010 ディアドラの強さ



 誰も言葉を発しないまま、数秒が経過した。風の吹く音すら聞こえず、辺りはしんと静まり返っている。

 そして――


「ぶっ、アハハハハハハハハッ! これはまた面白いなぁ、アハハハハッ♪」


 ローマンが心の底から愉快そうに笑い声をあげた。流石に力が抜けたのか、ずっと突き出していた剣も、自然と降ろされる。

 そしてたっぷり二十秒ほど過ぎた頃、ようやく落ち着いたのか、笑いで涙が浮かんだ目元を手の甲で拭う。


「流石に冗談が過ぎますよ、ディアドラ様。あなたの持つ優しさには、改めて感服いたしますがね」

「冗談ではないわ。これでも私は本気で言っているの」

「えぇ。ちゃんと分かっていますよ。そこの人間を救うべく、あえてあなたがそう言っていることぐらい、最初から僕には全てオミトオシですから」

「……全然お見通しになってないわよ」

「そこの人間クン? これでよく分かっただろう?」


 ため息交じりにツッコミを入れるディアドラを華麗にスルーしつつ、ローマンは改めて視線をアレンに向ける。


「ディアドラ様の美しさに惑わされるのは致し方ないが、断じて彼女の言葉を真に受けないことだ。そもそも貴様のような人間如きが、元魔王であるディアドラ様からの求愛を受けるなど、断じてあり得ないことぐらい分かるだろう?」

「はぁ……」


 勢いに押されるがまま、アレンは生返事をするしかなかった。

 そもそもディアドラからのプロポーズめいた言葉ですら、寝耳に水なのだ。むしろ自分が「どういうつもりなのか?」と問いかけたいほどであるが、それを実際に言ったところで、彼が大人しく聞き入れるとも思えない。


(この魔族、自分に都合のいいよう解釈する、典型的なタイプってところか)


 完全に見下してきているというのもあるのだろうが、それ以前にローマンの場合はそうとしか思えなかった。

 ディアドラもそれは強く感じており、苛立ちを通り越した無表情で彼を見る。


「――どうやら信じていないようね」

「信じていますよ? あなたの優しさから、偽りの愛をそこの人間クンに捧げようとしていることは」

「そう。もはやあなたには、何を言っても平行線のようね」


 ディアドラはスッと目を閉じた。


「ならば、その偽りの愛が『偽り』でないことを、今から証明してみせるわ」


 そして誰もが息を飲むほどの笑みを浮かべ、ディアドラはきょとんとしているアレンに顔を近づけていき――


「ん……んぅっ!」


 堂々とその唇に、自身の唇を重ねるのだった。


「んぅ、はむ……んむぅ」


 目を閉じるディアドラは、一心不乱に唇を動かす。アレンはただ、なすがままの状態となっていた。

 完全に頭が真っ白な状態と化していた。

 舌と舌の触れ合う音が、唾液と唾液の混ざりゆく音が、そして舌と舌がねっとりと絡み合う音が、やけに大きく響き渡っているように聞こえてならない。

 どれだけの時間が流れたのか。そもそも時間は流れているのか――それだけアレンの脳は、完全に麻痺している状態であった。

 それでも永遠はない。始まれば必ず終わりがやってくる。

 この時間も、決して例外ではなかった。


「――はぁっ!」


 唇が解放される。同時に森の中を流れる新鮮な自然の空気が、湿った唇を優しく撫でていく。

 アレンは呆然としたまま、ディアドラを見る。

 彼女の笑みは変わらなかった――頬が赤く染まっていることを除けば。


「は、はははははっ……」


 するとそこに、棒読みも同然な笑い声が聞こえてくる。アレンがゆっくり視線を向けてみると、ローマンが笑顔を固めたまま、人形のように揺れ動いていた。


「これは、これはきっと夢だ。どうやら僕は幻を見ていたらしい。そうだ、そうに決まっているじゃないか。愛しのディアドラ様が、あんな人間如きに自ら唇を差し出すなどあり得ない。そうだよこれは、断じて現実なんかじゃ――」

「あら。どうやらまだ信じられないようね?」


 必死に現実から逃れようとしているローマンに、ディアドラが涼しげな口調でサラリと言ってくる。


「だったらもう一回やってみせるから、今度こそしっかりと見ておきなさい」

「――んぅっ」


 そして再び迷うことなく、アレンの唇を塞ぐのだった。


「なぁっ!」


 しっかりと見せつけられるその艶めかしい光景に、ローマンは呆然とする。

 これもディアドラの狙い通りであった。これ以上疑われないよう、互いの唇が塞がっている姿を披露する。そこに恥じらいはなく、堂々とした勢いと確かな気持ちを重ね合わせていた。

 一方、アレンはされるがままの状態となっていた。

 衝撃が強すぎたせいなのか、恥じらいよりも驚きのほうが勝っていた。流石に一度目に比べると、ダメージは少ないほうだが。


「――ぷはぁ! フフッ、どうかしら? これでもまだ偽りだと言うつもり?」


 ディアドラが唇を解放し、勝ち誇った笑みをローマンに向ける。そしてそのまま自身の頭を、アレンの胸元にコテンと預けた。


「流石に私も……これ以上の行為は、外で見せるには恥ずかしいわ」

「い、いやいやちょっと待って! 一体何をするつもりさ?」


 流石に黙っていられなかったらしいアレンは、慌てて口を挟む。それに対してディアドラは、心外だと言わんばかりに口を尖らせるのだった。


「あら。それを女である私の口から言わせるの? アレンも随分と鬼畜ね。それでこそ私の夫だわ。とても素敵よ♪」

「……言葉では褒められてるのに、どうにも体が震えるのはどうしてだろう?」

「寒いのかしら? ならば私が抱き締めて温めてあげるわよ? 私の胸には人を癒す力があると言われたことがあるわ」

「あー……」


 こればかりはなんとなくアレンも分かるような気がした。実際にそのような不思議な力があるのではなく、気分の問題だろう。

 それだけ大きくて柔らかそうな二つの実った果実に頭を預ければ、それはもう暖かくて心地よい気分を味わえるはずだ。

 アレンも男だ。そういうのに興味がないというわけではない。

 しかし、ここでそれに対して頷くこともできなかった。

 流石に時と場合は考えるべきだ。なによりすぐ傍にいる魔族の男の目が、今にも血を流しそうなほどに充血した状態で、睨んできているからである。


「ぐ、ぐぐぐ……お、おのれ人間め!」


 ローマンが歯をギリッと噛み締めつつ、剣を持つ手の力がギュッと強まる。


「ディアドラ様に何をした! 事と次第によっては容赦しないぞ!」

「いや、むしろ僕のほうがされたというか……」

「言い訳無用! もう我慢ならん! 貴様など、僕の剣の錆としてくれる!」


 バッと空気を切り裂かんばかりに剣を突き出してくるローマン。その目は完全に血走っており、もはや何を言っても聞こえる様子はない。

 アレンは表情を引きつらせていた。

 一気に事態が悪い方向へ転がっていった――と、思っていたその時であった。


「――させないわよ」


 冷え切った声でディアドラが呟いた。同時に密着していた感触も、まるで残像のように消えていく。

 ドスッ――と鈍い音が聞こえた。

 戸惑いながら視線を向けると、そこには目を見開きながら、成す術もなくみぞおちに拳を叩きこまれて、ゆっくりと正面から倒れてゆくローマンの姿が。

 ディアドラが動いたのだ。

 恐怖や戦慄を感じさせる間もなく、相手を叩きのめしてしまったのだと、アレンはようやく理解できた。


「ふぅ……全く、失礼な男だわ」


 風に揺れる銀髪を手で軽く押さえながら、ディアドラは冷めた表情で、倒れたローマンを見下ろす。


「変な言いがかりでアレンを傷つけるだなんて、この私が許さないんだから!」


 ディアドラは魔法具を取り出し、それをローマンの背中に置いて起動させる。やがて魔法具が光り出して、ローマンを包み込んだかと思いきや、一瞬にして彼の姿が消えてしまった。


「アレン、もう大丈夫よ」


 さっきまでの冷たい表情はどこへ行ったのやら、実に晴れやかな笑顔で、ディアドラは明るく呼びかけた。


「あの迷惑男は、魔法具で魔界へ送り返しておいたから、もう私たちのもとへ現れることは、そうそうないと思うわ」

「お、送り返した?」

「えぇ。今のは一人分を転送させるための魔法具よ。一回限りの使い捨てのね」

「……なるほど」


 ひとまずここは頷いておくことにした。この場で全てを理解するのは不可能。ディアドラのおかげで脅威は去った――それだけ認識したのだった。


「さぁ、アレン! これでようやく邪魔者はいなくなったわ!」


 仕切り直しと言わんばかりに、ディアドラは気合いを込めながら笑いかける。


「これからの私たちについて、ゆっくりとたくさん話していきましょう♪」


 その笑顔は、有無を言わさない強さが込められていた。

 新たな人生も別の意味で凄いことになりそうだと思いながら、アレンは引きつった笑みを浮かべ、ゆっくりと頷くのだった。


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