唇に歌を、胸にクローバーを
夕目 紅(ゆうめ こう)
唇に歌を、胸にクローバーを
季節が繰り返されるように、ファッションが繰り返されるように、音楽もまた繰り返される。センターパートの男性を見かける機会が増えるにつれ、街にはあの曲が再び流れ始める。どうして今なんだろうと思っていると、どうも十年以上前のアニメがリバイバルされたことが原因らしかった。へえ、あれってアニメの歌だったんだ。独りごちて、知らなかった、とぼんやり呟く。本当はもっと知らなきゃいけないことばかりなのに、今更ながらに知ることはそんなことばかりで、あたしは古着屋のショーウインドウを眺めながら戸瀬君のことを思い出していた。このマネキンのようにすらっと手足や首が細く、某芸能人リスペクトで靴下を履いていなかった年下の彼のことを。
俺の歌には幸運が宿るんだ。そんな夢見がちなことばかり言い続けていた彼と暮らしていた一夏のこと。ボロいアパートの一室からゾンビのように這い出て、あたし達は手を繋ぎながら神田川の土手沿いに散歩へと向かった。汗ばんだ指先は女子のように細く、白く、擦れたローファーの上に履いていたのは女物のジーンズだった。歩きながら、彼はお気に入りのその曲をいつも歌った。いつもほんの少しだけ鼻にかかった、あたしの好みから一歩外れたその歌を、それでも得意げに歌う彼の横顔は妙に生き生きとして、あたしはきっとその横顔に宿る不思議な力に吸い寄せられていたんだと思う。だってお金もないし、今時売れないミュージシャンってって気もするし、彼が動画サイトに投稿したオリジナルソングの再生回数はあたしと本人を入れて十回未満だったし。でもあの時は妙に幸せだった。サンダル越しに伝わってくるアスファルトの熱を蹴り上げて、汗だくになりながらのんびりと歩くと、遊覧船が水面を切り裂いて進んでいく。風が吹く。心地よさに一瞬目を瞑る。彼の歌だけが世界になる。未来なんて何も見えなかった。でも、だからこそ、きっとあの時は何も考えなくてよかったんだ。何も……。
そっと目を開くと、あの歌はまだ流れ続けている。でも、あたしの隣にもう彼はいない。当然だ。あんな甲斐性なしとこの先何十年も生きていくなんてさすがに無理がある。好きだけが男の条件じゃない。あたしは一緒に生きていける人を探すために彼にお別れを告げた。自分で選んだんだ。なのに、どうしてだろう、時々こんな風に怖くなる。結婚とか、子供とか、周囲の空気に押し流されて少し先のことを思い描かなければいけないことに、不意に泣きたくなる時がある。
……あたしは。
未来が、怖い。
戸瀬君、あたし、本当に怖いんだよ。本当だよ。
未来に真っすぐに向かっていける自信があった訳じゃないんだよ。
でも、せっかく忘れていたこの歌を街中が思い起こさせようとするから。別れ際、君が余計なこと言うから。俺の分の幸運もあげるから、幸せになってとか言うからさ。だから、あたしは――。
君が見つけた四つ葉のクローバー
お守りにして生きていく
ちょうど鼓膜を叩いた歌詞を、声を重ねて口ずさむ。天を仰いでほーっと長い息を吐く。うん、と小さく頷く。うん、もう大丈夫。
風が渦を巻いて木の葉を散らしていく。色濃い影がつらつらと揺れる。色恋だ、とあたしは思う。それでいいんだ。過ぎ去っていけばいい。夏の日差しが照り付ける大通りも、あたしの心も。切り取った風景を写真立てに飾っておけるようになる、そんな日まで。
あたしはそっと歩き出す。いつかこの曲がもう一度忘れ去られる頃、そんな曲もあったねって笑えるように。彼から奪った小さな幸運を、今はまだ、胸に抱いて。
了
唇に歌を、胸にクローバーを 夕目 紅(ゆうめ こう) @YuumeKou
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