5-03 展翅をしよう

『タテぴーなら、実験室に行ったよ~』


 オサム先輩にそう教えてもらったあたしは、ログハウスの前にやってきた。木の扉をノックして、そーっと開けてみる。


 平屋の家の中は広く、壁も床も天井も木でできている。四方の壁には棚が設置されていて、物が所狭しと置かれていた。真ん中のスペースにはテーブルがいくつかあり、なにかの部品が転がっていたり、いろんな機材が置かれていたりしている。そんな部屋のちょうど中央、空いているテーブルの前にタテハ先輩が座っていた。


「タテハ先輩、なにしてるんですか?」


 あたしは物にぶつからないよう注意しながら、先輩のそばへと近づいた。テーブルの上には木でできた小さな板があり、その上にチョウが翅を広げた形でのせられていた。


「アゲハ君。今、展翅てんしをしているところだよ」


 タテハ先輩がこちらに気づいて顔をあげ、そう教えてくれた。


「展翅ですか?」

「うん。今日の大会で採ったチョウを標本にしようと思ってね。アゲハ君もやってみるかい?」

「はい! やってみたいです!」


 あたしは意気揚々と返事をして、手近にあったパイプの丸イスを持ってくる。

 タテハ先輩が自分の座っているイスをちょっと横にずらしてくれて、あたしは隣に座った。


「アゲハ君、展翅はやったことある?」

「いえ。見たことならあるんですけど、やるのは初めてです」

「そっか。それなら、やり方を説明するね」


 そう言って、先輩はまずあたしの前に道具を並べだした。木の板や透明なテープ、針の入ったケースなんかがある。


「まずは道具の説明をするね。展翅に必要な物は、この展翅板、展翅テープ、昆虫針、止針、あと押さえ紙だよ」


 先輩はそれぞれの道具を指差して、丁寧に教えてくれる。


 展翅板は二枚の木の板が並んでいて、真ん中に溝がある。まるで、小さなすのこみたいな形をしている。二枚の板はそれぞれ溝に向かって、少し斜めに傾いていた。


 展翅テープは粘着性のない透明なテープ。大きさはちょうど、展翅板の一枚の板と同じくらいになっている。


 昆虫針は、折りたたまれた赤い紙の中に入っているみたい。中を開けてみると、穴の空いていない針が何本かあった。


 止針は手芸で使う待ち針みたいな物だ。持ち手の先に丸い玉がついている。


 押さえ紙は、厚紙を小さな四角形に切った物だ。なにかの菓子箱を切って、自作した物かな。止針同様、小箱の中にたくさん入っている。


「次に、標本にする個体を準備する。これは僕が今日採集したチョウだよ。採ったチョウは胸を押して気絶させてから、三角紙の中に入れておくんだ。しばらく置いておく場合は、冷凍庫に入れる。ちなみに冷凍庫に入れておくと、一ヶ月くらいは硬くならずに保管ができるよ」


 テーブルの上に、三角形に折られた半透明な紙が並べられる。一枚一枚の中には、翅を閉じたチョウが一羽ずつ入っていて、動かなくなっていた。


「殺しちゃうの、やっぱりかわいそうですね……」

「そうだね……。でも標本は、いつどこでどんな昆虫が生きていたかを後世に伝える、大切な資料になるんだ。彼らの生きた証を、しっかり残してあげようね」

「はいっ!」


 あたしが返事をすると、タテハ先輩は優しげにほほえんだ。

 採ったチョウたちの命を無駄にしないためにも、立派な標本を作ってあげようと、あたしは背筋を伸ばす。


「それじゃあ、いよいよ展翅を始めるよ。やり方は人によって多少異なるけど、僕がいつもしている方法を教えるね。まずは、展翅板の上に展翅テープを敷くんだ」


 あたしは展翅テープを一枚取って、展翅板の片方の板の上に置く。ずれないように、上の部分の展翅テープを少し折って、その上に止針を三本打っておく。この時、押さえ紙を針に刺しておくと、展翅テープを押さえてくれて、浮きにくくなるらしい。

 もう片方の板にも展翅テープを置いて、同じように止針で固定した。


「次に、昆虫針を標本にするチョウに刺して、展翅板に固定する。それじゃあアゲハ君は、このモンキアゲハを展翅してもらおうか」


 先輩から渡された三角紙を広げて、モンキアゲハを取り出す。そーっと翅を広げて、チョウの胸のちょうど真ん中に昆虫針を刺す。チョウの体と垂直になるように、まっすぐ刺すことが大事らしい。

 それから、展翅板の溝の部分に昆虫針をまっすぐ刺す。下は柔らかいウレタンフォームになっているから、簡単に刺すことができる。


「次は、展翅板と展翅テープの間にチョウの翅をはさんで、翅の形を整えていく」


 あたしはそーっと展翅テープをめくって、チョウの翅の上に置いた。黒い翅がテープと板の間にはさまれる形になった。

 これからは、図鑑のようにチョウの翅を広げていく。


「前翅は下の線が体に対して直角になるように、後翅は前翅との重なりが前翅の半分より長くなるようにして、左右対称に広げるといいよ」


 展翅テープをちょっと浮かせて、そのすきまから針を使って、傷つけないよう翅を動かしていく。翅を広げたら、展翅テープを上に置いて、押さえ紙を刺した止針を翅の周りに何本か打っていく。これで翅が動かないように固定できる。

 左右対称の形になるようチョウの翅を広げるまで、かなりの集中力が必要だった。


「あとは頭や触角も、傾いている場合は止針を使って直して固定してあげよう。触角は折れやすいから、気をつけてね」


 頭の下に斜めに止針を打って、向きを固定する。曲がった触角もまっすぐ伸ばして、周りに止針を打って戻らないようにする。


「先輩、できました!」

「うん、きれいにできているね。あとは、日陰で風通しのいい場所に一ヶ月ほど置いて、乾燥させるよ。あとでラベルを書くために、チョウの名前と、いつどこでだれが採ったかのメモも添えておこう」


 そう言って先輩は、小さな紙切れにペンを走らせた。展翅したチョウの脇に紙切れを置き、止針で刺しておく。


「乾燥が終わったら、止針を全部抜いて、展翅テープを外して、採集記録を書いたラベルを昆虫針に刺して、標本箱に入れれば完成だ」


 一通りの作業を終えて、あたしはうんと背伸びをした。

 展翅したチョウの下にはまだスペースがあって、あと一羽くらいは展翅できるだろう。タテハ先輩から次のチョウをもらって、もう一度作業を再開する。


「あっ、今度はカラスアゲハですね」


 三角紙から取り出したチョウの翅を開くと、青緑色に輝く美しい色彩が目に飛び込んできた。

 それを見て、ふと、昔のことを思い出す。


「懐かしいです。昔、お父さんが展翅していたチョウも、カラスアゲハだったなぁ」


 あたしは胸の真ん中に昆虫針を刺しながら、感傷に浸った。頭の中にかつての記憶がぼんやりとよみがえる。

 まだあたしが小さかった頃、机の前でお父さんが真剣な顔つきをしてなにかをしていた。あたしはなにしてるんだろうと思って、そばへ行って背伸びをして、手もとをのぞきこんだ。その時に目に飛び込んできたのが、展翅板の上に乗ったこの美しい翅のチョウだった。


「アゲハ君のお父さんも、昆虫が好きなんだね」

「はい。でも、もういないんです……」


 隣で作業をしながら話をしていたタテハ先輩の手が止まる。

 あたしはうつむいて、青緑色の翅を見つめながら言葉を続けた。


「あたしのお父さん、行方不明なんです。前に住んでいた村で災害にあって、それきり……」

「アゲハ君が住んでいた村って……」

夢士登里むしとり村です」


 あたしが言うと、タテハ先輩が言葉を失ったように黙った。しばらくして、ぽつりと声が落とされる。


「……そうだったんだ。もう一年になるって、今朝のニュースで言っていたね」

「……はい」


 軽くうなずきながら、頭の中で、いまだに忘れることのできないあの日の光景が流れ出す。

 自然豊かな小さな村が、大地震と大火事によって廃村となった日から、もう一年が経とうとしていた。

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