ロング・タイム・フレンズ

サトウタツ

第1話 ヘイ・ナインティーン

 1981年は僕が19歳になる年で、高校を卒業して大学に入学した年であった。 地獄のような男子校生活からようやく抜け出して、女子学生溢れる憧れのキャンパスライフを想像しながら、解放感と明日への希望に満ち溢れて春を迎えていた。


 僕の名前は、井沢達也。

 学生時代までは京王線の高幡不動駅から歩いて15分程の所に住んでいた。

 僕は高校時代、まだ反抗期であったし、何一つ楽しみが無い男子校生活にも疲れ果てていて、毎日、帰宅しても家族と話すことが億劫になっていた。また、家族と一緒に過ごすこと自体、ダサいとも思っていた。だから家に帰ると、ご飯を食べる時以外は自分の部屋に閉じこもり、ラジオの洋楽番組ばかり聴いていた。

 とは言うものの、そもそも僕は自分で希望して男子校を選んだのだった。何故なら中学時代の僕は、とにかく女子のことを「うっとおしい」と思っていたのだ。

 

 キッカケは僕が中学1年の時、バレンタインデーに、ある女子生徒からチョコレートをもらった時であった。まだ当時はバレンタインデー自体もそんなに盛り上がってはおらず、田舎の、まだ声変わりはおろか下の毛も生えていないような中一の男子は、誰も「バレンタインデー」など意識していなかった。

 その日、授業が終わり、机の中の教科書をカバンにしまおうとした時、突然僕の机の中から可愛らしい封筒が床に落ちたのだ。それをそばにいた悪友の村山一(はじめ)が拾ってしまった。

 「あれ?なんだこれ?」

 村山は、封筒の中から不二家のハートチョコレートと一緒に入っていた手紙を取り出して、面白がって大声で読み上げ始めてしまい、たちまち教室内が大騒ぎになってしまったのだ。

 僕にそのチョコレートをくれた女子生徒は、泣きながら教室を飛び出してしまい、僕と村山は他の女子生徒たちに取り囲まれ、「井沢酷いよ!」、「村山サイテー!」などと総攻撃を受け、最後には廊下の隅っこで泣いている女子生徒の所に連れていかれ、土下座させられた。田村めぐみというその女子生徒は、地味でおとなしく、美人でもブスでもない極めて普通の子で、僕は一度も話しをしたことがない子であった。

 そしてそれ以降、しばらくの間、僕らは女子から「サイテー男」のレッテルを貼られ、クラスの女子から無視された。


 中二になるとクラス替えで、何人かは同じクラスになったが、ほとんどの生徒は代わってしまい、「バレンタイン事件」も自然に忘れられていった。

 梅雨を迎える頃、佐竹由紀子という子が、僕に近づいて来るようになった。登下校時や休憩時間になると、彼女はニコニコしながら親しげに僕の所へ来て、前日に観たテレビ番組の話とか、つまらない世間話をするようになった。由紀子は目がくりっとして、りんごのような赤いホッペをした丸顔の可愛らしい女の子て、小柄でちょっとぽっちゃりしていた。明るくて楽しい子だったが、僕が恋愛感情を持つような子ではなかった。

 秋も終わりに近づき寒くなり始めた頃、授業が終わり、僕は帰ろうとして下駄箱の所で靴を履き替えていた。すると、彼女が一人で僕の所に近づいて来て、周りに気付かれないように「帰ったら読んで…」と僕に手紙を渡して走り去って行った。

 僕はイヤな予感がしつつ、家に帰ってから手紙を読んだ。

 内容はよく覚えていないが、要はラブレターであった。

 僕は一気に気が重くなった。明日どういう顔をして彼女に会えばいいのか、わからなくなってしまったのだ。そして、その気持ちのまま朝を迎えてしまった。学校を休んでしまおうかとも思った。しかし、その理由をどうするかでまた悩んだ。そんな気持ちのまま支度をし、家を出て、ずーっと何かいい方法はないか…と考えながら歩いていると、気が付けばもう学校の前だった。

 僕は観念して教室に入った。ちらっと彼女の席の方を見ると、彼女はもう席に座っていた。僕は彼女と目を合わせることが出来ず、逃げるように自分の席に座った。そして何も無かったように、友人たちとふざけ合っているうちに、一時間目の男性教師がやって来て、授業が始まった。

 授業が始まってしばらくすると、彼女は突然シクシクと泣き出した。周りの女子たちが「由紀子、どうしたの?」と声を掛けたが、彼女は何も答えられず、しばらく震えながら泣くばかりであった。先生も気付いて「おい、佐竹、どうした〜?大丈夫か〜?」と声を掛けた。彼女は何とか震える声で「大丈夫です…」と答えた。先生は心配そうな顔をしていたが、由紀子の雰囲気から体調の問題ではないと判断して、それ以上は何も言わなかった。

 彼女はその後泣くことは無かったが、その日を境に、僕は彼女と目を合わせる事さえ出来なくなった。彼女も僕のところには来なくなった。

 毎日同じ教室にいるのに、意識して関わらないようにするということは、本当に苦痛であった。おそらく彼女は僕以上に苦痛であり、辛かったのだろうと思う。しかし当時の僕は、彼女に対してどう対応したらいいのか全くわからなかったのだ。そして、彼女から逃げることしか出来なかった。

 あーもう面倒くさい…としか思えなかった。


 そして得た結論が、「高校は絶対男子校に行こう。」だった。


 ちなみに僕は、けしてモテる男ではなかった。中一の時から何人かイイなと思う子はいたが、僕はどの子にも全く相手にされなかった。高望みしすぎ…と言われればそうかもしれない。それにしても、こちらから告白してみようか…という気にもならないくらい、好きな子には相手にされなかった。自分にも自信が無かった。ルックスは鼻が高いことと、目が大きめなので、よく外人とかハーフとか言われるが、背も低い方だし、髪も天パーで、頭も、運動も中の上。要は何でも中途半端な男だった。

 そんな僕だから、これといった特技も無く、将来何になりたい…というような志も無く、故に親や教師からそういった類の話をされることが一番嫌であった。

 それは周りに対しての苛立ちというよりも、何でも中途半端な自分自身に対しての苛立ちだった。かといって、どうすれば中途半端な自分を変えられるのかも分からず、とりあえず大学は出ておいた方がいいだろう…、ということだけを漠然と考えていた。

 そう、とりあえず、だ。

 僕が出す結論は、いつもアタマに「とりあえず」が付いた。とりあえず勉強は嫌いだったので、高校は大学の付属校に入ろうと決めた。もちろん男子校で。親も僕が勉強嫌いであることは重々承知していたので、都立高に入れとは最初から言わなかった。そして、一流校ではないが、僕は大学の付属高校に進んだ。勿論男子校の。


 ところが、高校生活が始まって一か月も経たないうちに、僕はすっかり男子校生活が嫌になってしまった。

 まず臭いのだ。何のニオイなのかわからないが、とにかく校内が臭い。汗びっしょりの体操着を洗濯もせず、そのまま教室のロッカーに入れっぱなしにして、斑点のような黒カビが生えているにもかかわらず、またそれを着て授業に出る…そんな蛆虫のような奴らの何とも言えない酸っぱいニオイ。そして、それをごまかす為か、香水の匂いがキツイ奴もたくさんいれば、足が臭い奴らもたくさんいる。僕もそうだが、時には「すかしっ屁」をこく奴らだってたくさんいただろう。机の上に突っ伏して、大量のヨダレを流して寝ている奴もいる。それらのニオイがブレンドされて、学校全体が何とも言えない異臭を放っていた。


 授業では、何故か体育とは別に、柔道か剣道のいずれかを必須科目として選択しなければならなかった。僕にとってこれは究極の選択だった。

 柔道は、何で汗だくの男同士で抱き合わなきゃならないのか理解出来なかったし、剣道も防具やお面は学校の備品を使用する為、そのニオイがハンパてはなかった。特に面を着けるのは絶対に受け入れられなかった。僕は悩んだ末に、柔道を選択した。何故なら柔道で相手と抱き合うのは、まだ自分の努力、つまり自分から積極的に相手に投げてもらうなどして、できるだけ早く負けてしまえば、悪臭被害を最小限にすることが出来る。剣道の防具は装着しないわけにはいかない、つまり自分では防ぎようがないのだ。

 しかし、実際には柔道でも、すぐに自ら負けてしまう僕は「不真面目だ!」と、キツネ顔の意地悪な柔道教師から目をつけられてしまい、放課後の居残り練習や、四百メートルトラックのグランド10周とか、腕立て50回とか、挙げ句の果てには、絞め技で落とされたり…と、今で言うパワハラ三昧やりたい放題でいじめられた。


 そしてやっぱり、男子校はつまらない。女子がいないとやっぱりつまらないのだ。部活も中学で三年間やっていたバレーボール部に入ってみたが、当たり前のことだが体育館のどこにも女子がいない。野郎共に声援を送られても、何だかむなしいだけであった。そんな中で、たいして上手くもない先輩にしごかれ、こき使われるだけの練習などすぐに嫌気がさして一週間で辞めてしまった。

 それでも、中途半端な僕は学校を辞めるような度胸も無く、「大学は絶対女子の多い学部を選ぶぞ!」というショウもない決意を固め、大嫌いな柔道の授業も、極力相手との組み手時間を短縮すべく、自ら直ぐ倒れて抑え込まれ、即ギブアップしてやり過ごし、パワハラ教師のいじめもなんとか三年間耐え抜いたのだ。


 大学の付属校とはいえ、全生徒が無条件に大学に上がれるわけではなく、一応入学試験はあった。一般の入試ほど難しくはないが、全国にいくつかある付属校の生徒を対象にした入学試験と内申による審査があり、各学部ごとの合格ラインが決められていた。当時僕がいた高校では、付属の大学に進めるのは学年全体の三分の一くらいであった。僕の勉強嫌いは相変わらずではあったが、「ショウもない決意」がバネとなって、僕は何とか合格ラインをクリアすることができた。


 そうして迎えた1981年春。

 はっきりとは覚えていないのだが、僕の高校はたしか1月中には付属の大学進学が決まり、2月は外部の大学を一般で受験する生徒も多いことから、2月以降は3月の卒業式まで、ほとんど学校の授業は無かったと思う。

 僕は文学部の社会学科に進学することになった。勿論文学部を選んだ理由は他の学部より「女子が多かった」からだ。

 大学入学までの期間を利用して、僕はアルバイトをすることにした。これからはオシャレもしなきゃいけないし、クルマの免許も取りたいと思っていた。その為の資金を準備しておきたかった。

 アルバイトは高校一年の夏休み、ギターを買うために写真屋で受付のバイトをやった時以来だった。


 大学合格が決まった日の学校帰りに、僕は、たまたま地元にあるスーパーで「アルバイト募集」の張り紙を見掛け、そのまま店の採用担当者に話を聞きに行ったら即採用となった。仕事はグロッサリー(加工食品)、つまり乾物や缶詰、調味料、飲料、菓子などの品出しだった。給料は決して高くは無かったが、スーパーは駅の目の前にあり、自宅からも近く、大学に入学してからも学校帰りに寄りやすいのでアルバイトを続けやすいと思った。

 僕の面接をしてくれたのは五十嵐さんという店次長さんで、小太りで禿げ頭だが、ちょっとお洒落な黒縁眼鏡を掛けた40歳くらいの気さくなおじさんだった。五十嵐次長は、偶然にも僕が入学する大学のOBだった。次長から「いつから来れるか?」と聞かれ、僕は「今日からでも大丈夫です。」と答えた。

 面接の後、五十嵐次長と一緒にグロッサリー部門の事務所へ行き、まず三人の男性社員に紹介された。社員は、スマートな長身で角刈りのスポーツマンタイプに見える大山チーフ、同じく長身で細身のキッチリ七三分けで真面目そうな岩本さん、小柄で人懐こそうな小野寺昭(当時の人気刑事ドラマで「殿下」と呼ばれた刑事役)似の上野さん。そして売場で品出しをしていた大学生アルバイトの先輩イケメン斎藤さんに紹介され、早速その日から斎藤さんに付いて、仕事を手伝いながら覚えていくことになった。斎藤さんはエリック・カルメンみたいなカーリーヘアのスマートなイケメンで、地元にある大学の三年生。アルバイト三年目で発注まで任されているほど社員からも信頼され、仕事ができる人だった。就職活動の為、4月には辞めてしまうとのことだったが、責任感があり僕にも親切にいろいろ教えてくれた。


 家に帰ると、親父から「大学入学祝いに、たまには欲しいものを買ってやる。」と言われた。

 僕はそれまで自分から、親に何かをおねだりしたりすることも全く無かった。別に家が貧乏だったということではないし、「自分の物は自分で買う」などと粋がっていたわけでもない。最低限の小遣いやお年玉くらいはもらっていたが、誕生日のプレゼントも小学校までで、中学に入ってからは何故か家族と一緒に出掛けて、何か買ってもらったりすることが恥ずかしいと思うようになり、洋服もボロボロになって、母親に「いい加減買いなさい」と言われるまで、自分から買ってほしいと頼んだことも無かった。親父も「こいつは変わり者だから…」という感じだった。

 そんな僕が、急に親父から入学祝いで欲しいものがあれば買ってやると言われたのだ。僕は大学進学決定と同時にアルバイトも決まり、特に何の根拠もないのに何故か今までとは違う、自分にとって明るい未来が見え始めているような気になっていた。    

 僕は、親父に「じゃあ、オーディオコンポが欲しい…」と言った。


 僕は小学5年生の頃、テレビで当時来日したカーペンターズの武道館でのライブを見て衝撃を受けて以来、親父がたまたまゴルフコンペの賞品でもらったラジオで洋楽のポップス番組やFEN(米軍向け放送)ばかり聴くようになり、お小遣いを貯めてはカーペンターズやイーグルス、ビー・ジーズなどのレコードを買っていた。

 高校の友人でベンチャーズの大ファンであった皆藤和彦、通称カイヤンの家には立派なオーディオコンポがあって、僕は学校帰りに彼の家に寄って、いろいろなレコードを聴かせてもらうのが好きだった。カイヤンには三歳上のお兄さんがいて、洋楽のアルバムをたくさん持っていた。彼の家で聴くイーグルスと我が家の古いステレオで聴くイーグルスは、全く別のバンドのように聴こえた。

 親父はパイオニアの並クラスのコンボを買ってくれた。親父自身はどうせ買うなら、最上級クラスがいい…と言っていたのだが、僕は、たかが付属高校から一流でもない上の大学への入学祝いで、必要以上に分不相応な高級品を買ってもらうのはこっぱずかしいと思ったのだ。おそらく僕は、なんでも中途半端な方が落ち着くのだ。それに並でも当時の最新機種であり、音質も僕にとっては十分過ぎるくらい良かった。

 僕はそのコンボで、僕が当時持っていたレコードの中で一番いい音だと思っていた、スティーリー・ダンの最新アルバム「Gaucho」を聴いてみた。

 一曲目のバビロン・シスターズが始まると、バーナード・パーディーのタメの効いたドラム、チャック・レイニーのベース、エレピだけのイントロから、今まで聴いていたサウンドとは全く別のものに聴こえた。彼らの、ハイレベルで洗練されたオシャレなサウンドが、よりクリアに聴こえてきて、これからの自分の明るい未来を祝福してくれているような気持ちになった。


 「19歳のキミとじゃ

 一緒に踊ることもできないし

 話だって合わないだろうナ

 けど街へ出かけるときは

 誘ってくれよ…」


 歌詞の意味は勿論よく分かっていなかったが、ドナルド・フェイゲンが「Hey Nineteen」で意地悪そうに歌う「19歳のキミじゃ一緒には踊れないな」というフレーズが、調子に乗り始めている僕に、「まだまだお前は何もわかっちゃいねぇよ」と言っているように聞こえた…

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