第3話 奴隷の選択

廊下を抜け、中庭を通ると体育館前のコンクリートでできた階段に座り込む永井さんがいた。懐からタバコを取り出すとくわえ、火をつけようとしていた。

真面目な人がタバコを吸っていたことに少し残念な気持ちになったが、タバコを吸う姿はとてつもなく似合っていた。

空に向かって煙を吐き出す。立ち尽くしていた僕に向かって手招きをしていた。

「ごめん、臭いね」

「いえ、大丈夫ですよ」

もう少しタバコを吸っているのを見ていたかった。

「……昔はよく吸っていたけど、結婚して子供生まれてからはやめてね。また、吸い始めた。」

永井さんの口からは聴きたくなかった重い音だった。いつもの頼もしさがどこにもない。

返す言葉が見つからなかった。

「子供のころは研究者になるのが夢だった。休み時間は外で遊んでいるよりも、中で本を読んでいるのが好きな子供だった。友達もいなかった。よくいじめられた。それがつらいと思ったことはなかった。本を読めば幸せな気持ちになれたから。高校生の頃、親に初めて研究者になるために東京の大学に行きたいと伝えた。そんな余裕はないから働きなさいと言われた。否定されるのがこんなにつらいと初めて知った。働きながら自然と東京に行ける方法を考えた。考えた末、警察官になった。公務員だから親は否定しなかった。悪い奴らをいっぱい捕まえて、昇級して、東京で働くようになった。いろんな研究室をうかがうようになった。研究室で妻と出会った。人の温かさを知った。子供が生まれた。三年後、事故で二人とも死んだ。何かを知りたいという好奇心は自分を傷つける凶器だと分かった。それから研究室にはいかなくなった。つまらない大人になった。そんなとき部下ができた。傷つくことを知らない青い少年だった」

白い煙は上へと昇り、黒く重い言葉が落ちていく。

「部下には婚約者がいた。そんなとき婚約者がウイルスに感染した。一命をとりとめ、回復した。その二年後、結婚した。のろけ話をよく聞いた。二年後、退化種が発生した。妻がいた研究室から電話がかかってきた。人が足りないから手伝ってほしいと言われた。自分を傷つけると知っていても欲には勝てなかった。その日々はとても楽しかった。妻がいた時以来だ。ある日、部下の様子を見に家を訪れた。退化種と一緒にご飯を食べていた。食べ物を食べるのは難しく、口から食べ物をこぼしていた。それを見ると部下は口をハンカチで拭き、食べさせていた。その光景は人間のカップルからは程遠いものだった。部下のために、退化種となった婚約者を殺した。あの時の光景は今でも覚えている。部下を連れ、研究室に戻った。もう誰も生きていなかった」

 一度漏れ出た心は止まることを知らず、流れてゆくばかりだった。

「私が生きているせいで周りの人が不幸になるのではないかと脳裏によぎった。死のうと思った。死ねなかった。覚悟がなかった。ここまで無様に生き残った。寝ると走馬灯が見えてくる。そのたびにどこで人生を選び間違えたか考える。親のいうとおりにしていれば。事故の時、一緒にいれば。私がしっかりしていないから、三河は弱い人間になったのではないかって」

「間違えてないですよ。永井さんがいなければ、僕は死んでいましたから」

曇った空から、一筋の光が差し込んだ。

 永井さんが顔を上げた。

その顔は、人間にしてはとても不細工だった。

「君は、私が拾った救世主。なら、助けてくれよ。 ……私を」

光につられるように僕の腕を激しくつかみ、その場で泣き崩れた。

タバコは口から飛んでいき、地面につく頃には火も消えていた。

僕はこぼれ落ちていく体を止めるように抱きしめた。

「助けることはできなくても、全力で守って見せます」

 どうしようもない雑な言葉をかけてしまった。

 僕の気持ちのすべてをぶつけたつもりだが、感情が空回りしてしまった。

「年下に守ってもらうとは気がめいっていたよ。おかげで目が覚めたよ。ありがとう」

抱きしめた体から安堵の笑顔が見えた。

正気に戻ったのか、仮面をかぶったのかはわからない。

それでも、頼れる永井さんが戻ってきた。

本当でも偽りでも嬉しかった。

体を払いのけ、燃えカスとなったタバコを拾う。

「最後の一本だったのにもったいない」

大きな独り言をすると、ポケットにしまった。

「奏斗君は若いころの私に似ている。何かを知りたいという好奇心に任せて、荒れた海を突き進んでいたころにね。世界の謎は知られないように呪いがかけられるのかもしれない。私が呪いに気づく前に、周りの人間は呪われていったよ。私は呪われている。手も足も別人になってしまった。奏斗君は道を選び間違えないで欲しい。そして、狂い続けた私の人生の答えを教えてくれ」

想いのこもった言葉が胸を熱くさせた。

力んだ拳とどぎつい睨みをほぐし、心から距離を置いて、熱を冷ます。

身勝手な言葉が欲しいわけではなく、死んでもいい許可が欲しいのが分かった。

呪われた体を脱ぎ捨てて、あの世に行きたい。

だから、この人は僕を助けた。次に呪いの生贄となるべき僕を。

それが分かった瞬間、心が凍り付くほどに熱を失った。

ぶり返すようにまた熱くなった。

考えることを放棄している。あまりにも無責任すぎる。

何か違う感情が僕のスイッチを入れた。

「僕は永井さんの救世主ではありません。だから、あなたを生かすことも殺すこともしません。死にたければ勝手に死んでください。僕は自分のために真実を知る。生きる。ここで永井さんから情報を得てからは好きにしてください」

相手が無責任なら、僕も無責任にする。

「何かにすがりたかったのかもしれない……。君が最初に言った言葉に答えるよ。私はもう楽しくなんかない。もうあの世に行きたい。三河たちは私とは違い行きたいと願う人間だ。だから、最後の務めとして生きるために頑張った。けど、もう限界だ……、 死にたい……。 出来れば、私の人生が間違いじゃなかったために答えが知りたいだけだ……」

嘆き、苦しみ、階段に座り込んだ。

感情が揺れあった弾みで人間の心にひびが入ったが、助けるつもりはない。

「奏斗君、君には何が見える?」

先の見えない質問だった。また、意味が深めな言葉を投げかけてきやがった。

残念ながら答えが見えてこない。

「えっ 何がって……、 何ですか?」

「私は、昨日の出来事が気にかかっていた。どうして屋上にいた君たちのほうが先に退化種を見つけたのか」

 周りが見えているような冷静な声だった。

「外階段の存在にも気づかなかった奴らがどうして来たのか不思議だった。さらには、より近くにいた私たちではなくより高い階層のほうに行った。腹が減っているだけだったら、私たちを襲ってくるのが自然なはずなのに」

 今日になって一番冷静な永井さんだった。

 僕が退化種か人間かの話よりもよっぽど大事な話だと思う。

 どうしてあの時、議題として挙げなかったのか。僕のためなのか、それ以外のためなのか。

おそらく後者のほうだろう。

「相手を選別するほどの理性があったということですか?」

「それも考えられるが、私たちが建物に入る時、すべての部屋を隅々まで調べたが退化種はいなかった。偶然、君たちのほうに出くわしてしまったのもない。研究で彼らの嗅覚や視覚は人間の比にならないほど優れている。その証拠に玄関に退化種が密集していた。最短距離で接近しようとするため、遠回りになる外階段を使うこともないだろう」

「なら、発症する前の人間が外階段を使い、建物の中で発症したとかはどうですか?」

「人間なら退化種がいる建物に立ち寄らないと思うし、退化種なら階段を選べないと思う」

最後に一つ考えたくなかった方法があった。

「あの日……、ここにいない人が退化種になった」

 言葉にするのを少しためらった。

「それしかないと思う。奏斗君たちがあったのは見張りをしていた吉平君だと思う。時間的に一番可能性が高い」

 すべてを知っているかのような素振りだった。

「たとえその筋があっていたとしても、外階段にいた退化種はどう説明するのですか」

仲間を殺したことを罪と思うよりも先に言葉が出た。

「それは分からない。けれど他の推論よりも有力であるのは間違いない」

「……どうして」

生ぬるい風が吹き込み、鳥肌がきめ細かく立った。

「過去の話に戻るが、私が研究室の手伝いをしていた頃、人間の細胞を繁殖させる研究をしていた。これが成功すれば、身長を好きに変えたり、失った臓器を作り出せたりできる夢のある研究だった。私が研究室を離れる少し前、室長が海外に移動になった。誰もその行き先を知らなかった。子供が生まれてすぐの頃だった。室長から電話がかかってきた」

僕が知りたい話だとすぐに分かった。鳥肌が気にならなくなるほど話に没頭する。

「海外の研究室での話だった。そこでも同じ人間の細胞に対する研究だった。厳選された各国の研究員がいた。室長が担当した研究は高熱に耐えることができる人間の作成だった。その研究では、マウスだけでなく子供を使った人体実験まで行われていた。他の研究員は人体実験が行われていることに異議を唱えなかった。私利私欲のために子供を利用し、殺され続けた。ある日、研究室のリーダーに抗議した。彼は人間の倫理が崩壊した答えをした。そこからは気が滅入るまで研究室を調べた。世界の資源と金がつぎ込まれた研究室で、世界にいくつかあるらしい。それらの研究室はある計画をもとに研究をしているらしい……」


「人間再構築計画。 通称 リヒト計画」


「人工的に人間という存在を凌駕する人間を作る計画だった。ある研究室では、人間の力でバイオテロを起こす研究をしているところもあったらしい。それを伝えると私たちの身の回りの話に変わった。誰が結婚したとか、離婚したとか。どうして私に伝えたのかを聞いたら、研究のトップがこんなことをしているのを研究員たちに伝えたくなかった。けれど、誰かに伝えなければならない。その適任が私だった。そこで会話が切れたよ」

 目に見えない大きな物体が地球を包み込んでいる感じがした。

「この事実を世論に公表しようと思ったが、オカルト話として流されるのが関の山。妻のことも考えて、この話は自分だけとしまっておいた。」

 日常から逸脱した物語はフィクションとして洗い流される。

 室長の行方は教えてくれなかったが、大きな組織を逆らった人間だ。もうこの世にいないと考えるべきだ。

「それが本当に存在すると分かったのは、研究室が襲われたことで分かった。いろんな死体が転がっていたが、妙な死体を見つけた。銃で撃ち殺された死体だ。銃を持っていたのは私だけだ。仮に誰かが持っていたとしても、仲間を殺すほどの精神を持ち合わせていない。誰かが研究室に入り込み、殺したのが自然だ。死体と研究員の数があっていなかった。今もどこかで生きているのかもしれない。姿は違うかもしれないが。」

 口の中が干上がってきた。唾液がうまく出来ない。

「ここまで知り得た情報と事実から考えると、人間の力でバイオテロ起こす研究は完成したと考えていい。退化種が五年前のパンデミックと関係することから考えて、五年前には研究は完成していた」

 全身が細胞単位で熱を持つ。

 これが事実なら、この五年間人の手によって大量殺人が繰り返されることになる。

 限界を迎え、二〇二五年に人類絶滅の危機までに強いられている。

「そこで、奏斗君に聞きたいことが一つある」

 肌から熱があふれ出る。

「感染症対策機構防衛課は何から何を守っている?」

「敵は一体誰だ? 人間か、 退化種か」

 身を半分に切る言葉が飛んできた。

 確かに、防衛するという言葉は戦争とかで使うイメージがある。

 自分自身が今までどんな仕事をしていたか覚えていない。

この仕事も研究室と同じように裏社会の組織なのか?

「わかりません。けれど、僕は大切なものを守りたいとは思っています」

 何も知らない自分が流れ出した言葉は、非情で無責任だった。

「感染症対策機構が人類の希望か、絶望かはわからない。私は希望だと信じている。いや、信じなければならない。君たちが守ってきたものが人類を救う、最後の希望となるだろう」

こちらに近づき、肩を優しくたたいた。

「奏斗君、後は頼んだ」

 銃声が響き渡った。

 鳥肌が立つと同時に振り向くと退化種が転がっていた。

「もう居場所がばれてしまった。研究室と私たちを襲った連中だろう。彼らも何かを探している。早く、地下シェルターへ」

 体を倒す力で背中を押された。

 あたりを見渡すと退化種がいくつか目に入った。

 近くの敵から順番に永井さんが銃を打ち込む。

 一人の退化種が目に入った。

 人間のようなきれいな二足歩行で、服も真新しい。おまけに僕と同じ宝石のような緑色の眼をしている。

 砂漠の中に一本の大樹がずっしりと突っ立っているようだった。

 注目が持っていかれたが、一心不乱に走った。

 建物の中に体全身が入った時、入ったドアが人間の手で閉まった。

 ドアを開けようとしたが、人の力によって開けることができない。

 拳で強くたたきつける。

「永井さん、 永井さん、 開けてください」

「生まれた時から、不自由だったのかもしれない。だから、こんな人生だった」

 吹っ切れた声で弱く語る。

「そんなこと言ってないで、早く」

 さっきまで死んでもいいって言っていたのに、心は死ぬことを許さない。

自分がわがままだと知った。

「奏斗君、真実を見つけてくれ。 お前に会えたおかげで、少しは報われた気がしたよ」

 銃声が鳴ったと同時に、ドアのすりガラスが赤く染まった。

 目から水が流れた。

涙だ。

 皮膚を伝い、口の中に入ったが、味はしなかった。

 心が搾り取られるように苦しい。

 大切なものを失うのはこういうことだろう、きっと。

 壊れたおもちゃのようにドアをたたいても、声は帰ってこない。

ただ、その場にうずくまってしまった。

 ここにいれば誰かが迎えに来てくれるとは思っていない。

 虚しさが冷たくのしかかってくる。

 口が虚しさで詰まって息ができない。意識が遠くなっていく……。

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