第四章 三話 弘樹の匂い

「うん……、な、何? あれ? あ、里美さん、おはよう」

「おはよう弘樹さん。やっと起きましたね」


「誰かに起こされた気がしたんだけど……」

「あ、それはアリスさんが……、何でもありません。私、もう帰りますね」


 昨日と同じように里美がすぐ帰ると言うので、弘樹は朱音にログアウトを伝えてから慌てて彼女と一緒に外へ出る。


「やっぱり駅まで送るよ」

「大丈夫ですって」


「いや、まだ夜明け前で昨日と違って薄暗いし危ないから」

「……。じゃあ、お願いします」


 弘樹が断る里美を強引に納得させると、彼女は驚いた表情を見せた後、少し顔を赤らめてから嬉しそうに笑みを浮かべた。


 駅までの道のりを二人で並んで歩く。

 適当に会話するくらいには打ち解けた仲なのに何故か無言になってしまい、弘樹が耐えきれなくなって話しかけた。


「さ、寒いね」

「はい。冬の早朝って寒くてつらいです。でも今は大丈夫。何だかポカポカします」


 上着を忘れた弘樹とは違い、里美は白のロングコートを羽織っているものの特段厚着をしている訳ではない。

 だが、目を見て楽しそうに話すその顔はほんのり上気していて、弘樹には言葉通り暖かそうに見えた。


 弘樹と同じ職場に里美が加わってすでに一年経つ。

 いつも弘樹と一緒に働いているが、優しくてよく気がつく面倒見の良い女性だと感じていた。

 毛先内巻きにしたセミロングで丸い眼鏡の里美は優しい雰囲気の持ち主、特段眼鏡フェチではない弘樹であっても可愛いらしい人だと思っていた。


 こんな女性と結婚できたら、自分の足りない部分を助けてくれるに違いない、バイト先で彼女と一緒に働きながら、彼はそんな風に思ったこともあった。

 しかし、里美から特別な好意を感じたこともなく、今はただ身近にいる素敵な女性として接している。


 そんな彼女が自分に好意を持っているなんてありえない、彼女が夜中に家へ来るのは、自分への好意とは違う別の理由ではないか、弘樹はそう考えた。


「あのさ……、どうして急に俺の家に来たいって思ったの?」

「あ、やっぱり、迷惑でしたよね……」


 さっきまで楽しそうにしていた彼女が、急に寂しそうに顔を下に向ける。


「あ、いや、迷惑とかじゃなくて、来てくれて嬉しいんだけど、その……急だったから」

「何だか最近、弘樹さんが遠くに行ってしまう気がして。私がバイトに入ってからいろいろ教えてくださって、ずっとお世話になって身近だったのに……」


「バイトは今後も続けるし、どこにも行かないよ?」

「そういう意味じゃないんです」


 その後の言葉を彼女は続けなかった。

 何となく会話がないまま歩いているうちに、駅に着いてしまった。

 すでに空が白み始め、日は昇ろうとしている。

 冬至が近いため夜明けが遅いだけで、電車はとっくに動き出している時間だ。


「じゃあね里美さん。またバイトで」

「あの!」


 弘樹が改札の前で挨拶をして別れようとすると、里美が覚悟を決めたように声を上げた。


「な、何?」

「私、彼女たちに負けたくないんですっ! だから、今夜もあなたの部屋に行きますから!」


 宣言した彼女の勢いに弘樹は思わずうなずいたが「負けたくない」とは、自分をめぐってなのかと理解すると驚きに目を見開いた。


 里美が今晩も自分の家に来る。

 自分に好意を抱くほかの女性と張り合うために。

 それはつまり彼女が自分に好意を抱いている、ということに他ならない。


 そのまま改札の奥に消えた彼女を呆然と見送った弘樹は、里美が言った「彼女たち」の「たち・・」という部分が複数形だと後から気づいて再び驚いた。


 里美が張り合おうとする相手はアリスだけじゃなく、せせらぎや理沙も含むのだと分かったからだ。


◇◇◇


「何度見ても凄い光景ですね」


 グレーのニットワンピースを着た里美が弘樹のベッドに姿勢よく座っていたが、真横に発生した強い光に声を漏らした。


 直後、光の中に座った姿勢の人影が現れる。

 次第に光が弱まりながら人影が実体化を終えると、現れた人物は小さな落下とともにベッドへ着座した。


 座った姿勢で現れたのはパジャマ姿で黒く長い髪の女性、小柄なアリスより少し背が高い。

 黒髪の女性は里美の方を見てギョッとしたのか、軽くのけ反って驚いていたが、思い当たる節があるのかすぐに体勢を立て直した。


「あなたはもしや……、里美さんでしょうか?」

「ええそうです。せせらぎさんですね?」


 里美の問いにうなずいたせせらぎは、少し目を細めて彼女を見た後、机に突っ伏して眠る弘樹に視線を移してうっとりと見つめた。

 そのせせらぎの瞳は大好きなものを愛でるそれで、里美はその光景がまるで恋愛小説のワンシーンを切り取ったようだと感じた。


 美しく整ったせせらぎの横顔を、里美は感嘆と共に小さく息をはいてただ眺めた。




 うわぁ……、綺麗な女性!

 芸能事務所に所属するだけはあるわ。

 特に長くて真っすぐな黒髪が素敵。

 まつ毛も黒くて長いし……。

 まるでお人形みたいだわ。

 今はパジャマだけど、黒を基調としたお嬢様服が似合いそう。

 いや、あえてゴスロリなんかがドンピシャかも。

 見た目が派手なアリスさんとは違って、見るからに清楚な感じで話し方も丁寧だし、声も鈴が鳴るように素敵。

 同性の私から見ると、このせせらぎさんが一番可愛く感じるわ。

 ……。

 ところがよ?

 彼女の方がアリスさんや理沙さんよりもずっと過激、というか性癖が偏っていて変態ちっくらしいのよね。

 人って見かけでは分からないものだわ。




「何でしょう? 私のことをじっくりと見て」

「あ、いえ、何でもないです」


 視線に気づいたのか、せせらぎが里美の方へ向き直ると無表情で問いただした。


「アリスさんに聞いたところ、あなたも弘樹さんを手に入れようとしていますね?」

「手に入れるだなんて……。い、いえ、そうです! 私は弘樹さんの彼女になるために、ライバルのせせらぎさんに会いに来ました!」


 せせらぎの問いに最初慌てた里美は、負けるものかと自分が弘樹の彼女になるとハッキリ宣言する。

 里美は内心、真横に座るせせらぎの美しさにひるんでいた。

 だが、いざライバル宣言をすると、臆する気持ちがどこかに吹っ飛んで、心のままに主張していた。


 一方、里美から熱いライバル宣言を受けたせせらぎは、里美の目を見ると興味がなさそうに目をそらす。


「ごめんなさい。私はライバルとかそういうの、あまり考えたことがなくて」

「そ、そうですか」




 私バカだ。

 こんな綺麗な女性だもの、今まで恋のライバルがいたことなんてないのよ。

 それなのに、私なんかがライバル宣言しちゃって恥ずかしい……。

 でもあなたにそのつもりがなくても、弘樹さんを狙っているなら、私にとってあなたはライバルなのよ。

 顔も雰囲気もお人形みたいに素敵な女性だもの。

 あなたをノーマークで放置なんてできないわ。

 まずは、せせらぎさんがどんな女性か探りを入れてみないと。




「せせらぎさんの好みのタイプって、弘樹さんみたいな感じなんですか?」

「男性の好みでしょうか。そうですね。私は弘樹さんみたいなモテ男が好きです」


「モテ男? え? 弘樹さんが?」

「そうです。弘樹さんみたいなモテ男が理想です」


「弘樹さんがモテ男だなんて……。あ、でもそうか。今はたくさんの女性に好意を持たれているから、モテ男で合っているんですね。そうかぁ、弘樹さんってモテ男なんですね……」

「それと弘樹さんの匂いが好きです」


「え⁉ に、匂い!?」

「ええ。好きな匂いの男性にいいようにされたい」


 せせらぎはさらっとセクシャルなことを言った後、それに気づいたのか表情を変えずに頬を染めた。




 ちょっとこの娘、何言ってるの!?

 よくそんな恥ずかしいことを平気で言えるわね!?

 そう言えば、汗を吸ったキャミソールを理沙さんが弘樹さんに嗅がせたのって、確か、せせらぎさんのマネよね?

 これ以上彼女が弘樹さんに過激なことをするなら、私が阻止しないと。




 アリスもせせらぎもネットとはいえアイドルを張れる見た目ではあるが、性格の方もゲーム実況で人気が出るだけあって面白くて個性的である。

 里美はため息をはくと、自分と全く違う世界に生きる人だから性格を理解できなくて仕方ないと考えた。


 理解できない相手に対しては、余計に警戒心が高まるものである。

 里美はアリスをキス魔という認識で警戒しているが、せせらぎについてはキャミソールの匂いを嗅がせる変態という認識であり、特別に警戒しようと思った。


「あのー、せせらぎ師匠? そろそろ参加してもらっても?」


 寝落ちする弘樹の机に置かれたスピーカーから、朱音の声が聞こえた。


 里美はすっかり忘れていた。

 せせらぎを召喚できたのは、弘樹がゲームで寝落ちをしたから。

 彼が寝落ちするまでプレイしていたバトロワゲームの都合で、ネット仲間の朱音とチャット通話が繋がったままだったのだ。


「あの、朱音さん、里美です」

「ああ、里ミン。何? どしたの?」


「もしかして今のせせらぎさんとの会話、聞こえてました?」

「あー、里ミンのライバル宣言とか聞こえてないから大丈夫よー」


 優しくて意地悪な朱音に里美は顔を赤くした。

 通話アプリがオンだったので、弘樹をめぐるせせらぎとの会話を映像付きで朱音に聞かれてしまった。


 ところがである。

 せせらぎはセクシャル発言を朱音に聞かれたことなど、全く気にしていないようだった。

 弘樹の隣に座ることについて里美に了承をとると、彼の横のデスクチェアに移動する。

 そのまま目をつむると、弘樹の方を向いてスンスンと鼻を鳴らし始めたのだ。


 一見ただ横を向いているだけのせせらぎだが、その仕草が弘樹の匂いを嗅いでいると里美が気づいて、先ほどとは全く別の意味で顔を真っ赤にする。




 せせらぎさんって、やはり一筋縄じゃいかない相手だわ!

 いくらカメラ越しの朱音さんには何しているか分からないにしても、後ろに私がいるのよ⁉

 こんな状況で弘樹さんの匂いを嗅いじゃうなんて!

 もしかして、私、挑発されてる⁉

 私はそんな挑発にのる変態じゃないわよ!

 ……。

 ちょっと! 彼女ってば匂い嗅ぎすぎ!

 弘樹さんの匂いってそんなにいい匂いなの?

 別に私は匂いフェチじゃないけど、好きな人の匂いは別かも……。

 彼女の挑発にのる気はないけど、……でも、正直気になるわね。

 ……私も弘樹さんの匂い、嗅いでみたいかも。

 彼は寝落ちしているから、今なら匂いを嗅いでもバレないのよね……。

 これを逃してせせらぎさんに後れをとるのはなんかイヤだな。

 一緒になって彼の匂い、嗅いじゃおうかしら……。




 里美は少しの間だけ我慢していた。

 だが、バトロワで相手チームとのマッチングを待つ間、せせらぎがずっと横を向き、弘樹の肩へ鼻を近づけてスンスン匂いを嗅いでいるのだ。

 それを見ていて、このままでは出遅れて彼女に負ける気がしてきた。


 急に表情を変えた里美は、腰かけていたベッドからすっくと立ち上がって弘樹の左側へ移動すると、彼の肩に鼻を近づけて匂いを嗅ぎ始める。


 彼女は鼻腔の奥に男性の汗臭い匂いとは違う、弘樹の肌の匂いを感じた。

 里美はもっと男臭い苦手な匂いを想像していた。

 だが、感じたのは決して嫌いな匂いではなく、どちらかと言うと好ましい匂いだった。


「ね? 弘樹さんの匂い、いい匂いでしょう?」


 気がつくとせせらぎがこちらを見ていて、そして何故かドヤ顔で里美に問いかけてきた。


次回、「里美の覚悟」 

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