょっと踏み込んでも。

 だって、そのために昨日可愛い下着を準備したんだもの。

 でも私の匂い、弘樹さんがいい匂いだって言ってくれるのか心配。

 ちょっと暑くて大変だけど、頑張って寝ないでアルバイトにギリギリの九時三十分になるまで待とう。




 二度寝する弘樹を見つめていた里美は、手に持ったエアコンのリモコンへ視線を移すと、力を込めてボタンを連打する。

 こうしてエアコンの温度設定は三十度に変更された。


次回、「透けブラ」

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