第4話

今日は8時45分から、1時間目の授業が始まる。アオイはゆっくり寝られてうらやましい。月曜日の早起きは、精神衛生上いいものではない。私だって朝起きるのは苦手だ。だから目覚ましは10分ごとに6つセットした。こうすればいつかは必ず起きられる。いつもは起き上がるまでに4回くらいコールされるのだが、今日は1回目で覚醒した。アオイを起こす前に止められてよかった。私はアオイの寝顔が好きだ。二人で寝るときは私だけ先に起きてアオイの寝顔を見るのが恒例である。朝の静けさの中、聞こえるのはアオイの寝息だけ。この時間は私だけの宝物だ。今日は10分くらい眺める時間があった。至福の時間の後、一度伸びをして起き上がる。手早く朝ごはんを二人分作る。トースターに二枚のパンを放り込む。その間にコンロを使う。2つあるフライパンのうち、片方で目玉焼きを二つ作る。もう片方は、昨日千切りしていたキャベツと細かいブロック状に刻んだベーコンを混ぜて炒める。3分ほどすると、トースターが自動停止する。ほぼ同時に目玉焼きが半熟で出来上がる。目玉焼きの方のコンロの火を止める。キッチンの棚から2枚の皿を取り出す。フリスビーのような皿を。色は青と緑。アオイが青で、私は緑だ。2年前に二人で買ったお揃いの食器の1セットだ。少し高かったが、落としても割れない素材でできている優れものだ。その上にまず、パンを乗せる。そのあと、パンの上に半熟の目玉焼きをそおっと乗せるのだ。成功。口元が緩む。その瞬間、思い出す。あっ、忘れてた。野菜炒めの火を消していなかった。慌てて様子を見る。少し焦げているが、食べられないほどではない。一部はバーベキューで焼いたみたいになっていた。多少香ばしい香りがする。まあいいか、逆に食欲がそそられるかもしれない。炒め物は食パンの隣、プレート皿の空いている部分に盛り付ける。自分の分を大急ぎで食べる。キッチンに一人分の皿を残して置く。鞄を背負い、アオイに「今晩どうする?」、と一声かけてから、家を出る。大学には自転車で向かう。食器は洗わずに出てきたが、問題ない。ずぼらに見えて、そういう気遣いを忘れないのが、アオイのいいところの一つだと思う。


私は外国語学科に所属している。私の専門は、ポルトガル語だ。今日は、ポルトガルからの留学生がやってくるということで、先週の同じ時間、絶対に遅れないようにと教授が口を酸っぱくして言っていた日だ。私的にも今日の授業は楽しみだ。急いでいけば、ぎりぎり間に合うだろう。


予想通りだ。私は、1分前に教室の扉の前に立つ。もう席は半分以上埋まっていた。私の後ろからも数人、教室内に入ってくるが、遅れてくる人はいないようだった。留学生も教授も既に中にいる。緊張して顔をこわばらせた留学生と生徒が遅刻しないか心配で心配でしょうがない、と言った顔の教授の組み合わせはなかなかシュールな絵面だ。空いている席に座って一息つくと、授業は間もなく始まった。


Bom dia 黒髪の留学生がみんなに呼びかける。ポルトガル語でおはようという意味だ。

Bom dia 当然、私たちもそう返す。留学生は、次に、

Muito prazer と続ける。日本語では、初めましての意味だ。

その後も、自己紹介は続く。ポルトガル語は当然だが、途中に織り交ぜられた日本語も惚れ惚れするような発音の上手さだった。私は、ただ圧倒されていた。


自己紹介の次は、日本とポルトガルの交流についての話だった。ファーストコンタクトは、鉄砲伝来だと思われているが、実際は違うらしい。でも、鉄砲だったほうがドラマティックだと留学生は言う。私もその意見に賛成だ。高校の歴史の授業で、長篠の戦について習った。鉄砲隊を率いた織田信長が騎馬隊が主体の武田軍を倒した、というあの話だ。

南蛮貿易についても話してくれた。意外とお菓子が有名なようで、カステラや金平糖、ドロップなどを紹介してくれた。日本は、石見銀山の銀で支払ったらしい。今はもう出ないらしいが、当時は産出量が世界の3分の1を誇ったそうだ。

最後に、今の日本語に生きるポルトガル語について教えてくれた。これは初めて聞いた。要約すると、こうである。ピンからキリまでという言葉がある。一説によると、「ピン」の語源は、ポルトガル語で点の意味を持つ pinta であるらしい。その点が、一という意味でつかわれるようになったそうだ。また、「キリ」の語源は、ポルトガル語で十字架の意味である cruz であるらしい。こちらはわかりやすい。日本では十字架の”十”をとって、数字の十の意味で使われるようになったそうだ。


そのあとも授業と称した交流会は続いた。いつもの座学とは違って、久しぶりに楽しい授業だった。それは、恋人アオイとの間に横たわる問題を一時的に忘れてしまえるほどに。

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