第四章 二話 両側からの幸福締め

「ん、んんー。え、里美さん? ……あそうか、来てたんだっけ。おはよう」

「おはよう弘樹さん。じゃ私、帰って寝ますね」


 弘樹が目覚めたときに里美はまだいたのだが、急に立ち上がると「じゃあバイトで」と慌てて帰ろうとする。


「駅まで送るよ」

「あ、い、いえ、もう明るいですし大丈夫です。それに朝帰りで駅まで送ってもらうとか、そういうのは恋人同士になってからに取っておきたいというか……」


「恋人同士?」

「何でもないです」




 今、恋人同士って言った!?

 それって里美さんと俺が!?

 でも俺の家に一晩泊っておいて、駅まで一緒に歩くのはまだ早いってどういうことなんだ?

 だいたい、彼女は何で俺の家に来たがったんだ?

 目的が分からない……。

 あの後、里美さんはアリスちゃんと会ったハズなんだ。

 彼女がそれを望んでいたようだし……。

 もしや、里美さんが来た目的はアリスちゃんに会うこと!?




 弘樹は帰る彼女の後ろ姿を見送りながら、彼女が自分の部屋を訪れた目的がアリスに会うことなのではと推測した。

 だが何故アリスと会おうとしたのか、残念ながらそこまでは皆目見当もつかなかった。


 里美を見送ってから部屋に戻った弘樹は、繋がったままの通話アプリ越しに朱音からあれこれ言われた。


「それで、昨日は久しぶりにアリスちゃんとMMORPGをプレイしたんだけど、これがホント参ったのよ!」

「やっぱり里美さんがいたから?」


 弘樹は昨晩の様子を思い起こす。


 そういえば昨日部屋に押しかけてきた里美は、明らかにバイト先での態度とは違っていた。


 何故か彼女は話をせず、ベッドへ腰かけて姿勢よく座っているばかりだった。

 里美は何故か緊張しているようで、弘樹には何かを前にして気を張っているように見えた。


 このシチュエーションを普通に考えれば、これから愛の告白をするか、黙って肌の触れ合いやキスが始まりそうなものだ。

 だが里美は、異常にピリピリとした空気を醸し出していて甘い雰囲気など微塵もなく、いかに経験値のない弘樹でも間違って手を出すほど愚かではなかった。


 そんな状況なので、弘樹はいつものようにネットゲームをする訳にもいかず、ベッドに座る里美の方にデスクチェアを向けて座ると、彼女が何かしゃべりだすのを待っていた。

 するとなんと里美は「早くネットゲームを始めて」と言ったのである。


 弘樹がゲームをプレイ中に寝落ちして、それでアリスが召喚されたことを里美はすでに知っている。


 その上で彼女はMMORPGをプレイしろと彼に言ったのだ。

 それはつまり、里美はアリスに会いたいのではないか、そう弘樹は想像した。

 なぜ会いたいのかは分からない。

 そもそも里美とアリスが会って平気なのか、彼はそう考えてかなり焦った。


 しかし、MMORPGのプレイを強く催促する里美に逆らうなど弘樹にはとてもできず、結局、大人しくネットゲームを始めてそのまま寝落ちしたのだ。


「朱音、悪かった。俺のせいで迷惑かけたみだいだな。二人とも喧嘩してたろ?」

「ハア? あなた、何勘違いしてモテ男セリフはいてんのよ! 全然違うし! 二人は喧嘩なんかしてない。逆に仲が良過ぎてやりにくかったのよ」


「仲良過ぎ??」

「ええ。里美さんがプレイ中のアリスちゃんに話しかけるから、ずっと二人だけで会話して盛り上がるのよ。ゲームと全然関係ない恋愛話でよ。だから朱音が加わったら邪魔だろうと思って黙ってたの。もう完全に蚊帳の外! 正直こたえたわ」


「なんかごめんな」

「何で寝てたあなたが謝るの? そういうのいいし」


「いや、俺も二人が会うとヤバいかもと思ったんだけど、逆に仲が良くなるのはちょっと想像してなかった」

「朱音も最初は緊張したよ。だけど里美さんは常識的だし、アリスちゃんは明るくて性格がいいからね。ま、納得の結果かな」


「一応バイト先で里美さんに言っとくよ。プレイ中のマナーというものを」

「うん、ホント頼むね。昨日は何とか耐えたけど、今日の夜も同じだとしんどいから……」


「いや、さすがに里美さんが今日も俺の家に来ることはないから安心してくれ」


 そう弘樹は朱音に釈明したハズだったが……。


ピンポーン


 バイトを終えた弘樹が帰宅して風呂や食事を済ませたタイミング、ちょうど昨日と同じくらいの時間に家のチャイムが鳴った。


 弘樹が玄関ドアを開けると、バイトのときのラフな服装とは違うブラウスにフレアスカート姿でコートを羽織った里美が立っていた。


「あ、里美さん! 今日も来るって冗談じゃなかったんだ」

「こんばんは。お邪魔しますね」


「あら、里美さん今日も来てくれたの?」

「こんばんは、弘樹さんのお母さん。これ田舎から届いたメロンです。ちょっと食べきれなくて、もらっていただけると助かります」


「悪いわねぇ。気を使わせちゃって」

「いえこちらこそご迷惑おかけします。弘樹さん、さあ行きましょ」


「あ、うん……」


 里美は当たり前のように、二日連続で夜遅くに弘樹の部屋へやって来たのだった。


◇◇◇


「来たわね、アリスさん」


 里美の目の前に発生した人型の光は、徐々に実体化して小柄な女性になると光が弱まった。

 昨日と同じようにパジャマ姿のアリスが小さな落下でトンッと着地すると、正面で迎えた里美は小さく微笑んだ。


「こんばんは、アリスさん」

「あ、里ミンこんばんわぁー」


 一晩でアリスとだいぶ打ち解けたとはいえ、里美の目標は机で突っ伏して眠る弘樹と恋人になること。

 可愛くて魅力的なアリスには油断ならないと気を引き締めると、眼鏡を指でクイと上げてから昨日の続きを提案する。


「さあ、アリスさん座って。朱音さん、アリスさんが来ましたよ」


 アリスにデスクチェアへ座る様に勧めた里美は、フレアスカートを整えるとベッドに姿勢よく座った。


「ハイ、アリスちゃんこんばんは」

「昨日ぶりだね、朱音! 里ミンともども、今日もよろしくだよぉ」


 里美は昨日から続くアリスのしゃべり口調にようやく慣れてきた。

 アリスは、ゲーム実況をメインで活動するニッチジャンルのアイドルではあるものの、芸名を使ってキャラを作りファンを獲得する偶像の職業である。


 今はSNSが発達して、ファンがアイドルの情報を簡単に暴露できる。

 芸能事務所は所属アイドルに対して、ネットでのしゃべり口調やキャラ作りを徹底させているんだと、アリスが里美に説明した。


 ネットで活動するアリスにとって、里美はリアルで会って目の前で話す相手なので、もう取り繕う意味もないそうだ。

 だが、朱音はあくまでネットを介してやり取りしているリスナーの立ち位置なので、実況アイドルのアリスとして話す必要があるらしい。




 それにしても里ミンって……。

 そんな呼び方、誰にもされたことないよ。

 べ、別に悪い気はしないけど、か、かなり恥ずかしい……。

 朱音さんは最初に一瞬だけ静かになったけど、今は私のあだ名としてすっかり認知してるみたいだし。




「あの、私、朱音さんに謝りたいことがあります」

「え? 何?」

「里ミン、どうしたの?」


「昨日はゲーム中のアリスさんにあれこれしゃべりかけてごめんなさい。弘樹さんから、ネットで繋がるプレイヤーが困るから少し控えてねって言われました」

「あ、うん。大丈夫だよ。昨日は恋愛話をしてたから、加わるのを控えたってだけだし」

「そっかぁ。ごめんね朱音。プレイしない人と横で話しながらゲームするのが初めてで、気配りと配慮が欠けとったよ私」


 二人から謝られた朱音は、照れくさそうに画面に向かって手を横に振り、気にしないでくれと応えた。

 すると朱音の様子を見た里美が提案を持ちかける。


「だけど、私もずっと黙っているのは寂しいので、逆に朱音さんにも話に加わってもらえたら嬉しいなと」

「え? 朱音も恋愛話に加わっていいの?」

「当然だよ、朱音。っていうか弘樹と付き合いの長い朱音に、男心を教えて欲しいんだ! お願いだよ!」


「それいいですね! 私からも是非お願いします!」

「男心? いやまあ、いいけどねぇ……弘樹くらいしか分からないわよ?」

「むしろ弘樹のことが知りたいんだよぉ! じゃあじゃあ早速だけど、男の人って女の人からどんなことされたら喜ぶんかな?」


 このアリスの質問に、ベッドへ座っていた里美が立ち上がると、机で突っ伏して眠る弘樹の左側、つまりアリスとは反対側に移動してモニターに顔を近づけた。

 里美は一瞬右横の弘樹を見て微笑んでから、食い気味で朱音に要求する。


「男の人って何に喜ぶか私も興味あります! 詳しく教えてください」

「いや、朱音も女なんですけど……。断っておくけど、あくまで弘樹が言ってたことだよ?」

「じゃあ、弘樹が世の男性代表ってことでよろです」


「朱音さん、あまりマニアックじゃないのでお願いしますね?」

「……。例えばだけど、ただ女性の方から腕を組まれるだけでも夢のようらしいよ。でも弘樹にはもっと上の願望があるんだって」

「うん、うんっ」


 大きな胸の前で両手にこぶしを作って大きくうなずくアリスとは対照的に、里美はとても心配そうな顔をしている。


「腕を組むだけでもハードルが高いのに……」

「さらなる願望は、腕を両手で抱え込んでしがみついて欲しいんだって」

「両手でかあ。なるほど、その方が大好きって気持ちがしっかり伝わりそうだね。もしかして朱音って、弘樹ですでに実践済み?」


 アリスの問いに、朱音はぶんぶんと激しく首を振って「ありえない!」と否定した。


「それってこうですか」


 里美が眠る弘樹の左腕を掴むと肘から先を横にして、両腕で下から抱え上げた。


「違う違う。そんなパワーショベルが砂を持ち上げるような感じじゃないよ」

「はいはーい。私、分かったよ。こうだよね?」


 アリスは弘樹の右腕を下向きにして自分の胸の前に動かすと、自分の両腕で囲みこんで弘樹の腕を大きな胸に押さえ付けて拘束した。


「ああ、アリスさんなるほどです。うーん……こうですか?」


 里美も若干遠慮気味ではあるが、弘樹の左腕を胸の前に下げると自分の両腕で交差させるように囲み込んで、彼の腕を胸に押さえ付けて拘束した。


「そうそう、それで相手の顔を上目づかいで見て微笑んで欲しいんだって。馬鹿だよねぇ弘樹。あ? あれ? ちょっと!? か、完璧過ぎて弘樹の両腕が……きゃぁああーっっ! やっぱだめぇ! すぐやめてっ」


 最初、満足そうにうなずいていた朱音は、急に慌てだすと腕にしがみつくのをすぐやめるように叫んだ。

 パジャマ姿で弘樹の右腕にしがみついていたアリスが不満そうにする。


「ええー、やだやだ。もっと大好きな弘樹にしがみついてたいもん。これが朱音の教え通りなら問題ないっしょ?」

「朱音さん、どうしたんです?」


 里美は疑問に思い、弘樹の腕にしがみついたままでモニター隅のチャットアプリを確認する。

 自画像欄には弘樹の左腕に里美が、右腕にアリスがしがみついている様子が映っていた。




 画像が小さいから分かりづらいわね。

 確かに彼の左腕を、私が腕と胸で拘束する様子が映っているわ。

 ……え? ちょっと何よこれ!

 しがみつくだけだと思って試したのに、これじゃ腕を胸で抱きしめているじゃない!

 ……。

 ま、ま、まあ、相手は大好きな弘樹さんだし、彼は寝ているし、私もこういうのに慣れるチャンスだし。

 大胆でかなり恥ずかしいけど、もう少しだけこのままでも……。

 えーと、反対側のアリスさんも同じように弘樹さんの右腕にしがみついて……。

 きゃあ!

 彼女の胸が大きすぎて、弘樹さんの右腕が埋もれて見えないじゃない!!

 だ、だだだだめよっっ!!

 アリスさんの胸の攻撃力が高すぎて、これじゃ私はとても適わないわ!

 今すぐ彼女を止めないと!!




 ブラウス姿で弘樹の左腕にしがみついていた里美は急に顔を真っ赤にすると、大慌てで彼の左腕から離れてアリスに声をかけた。


「ダメよ。アリスさん! いいから今すぐ離れて!」


 里美が弘樹の右側、つまりアリスの方へ回り込むと急いで彼女を引き剝がした。

 アリスが不満そうにむくれる。

 それを見た朱音が謝罪した。


「里ミン、アリスちゃん、ごめん。今の技の別名が、幸福締めというのを忘れてたわ」

「ねえ朱音っ! 何でやめさせるの? 久しぶりに弘樹と密着できとったのにぃ」


「む、胸ですよっ、胸!」

「アリスちゃん、あの技はね、男の腕を女の両腕と胸で挟み込んで拘束して、幸福感で男を悶絶させる技なの」

「凄い! 威力抜群だね! じゃあもう一回……」


「ダメですってアリスさん!!」

「アリスちゃん、お願いだからやめて。あ、朱音だってホンネは、弘樹に他の女子と仲良くして欲しくないの……」

「え? ……あ、そうか、そうだね。ごめんね朱音。で、でもぉ、あと一回くらいはしたいなぁ」


 アリスが上目づかいでカメラ越しに朱音へ訴える。

 画面に映る朱音の顔は苦悩で困り果てていた。

 それを見た里美が必死に彼女を止める。


「ほ、ほら一回試せただけで十分ですよ」

「い、今まで言ってなかったけど、一応私も弘樹のことを好き、なんだよね。だから、両側から女子たちに幸福締めされる弘樹を見るの、キツ過ぎるよ……」

「う……、……あの……一回できたからダイジョウブデス……」


 朱音が悲しそうにするので、いかに天真爛漫なアリスといえど引き下がった。


 この後、里美とアリスは朱音をなだめすかし、さらに褒めて褒めて持ち上げて復活させると、本来アリスが召喚された理由であるMMORPGは大してプレイもせず、さらに弘樹が萌えるシチュエーションとは何かを議題にして三人で検討したのだった。


次回、「弘樹の匂い」

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