第33話 人生最大の驚きとバスタブ
アンとアイリスの背筋に、冷たいものが流れる。
誤差・・・・・・ それがこれからどんなトラブルを? 想像なんてできない。
「ちょっと、サンジェルマン伯爵。誤差がどうこうって。それだけで済まさないでよ!」
二年ずれたことで、マリー・アントワネットの奪還に支障が出るだろうか?
今まではトラブルになっていない。というか、感じていない。
でもこれからは、想像しないような何かを引き起こすのかもしれない。
そして二十一世紀に戻るときにも誤差が出るとしたら、超大問題だ!
「タイムスリップの誤差はどんな問題を引き起こすのよ?」 アンが詰め寄る。
「私が不老だという噂を 二十一世紀でも聞いたとおっしゃいましたよね」
「ええ、本でもネットでも見かけたわよ。神出鬼没とか、不老不死とか。ネットはあなた、知らないでしょうけれど」 1980年代の人間にネットはわからない。嫌味も込めてアイリスが言う。
「不老というのは、私自身が何度もタイムスリップしているからなのですよ」
「ええっ?」
先ほどから何度目の、驚愕だろう。ちょっとまとめないと整理がつかない。
✔ サンジェルマン伯爵が1980年代からタイムスリップしていた
✔ マリア・テレジアのタイムスリップ能力は誤差がある
✔ サンジェルマン伯爵は複数回のタイムスリップをしている
数えたら3つ。でもそれぞれ、超大型の驚きじゃない?
そもそも、自分たちがタイムスリップしたことだって、人生最大の驚きなんだから。
「二十世紀と十八世紀を行ったり来たりしたってこと?」
自由に行き来している人間がこの世に存在する? そんなことが!
「さよう。一度目はルイ十五世の時代。マリー・アントワネットをポリニャック伯爵夫人から引きはがすどころか、居ないんですからね」
それは確かに大変。やる気満々でも、相手がいないんじゃね。そんな時、自分だったらどうするかしら?
「私もどうしたらいいのか苦しみましてね。しばらくはルイ十五世のお相手をしたりしていたのですが」
悩んでないで、さっさと帰ればいいじゃないの。変にルイ十五世に近づいて、さらに気に入られたりするからダメなのよ。
※ サンジェルマン伯爵がルイ十五世に気に入られたのは事実です。お城までちゃっかり?もらっていました。
「そのうち、マリア・テレジアと連絡を取り、戻してもらったのです。そのあと舞い戻ってきたわけですな。だから不老と言われるのですよ」
そうか、さっきのアイリスの推理(31話)だと不老の説明がうまくつけられないが、こちらなら説明がつく。
1740年と1780年に2回タイムスリップしたとなれば、40年の差があっても容姿に変化がなく不老に見える。
でも、そんなことって―――――聞いても信じられないわよ――
「アイリス、今日って人生最高の驚きばっかりじゃない?」アンは隣のアイリスにすがる。
「ええ。頭の中の整理が追いつかないわ」冷静なアイリスでも、情報処理が追い付かない。
「いやいや、こんなものではありませんぞ。まだお伝えしたいことが……」
――と、
サンジェルマン伯爵が言い終わらないうちにノックの音が聞こえ、エメ男爵夫人が入ってきたのだ。返事をしていないのに。小間使いを連れず、ひとりでテーブルに向かってくる。
三人の会話は終わりになった。エメ男爵夫人に聞かせていい話じゃないし。全くタイミングが悪い。
彼女が持つ銀色のトレイに焼き菓子が載っている。この時代であれば、本物の銀製だろう。
「さあさあ、エメ家特製のマドレーヌですわ」
彼女は、コンマ数秒の刻みで三人の顔をかわるがわる見る。サンジェルマン伯爵とアンとアイリスの会話がどんなものだったのか、表情で読もうしているのがわかる。
「お話の途中だったかしら?ごめんなさいね」
「いいえ、構いませんよ。話は終わりましたからな」 サンジェルマン伯爵はごく普通に返す。
「やはり私も一緒に伺った方がいいかしらと思いまして。だってほら、私がお誘いしたわけですもの」
言い訳しながら、次々言葉を紡ぐ。
「お二方は化粧水とクリームを分けてくださるそうですよ」
勝手にサンジェルマン伯爵が、マドレーヌをサーブする彼女に言う。渡すなんてこっちは言ってないのに。
「あらあ、嬉しいわ。ありがとう。じゃあ、またあとでシャルロットをそちらにやるわね」
エメ男爵夫人は顔をほころばせる。自分だけがのけ者になった不安と後悔を消し飛ばしたようだ。
アンとアイリスは勝手に答えるサンジェルマン伯爵に呆れた。でもそれほど問題だとは思っていない。
どうせオーケーするつもりだったから。もともとポリニャック伯爵夫人との会食と引き換えなら、数ドル程度のコスメなんて痛くも痒くもないのだ。
でも、まだ手に入れたいものがたくさんある。ここはさらに条件を増やした方がいい。
アンがにっこり微笑みかける。
「エメ男爵夫人、化粧水とクリームは差し上げますわ。でもポリニャック伯爵夫人との会食以外にも、お願いがあるのですけれど聞いていただけます?」
「出来ることならなんでもいいわよ」
「バスタブが欲しいんです、私達」
「バスタブ?」 怪訝そうな顔だ。
「ええ、バスタブです。あと、水を分けていただきたいの。それとキッチン。お湯を作りたいので」
「バスタブなら、使ってないものがあるから差し上げるわ。あと水はないとお困りになるわよね? 毎朝、水売りがくるからそちらにもよこすわ」
エメ男爵夫人は気を利かせてくれた。ラッキー!! これ大事なんだから。
「キッチンはどうでしょうか?」
「キッチンねえ。食事のことでしょう? あなたたちのアパルトマンにはキッチンがないのよね?」
「そうなんです、キッチン無しではいろいろ辛くて」
「じゃあ、シャルロットのアパルトマンのキッチンを借りたらいいんじゃないかしら?」
相変わらず、自分の手を汚すことなく、面倒なことは他人任せの女だ。でも助かる。すごく助かる。
エメ男爵夫人にとって、二十一世紀では数ドル程度の化粧水とクリームは、バーキン以上の価値を持つのだろう。でも、二十一世紀からタイムスリップしてきたハリウッド女優からすると、バスタブと水のほうがバーキンだったのだ。
---------あとがき
当時のヴェルサイユ宮殿はルイ14世時代の水道が老朽化して、綺麗な水を手に入れることが大変だったそうです。そして入浴の習慣はアントワネットなどのごく一部だけしか持っていませんでした。
それでは困る、そして我慢できないハリウッド女優たちはバスタブと水を追加条件で出しているのですね。
そしてキッチンも同様です。ヴェルサイユ宮殿には当時1000人以上の人が住んでいたとされますが、アパルトマンすべてにキッチンはありませんでした。
恐ろしいことにかまどを部屋の外に置いたりもしていたらしいです。部屋の外、というのはベランダではなく、ヴェルサイユ宮殿の廊下です。「え!そんなのあり?」と誰でも思いますが、あり、というか、そうなってしまっていたようです。
『ヴェルサイユ宮殿に暮らす』ウィリアム・リッチ・ニュートン著 より
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