ルーカスの影


「あんたらもう平和ボケしたのかい? 今、自分たちがどういう状況下に置かれているのか、覚えているのか?」

「……覚えている。ただ、俺はリーザと……」

「それが平和ボケしているって言っているんだよ!」


 ニコラスの言葉を聞いたローゼマリーは、ニコラスの頭を力いっぱい殴る。それにニコラスは軽く頭を押さえるものの、それよりも気になることがあった。……一体いつ、ローゼマリーはここに来たのだろうか。まぁ、そういう疑問はこのローゼマリーには通用しないだろうが。それを、ニコラスはわかっていた。それに、万が一疑問に思ってもそんなことは問いかけない。ローゼマリーは機嫌を損ねると大層面倒な魔女だからだ。


「……まぁ、勝手に入ったこっちも悪かったけれどさ。……リーザ、だったね」

「はい」


 ローゼマリーはリーザの名をかみしめるように呼ぶと、リーザに向き直る。その唇は微かに躊躇うように開いては閉じてを繰り返す。それを見たとき、リーザは「自分には言いにくいことなのだ」と悟った。それは、何のことだろうか。いや、リーザだってわかっている。……大方、ルーカスのことなのだと。


「ルーカスが、どうかしましたか?」


 ならば、こっちから問いかければいい。そう思い、リーザはゆっくりと寝台から起き上がるとローゼマリーのことをまっすぐに見据えた。その最中、ニコラスが不安そうにリーザのことを見つめてきたものの、そこは笑みで黙らせておいた。ただ、身体が重苦しいので支えようとしてくれたことは、純粋にありがたかったのだが。


「そうだね。その男なのだけれど……どうにも、近くにいそうだよ。気配がする」

「……気配など、わかるのですか?」

「あぁ、あたしは禁術に手を染めた輩の気配を感じ取ることができる。特に、今は神経を張り巡らせているからね。ほぼ確実だよ」


 ローゼマリーのその言葉に、リーザは俯いてしまった。やはり、ルーカスは堕ちるところまで堕ちてしまったのだろう。心のどこかでは、また昔の優しいルーカスに戻ってくれるのではないか、と思っていた部分もある。そのため、裏切られたという気持ちも少なからずあって。……所詮勝手な思い込みと願いなのに。


「そのルーカスは、どこにいる?」

「……本当にあんたは、口の利き方がなってないね。まぁ、あの男の狙いは呪いの術者。……簡単に言えば、エウラリアという女」


 エウラリア。その名を聞いて、リーザは露骨に息をのんでしまった。ドローレンス伯爵邸に乗り込んできたエウラリアの顔が、今でも鮮明に思い出せる。リーザはエウラリアが苦手だ。しかし、それ以上に。ルーカスに唆され、利用され呪いに手を染めてしまったことを哀れに思ってしまう。きっと、エウラリアはリーザになど同情されたくないし、哀れにも思われたくないだろう。それはわかっている。それでも、そう思ってしまうのだ。


「……正直、あの女が殺されてもあたしには関係ないさ。呪いの術者は、いずれは命を蝕まれて早くに死ぬのだから。……けど、あんたはそれを望まない。違うかい?」

「わ、私、は……」


 すべてを見透かしたようなローゼマリーの目に見つめられ、リーザはただぎゅっと手のひらを握りしめた。確かにエウラリアは悪いことをしてしまった。リーザの命を狙ってきたのだから。それでも、彼女もいわばルーカスの被害者である。ルーカスさえいなければ、こんなことにはならなかったかもしれないのに。


「私、確かに、彼女に死んでほしくない」

「……リーザ!」

「……旦那様。だって、エウラリア様だって辛かったはずです。……私は偽善者かもしれませんし、そう呼んでくださっても構いません。ただ、彼女が死んだら、それこそルーカスの思い通りになってしまう。それだけは、嫌なのです」


 ニコラスの悲痛な声音には、「自業自得だろう」という意味が含まれていることは、リーザにも伝わった。むしろ、リーザだってそう思う部分がある。だけど、エウラリアが死ねばすべてがルーカスの思い通りになってしまう。そして、そうなればきっとルーカスはまたリーザのことを手に入れにやってくる。だったら、一つぐらい邪魔をしてやってもいいじゃないか。


「……どうにも、このグリーングラスのお坊ちゃんから聞く話だと、あんたはそう言うだろうとあたしは思っていたさ。……行きな。今ならば、まだ気配はそう近くない。ルーカスという男に、一泡吹かせてやるんだろう?」

「……はい!」

「リーザ! 俺も行く!」


 星々が煌めき、夜も遅くなってきたころ。リーザはドローレンス伯爵邸の私室を飛び出した。今の時間にほかの貴族の邸に殴り込みに行くなど、無礼にもほどがある。それでも、エウラリアの命を守るためには。そう思い、リーザは病み上がりで重苦しい身体を必死に動かした。


「リーザ。病み上がりだろ、そんな無茶をするな」

「……私は、大丈夫、ですから」

「大丈夫なわけがあるか! ……あぁ、仕方がない。背に腹は代えられないからな」

「旦那様? ……ひゃぁっ!」


 ニコラスが少し考え込んだ後、リーザの身体は宙に浮かび……ニコラスに抱きかかえられていた。それリーザが驚いたような声を上げれば、近くの部屋からオリンドが飛び出てくる。そして、二人の光景を見て呆然とするオリンドを丁度いいとばかりに捕まえ、ニコラスは馬車の手配を要求した。


「いや、いったいこの時間からどこに行かれるのですか!?」

「ちょっとした野暮用だ。……大丈夫、朝までには帰る」

「その言い方だと、めちゃくちゃ不安なのですけれど!?」


 オリンドの心の底からの絶叫も無視して、ニコラスはリーザを抱きかかえたまま歩き出した。……ニコラスの行動原理は、リーザのためだ。つまり、リーザのためならば何でもするということ。


「……ったく、ニコラス様は何を考えていらっしゃるのか……」


 ニコラスの背中を見つめながら、オリンドはそんなことをぼやいた。それでも、ニコラスの行動にはきっと理由がある。そう思い直し、ニコラスは慌てて馬車の手配を始めた。


「……若いっていいねぇ。あたしは、そんなあんたたちが羨ましいよ」


 立ち去ったニコラスとリーザ、それから慌てるオリンドを見つめながらローゼマリーは声を上げて笑った後、そうつぶやいていた。その目は慈愛に満ちており、まるで子供たちの成長を喜ぶ母のような雰囲気でもあった。

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