第五章 「天狗翁」
部屋の辺りを見渡す。
ヤツがいない。いつからだ。
あの居酒屋から私と織田と共に天狗山に来たはずの‘‘小笠‘‘がいない。
「あの山がどうしたってんだい」などといつも変わった口調で、
最初に織田の話に食いつき、
ここまでのタクシー代も払ってくれた小笠が今この部屋にいない。
思い返せば3年前、夜中に天狗山へ来たのは私と織田の二人だけではないか。
大学のサークルにも小笠というヤツなどいなかった。
最初からそんなヤツは知り合いじゃない。
今にもワンピースを着た女性が振り返りそうだ。
理解がおいつかず、言葉にならない恐怖で体も動かない。
そして女性がこちらを見た。
真っ赤な天狗のお面をつけている。
そのお面は顔こそ天狗だが、表情は翁のように柔らかい笑みを浮かべていた。
すると蝋燭の明かりがフッと消えた。
部屋は闇に包まれる。
暗闇の中から楽しそうな女性の声が聞こえる。
「ふふっ。今宵は愉快この上なし。これにて終演。」
*
それから何も聞こえなくなった。
ただただ、シーンと沈黙が滞る。
風のようなものが頬をかすめる。
暗闇に目が慣れていき、徐々に周りが見えた。
私たちは天狗山のもう一つの入口ではく、整備された道に座っていた。
横には笑った赤い天狗のお面が落ちている。
こんなもの見たことない。
すると織田が座ったまま話しかけてきた。
「はて?ここで何をしていたんだっけか。」
私も思い出せない。
ただなんとなく怖い思いをした気がしている。
何かに化かされたような。
私はまた落ちているお面を見た。
天狗…?
「さぁ、」
ぼーっとしながら答える。
辺りは少しづつ明るくなってきている。
何か分からないが帰ることにした。
タクシーを拾い、帰路につく。
一本道にさしかかると窓の外であの山が見える。
なんだか山が笑っているような気がした。
*
今夜もまた一段と冷える。
私と織田は焼鳥をつまみに、麦酒を飲みながらまた他愛もない話をしていた。
「なぁ、ちょいと聞いておくれよ。」
織田がまた変な話をはじめた。
「なんだ?」
「隣町に天狗山という山があるだろう?」
「確かにあるがあの山がどうした?」
「あの山には昔から天狗が住んでいるって話を聞いてな。
しかし、どうも神話にでてくる天狗とは違っていてその天狗は人を攫うのではなく、
狐のように化けて人を驚かすのが好きらしい。まぁ、天狗からしたらただのお遊びに過ぎないが。」
「なんだその陽気な天狗は。
そんな天狗がいたら、会って熱々のおでんでも囲んで熱燗を呑みながら
いろんな話を聞いてみたいもんだな。」
私は鼻で笑いながら言った。
「長い間、山に一人で籠っていれば暇だろうしな。
友達でも欲しいんじゃないか?」
「んなわけあるか」
織田の話はだいたい信憑性に欠けるが、こういったくだらないのもたまにあり
私はそれが案外好きだったりするのだ。
完
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