4-07 今だけは
過去の記憶から現実に戻ってきて、オレは前を向いた。
そこにはさっきと変わらない、涙をぬぐいながら虫を追うアゲハの姿があった。
オレが虫採りをやめた後も、アゲハは一人で虫を追いかけていた。離れ離れになった後は、どんな生活をしていたのかわからない。けど、変わらずに虫を追い続けていたのだろう。たとえ一人でも、わかってくれる人がいなくても、アゲハはずっとくじけずにいた。だからこそ、今も網を手放さないのだろう。
それに比べて、オレは?
アゲハがいなくなったとたん、オレはなにもやる気が起きなくなった。おもしろいと勧められたゲームをやってみても、なにかが足りなくて思うように楽しめない日々を過ごしていた。友だちと遊んだ帰り、すれ違った虫に思わず胸が波打つことをわかっていながら、それを気のせいだって、自己暗示ばかりかけて……。
オレは、なにがしたいんだろう?
虫採りなんてやめたと言いつつ、普通の人間にもなれず、第一、普通がどんなものかもわからず、中途半端な存在。そんなオレが、必死にがんばっているアゲハを傷つけていいわけ……ないよな。何事にも無気力で、逃げてばかりのオレだけど、アイツのためならがんばれる気がする。小学生の頃みたいに。
「わかったよ……」
つぶやいた言葉はアゲハには届かない。だからもう一度、声をあげてアゲハを呼ぶ。
「わかったよ! アゲハ」
「えっ?」
気づいてくれて、こっちへ振り返る。まだ涙の消えないその目を、オレはどれだけ慰められるかわからない。それでも心を決めて、口を開く。
「今日だけ、あと一時間半だけ、手伝ってやる」
「えっ? 本、当?」
「あぁ。だからもう、採りつくしたチョウなんて追ってんじゃねぇよ。足もとにいるナナホシテントウがカウントされてないのに気がつかないでさ」
「えっ? あっ!」
ポカンと固まっていたアゲハは、足もとを見てようやく我に返った。ナナホシテントウを採っている間に、オレはスマホの「虫アテ君」を起動させる。虫の一覧を表示して、なにをすでに採ったかを頭の中にたたきこむ。
「なるほどな。とりあえず、チョウ以外を探せばよさそうだ」
スマホをしまい、うんと背伸びをして、肩を何回か回した。
「さてと、久し振りに必採技でも使うか」
オレは原っぱの真ん中に立ち、持っていた虫採り網を地べたに置いた。辺りをぐるっと見渡して、ゆっくりと大きく深呼吸をする。
「ねぇカーくん、本当に手伝ってくれるの?」
ナナホシテントウの登録を済ませたアゲハが、オレに近づいてきて不安そうに訊いてきた。まったく、オレはどれだけ信用されていないんだか。
「さっきも言ったろ? 今日だけは手伝ってやるって。あっ、でも、小学生振りだからな、失敗しても笑うなよ」
オレの言葉でようやく納得したのか、アゲハの顔がパアーと明るくなっていく。笑顔になって、「うん!」と大きくうなずいた。
「ありがとう、カーくん! あたし、カーくんの技、大好きだから!」
そんなことを言われると、よけいプレッシャーかかるんだが……。心の中でツッコミながら、オレはもう一度辺りを見渡した。ぱっと見、一覧に載っていない虫は見当たらない。いや、見えないだけか。
オレは水平よりも少し下に軽く手を広げて、ゆっくりと目を閉じた。周りは真っ黒な世界となる。できるだけ、なにも考えずに。集中させるのは、耳。聞こえてくる音。
「必採技、
黒い世界に静寂が流れる。オレは耳を澄ませて、その中のわずかな音を聞く。
風の音――違う。
鳥の声――違う。
もっと小さな、もっとささいな音……。
カサ、カサ……。
黒い世界に空気の波紋が広がる。この音は……、なにかが草を食べている音。聞こえてくる方向を頼りに、その場所を探す。オレの右斜め前。そんなに遠くはない。すぐ近く。しかも空間上。地面にはついていない。ということは、木の上。
「そこにいる。あのブドウの木の手前の葉の上。ヒメコガネ」
そう言うと、アゲハはすぐ走り出し、網を振った。中には予想通り、メタリックなグリーン色に輝くヒメコガネが入っていた。
オレはもう一度目を閉じ、意識を集中させる。今度は羽音がした。オレの正面。さっきよりも低い位置。なにかに止まり、羽音がやんだ。
「あっちのキク科の花の上。コアオハナムグリがいる」
「OK!」
虫採りはアゲハに任せ、オレは虫の気配に集中する。
それにしても、なんだろう? この感覚……。
「そこの朽ち木の下、ハサミムシ」
「お前の足もと、オオヒラタシデムシが歩いてないか」
小学生だった頃を思い出す。あの頃も、こうやってオレが虫を見つけて、アゲハがそれを採っていたな。いっしょに虫採りをした雑木林の匂いやセミしぐれ。オオクワガタを見つけて、二人で喜んだことも。今まで忘れかけていたことが、一気に頭を巡りだす。楽しかったあの夏の日。そして、今も。
「あっ! チョウトンボだ。あの木の枝。こんなところにもいるんだ」
「おっ! アカスジキンカメムシ。後ろの木の幹。成虫を見るのは初めてだな」
昔のようにアゲハと二人、小さな発見に感動しながら虫を探す。こんな場所にこんなに虫がいるんだと興奮を覚えながら、技のキレはどんどんと増す。
その時、近くで大きな羽音が聞こえた。あれは……。
「オニヤンマだ。ほら、アゲハの上、早く!」
「えっ、うわ! あれ? 今どこにいる?」
「あそこ、あっUターンした」
オレたちの頭上を、まるでからかっているかのように飛び回るオニヤンマ。さすがに速いな。あの速度にアゲハがついていけるかが問題だ。あの一種に時間を費やすか、それとも他の虫を見つけるか。こんなときにあの人の必採技があれば……と、思った矢先、目の前の草がザザッと揺れた。
「
うわさをすればなんとやら。現れたのはタテハ先輩。お得意の速攻技でオニヤンマを見事、網の中に収めた。
「先輩! さすがっすね」
オレのほめ言葉を受け流して、先輩はほほえみを浮かべる。
「すごいのはカブト君のほうだよ。わずかな音を察知して、どんな昆虫がどこにいるかを見極める。なかなかできる技じゃないよ」
逆に先輩にほめられて、正直、嫌な気はしなかった。むしろ照れくさくなって、頭をかきながら、あらぬ方へ顔を背ける。
すると、視線を向けた茂みの中から、オサム先輩が顔を出した。
「弱点は克服したみたいだね~」
ニヤニヤとほくそ笑みながら、そばへやってくるオサム先輩。まるですべてを見越していたみたいな顔をしている。オレは片手を口にそえて、耳打ちした。
「もしかしてオサム先輩、さっきあんなこと言ったのは、オレを本気にさせるためだったんすか?」
「さぁ~ねっ、まぁボクは、タテぴーが喜んでくれることなら、なんだってするよ~?」
そう言って口の端を持ち上げて、ウインクをされた。
なにも知らないタテハ先輩が、オレたちやアゲハを見て、指示を飛ばす。
「よし、それじゃあ、僕とオサム君とアゲハ君で昆虫を採るから、カブト君は必採技に集中してほしい。後半戦、一気に巻き返そう」
「ボクは吸虫管を使うから、網で採れない小さな虫がいたら言ってね~」
「頼りにしてるよ、カーくん!」
アゲハがポンッとオレの肩をたたいてくる。人に頼りにされるのって、今思えば初めてかもしれない。うれしくて、けど、そんなことで喜んでいるのがちょっと恥ずかしくって、照れ隠しに親指で鼻をへんっと払ってみせる。
「しゃーないっすね!」
オレは目を閉じ、再び必採技を発動させた。今まで以上に注意を払って、虫をどんどん見つけていく。
「そこ。アゲハの前にある木の幹、バナナ虫、じゃなくってツマグロオオヨコバイ」
「あっ、オサム先輩の横の葉でゆりかご作ってます。ドロハマキチョッキリかな」
「いた。キボシカミキリ。タテハ先輩の右隣の木。ちょい前の葉っぱの上」
気がつくと、楽しくてしかたがない自分がいた。はたからみると、カッコ悪いのかな。けど、今くらいは、精一杯楽しんでいたい。虫と、アゲハたちと、いっしょに。
「よし、次は南の池に行って、まだ採ってないトンボや水生昆虫を採るぞ!」
「えっ!? ちょっと待ってよ、カーくん!?」
オレはアゲハの腕を握って、原っぱを走り出した。タテハ先輩とオサム先輩も、互いに顔を見合わせて笑みを浮かべてから、追いかけてくる。
オレは走りながら後ろを振り返り、笑顔で言った。
「遅いぞ、アゲハに先輩たち! さぁ、どんどん行くぜ!」
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