第四章 里美

第四章 一話 弘樹と里美

「う、うう、はあ、はあ、く、苦しい……」


 息苦しさで目が覚めた弘樹は、勢いよく机から顔を上げた。

 その拍子で何かがパサリと机に落ちた。


「はあ、はあ、何でこんなに息苦しいんだ? 異常に暑いし……ん? 何だこれ?」


 弘樹は机に落ちたピンク色の布を見るが、酸欠のようで頭がボーっとしてそれが何なのか考えることもできない。

 その布を手に取ってしばらくボケっとしていたが、スピーカーから聞き慣れた女性声が聞こえた。


「あ? 弘樹、起きたわね……」

「ああ朱音、おはよう。今起きたよ。あれ? ずいぶん機嫌悪いな。どうした? 何かあった?」


 朱音の声に機嫌の悪さを感じ取った弘樹は、思わずたずねた。


「私たちの力が及ばなくて、最低なものを見たわ」

「え、あ、そうなんだ。理沙さん麻雀強いもんな」


「そういうんじゃないの。もっと性的な話。彼女ってさ、あの色っぽさでドSな性格、そんでもってセクシーで大胆……完全にやられたわ」

「そ、そうか……」


 寝ていたせいで弘樹には詳しく分からないが、色っぽい理沙が何かをやらかして、ドSでセクシーで大胆な行動をしたんだと何となく理解した。


 弘樹は思考力が戻ってくると、部屋が異常な暑さなのに気づいた。

 急いで机に置かれたエアコンのリモコンを確認すると、またかとゲンナリする。

 彼が思った通り、エアコンの設定が三十度の暖房になっていたからだ。

 どうしてこの部屋に来る女性はみんな、一回は三十度の暖房設定にするのかと弘樹は呆れてから、急いでエアコンを切って窓を開けた。


 涼しい風が入ってきて、彼は思わずふうと声を出してから朱音にたずねる。


「あのさ朱音、なんかすげー暑いんだけど、何があったの?」

「あなたの手元にあるでしょ、湿ったキャミソール。理沙姉さんが最後の勝負で勝ったら、せせらぎ師匠がした一番過激なことをやるって宣言しててさ」


「……それで過激なことをやったんだな?」

「ええ。やったのよ」




 おいおい。

 せせらぎちゃんがやった、汗で湿ったキャミソールの置き去りを、理沙さんもやったって訳か。

 うん、そうか。

 まあ、それ自体は大してセクシーでもないよな?

 ちょっと性癖がこじれてるだけで……。

 ……ん?

 いや、まて。

 待て待て!!

 それって、朱音と里美さんの前でキャミソールを脱いだってことだよな⁉

 理沙さんが下着になったってことか⁉




 弘樹は恐る恐る目の前にあるキャミソールを手に取った。

 ピンク色でシンプルなデザイン。

 ネットで見た限り、下着というより夏に着る可愛い外着ともいえる。


 ただ、理沙の汗をかなり吸い込んでいて、しっとりとして少し暖かかった。


 弘樹は起きる前がかなりヤバい事態だったと想像すると、さっきから気になっていたことを朱音に確認する。


「里美さんはどうしたの?」

「あ、ああ、ちょっと刺激が強かったのか、錯乱してログアウトしたわ」




 おいおい、大丈夫かよ。

 彼女は初心者で麻雀を覚えるために参加しただけだから、まさか脱衣麻雀させられると思ってなかっただろうに。

 しかも勝った方が下着を見せてくるっていう……。

 こりゃ朱音だって怒る訳だ。




「ねえ弘樹。朱音、思ったんだけどさ」

「な、何?」


 思考中に呼び戻された弘樹が慌てて返事をすると、落ち着いた様子で朱音が宣言した。


「朱音はもう積極的に行くって決めたよ」

「は? 積極的って何が?」


「だって、アリスちゃんもせせらぎちゃんも理沙姉さんも、真っすぐに弘樹を狙いに来てる」

「そ、そうなのかな?」


「朱音も今のままで後悔したくないし」

「あの……朱音さん? 後悔って何に対して?」


「じゃ、ログアウトするね。理沙姉さんの着てたキャミソールで変なことしないように!」

「変なこと? し、しないよ!」


 朱音は弘樹に釘を刺してからログアウトした。




 朱音のヤツ、えらく理沙さんに対抗心を持ってたな。

 でも俺は、理沙さんよりせせらぎちゃんの方がずっとヤバいと思うんだよ。

 せせらぎちゃんにしろ理沙さんにしろ、俺は寝落ちしてるから脱ぐとこなんか見れていない。

 だから、残されたキャミソールで判断することになるんだが……。

 理沙さんのこのキャミソールって生地や作り的に、ネットで見た外着用の見せキャミなんだよ。

 でも、せせらぎちゃんのは調べた限りガチの下着。

 それなのに、パジャマの前をはだけて丸見せにした挙句それを通話アプリで録画、さらに汗を吸わせて置き去りにしてから、手紙で「匂い嗅いでください」だもんな。

 いくら匂いで相性を確認したいからって、せせらぎちゃんのは凄かった。

 ……。

 そういえば、匂いで相性が分かるんだっけか。

 ……。

 俺と理沙さんの相性ってどうなんだろ。




 弘樹は目の前にある湿ったキャミソールを手に持って、少しの間だけ葛藤した。

 朱音に変なことするなと言われたが、遂に興味の方が勝って理沙の脱いだキャミソールに鼻を近づけた。




 い、いい匂いがする。

 これたぶん香水だけど、鼻腔を刺激する甘ったるくて誘うような匂いだ……。

 せせらぎちゃんと遺伝子の相性がいいと思うのは、彼女の汗の匂いがほのかに甘い香りだからだ。

 でも何と言うか理沙さんは、大人女性が男を誘惑する感じなんだ。

 それは理沙さんがそういう香水を付けているからなんだが、香りのタイプが彼女の雰囲気ととてもよくあっているんだよな。

 だいたい理沙さんは、最初からキャミソールに着替えて準備してたくらいだし、きっと俺に嗅がせることも考えてこの香水を選んだんだろう。

 となると真剣じゃないにしても、彼女には俺を誘惑するつもりが少しはあったのかもしれない。

 そういえば、アリスちゃんが腕を組んで密着したときも、甘い香りが残ってた気がするな。

 知らなかったけど、女の子って甘い香りを身にまとっているんだなあ……。




 ハイレベルで魅力的な女性三人の匂いを体験した弘樹は、幸せな気持ちでパソコンをシャットダウンしようとしてさらに新たな動画を見つけて……。

 そこからたっぷりと、黒下着をつけた理沙の姿を堪能したのだった。


 そんなこんなで、これ以上にないほど浮かれてバイトへ向かった彼だったが、今日はさらなる展開が待っていた。


ピンポーン


 バイトを終えた弘樹が帰宅し、食事や風呂を終えたところで家のチャイムが鳴った。


 玄関ドアを開けると、セミロングヘアで眼鏡を掛けた里美が立っていた。

 ラフなパンツルックのバイトのときとは違って、ワンピースの上からコートを羽織っている。


「あ、どうぞ、里美さん!」

「はい、お邪魔します」


 何故か彼女が今日バイトの後、夜に家へ来たいと主張したのだ。

 それなら休みの日はどうかと弘樹は言ったのだが、いつも常識的で控えめな里美がどうしてもお願いだと言って聞かなかったのだ。




 母さんにはあらかじめ里美さんが来ることを話しておいたが、彼女でもない娘が夜遊びに来るなんて意味が分からないと言っていたな。

 そりゃそうだ。

 俺だって意味が分からないもの。

 理由を聞いても、俺の部屋にただ行きたいの一点張りだし。

 ネットじゃだめだと言うし。

 付き合ってない男の部屋に来るのはマズいんじゃないかと聞いたら、付き合うためにはまず部屋に行く必要があるというし。

 それで付き合う前に身体の相性を確認するタイプなのかと恐る恐る聞いたら、物凄く睨まれた後でエッチなことは絶対になしだと物凄い剣幕で言われるし。




「こんばんは。あなたが同僚の里美さんね?」

「夜遅くすみません」


 玄関に招き入れたところで、弘樹の母親がリビングから出てきて里美に話しかけた。


「弘樹から聞いてるけど、今日は夜に何かあるの?」

「ちょっと事情がありまして。弘樹さんは共通のネットの友人たちの中でも中心人物なんです。それでみんなとやり取りするのに、私が一緒にいる方が彼を助けられると思いまして。ご迷惑おかけしてすみません。ほんとに静かに過ごしますので」


「まあ、そういうことなのね。まさか弘樹がみんなの中心人物だなんて! この子も二十四歳だから夜に活動することもあるわよね。里美さん、大変と思うけど弘樹をお願いしますね」

「あ、はい」


 弘樹の母親は里美が急に夜訪問し、しかも彼女でもないのに部屋で長時間過ごすと聞いて最初は怪訝な顔をしていた。

 だが里美の礼儀正しさと、いつのまにか弘樹が友人たちの中心にいると聞いて、しかも彼女がその手助けのために来たのだと知って、すっかり警戒心を解いたのか笑顔で彼女を受け入れた。


「ごめんなさいね。素敵なお菓子までいただいちゃって」

「いえ、私もコレ好きで自分の分も一緒に買っちゃいました。あ、それではお邪魔します」


 急な夜の訪問にも関わらず、すんなり弘樹の母親をかわした里美は、黙って彼の後に続くとお目当ての二階の部屋に入ったのだった。


◇◇◇


「えっ、え~! これは凄いわ! 本当にこんなことが起こっていたんですね!」


 弘樹の部屋でベッドに座っていた里美は、目の前で光を発しながら実体化する人影を見て声を漏らした。


 徐々に光が弱まると、人影は小柄な女性となって顕在化けんざいかした。


「こ、こんばんは。あなたがアリスさん?」

「え、え? あれ? あなた誰なの⁉」


 里美の前に現れた女性は、黄色いモコモコした冬用のパジャマ姿で手にエコバックを下げている。

 弘樹から聞いていた通りで金髪の小柄な身体、とても日本人とは思えない容姿をしていた。


「私は田中里美です」

「え、あどうも。沢村ありすです……」


 里美の前に現れた女性は、状況が飲み込めない様子で不安そうに軽く握ったこぶしを口元へ当てている。


「弘樹さんから聞いた名前と違うんですね。あなたは胡桃くるみアリスさんじゃないんですか?」

「本名は沢村ありすで、芸名が胡桃アリスだよ。あ、あの弘樹からから聞いたって一体どういう……」




 こ、この娘、弘樹さんのこと呼び捨てした⁉

 会話もしたことないって聞いたのに、なんで彼との距離感がこんなに近いのよ。

 私なんか一年も一緒に働いて未だに、さん付けで呼んでるのに……。

 年齢は……二十位かしら。

 彼女の方が彼より年下なのに呼び捨てするなんて、ちょっと馴れ馴れしくない?




 里美はじっとアリスのことを観察しながら、彼女の問いに答える。


「ええ。あなたのことは、弘樹さん・・から聞きました。ほら、彼あそこで寝落ちしているでしょ」

「あ、ホントだぁ。よかった。違うところに来ちゃったのかと思ったよ」


「安心してください。ちゃんと弘樹さんの部屋です」

「うふふ。もう十日も呼ばれてなくて凄く悲しかったけど、理沙さんが言う通りに今日、ちゃんと呼ばれて安心したよ。ねえ、里美さんも転移で来たの?」


 彼女の視線に気づいたアリスは、当然に里美も召喚されたんだと思ったようだ。


「いえ。私はちゃんと玄関から入りましたよ」


 それを聞いたアリスが、少し考えてから急に顔色を変えてオドオドし始めた。


「あの! 里美さんってもしかして弘樹の、か、彼女なの⁉」


 弘樹の部屋なのに、遅い時間に見知らぬ女性が待ち構えていたのである。

 アリスとは違って転移で来たのではないとすれば、最初から……里美は弘樹が起きているときから部屋にいたことになる。

 それが許される存在、それは弘樹の彼女だとそう考えたのであろう。


 ここでうんと言ってしまえばライバルが一人減る、机で突っ伏して眠る彼の背中を見ながら、里美の脳裏にはそんな考えがよぎった。

 だが、根っから真面目な性格の里美には、自分が弘樹の彼女だと嘘をつくことはとてもできなかった。


 どうやら弘樹との関係は自分よりもアリスの方が進んでいる、そう感じ取った里美は苦しい立場であることを自覚しつつも、負けたくないという思いが先行した。


「か、彼女じゃないですけど……なるつもりです!」


 人間関係ではあまり前に出たがらない彼女が、なんとアリスにライバル宣言をしたのだ。


 するとアリスも、里美に負けじと眉を上げて挑戦的な表情で見つめ返した。


「じゃあ、里美さんは私のライバルだね!」


 大きな胸に手の平を当てて返事をしたアリスは、楽しそうに里美に向かって微笑んだ。




 恋敵にも笑顔で話せるなんて、人との距離感が近いタイプみたい。

 アリスさんって悪い人じゃないかも。

 でも、気は許せないわ。

 女性は好きな人を手に入れるためなら、何をするか分からない。

 そういう小説が多かったもの。




「理沙さんに聞いたんですけど、アリスさんはキスとか弘樹さんにしてますよね? 彼が寝ているのをいいことに、もっと過激なことしたんでしょ?」

「あ、理沙さんヒドイ。相談したことしゃべっちゃったんだ。あ、あのね、私、その……、男の人と深い付き合いをしたことないの。だから、キスから先って一体何をしたらいいか理沙さんに相談したんだけど……」


 里美はポカンとした。

 金髪で小柄な巨乳というアリスの見た目から、当然男性経験が豊富なんだと思い込んでいたからだ。

 それが、キスから先は何をしていいか分からないなんて、とても信じられない。

 そこから先など、小説や漫画をイロイロ読んだお陰で里美だって知っている。

 ティーンズラブが好きなせいで、多少偏った知識かもしれないが。

 だが、目の前の金髪の女性は、本当にどうしたらいいか分からない様子。


 とても手に負えないハイスペックな女性が恋のライバルなのかと思いきや、恋愛経験値は自分とそう変わらなさそうなのだ。


 これは助かった、そう安心した里美は思わずアリスにこんな提案をしてしまった。


「じゃ、じゃあ、男性へのアプローチについて、一緒に相談しませんか?」


 それならば理沙に手ほどきを受けてアリスに先へ進まれるよりは、情報を共有して自分もレベルアップしてしまおう、そう考えたのだ。


「うん。うん。それがいいね。そうしよう! よろしくね里美さん!」

「……ええ。どうぞよろしく、アリスさん」


 寝落ちして無防備な弘樹を彼女たちから守ろうと彼の部屋へ乗り込んできたのに、気づけば最初の趣旨とはズレた提案をしていた。

 これで良かったのかと不安になった里美は、微妙な表情でアリスに向かってうなずく。


「あ、あの……朱音もいるんですけど……」


 勝手に話が進むのを我慢できなくなった彼女が、通話アプリ越しにつぶやいた。


次回、「両側からの幸福締め」

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