グランド・エキスプレス第五章終章『明日への軌道』

遠く離れたローマの地。世界中の宗教が交流を果たす拠点として、または国連本部の所在地として、その聖なる場を提供している地下法都ヴァチカンの奥深く、その薄暗い、今は巡礼者の一人も訪れていない大聖堂の中に一人の修道女の姿があった。年の頃は十代の半ばに見えなくもないが、その者が半世紀近くも法都にあり、聖騎士の職に就いている事を考えれば、おのずとその年齢も計り知れるだろう。だが、その美しい輪郭は清貧さを物語るように厳かで粗末な祭服を着たのみ車椅子に座し、手にロザリオを繰りながら祈りを捧げる姿はまさに聖女の佇まいというより他になかった。そんな修道女の前には四本の支柱がそびえ、金色の輝きを放っていた。天井から降り注ぐ光に包まれながら堂内に荘厳さを湛えるサンピエトロバシリシカ。コンスタンティヌス大帝が建設して以来、何度も改築が行われ、現在はかつて座していた場より二百メートルも地下に移されているにも拘わらず、依然その下には聖ペテロの墓が在している事になっている大祭壇である。その祈りを捧げる背後に向かって近づく影があった。純白の神官祭服に金色のメダイ。その上にトリノ聖骸布を模して作られた法衣を羽織る姿は車椅子に座している女性とは異なり、かなり煌びやかな物である。首から金糸に彩られた緑色の帯状上衣をしっとり垂らし、跪く姿はまるで水面に舞い降りる白鳥のようでもあった。その翼を折るように額ずく背には鮮やかな刺繍が描かれている。

 その意匠はIとMの文字を重ねた十字架を中心に十二の星を散りばめ、その下に『剣に貫かれし心臓』を配した図案となっていた。ちなみにIはImmaculateの頭文字を、Mはマリアの頭文字を表している。

 だが、決してそれも華美ではなく、同じくロザリオを手に黙祷する姿は厳粛にして、その閉じられた目元も涼やかに短い亜麻色の髪の下にあるのは、どこか儚げな印象を与える二十代女性の美しい面差しである。

「・・ジャネットさま。礼拝途中に申しわけ御座いません。アース・エンプレスのキリング艦長より霊信が届きましたゆえ・・」

 その者は祈る姿勢のまま報告した。

 胸に描かれている無原罪聖母像の下には、№3・A=5の加護紋と十字軍十字の意匠が記されている。

「・・それで・・なんと・・」

 くるりと車椅子が向きを変え、そこにある

目が見開かれた。目は真っ直ぐ向けられてはいるが視線の先は定かではない。白濁した瞳はその者が盲目である事を暗示している。

「はい。法都の聖杯。確かにアース・エンプレスで、お預かりいたしましたと・・」

「そう、公社ではなく列車でと言ったのですね。アレックスの闘いが始まりますわね。さぞ、あなたも心配でしょう?ガラテア・・」

「えぇ、まぁ、そのぅぅぅ・・おほんっ!」

 ガラテアと呼ばれた聖騎士はかなり狼狽したように見えたが、すぐにも咳払し、自分の感情を面に出さないままうやむやと祈る姿勢を整え直した。また車椅子が祭壇のほうへ向きを変える。その背に向けて碧帯聖布の三騎士が一人、ガラテア・イブ・コーネルは静かにもう一つ報告を付け加えた。

「全枢機卿がシスティーナ聖堂にお集まりなられました。まもなく教皇選挙会が開かれるでありましょう・・」

「解りました。・・さぁ、ガラテアも、わたしと一緒に祈っておくれ・・」












 音さえも蝕んでいく霧だった。

 いや、霧ではないがそう見える。吹抜け状になっている広い第四車両第五エリアに立ち籠めるそれは濃密な霊素だった。その朧の向こうに、巨大な蠢きが圧倒するほどの霊波を発しながらに存在していた。

 ・・ラーミア。

大食龍妖花系A=2クラスの次元霊である。

「ぎゃぁぁぁぁ!・・」

 またどこかで悲鳴が起きた。霧のような霊素に身を潜め、どこからともなく襲ってくるその霊触手の恐怖に取り憑かれながら一人また一人と捕らえられていく。否応なしに七年前の記憶が思い出され、網膜に投影された。

「・・・・くっ」それは苦悩の呻き。

(またしても護れないというのか……)

 七年前、闇に閉ざされし人外境。そこを行く陸航列車は大きく裂け、強固たる装甲には穴を穿たれ、見るも無惨な姿と化していた。累々と横たわる死体。傷ついた霊命たちもまた最後の霊燐を残して喰われていった。そんな中、まだ戦意を失わずにおれたのはセシリアとキリング艦長くらいだったろう。だが、その二人をしても限界に近く、対して挑んできた霊能者たちには疲労の色さえ見えなかった。その圧倒的な力の差。霊撃手などいとも簡単に砕き、潰し、屠っていった次元霊使い。その左右色の異なる冷然とした眼差しをもって悠然と言ってのけたあの者の言葉が、

 今も忘れられない。

『世界に冠たる鉄道公社の艦内霊撃手といってもこんなものですか』

 失望するように、取るに足りない輩を蔑むように発せられた言葉。その者はそこにいる者の中でもどうやら格下らしかったが、その者にすら手も足も出なかった。その使役する霊のなんと禍々しき事か。その姿は自分の相棒と同じ植物型とは思えないほど醜悪だった。長い時をえて人以上の理性を持つに至った植物型霊は本来心優しく穏やかなものだが、その気配も感じさせないそれは冥界に咲く亡者喰らいの花のそれであった。人血を啜り、霊を喰らう魔界の植物。その刺々しい触手が蠕動し、周囲を破壊し尽くしていく。だが、その中心にいた霊能者のなんと涼やかな顔だったろう。どれほど殺戮しようと心痛めぬ空虚。その少年の片手が捨て犬でもいたぶるように持ち上げていたのは、わたしの兄ではなかったか。兄の霊命はすでに消滅しかかっており、列車の駆動にも影響が出始めていた。その兄が悄然と笑い、振り向いたあの時の顔が脳裏に浮かび、やめて!と心が叫んだ。解っていた。あの少年のせいではない事を。過去にあの少年が起こした異常霊波などただの切っ掛けに過ぎなかった事を。亡命者に紛れて列車に乗り込んでいた人造体。その体内に隠されていた数々の次元霊。それらを発動させる始動装置に利用されたに過ぎなかった事を。確かに連中は少年を奪うために来襲した。けれど瀕死状態にあったあの少年に何の罪があろう。その少年を護る事こそ我らの使命だったはずだ。乗客を護らずしてどうして鉄道職員と言えるか。それを力が及ばなかったからといって他人のせいにするなど恥知らずもいいところだ。だから、そんな薄弱だからこそ、やつらに荒野の支配者とも言われる霊電艦陸航列車を破壊されてしまったのだ。 そう、やつらの名はこう呼ばれている。

『汚れし世界を憂える青き法衣の聖者たち』

 自らの肉体に神が宿ると信じ、悪意に満ちた世界を浄化せんと唱える異端者ども。グノーシス派の反宇宙論をより狂おしく進化させた強固な反秩序思想を掲げる霊能結社。その残酷さをも正義と捉えて何の疑いも持たない狂信者。我々はその下っ端にすら敵わず、兄はその者になぶられ、息も絶え絶えに最後の決断を下したのだ。

『サラ・・すまない・・』そう言い残して最後の霊力を振りしぼり、デューク・アルバトロスⅡの第四車両を接合分離させた兄。

『総員退避せよ!』と断腸の思いを叫ぶキリング艦長。泣き叫ぶわたしを無理矢理引きずって避難させたセシリア。

(また、あの時と同じだ。・・わたしは何もできないのか・・)

 襲いくる触手。その霊体をかわし、腕に霊素を纏わせて手刀を放つ。裂帛の気合いとともに放たれた開放技、蟷螂斬。だが、その渾身の一撃すら僅かな傷を与えたに過ぎなかった。すでに数ある闘技霊術は出し尽くしている。なのに、その全てが強固な霊体に阻まれて為す術がない。あれから七年。自分なりに研鑽を積んできたのに、またしても敵わないのか。兄の仇アレッジォ・バッサーノ。全ての技を跳ね返すその強靱な霊体はいくら霊門の開放度を高めても圧倒的な力差を思い知らせるがごとくびくともしない。何人もの霊撃手が憑依武器を手に幾度挑もうと、かすり傷つけるのが関の山だ。隣で噛みあわない歯を鳴らすジェシカの顔には諦念とも取れる呆然と、あるいは押し殺さんと恐怖に耐える痛々しさが窺えた。忍びよる死への予感に精神は限界を越えつつある。それでも霊の宿主はその姿すら見せていない。なのに、これほどの霊体顕現。甲板中を覆い尽くす無数の霊触手が蠕動し、霊撃手たちを次々に絡め取り、その身から霊気のみならず精気まで吸い取っていく。我々に待っているのは緩やかな処刑。これでは餌になる為に出てきたようなものではないか。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。サラは悲壮な気迫を込めて再度相棒の名を喚起した。(天華蘭女ベルベッサ・ベル・ダラニダーラ!)

 二十八番開放技、鉄鋼花鞭!

 霊力を振り絞り、相棒の霊波と共鳴させる。そこから繰り出される花びら状の霊素がみるみる硬化。それがしなり敵を切り刻む。が、すぐにも新たな霊素が禍々しさを形づくり、すぐに形成を押し戻す。その魔手がジェシカを捕縛。つんざく悲鳴を残して彼女も目の前から消えた。他の車両長たちもすでに捕らわれの身となっている。救出は一刻を争うというのに絶望に膝が笑う。このまま屈するしかないのか。・・そんなのは嫌だ。

「ベルッ!・・」サラは相棒の名を呼びながら再び霊力を注ぎ、拳に集中させて煌めきを帯びた突破の連撃を叩きつけた。

 即ち、三十一番開放技、蓮華散乱撃。

 それがもはや限界だったが、それすら有効な痛手を与えるには至らず、逆に棘の切っ先が掠めていった。ただそれだけ。避ける事もできず、棒立ちに構えていたところへ激痛が走り、苦悶に捩れた。気づけば肩口が朱に染まり、血が噴きあがっていた。激痛と失血。冷汗が滲む。背から半身を乗り出して融合している相棒もまた苦悶に歪んだ。宿主の痛手はそのまま霊命に出力回帰となって降り掛かる。しかも追い打ちと無数の触手が襲い掛かってきた。その触手の一つが爆炎多頭竜の形態を姿づくる。竜型次元霊類らしいの獰猛な顎を開き、骨まで砕かんと牙を剥く。さらに別の触手が飛翼竜霊獣と化す。B=6の霊獣だ。鱗に覆われた竜獣形態の口から毒性の高い霊素を吐き出さんと鎌首をもたげる。どうやら過去に捕食した霊類らしい。それを自らの力として反映させるとはなんともおぞましい霊質だ。恐らくA=2クラスの次元霊、獄龍妖花が高位霊能者と融合した事でより凶悪化しているのがこの姿なのだろう。その牙が眼前へと迫る。なのに体は失血と霊力の乱れに鈍化して思うように動かない。これでは攻撃を回避しきれない。死への戦慄が走る。肉を潰される音までが聞こえてくるような気さえした。無惨な姿を晒す事への悔しさが込みあげ・・そして覚悟を決めかけた。

 ・・その刹那だった。

 突然、目の前に煌めきが起きたのである。それは迸る無数の閃光と空を切る銀色連鎖の軌道だった。それが縦横無尽に駆け巡り、禍々しい触手を裂き、あるいは砕き、妖花の魔手から次々に仲間を開放していった。幾度と苦戦してきたあの強大な触手をまるで雑草でも刈るように無造作に破壊し、蹂躙していく。続いて無数の光が炸裂し、花を舞いあげる嵐のような霊流渦に包まれた。淡く輝く花弁のごとき一つ一つが細かい白刃の粒子となって瞬く間に黒い霊素を圧倒していく。それは銀と金の光子流。そこに婉然と姿を現したのは金色に輝く少女である。そしてもう一人。銀色の髪を輝かせ、白き聖母の法衣を翻し、壮絶可憐と舞い下りてきたのは、

 あの少年に他ならなかった。

「あぁ・・あなたはっ!・・」

 思わず歓喜に震えた。それは鼓動の高鳴りか陶酔か。それほど美しく散華する霊燐の花。その渦中に立つ少年。それは自らも目指すべき練達の域。四十番開放技。桜花乱舞ではないか。だが、これほど美しく凄絶な技は見たことがない。少年の朱唇から遠慮がちに零れた技の名に、さらに脳髄が憧憬に打ち震えた。「桜花乱舞に爪牙旋風脚を合わせた技です」

 即ち、四十番外技。百花繚乱。

 まさか瞬間移動すると同時に霊気霊波の全力融合を成し遂げ、あまつさえ技を同時発動させたというのか。その域に達するにはどれだけの苦行を積まねばならないのか。それは想像も絶する荒行になるだろう。それでも到達できるか解らない。それをこの少年は小手先のような感覚で行使してみせたのだ。あまりの非現実さに嫉妬さえ感じない。旋風脚や桜花乱舞でさえ達人技。そこには霊術操技の熟練も要求される。その二技を同時に繰り出すなどもはや感知の及ぶところではないが、それより問題は、真っ直ぐと向けられている、そのなんとも言えない純に美しき双眸だ。それがすごく照れたようにこう言うのだ。

「来るのが遅くなってすみません……」

 ・・果たして、

「じっとしてろ」と言ったのは自分である。「役に立たない」と言ったのも自分だ。

その心を傷つけ、いたぶったのは自分の卑しき矮小さだ。なのに少年はまだこんな表情をしてくれる。卑屈など微塵に吹き飛ばし、痛みも忘れさせ、血の躍動を感じさせるのだ。サラは重圧に負けていた事を悟り、自分の弱さを恥じた。少年の純な瞳はその弱さも抱擁してくれている。おかげで少しは勇気も湧いてきた。それは決意を秘めた慈愛のような活力。とても甘い心地もする。なぜか耳まで逆上せて熱くなる。というのに、その様子を勘違いするも甚だしく鈍感も素通りして、少年はいたく心配しだしたではないか。

「あっ!もしや霊の毒素に当てられて熱でもあるのではありませんかっ!」

 そうじゃない。もう少し大人だったらな、と失望する。気の利いた言葉もなし。

「顔色が優れないようですが、ご気分でも悪いとか?ラーミアの霊素は幻覚も見せます。微弱で構いませんから霊素を遮断するように霊波を纏って下さい。それで幻覚は見ないはずです。硬い霊体は霊力開放を出来るだけ鋭くすれば切れるでしょう。あっ!肩を怪我してるじゃありませんか!痛くないですか?そりゃぁ痛いですよね。僕のせいだ・・」

 少年はオタオタと説明し、

 オタオタと勝手に狼狽してくれた。

 その間もずっと碧洋色の瞳が心配そうに瞬いていた。きっと知らないのだ。そんな心遣いがどれだけ女心を嬉しく揺さぶるのかを。

「だ、だ、大丈夫ですわよっ!」

 思わず怒るようにそっぽ向いてしまった。

 ちょっと後悔した。少年はますます申しわけなさそうにしている。

(あぁ・・困らせてしまったかしら・・)

「ご忠告は感謝いたします。・・だから、もう心配しないでくださいまし」

 ちゃんと開き直って答えたら少年の顔がぱーっと明るくなった。そんな嬉しそうにされたら、まともに向けなくなるじゃありませんか。サラは早まる鼓動を感じつつ、なぜか、セシリアの憎たらしい顔が脳裏に浮かんで苦笑した。さらに少年の隣にいる今にも噛みつきそうな霊命を見て肝を冷やして目を逸らした。その目が少年の胸にあるメダイに向けられて釘付けになった。聖母のペンダント。緻密な彫り物。磁界石製の装飾品。そこに記された『№4』の文字に衝撃を受ける。法都を守護する騎士の中には教皇からメダイを授けられし者が十二名いる。必要悪の聖職者。それらを統べる嘆きの聖母の十二使徒。人智及ばぬ力を持つその者たちは反秩序主義者のみならず裏社会に潜む者たちからも恐れられ、密かに畏怖を込めてこう呼ばれている。『メダイの十二騎士』。

 その頂点に立つジャネット・テイラー騎士団長を筆頭に、熾天位騎士、智天位騎士、座天位騎士の称号を得た十二名によって法都の騎士団は統率されていると聞く。

 アレックス・テイラー。

サラは憧憬を持ってその名を反芻した。その名はシスター・ジャネットの跡目を継ぐ者という意味なのか。あの大聖天位を継ぐ者としての。パーティー会場に残してきた分離体から盗み聴きして大体の事情は把握している。今や慚愧に耐えない事だが、なのに少年はそんな事はまるでなかったように、ただ真っ直ぐと敵の所在を見つめているだけだ。

「テロ請負人のバッサーノ・・霊喰いの・・アレッジォはこの僕が仕留めます」

 ただ一言そう言って、さっさと相棒とともに姿を消してしまう。

 ・・そして舞台は一転する。

 ここは普段なら霊電光が盛んに飛び交っているはずの陸航列車の心臓部。つまり霊電磁界駆動の機関内である。だが、今や、その巨大機関は鳴りをひそめ、活発な動力変換もほとんど停止している状態にあった。

「ふふっ、爽快だねぇ・・むしろ、ここまで完膚なきまでにやられると・・」

 第四車掌とその霊命が半眠状態で同化している巨大結晶炉。それを前にして、あの青年技師のエドガーことアレッジォ・バッサーノは苦悶と喜悦の入り交じる笑みを浮かべていた。やはり今回は運がいい。この列車に在する霊能者で自分に比肩しうるは、せいぜい灼炎公女か、腹黒野獣か、あの鉄血将軍くらいと思っていたが、お望みの獲物がまっ先に姿を現してくれた。その少年が霊燐の刃を放ち、目前に迫って来ている。しかも瞬間移動と同時に炉心に融合させていた霊触手を尽く寸断してくれるとは味な真似もしてくれる。まもなく第四エリアの守護霊命は理性を取り戻すだろう。それは構わない。目当は最初から列車の破壊ではなかったのだから。バッサーノはゆっくりと待ち人のほうへ振り向こうとした。だが、その悠然さが油断であったと気づかされたのは次の瞬間である。

 ・・・・・っ!

 そこへ連続の蹴脚が襲い掛かってきた。

 二十九番開放技。爪牙旋風脚。

 それを軽く交わしたつもりが次には砲撃のごとく突き出された突破の型。即ち崩拳が待っていた。十番開放技。天突波である。基本技だが、だからこそ練達の者が放てば破壊力はそれなりになる。鳩尾に激しい痛みが走り、その連撃にさしものバッサーノも目を剥いた。一撃一撃に込められた霊刃が霊力を確実に削いでいく。しかも跳ね飛ばされた背後には金色の霊命体が待ち構えていた。なんと、その両手に握っていたのは500M弾を五発装填するS&W社製、対霊能者用大型回転式連発拳銃『M500ファントムモデル』通称、邪眼キラー。銃身10・5インチもある化物ピストルだ。それが隙を狙っていた。

 ドンッ!ドンッ!

 立て続けに連射の火が噴き、シェラの霊波を帯びた陽子性結晶磁界銀弾がラーミアの霊本体に撃ち込まれた。霊は絶叫の咆哮をあげ、バッサーノは激痛に歓喜した。こちらの反撃を許す事なく冷徹に霊力を砕き、分離しながらも霊気霊波を巧みに操って翻弄してくる戦術はまるで高位霊能者を二人同時に相手しているようなものだ。バッサーノは連発拳銃の射線から逃れようと宙へ飛んだ。今度はそこへ三十五番技。爪牙鷹翼蹴が叩き込まれる。その反動で床に落下。しかも空間転移術がすでに発動されていた。ぽっかり開いた空間へ放り込まれたバッサーノは為す術なく転がりながらラーミアの本体ごと駆動部外の甲板へ蹴り飛ばされていた。息つく間もない連続技。それでもまだ余裕を浮かべているところは流石だろう。その苦悶には恍惚さが増している。その姿にサラの瞼が震えた。忘れもしない兄の仇。だが、その目が捉えているのは少年の姿だけ。敵の眼中にも入らぬ自分の力量には忸怩たる思いだが、再び周囲に満ちてきた禍々しい霊素に戦慄するほうが先だった。

「まったく、挨拶もなしに殴るは銃をぶっ放すは・・随分な育ち方をしたもんだね・・」

 その戯れ言をアレックスは無言の対峙をもって一蹴する。

「やれやれ、七年前の倫敦以来だというのに。といっても、僕はあの秘奥の儀式には直接関わっていなかったから、お初にお目に懸かります・・かもしれないけれど・・」

 眼鏡を外し、相好を崩す表情に微かな変化が現れた。作りは同じでも、そこには何かに魅入られている別の一面が現れ、碧色の目がすっと変色する。左右の色の異なる瞳。次元霊と融合した者にのみ発露する変形体質。  次元霊を使役し、操る邪眼である。

「法都守護十字聖騎士団の名において貴様の霊を狩らせてもらうぞ」

「ほう・・言うようになったねぇ・・」

 抑揚のない喜悦を浮かべるバッサーノ。

「秘奥の儀式とは何のことです?」

 と続けてサラ。

「おや知らない?まさにアレックス君の過去にまつわる秘話なのですが。かつて、この僕が籍を置いていた青き憂聖団が行いし、忌まわしい大霊術のことを・・」

「・・・・・・・・・」

 アレックスは答えない。シェラも無言で銃を構えるが、その射線上には気を失ったままの霊撃員たちが数名いて、この位置からでは無闇に発砲できない。サラは問うた質問を後悔したがもう遅い。

「では、ゆくりと教えて差し上げますよ」

 と、その唇が愉悦に綻ぶ。

「それは霊的宇宙記憶を手に入れるための・・大いなる霊術式・・」

 びくっとアレックスが反応した。その単語。それは古の魔術。それらの系譜へ遡る事で見えてくる異端者どもの唱える理論。世界樹たる宇宙はそのものが神の器であり、全ての霊的存在にはその一つ一つに神の記憶が分散されて秘匿されているという論理。そこには『全ての始まりから終わりまで』が記録されているという途方もない推測。それを紐解く事で過去を知り、未来を予測する事も可能になるという荒唐無稽な夢想。

 だが、その神の計画を記す形なき教典の存在を反秩序原理主義者たちは信じ、

 それを『霊的宇宙記憶』または・・

『生命の樹の秘奥の柱』と呼んで崇めている。

「そんなものは狂信者の戯言以外の何物でもありませんわ!」

 サラは頭から切って捨てた。バッサーノはただ何かへの陶酔のみを見せている。

「その霊術式は幼い霊能者たちを虐殺し、その肉体から解き放たれた霊を受霊体に定着させる事を目的としていました。それは、言われなき理由で殺された霊を一つの魂に融合させて遺伝子内に潜在する霊的記憶を恐怖によって呼び覚ます生贄の儀式だったのです」

 冷え冷えとする声だった。その声にアレックスは明らかに狼狽を見せていた。バッサーノの饒舌に蝕まれ、平静を保てなくなっているようだ。その顔は青ざめ、膝は震え、そこに思い出されているのは過去の恐怖に他ならない。一人だけ生き残り、全てに対する絶望を味わった後、さらに少年を待っていたのは地獄の苦しみとも言うべき受難だった。無数の死を固定する大いなる霊術紋。確かに、そこは何か大掛かりな術を行う部屋だった。

「そこで彼らは少年の体に、ナノ磁界石粒子で造られた人造体液や様々な霊術装置を移植したのですよ。その一つ一つに怨霊が宿るようにね。もちろん、それらの装置は彼の魂に直結されておりましたよ。つまり解り易く言うと通常では考えられない大規模な複合霊合をわざと引き起こさせた。というわけです」

 アレックスの動揺がさらに激しさを増す。サラは真っ白になりかける頭の中で思い返した。確かに少年は複合霊合による異常を来していたと当時の報告書には記されていた。少年が児童誘拐虐殺事件の唯一の生き残りである事もである。だが目を通す事が許された内容はそこまでだった。まさか、その奥底にまだこのような鬼畜な事実が残されていたとは思いもしない。バッサーノがさらに続ける。

「そして、それはある一定のレベルで成功を収めたのです。思惑どおり、アレックス君の体から発せられた特定周波の霊言コード。それを解読すると、それはまさに、この世の変革を求める者たちにとっては福音たりえる聖典・・そう、その欠片だったのですよ」

 恐ろしく陰陰と冷えきった声。開陳される過去の残酷にサラは言葉を失い、ただ、その身を凍らせるしかなかった。当時まだ九歳そこらだった幼い少年に起きた悲劇をただ言葉通りの非道として受け入れる事など断じてできないが、かといって、それを頭で理解するには心の拒絶も大き過ぎた。人が行える残酷も限界を超えると、そこには怒りさえ湧かないのか。人智を凌駕した存在さえ感じてしまうのはなぜだろう。もはや手の施しようもないと諦めるしかないのか。いや、それは否である。ここにいる少年の怯えた顔を見よ。誰かに助けを求めんと苦悶するその濁りなき瞳に心打たれよ。それは眠っている勇気を揺り動かすには充分な原動力ではないか!・・今、語られた事は神の名を愚弄する身勝手な詭弁でしかない。サラは今にも噴火しそうな怒りの導線を手繰り寄せるように心の痛みへ直視を向けた。それを煽るように、さらにバッサーノの独演は続く。その後はいかに少年が狂信者たちに体中を弄り回されたかという残酷が語られた。ナノ粒子を流し込まれ、発狂するほどの苦痛にのたうち、先に死んでいった仲間の霊に蝕まれ、二百名以上もの犠牲者に魂が捧げられた事を物語る聞くもおぞましき奇譚である。それを淡々と語る男のどこに人間性が感じられよう。人としての心を微塵も待たぬ男への怒りが、やがて自ら抱く理念に結びついていくのをサラは感じていた。それは霊と関わる者だからこそ生きている間に人としての大切な物を多く得ておきたい。それこそが霊的進歩を成し遂げさせる養分であり、それを求める事こそ人としての本来の願いであるという考え。そこにこそ神の福音は存在するのではないか。おかげで自分が人間だった事を誇りを持って再認識させられた。

「おかげで前世紀の失われた文明の断片を知る事ができたのです。なぜ空間変動が起きたのかを語る伝説の裏付けがなされ、人為的に空間を繋ぐ時空穴を発生させる科学式に失敗したという真実が証明されたわけです。それだけでも大進歩です。知ってますか?その穴を時空の虫食い穴と呼んでいたそうです。信じられますか?人類は宇宙を航行する術を確立する一歩手前まで発展していたのですよ。汚れきった地球を捨てて人はさっさと広大な宇宙へ乗り出そうとしていたのです。だが神がそれを許さなかった。人類はまたも古代バビロニアの愚を犯し、審判を下されてしまったのです。この世界はさしずめ流刑地、方舟に乗って漂着したアララト山といったところでしょうかね。そうそう、その大掛かりな穴を発生させる装置はこの世の何処かに転移して存在している事も彼の霊言は語ってくれたそうです。もしかすると人類は再びバベルの塔を築けるかもしれません。ですが・・まぁ・・そこでアレックス君の肉体が耐えきれず、一度、死んでしまったのですが・・まことに残念でなりませんよ」

 まるで実験動物がくたばったかのような言い草だった。今回はここまでできれば御の字とでも言ってるような全く違う次元で言い訳をしている軽薄な結論。アレックスとはそういう存在だったという証である。だが事実その通り。そこで、やっと息絶える事ができたのだから。遠退く意識の中でアレックスが見たものは幾重にも重なる世界だった。荒野の砂に埋もれていく時間と空間。その中ある悠久。だけど脆い世界のストラクチャー。

「前世紀の遺物を復活させる。そんな些末な事のために多くの命を弄び、その挙げく、そんな下らない妄想を突き止めただけなんて最低最悪も甚だしい能なし集団ですわね」

 静かに滾る魂の叫びを耳にした気がした。

「人の世とは所詮・・他者の不幸を糧に生きている愚者の集りにすぎませんよ」

「それは狂った者の理念でしかありません」

 誰かが自分たちの事で怒りを露わにしてくれている。その事実に心が震えた。やっと誰かが許してくれた。そんな気さえした。だけど僕はどうしようもなく汚れているんだ。

「しかも、そんな戯事が真の目的でもなかったのでしょう。憂聖団がそんな前世紀の文明を求めるには、もっと他の、もっと、おぞましい欲望があったはずです。ちがいますか。・・そんなものを復活させても、きっと世界は元には戻りませんもの」

 サラはまだ言葉に冷静さを保つ事ができていたが、過去の禍々しい記憶に体を震わせている少年を目の当たりにして心は砕けんばかりの痛みに喘いでいた。しかも少年の周囲には黒い霊気の渦が起こり始めているのが霊視しなくても解るくらいになってきている。

「えぇ。そんな文明復活の夢想を追いかけているのでしたら、彼らも反秩序派国の愚かな指導者たちと変わりませんからね。奴らはもっと醜い狂者です。そんな彼らが求めているのは霊的存在と生命の完全なる一体化。新たなる世界の構築。それが奴らの理想です」

ある意味それは理想だが、まだ反秩序派の政治指導者たちの夢想のほうが遙かにましに聞こえる狂言である。その核心の示す先の滅びの栄光は誰もが容易に想像できるだろう。

「その為にはもう一度、完璧に空間変動を起こす必要があるということ。そして人類は神より知恵と力と慈悲を与えられ、地上からから抜け出し、高位なる霊存在へと昇華する。即ち世界は真の主の楽園へと向かうそうで」

「何を勝手な!あなたたちに世界の理を変革させるどのような権利があるのです」

 ついに決壊した怒りをバッサーノはひょいっと身を交わすようにいなした。

「いえ、僕はどちらかというと、もう少し現実的なほうですよ。今はただの請負人ですし、フリーの霊能者ですから切実です。テロから暗殺、時には護衛も金次第。金払いさえよければ公社側に寝返る事も可能。なんならアレックス君の護衛を引受けてもいい。彼の身柄を欲している国家、宗教団体、秘密結社、財団など数え上げたら切りがない。連中にとって彼はまさに聖杯と同等の、いや聖杯そのものの価値ある存在なのですから。でも・・」

「どこまでも勝手なことを・・」

 サラの怒気をバッサーノは完全無視。

「てっきり死んだものと思っていたら複合霊合者になっていたとは驚きです。まこと聖杯としての価値が生まれてしまった。それは救世主の血を受けた伝説の神器という意味ではなく、誰もが欲してやまない真理をその身に宿し、人類に未来をもたらすかもしれない存在という意味です。そこには僕も興味を引かれてやまない。多くの報われない魂の受杯となった彼はそういう霊的集合体なのです。だから憂聖団も取り戻そうとしたわけですよ。でも失敗しましたけどね。その後はまんまと法都へ逃げられというわけで・・」

 霊能者の在り方には様々な特質がある。レモンのような霊媒力をもって術に役立てる者。霊的存在の力を借りず自己の霊力のみで様々な霊術操技を極める者。または術具を駆使して霊命を使役する者や、バッサーノのように次元霊と融合して高い霊力を得る者。同じく霊命と融合している者たち。その霊合者にも種類がある。サラのように生まれた時から守護霊命を宿している者を先天的霊合者といい、セシリアのように死からの蘇生によって魂魄融合を果たした者を後天的霊合者という。アレックスはそのどちらでもある。生まれついての守護霊命は今、魂内で眠りに就かされ、その上でシェラとの魂魄融合を果たしている。そのような者を複合霊合者と呼ぶ。だが、アレックスはそれ以外にも無理矢理に多くの霊を移植融合させられている。

 ただの複合霊合者ではない。

「さすがに法都を護る十字聖騎士団を相手にするのは憂聖団でも荷が重かったのでしょう。おかげで他の組織にも機会が巡ってきたわけです。やっとアレックス君が法都を出てくれましたからね。本来なら法都守護騎士の幹部連中がなんらかの処罰を受けるところ、さすがに守護者たちを更迭するわけにもいかず、司教どもはアレックス君に責任を押しつけ、半永久的な追放処分とする事で厄介払いをしたという事でしょう」

「まさか……きさ……どこで、それを……」

 シェラがさっと顔色をなくす。

「教皇の死が、実は人為的な・・そう、例えば暗殺されたという噂があります」

「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁ・・ぁっぁぁぁ……」

 アレックスが錯乱した声をあげるのと、

 サラの愕然とした声が同時だった。

「あなた、今、なんと言いました!?……」

 先の教皇クレメンス十八世は病没と発表された。長年煩っていた霊障の病が原因によるものと世界に報じられたのはつい三ヶ月ほど前である。だが真実は異なるというのか。もし、そうだとすれば、それが与える影響は確実に世界を浸食する。教皇の死はいずれ訪れる決定事項だったかもしれないが、それが人為的によるものとなれば世界に及ぼす影響も計り知れない。それは薄氷面に巨大な一石を投じる事にもなりかねない。事実とすれば公社も今後の対策を考えねばならないだろう。そしてアレックスの錯乱が何よりその事実を物語っている。

「その事実を極秘に報せる事と、アレックス君自身の措置を公社に委ねる事が目的だったのでしょう。それをここで言っちゃったりすると、もしかすると霊術による記憶操作の術式に乱れが生じるんじゃないかと、まぁ、それを期待してはいましたが、まさか、こんなにも簡単に崩れるとは……」

「きっ……貴様ぁ……うしてそれを……」 シェラが目を剥く。

「そうでもしないと霊術戦において勝つ事など不可能ですし、拉致するなどとても無理です。死因の噂は一石二鳥となりました。国連総会は反秩序派国に対する警戒を強め、それを受けて反秩序派諸国も慌ただしく欧州に部隊を展開し始めている。紛争にまでは発展しないまでも緊張は高まり、アレックス君の存在に危惧していた法都の司教どもも、これを機に体よく彼を追っ払ってくれた。これで好きなだけ手が出せるって寸法ですよ」

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

「アレックス!」

 もはや別人の顔だった。光子流が激しく乱れ、曖昧模糊とした霊素が次々と溢れだす。「だめだ……アレックス……」

 シェラが血相を変えて霊術操技を展開し、その霊素をもって霊術紋を描く。

 封霊紋である。暴走しだした霊気を押さえ込もうとしているのだが、

「わらわが完全憑依しないのはこのせいじゃ。多くの霊の宿主となっておるアレックスの魂はいつ暴走してもおかしくない。わらわまで憑依した状態になれば霊力消耗は限界を超え、何が起きるか知れたものではない。それを押さえる霊力を補充する為に、わらわは魂魄融合したのじゃ。それでもの……アレックスには生きていて欲しかったのじゃ……」

 シェラが浮かべる涙は人とはちがう霊素の涙である。だが、その訴えに心揺さぶられない者がいるだろうか。彼女とアレックスの関係を知らなくとも、その絆の深さは窺える。現場へ到着したセシリアとギースもその状況に絶句した。サラもすぐにシェラを支援すべく霊術操技を展開し、霊力を注ぎ始める。他の者も同じ行動を取った。霊力暴走。それは異常霊波を発生させ、次元霊には格好の環境を造りだす。サラの脳裏に再び七年前の悲劇が浮かんだ。それだけはなんとしても避けねばならない。支援を受けた封霊紋が力を増していく。それでも魑魅魍魎と溢れ出す霧状の霊素は止まらない。そしてバッサーノがこの機を逃すはずもなかった。体から霊触手を一気に放出させて攻撃を再開する。ジェシカたち五名の車両長たちが憑依武器を発動させ、その攻撃の前に立ち、霊力全開で襲来を跳ね退けようとするが周囲に立ち込める圧倒的な霊圧に押され、そこに立っているがもやっとといったところである。そこへさらにラーミアが毒々しい花をその茎に咲かせ、毒性のある霊波の矢を無数と射出し始めた。

 三霊門開放技。魔弾の射手である。

 ジェシカたちはかろうじて致命傷を避けたが、もはや立っているのも精一杯であった。

もちろん他の霊撃員たちも立ち向かっていったが、やはり誰もが太刀打ちすること叶わず一人また一人と膝を屈していく。

 そんな中、アレックスの身を包む禍々しい霊素が無数の姿を形造っていった。

「こ、これは・・なんということ・・」

 サラの全身が悲しみに震えた。アレックスの頬を涙が伝う。シェラの悲壮とも言える声が真実を告げた。いや、もう解っていた事だ。バッサーノの話を聞けば解っていた事だが、誰もが心の中でそれを否定したがっていた。 それは……

「虐殺された子供立ちの怨霊じゃ。この中には、わらわやアレックスと親しかった者もおる」

 誰がこのような悪逆非道を許せるだろう。何人がこれを是としえよう。それでも神はこの行いを裁かず、少年に業苦を強いる。張り裂けそうになる心が怒りを越えた。霊力の奔流が一気に流れ、シェラの霊波に混ざり込む。それは少年に対する想いの同調が起こしたミラグロか。溢れんばかりの煌めきがサラの相棒ベルの霊波を爆発させた。緑光を放つ霊体が甲板に溢れ、青々とした葉が茂り、大輪の花を咲かせる。その中央にあってベルとサラが重なり、まるで歌うように清浄なる霊波を放出する。蔓延る禍々しさを押し流し、乱れた霊磁場を押さえ込む。その中でアレックスは朦朧と過去の死を見つめていた。

 あの時、本当は死ぬはずだったのだ。

 セシリアさんと師匠が助けに来てくれた時、僕は今のように暴走し、異常霊波を巻き起こし、数え切れないほどの次元霊を呼び寄せてしまっていた。次元霊は無数の亡骸に巣くい、たちまち大規模な霊汚染を引き起こし、巨大な霊獣を誕生させた。それが街を破壊した。死せる僕を中心とした異常霊波が、怒りにまかせた怨霊の集合体が、倫敦の郊外を殺戮の場に変えたのだ。そして僕もまた怨霊となって滅びるはずだったのに、なのに、そこで僕にだけ声が聞こえてきたんだ。

『それが我々の生きる歪んだ世界の本性じゃ』

 そんな声がしたんだ。

 当たり前のように死は訪れたのに引き戻されてしまった。・・だけど、もうその時には恐怖などなかった。残されていたのは全てに対する諦念でしかなかったのだから。

『だからもういい……・』

 でも本当にそれでいいのか?と自問した。すでに感覚は地上になく、宙に浮いていた。そんな感覚に続いて奥にある核に向かって収縮していくのが感じられた。その後に驚いた。目の前に星の大海が広がっていたのだ。宇宙と呼ばれる場所を実際の目で見た事はないが、その遠き星々の幻影が宇宙というものを感じさせた。意識が遠退き、一瞬で何千光年の彼方へ飛んだような感覚に襲われた。

『ここは・・?』

 微かに見えるのは重複して歪んだ世界。

 するとまた声がした。

『今、おまえは魂の霊門の前に立っておる。生者が死ねば誰もが元の魂へ戻り、その中にある幽玄の宇宙へ続く。そしてまた新たな生を求めて旅に出る。即ち死とは恐れるべきものではない。死は滅びではなく、また始まりなのだから。わたしは霊命だ。霊命もまた転生を繰り返す。おまえのよく知る少女は、わらわの一部であった存在。それが元の姿へ回帰したに過ぎぬ。だから悲しむではない』

 それは厳かに響く女性の声だったが、確かに聞き覚えがあった。謙虚の欠片もない傲岸さに満ちていたが、確かに聞き覚えがあった。でも何を言っているのかさっぱり意味が解らなかった。悲しむなと言われても……

 悲しいに決まっているじゃないか。

 でも、その本当の意味が理解できたのは、 それから随分と後のことだった。

『じゃがの……そちは、このまま死んで納得できるのかや?』

 おかしな喋り方をするなと思いながら問いかけに目を閉じた。心の叫びはこうだった。やがて意識が元の場所へ戻された。何も感じない。ただ冷え固まっていく。これが死なんだと実感した。浮遊している感覚の中から第三者の目で変わり果てた自分を見下ろす。その時になって気がついた。すぐ横に何者かが浮遊していたのだ。氷の彫像のように微動だにしない表情。その中に揺るぎない絶対を宿すその姿は自分のよく知る少女のものだったが、そのあどけない中には神木のような威厳と円熟した女性の色香を漂わせていた。まるで別人である。それは輝かんばかりに美しく畏怖堂々とし、他の言い方をすれば、たぶん腹をすかせた肉食動物が獲物を狙っている。そんな感じでもあった。だから直感で食べられるんだと覚悟した。けれど、その者の口から出た言葉は意外なものだった。

『……まだ生きたいよね? 悔しいよね……アレックス。……あたしは悔しいよ……』

 甘えるような・・懐かしいような……諭すような聞き慣れた・・お姉さん口調。

『ルシア!・・君は!・・』

でも少女は悲しそうに首を横に振るばかり。

『あたしは死んだ。今、ここにいるのは魂在となった本来の姿。それでも、あたしは、あなたの側にいたい。ずっと一緒にいたい。あなたが好きだ

霊命として本来の姿を取り戻すけど、この気持ちは変わらない。妹を助けてくれてありがとう。その気持ちも変わらない。だからアレックスにはもっと生きて欲しい。辛い事が沢山あるだろうけど、でも、あたしも一緒に苦しむから、どこまで力になってあげるから・・』

 そこで、かくんと何かが途切れた。

 あぁ・・もう・・僕の知る少女は今やそこにはいないんだと確信した。最後に声が聞けた事に心から感謝した。それは先ほどの天から降り注ぐように届いたあの婉然たる声ではなかった。自分より少し年上の幼なじみ。その気配が一瞬にして変化した。その姿は変わらない。でも何か根本が変化したように思えた。いや根本も変わってないのかもしれない。芽吹いたばかりの植物がたちどころに大木へ成長を遂げたような圧力が感じられた。その混乱する中で考えた。この期に及んで今さら生き返ってどうするのか?それでも思い残した事は多くある。それに何より君と一緒にいたい。そう思ったから迷った末に答えた。

『生きたい・・』

『ならば、おまえの半分をよこせ・・』

『ふぇっ?・・』

 少女はそう言ったのだ。それが後悔の始まりっだったのかもしれない。

『ルシア!そこにいるのはルシアなんだろ。どういうことだよ!』

 だが、それに応えたのは傲岸不遜な声。

 とても、あの少女だったとは思えない存在。

『先ほども言ったであろう。不思議な事ではあるまい。ルシアは死んで本来の魂形に戻ったまでだ。普通の霊だけが転生を繰り返すわけではない。霊命も滅びれば転生す。たまたま、おまえの友人として、おまえを・・だった女として生きていただけじゃ。フフッ!』

「えぇぇぇぇぇぇぇ!・・・」

 死よりも、もしかすると絶望に打ち震えたかもしれない。

『でもの・・その心は、わらわの魂の中でしっかりと息づいて喜びを与えてくれている』

 それに対して、

 こう問いかけるのが精一杯だった。

『じゃぁ・・ルシアだけど、ルシアじゃない君は、いったい誰なの?・・』

 聞かずにはいられなかった。どうせ死の間際の幻なんだと思い込もうとしたのに、それが契約になるなんて知らなかった。死んだ僕の前に現れた少女はこう言った。

『わらわの真名は天麟公主シェラザール・シャダルパ・チャンドラーヤ!』

 絶対に舌を噛むと思った。

『数多の生を繰り返し、三千大千世界を輪廻してきた大魂魄である!』

 大将軍が勝ち鬨をあげるような、

 まさに怒濤の名乗だった。

 

 そこで、やっと我に返った。悪夢でも見ていたような気がする。体が汗ばんでるのを感じながら状況を思い出した。意識を奪われていたのは一瞬らしい。記憶操作を無理に破られた事で霊力暴走をさせてしまったようだ。怒りが再燃する中でバッサーノの声を聞く。

「さて、話はここまでにしましょう・・」

 そう締め括り、指を鳴らす。これ以上話す事はないという意思の顕れか。聴衆の納得を確認する動作か。ともかく使役する霊への合図に違いなかった。弾かれた指から光子流の渦が起こり、燐光が爆ぜるように霊素が噴出した。それが忽ち形を成し、巨大な霊を顕現させる。その肉食植物を思わせる姿に内包されているそれは強いて言うなら西洋の悪魔にも似た者ども。それは猫、蛙、人、鳥、蛇などの顔を持つ、まるで古代の邪神がごとき禍々しい集合。地獄の底から生え出る魔界の植物のごとく触手を蠕動させ、その中に様々な霊の残骸を蠢めかせて迫ってくる。

「さぁ、大人しく私の物なりなさい・・」

 だが、そこでバッサーノも気づいた。アレックスの周囲にある今や百体以上もの霊命。それらの霊素には先ほどまでの呪わしさといった物が存在しない。それらの霊が発する霊波の色には確かな明るみが出始めていた。

「これまでの七年間、ただ無為に過ごしていたわけではありませんよ」

 溢れる声が殷々と闇へ反響したように聞こえた。他を圧倒する霊気。そこに霊力や心の乱れは一切感じられない。シェラとサラはそれぞれに安堵を浮かべた。周囲に散乱していた霊素がよりはっきりと実体化する。彼らのなんと清浄で美しいことか。

「・・なっ!・・どういうことだ?!・・」

 練達の霊能者でさえ、そこには理解を越える物があった。まさかあれだけの怨念を抑制する術を獲得したというのか。あれだけの数の狂える霊命を従えるだけの力があると。

 ・・ありえない!

「報われない霊を癒す事こそ霊道士の務め。当然の事です。だからこそ僕はこの道を選んだのですから・・」

 そして、それはシェラのために。

 この命は他の仲間やシェラも含めたみんなのもの。ちゃんと一緒に生きていけるようにしたい。それが本当の願。そして少年はそれを当然と言ったが、それが血の滲むような修行の成果である事は誰の目にも明らかであった。サラは背負っている物を殊更に見せようとしていた自分に気づき、この列車こそ守らねばと思い詰めていた気負いなどただの過去からの逃避でしかなかったとを思い知らされ、恥じ入るように頭が下がった。

「あなたに酷い事を言ってしまいました・・」 ・・なのに。

「謝らないで下さい。上手く言えないけど、サラさんは列車を必死に守ろうとしていただけです。その気持ちの顕れでしょ。それ、僕にも解ります。それに過去の悲劇が僕のせいじゃないとは言えません。それも事実。だから謝らないで下さい。だから、お願いです」

 そこで恥ずかしそうに笑った。

「僕も一緒にこの列車を守らせて下さい」

 そんな表情で見つめられると、どう言い返していいのか解らなくなるのに。

「助けてくれて、ありがとうございました」

 透き通る瞳が心を射抜く。清涼とした光に満ち、その笑顔が自分と一体となる感覚に溢れ、そんな気分にさせる少年が憎らしく思えた。それが、どれだけ卑屈になっていた心を救ってくれているかを、きっとこの少年は気づいてもいない。それが、この少年の当たり前の真心。その信念に満ちた双眸が改めてバッサーノへと向けられる。

「さすがに霊術を乱されて危ないところでしたが・・」

 周囲を包む封霊紋がその形を変えていく。

「あなたの雇主である企業体。その背後にいるのは恐らく・・啓明結社ですね」

 それは西暦1776年にアダム・ヴァイスハウプトによって設立され、滅びた後もその存在を噂されてきた組織。イルミナティの血を引く思想結社。その名にサラは刮目し、バッサーノは目を細めた。現代に甦った啓蒙主義者。彼らは秩序派諸国の政財界に巣くう闇の指導者とも言われるが、その実体は朧気である。ただ解っている事は過激なまでの秩序維持を目的とする極右翼的な思想の持ち主たちで、あらゆる宗教理念を廃し、霊科学のみを信奉しているということ。バッサーノがそれに答えた。「だとしたら・・」

「どうでもいい事です・・」

 アレックスは即答した。長年をかけて教皇の暗殺を遂げ、法都の動きまで把握できる組織があるとしたら、そんなのは青き憂聖団か啓明結社の私的軍隊『光の天啓傭兵団』くらいしか思いつかなかっただけである。

「ふふ・・その通りでけど・・私は正規の団員じゃありませんよ」

 バッサーノは愉快に笑うが、その目にはもはや戯れは存在していなかった。その間にも周囲を包む術紋がより複雑化し、より高度な加護紋への変換が速やかに行われていく。

「もう大丈夫。シェラ。ありがとう・・」

 微笑みに応える鮮やかなシェラの霊波と愚直なまでに清らかなアレックスの霊気が混ざり、なんとも雄々しく霊流渦が立ち上り始めた。霊門の最大開放がなされると同時に霊命たちの姿も大きく変化していく。

 五十番開放技。聖霊師団降臨。

 霊燐の翼はためかせる姿は神世の戦士が集いし光景に見えなくもない。現に数々の聖霊加護紋が甲板のあちこちに描かれている。

「・・いつも通りに支援を頼みます」

「こころえたっ!」

 闊達な肯定で霊磁場が形成され、シェラがさらなる霊術展開を進める。サラはその漲る霊力に圧倒されながら自分の思い違いを改めて悟らされた。彼らは完全憑依状態になれないのではない。別にそんな必要もないのだ。

互いの霊術支援だけで充分こと足りえる膨大な霊力。その持主だからこそなのだ。

「四十八番開放技。竜殺聖剣を全霊に同調させます。その準備を・・」

 アレックスの放つ銀色の霊気に反応しながら後を追うように金色の霊波が覆い被さり、円を描いていく。そして、まるで追復曲を輪唱するように、回旋曲を輪舞するように混ざり合い、煌々とした陽子空間を築くのだ。完成した空間はそこに在する霊力磁場を完全に支配している。まさに異常霊波とは真逆の空間と言えるだろう。つまり次元霊にとっては脅威的な環境となりうるのだ。みるみるバッサーノの顔から血の気が失せていった。

「霊的空間を造るだけでなく、これだけの数の霊を自在に操り、ましてや開放技の同調をなすなど不可能だ。・・まさか、これが・・」

 五十一番開放技。鎮魂の教会。

 続誦哀歌二番~『聖霊たちの晩餐』。

 やがて霊命たちによる霊音の合唱が始まり、その賛美歌のごとき響きが飛び交うなか燐光がまるで神に捧げる寄想曲の譜面を記すがごとく巨大な複合霊術紋を完成させた。

 即ち、それこそ、生命樹の秘奥の柱だ。

サラにはその秘奥が何なのかを図り知る事など到底不可能だったが、今や、その全身は畏敬にも似た震えに包まれ、なぜか溢れ出す涙が止まらなくなっていた。

 それは二人の想いが織りなす妙なる調べ。

 生と死を憐れむ悲しき旋律。

『銀と金の聖杯追想曲』なのだ。

 続いて無数に出現した霊命たちから光が弾け、ついに彼らの手に霊気の剣が握られた。聖ジョージの剣。その名を冠した技。どのような霊も切り裂き、蹂躙する倒魔の剣。霊のみ貫く尖鋭の刃。それが霊たちへ伝播していく。一方、迎え撃たんとするバッサーノは血相を変えて攻撃態勢に入った。蠕動する触手が一斉に牙を剥き、全力で襲い掛かる。

 即ち四十四番開放技。獄魔狼の百裂砕牙。 その切っ先がアレックスを裂き、鮮血をまき散らさんとするが、その傷は負った先からたちどころに消えていく。いくら攻撃しようとそれ以上に深手を負わせる事など不可能だ。そして迎え撃つは四十二番技。金牛青銅の盾。それは鉄壁の防御陣。その陣形はさながら古代ローマ軍の密集隊形のごとし。ついにラーミアの攻撃など全く通じなくなった。そればかりか『死者の教会』の支配下にあるためラーミアは既にその霊体のほとんどを稀薄にさせている。霊力を維持するための霊素を無数の霊命たちに吸収されているのだ。

「やめろ!やめろ!やめろぉぉぉぉ!」

 バッサーノの悲愴が虚しく散る。

「俺の目的は列車の足止めと汚染石の隠蔽だけだ。そのついでに天啓傭兵団に頼まれて、おまえをスカウトしに来ただけだ。はなから、命の遣り取りをするつもりなど・・」

「あなたが、これまで殺害してきた人たちもみな同じ恐怖を味わったはずです・・」

 アレックスはその命乞いを冷徹に切り捨てた。・・続いて。

「四十四番技。告死天使の十字架を発動!」

 バッサーノの凍てつく表情が完全に土気色と化すなかアレックスの十字架連鎖が変形を遂げた。その全長を大きく伸ばし、襲い掛かる獄龍妖花の触手を尽く跳ね返したかと思うと罪人を捕縛する鎖のように絡みつき、その本体を十字架へ吊るすがごとく持ち上げたのである。そしてとどめは一瞬だった。

「死を想え。灰より出でて灰に帰するを。汝、罪を悔い、地獄の業火に焼かれるがいい!」

 短く漏れた言葉を合図に霊剣を振り翳した霊命たちが一斉に突貫する。ラーミアはその霊体の深淵を貫ぬかれ、霊核を破壊され、そして飛び散った。霊の受けた痛手はそのまま回帰となって宿主にももたらされる。バッサーノは昏倒し、乱れた霊流渦に飲まれて姿を消した。融合元を絶たれたに等しい痛手である。暴走する霊流に引き込まれたのであれば肉体は霊界の彼方へ投げ出され、数多の霊の餌食にされよう。ただし、それを確かめる術はない。されど勝負は着いたのである。堰を切った洪水のように溢れ出ていた霊力は一気に収束し、アレックスもまたその場に崩れた。霊力を消耗しきっての昏倒だが、その体のあちこちには黒い斑点のような霊傷が浮き、それらが広がりをみせ、こびり付く怨念のように体を蝕んでいた。

「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・」

 あれだけの霊を顕現させ、霊門の全力開放を無数に同調させる無茶をやってのけたのだ。反動が起こるのは当然の帰結と言えた。どうしても残る怨念の残滓。その異常霊波が身を冒しているのだ。焼かれるような激痛に襲われているにちがいない。

「・・あ、あぁ・・アレックス!・・」

 苦悶に捩れる体に向けてシェラが慰霊術を施すが、それでは追いつかないほど霊傷は広がりをみせている。サラも相棒を通して霊力補強を行おうとしたが問題は霊力の極端な減少だけにあるとは思えなかった。このままでは命に関わること明らかだが生憎と霊医術の心得はない。どちらかというと、その逆の能力にこそ長けている。またもや未熟を思い知らされてしまうのか。少年の『守りたい』の言葉には命を懸けた覚悟が込められていて当前だった。過去を悔いてるだけの自分と、犠牲者の魂を背負って生きてきた少年とでは、その思いの丈も覚悟の重みも歴然たる差があろう。そのくらいの事にどうして気づいてやれなかったのか。これほど悲しい運命に囚われた少年を自分は知らない。

 誰でも背負えるものではないだろう。

(わたしは・・なんという愚物なのでしょう) 自分が呪わしくさせ思えた。

 医療班を引きつれて猛然と転がり込んできたレモンの姿がことさら眩しく見えた。

「無茶し過ぎですぅ!霊門全開で同時多数同調なんて霊傷が出て当たり前ですぅ!」

 医療班の到着に安堵しながらも誰かに託さなければならない忸怩に腹が立った。

「まったくぅ。ここまでする必要もなかったでしょぉ・・」

 その憤懣にセシリアとギースが答えた。

「それだけ彼の怒りも尋常ではなかったということよん」

「それに、もう二度とこの列車に手を出させないためにも・・でしょうね」

「なにを暢気なことをっ!」

 今夜、レモンの目が三角に尖るのは何度目の事だろうか。

「先輩がさぼってるからこうなるんですぅ!」

「さぼってるとは心外なっ!」

「そうです。少年の想いを汲めばこそ・・」 その反論を無視してレモンはアレックスに語りかけた。「でも、ちゃんと対処法はジャネットさんから聞いてますからね!」

 でも応答はない。

「さっさと彼を運搬車へ運びなさい!」

 命令された医療班が大慌てで担架に乗せる。シェラがすぐに運搬車の扉を開けて雪崩れ込むように押し入り、レモンの指示でアレックスを寝室のベッドへ寝かせた。それがいったい、どのような治療方法になるのか?

ただ、その部屋にある異様さには誰もが眼を見張った。それは室内の壁一面に貼られた無数の写真だった。セシリアが部屋の明かりを点ける。壁に貼られているのは写真だけではない。新聞の切り抜きやメモの走り書などもある。そのメモは孤児院や亡命者支援団体の住所や電話番号がほとんどだ。切り抜いた新聞も様々で、そのほとんどが亡命者に関する記事である。古いものはデューク・アルバトロスⅡの惨事から英国クーデターに関する物まで貼ってある。それらが無数の写真に埋もれて壁を覆っているのだ。だがサラの目には昨夜とは何かが違って見えた。室内の明かりが灯った事も原因か、昨夜感じた怨念は見えない。改めてそれを確認した様子のジェシカの目にもやはり悔恨の念が浮かんでいた。

「ずっと気に掛けていたんですね。その上で今も苦難を味わってる人たちの力になりたい。そんな気持ちで一杯です。なんだか泣けてきます。まだ十六歳なのに。他に楽しい事なんていくらでもあるのに。こんなに沢山の悲しみを背負って。自分が十六の頃なんて、休日に友達とどこへ遊びに行こうかとか・・そんな事くらいしか考えてなかったのに・・この部屋は悲しみで一杯に見えます・・」

 込み上げる物を我慢しているのが解るくらいの、そんな震えが伝わってきた。その目にみるみる大粒の涙が浮かびあがる。

「そうかなぁ・・?」

 レモンが微笑みかけるように呟いた。

「悲しみばっかには見えないですよぉ・・」

 今やレモンの周囲からは霊気が燦々と溢れ、仄かに輝く燐光がその身を纏っていた。それがポツポツ浮かんで、やがてアレックスの周囲に漂い始める。傷ついた霊の心を癒す霊媒の医術。レモンは厳かに十字を切り、祈りの言葉を口にした。アレックスが霊道士である事に合わせての鎮魂の術である。

「さぁ、みんな・・神の祝福とともに眠りなさいですぅ。そして、一杯の夢を見て愛を育んで、みんなで仲よく分かち合うんですよぉ」 優しく子供たちに語りかけるように。

「さぁ主の恵み、神の愛、聖霊の恵みが、みんなと共にありますようにぃ・・」

 祈りに導かれるように光はアレックスの体内へと帰っていく。キャハハと笑う子供たちの声が聞こえた。黒く覆っていた霊障の痣も薄れ、アレックスは静かに穏やかに安らかに寝息をたて始める。それを確かめてから、「だって、ここにある写真は・・」

「うん!」シェラが力強く肯いた。まるで自慢する子供たちを代表するように。

「わらわとアレックスの友達じゃ!」

「だから、みんなも、ここが一番安らげるんだよね。でもね・・それでも、やっぱり寂しかったんだよぉ・・きっと・・」

 静かに眠るアレックスにレモンは目を細めた。その寝顔を見てサラもやっと心からの安堵を覚え、決意を示すように引き結んでいた唇をやっと和らげる事ができたのだった。

「ええ、そうですわね。どれも素敵な笑顔ですもの。きっと、みんなに囲まれている時が一番安らかな時間だったのでしょう。それは素晴らしいこと。何よりも大切なこと・・」

まるで命の灯火を抱くようにサラは胸の辺りで手を結んでいた。壁一面の数え切れない写真はアレックスと同じ学校で学んでいた子供たちである。狂信者たちに無惨に命を奪われていった子供たち。その子たちの『笑顔』という名の形見の品である。メダイの騎士たちが霊信網を駆使して集めたアレックスへのクリスマスプレゼント。アレックスの横たわるベッドを囲んで誰もが笑顔を見せている。

 あははははははははははははっはは。

 あはははははっはははははははははっ。

 あはははははははははっはははっはっ。

 たくさん、たくさん、笑ってる。

 生きてるように笑ってる。

 力いっぱい笑ってる。

 笑ってないのは一人だけ。青いリボンの似合う二人の少女に挟まれて困ったような照れたような顔をしている幼い頃の男の子。

 サラはその写真の少年に向かって囁いた。

「わたしたちこそ彼らに負けない笑顔で、そして、いつか世界が本当の笑顔で満たされるように、頑張ればいいのですわ」

 それは受け入れの言葉。

 自分に対する。アレックスに対する。

 それは何よりの励ましの言葉。

 自分に対する。アレックスに対する。

 でも、今は聞こえていないだろう。

 それでもいい。いつかは気持ちが届くはず。

 そう思って満面の笑顔を浮かべた。

 涙でぼやけていたけれど、みんなが肯いてくれたのが、はっきりと見えていた。


 「終章 遙かなる軌道の彼方へ」


 次の日、すでに車内は平穏を取り戻していた。非常事態宣言はもちろん解除され、職員たちも通常の業務に復帰。車内を行く乗客たちも落ち着いた様子で、中には昨夜の事を噂している者もいたけれど、多くは今宵も催される車内のクリスマスイベントをどう楽しもうかという話題で持ちきりのようだった。

 そんな昼下がり。

 アレックスは、とある部屋を退出しようとしていた。その際いつも通り、頭を下げようとしたのだが、そうじゃないんだと思い直し、気恥ずかしそうに敬礼をしてからドアを閉めた。そこにあるプレートには艦長執務室と記されている。シェラもなんだかお疲れの様子。面倒な手続きが終わった事と、キリング艦長が思いのほか穏和な人物だった事に安堵しながら肩の力を抜き、それから、やれやれと通路のほうへ振り向いた。そこにはスコット・マクミランのそわそわした顔が待っていた。

「それで、どないやってんな?」

 他にもジュリア・スペンサー。ミーナ・ハルベリー。エリカ・スチュアートの三人がいて、同じように『早く結果を言いなさい』と目で合図を送っている。四人が知りたがっているのは試験の結果発表だ。すでに結果は出ていたのだが、正式な辞令を受けるまでは確信が持ててなかったので、なんとなく黙っていたのである。それに、ここに残って正解だったのかという疑問もまだなきにしもあらずで、そんな煩悶とするなか、悩んでもしょうがないのかな、とも思っていると、

 シェラからの霊信が心に届いてきた。

『・・今の時点で正解も不正解もあるまい。とにかく未来に責任を負える覚悟が持てるかどうかが重要なのであろう。覚えておくがよい。人間万事裁縫が上手いじゃ!』

 それを言うなら・・『塞翁が馬です』

『・・むう。裁縫が得意なら修道服も修繕できるというに・・』

 どうあっても過ちを認めないらしい。

 そんなシェラに呆れながら今朝の事を思い出してみた。今ここに自分がいる事に対して、まるで白昼夢を見ているような感覚にも襲われてしまう。・・そう、本当は、

 ここを出て行くつもりだったのだから。

 それには切実な理由もある。

 『霊的宇宙記憶』

 別名・・『生命の樹の秘奥』

 それが自分を孤独へ追い込んでいく最たる要因である。それは魂内に宿る霊的秘術の結晶としてこの身を呪縛しつつ世界からの注目を集め、あらゆる団体組織から狙われる宿命の素にもなっている。それに加え、自分が政治的なお尋ね者であるという立場も改めて考えさせられた。つまり、自分は無関係な人まで巻き込んでしまう恐れのある危険人物として存在しているということ。だからここにはいられない。と、そう思ったのである。だから今朝、空が白み始めるのも待たずに起きだして二通の書簡を認めたのだ。その一通は『鞄の中の大金は全て英国亡命者の支援基金に寄付する』という内容。そして、もう一通は『李大臣の罪状を国際法の発令権限をもって摘発する』という旨の告発文。その二通をベッド脇の机に置いてからシェラと共に病室を抜け出し、コソコソと、あの貨物甲板を目指したのである。ただし、そこへ到着した時は少しばかり驚いてしまった。

 というのも、

 既にそこは昨夜の激闘などなかったように活気に満ち、多少は甲板のえぐれた箇所などあるものの作業に支障を来している様子もなく、何台もの人型重機が往来し、貨車がひっきりなしに出入りしていたからである。

 それもそのはず。TCGE999は未明の内に石家荘駅に到着し、巨大施設に巨体を引き入れ、何層もの昇降口に囲まれながら停車していたのだから。予定では二日ほど、ここに滞在するらしい。ともかく、そんな労働者たちの普段通りの溌剌に逞しさを感じながら運搬車へ向かい、躊躇いながらも運転席のドアを開け、そこでやっと後ろ髪を引かれる思いに駆られて立ち止まったのである。

 それは、もしかすると何かを期待して待っていたのかもしれない。

 そう、それが誰の声なのか振り返らずとも解っていたのだから。

「おい、挨拶もなしに黙って出て行くことはないだろう」

 その瞬間、運命の軌道が大きく方向転換をしたのかもしれない。思わず胸が高鳴った。人をからかうように揺れるポニーテール。必要以上にニタニタ笑うしたり顔。それが瞼に浮かんだ。一緒にいたら毎日が楽しいだろうなと思わせてくれたあのブラン・ハウエル中尉だ。今、最も会いたくない代表格が背後に立っているとそう思うと慌てて背に拒絶の文字を浮かべ、ぎゅっと目を瞑り、動揺を隠すのに必死になった。今振り向くと我慢していた何かが溢れそうで怖かったのだ。でも、このまま見逃して下さいという言葉も出せずにいると、ひょいと両脇を抱えられ、すとんと甲板に下ろされてしまった。そこに立っていたのは、がっしりした体格の背も高い壮年の男性だった。白い制服に威厳に満ちた顔。鷲のような鋭い目。けれど灰色の髪と髭はどこか飄々としていて全体的には大らかな感じ。その目が穏和に向けられていた。その隣にブランがむすっと立っている。アレックスは一変した状況にバツ悪そうな顔をし、

「ごめんなさい・・」と項垂れる。シェラが「むぅ・・」と袖を引っ張ってくれたけど、

次いで口から出たのは本心とはまるでかけ離れた、それでいて、その時はそれが正しいと思っていた言葉だった。

「僕がここにいると迷惑が掛かります」

「何が迷惑なんだね。君はまだお客様だ。乗客を迷惑がる鉄道職員などいるわけがない」

 その声も穏やかだ。

 低く幅のある伸びやかなバリトン。

 ・・この人はいったい?

「わたしはグスタフ・キリング。この列車の艦長だ。言っておくが鉄道職員というのは君が思っているほど軟弱ではない。バッサーノごとき我々でもなんとか排除する事は可能だったと思う。ただ君が人生を前進させるには奴との戦いも必要と判断し、見守らせてもらった。まぁ、独善的かつ負け惜しみ、という非難はあまんじて受けよう。だが私は間違っていなかったと思っている。そして君は私の中では、実に得難い合格者なのだがね」

「合格者?・・」いったい何に対する事を言ってるのだろうと首を捻っていると、

「いえ、正規の試験においても合格ですわ」

 と、そこへもう一人現れた。副艦長のサラである。その手にしていたのは数枚の試験用紙だ。先日行われたバイト面接の際に受けさせられたあのテストである。

「全科目ほぼ満点。武術科目も、わたしが試験官をさせていただいた結果、見事に合格。公社史上、最も優秀な合格者が誕生したと一言添えさせて貰ってもいいでしょうか」

 言いながら清楚に微笑むサラは昨夜までの彼女とはどこかが違っていた。少なくとも堅苦しさはなく、それでいて自信のような物にも満ちていた。アレックスは目をぱちくり。ますます戸惑っていると、見かねたブランが彼には珍しく、どこか神妙な面持ちをする。

「何も一人で抱え込む事はねぇだろ・・」

 ところが、そこで邪魔が入った。しかも、そいつは運搬車の屋根の上から現れた。堂々と腰に手を添え「ちょっと待ったぁ!」と宣言するや真っ赤なドレスをヒラヒラさせて降臨。それはタイトで深紅なサテンドレス。口に薔薇でもくわえたら絵に描いたようなフラメンコダンサーが完成するだろう。そんな出で立ちで度肝を抜いたのはセシリアだ。いつから屋根の上にいたかは知らないが、とにかくシュタっと着地するや『これを見ろ』とばかりに紙を一枚ぺろんと突き出す。見れば雇用契約書である。配属先は公安第四室。その下に契約に関する事項が記され、一番下の欄にはアレックスの署名も記されていた。

「どーん!と彼はもう公安部の一員よん!」

 びしっと、いや、かなり間延びして言ってのけた。しかも効果音まで口で表現しながら。

「えぇぇぇぇぇぇぇっ!」

「すまねぇ・・」すかさずブランが謝る。

「命令だったもんで」

「どういう事です!」サラが睨みつける。

「バイト契約書。実はあれ二枚複写になっててね。わざわざ、そういう書類を作って手ぐすね引いて待ってたんのよ。うちの大将・・」

「なんという汚い手!恥を知りなさい公安!」

サラが憤然とするもセシリアはどこ吹く風。

「あははは・・やはりあなたは面白い」

 次に現れたのはギース・ファーレン中佐と同じく情報部の捜査官アリス・クロウリー大尉だった。そして、その後からチャン・レモン中尉が寝不足そうな顔でついて来た。

「少年。たまには周囲を見ろ。世界は敵ばかりではないぞ。戦う事にのみ囚われすぎだ。戦いを避ける事も重要ではないか。そういう意味では、この列車ほど相応しい場所はない」

 アリスはそう言ってくれたけど、

「そういう問題じゃ・・」

 とアレックスは依然と躊躇いを見せる。

「あのな。・・そういう問題でもないんだ。おまえさん一人で解決できる問題か。それ、違うだろ。勝手に一人で無責任に背負い込める事じゃないだろ。おまえは責務を果たそうとしてるんだろうけど、それは本質から逃げているようにしか見えねぇ・・」

「ブラン・・」サラが止めようとするも、

「だったら、どうしろと言うんです!」

 アレックスは激昂した。

「簡単だろ。重い荷はみんなで持つのが当たり前だ。少しは大人も頼れ。どうせ、ここを出ていっても行く当てなんかないだろ。おまえは自分以外の者が傷つく事を怖がってるだけだ。そんな風に恐れているのは、まぁ、なにも、おまえだけじゃないんだけど・・」

 ちらっとブランはセシリアとサラの二人を見てから、

「ま、俺たちもそうだ。仲間が傷つくのは誰だって見たくねぇ。だけど、みんながそう思ってるから大事にしあえんだろ。でも、それにゃ、ちょっとした勇気も信じる力もいる。それは霊力の強さとか関係ねぇ。どこまで、みんなと解り合えるか、たったそれだけの心の問題だ。人を想い、同じく想われる権利は誰にだってあるんだ。だから、そこから目を逸らすなよ。悲しいじゃねぇか。・・なんて、あぁ、柄にもねぇこと言っちまったよ・・」

「そんな、でも、だったら僕は・・」

「だ・か・ら・簡単だろう!」

 アレックスは真っ直ぐにブランを見つめた。そうしないといけないと思ったから。

「顔を洗って出直して、食堂で朝飯を食って、それから、みんなに会って、素直に友達になって下さいって言え。それで完了だ!」

 まるで便所の水でも流すような口調だったけど、ずっと我慢していたものを洗い流すには充分な恫喝だった。嬉しいのか悲しいのか、じんとしているのか、とにかく嗚咽が止まらなくなって、そっとセシリアが抱きしめてくれた。こういう所は本当にずるい人だ。

 横にいるサラが咎めるような目をしたが、 取り敢えず今は見守る事にしたらしい。

「ま、孤独は人を賢者にするとは言うけど、仲間といたほうが確実に優しさは学べるね。正義の味方には強さも必要だけど優しさも重要。だからね、あんたはここに残りなさい」

 なんだかよく解らない理論だったけれど、こくりと肯いた。それが本当の気持ちだって解っていたからだ。ただ、そこで何やら不穏な力を感じたのもまた事実。

「でもぉ、彼の立場はどうなるのかしらん?」

 殺気のようなものも感じられたので逃れようとしたけれど、がっちりしたその抱擁からはもはや逃れる術はなかった。

 ・・やはり罠だったか。

「公安部員になる契約もしちゃったしぃ。訓練生にもなっちゃったしぃ。ややこしぃ・・」

「そんな人をごまかす複写の書類なんて無効に決まってますっ!」

 サラが口角泡も飛ばさんばかりに訴え、 レモンがやれやれと頭痛に耐える顔。

「ならばこうしよう。アレックス君は公安部づきの特別訓練生という事にする」

 キリング艦長がごく妥当な決断を下し、

 全員がどっと脱力した。そんな中、アレックスは心中やや溜息混じりで戸惑っていた。

(僕……べつに鉄道職員になりたいなんて、まだ一言も言ってないんですけど……)

 

 アレックスは、そんな今朝の事を思い出しながらスコットの問いかけに答えた。

 もちろん。……「うん、合格だって!」

「よっしゃぁ!」

 司令区域に気合いの入った声が響いた。

「じぁ、明日から一緒に訓練を受けられるんだね!」ミーナも喜色を浮かべ、

「そうだな。練武も一緒だな」

 とエリカは体をねじって前傾姿勢。

 そのポーズはいったい?

「風の爪牙系の開放技。見させてもらったぞ。とても驚いたぞ。そこでだ。できたら手取り尻取り稽古をつけてくれたりなんかすると、わたしは嬉しくて、こう胸がきゅうーっ……

「やめなさいっての!」 

 すかさずジュリアが後頭部めがけてスパンと平手打ち。煩悩ごとひっぱたく。それでも胸のボリュームアップを図りながら、

「ま、そんな腕の立つ霊道士なのに金に困って賞金稼ぎしてたとは苦労してたんだなぁ。昨夜は霊撃手たちに協力してテロリストの撃退に貢献したんだって。それで疑いも晴れて。そのうえ訓練生にもなれて。もうっ、わたしのハートは万事めでたし!」

 完爾と笑うエリカに、

「それは・・それは……」

 とアレックスは答えてから慌ててスコットのほうを見た。そこはかとなく得意げである。気の利いた説明をしておいたと言わんばかりだ。ひとまず苦笑を返しておくと、そこへジュリアがおずおずと手を伸ばしてきた。

「言っておきますけど、わたくしが先輩ですから。そこのところは忘れぬように……」

 相変わらずの傲岸さだ。それでも、その態度にアレックスは驚き、ややあってから握り返そうとしたが、そこへ背後からの声がし、せっかくの手も引っ込められてしまう。

 見れば車両長のジェシカ・メイソンが真っ白なジャージ姿でモジモジと立っていた。

「・・もしよければ車内の施設などを一通り案内してやってもよいのだが、どうだろう?それで、そのついでにと言ってはなんだが、お茶でもどうかと……」

「それは却下です」

 さらに通路の反対側からも声がした。

「アレックス様は、このわたくしと午後の語らいをしながらTCGE999の広報活動について歓談なさる予定になっております。しかも、場所は純和風喫茶『歌麿』でです」

 見ればサラである。どうしてここに副艦長が?と誰もが目を丸くした。しかも広報活動とはいったい? それに歌麿ってぇ? 今なにげに『様づけ』で呼ばなかったかしら?

いったいなんやねんな?と四人の目が点になる一方でジェシカが猛烈抗議。

「先に声を掛けたは、わたくしであります!」

 そこへブランまでやって来た。

「お、いたいた。さっそく任務だって。駅で感染した重機が暴れてるんだと。それからよ。ここの切符売り場にゃ可愛い子ちゃんが揃ってんだ。ちょいと、おまえさんの力も借りてだな。さくっと地下都市へ繰り出したり……」

「そんなの、あなた一人でおやりなさいっ!」

 サラにぴしゃりと言われてブランは目を白黒させた。さらにシェラが激しく明滅。

「おまえら!アレックスから離れろぉぉ!」

「…………」「…………」」

「…………」「…………」

(やっぱり賑やかなのはいい事だね……)

 アレックスは、そんな他人事な確信を得ながら周囲に起きている騒動からは目を背け、売店で買った新聞を広げてくつろいでいた。

 新聞一面の見出しは『山西国の李経済大臣に汚染石隠蔽の疑惑。数件の殺人事件にも関与か?』となっていた。

 恐らく、これで、あの者の政治生命は絶たれる事になるだろう。そして、また溜息。すでに記憶は正常に戻っている。つまり脳内に復活した本当の密命内容を思い出したという事だ。それを考えると気分は暗澹としてしまうのだった。師匠が冷然と命じたあの時の怖気も走る霊気はそれだけで記憶が吹き飛んでしまうほどの戦慄ものだった。

 おかげで記憶操作の霊術に支障をきたしたものと思われる。

 そしてトラウマがまた一つ増えてしまった事も改めて実感した。・・ぐすん。

 師匠は憤怒の形相でこう言ったのだ。

『教皇を暗殺した組織を必ずや見つけ出し、すぐに報せなさい。この、わたくし自らが、その者どもにこの世の地獄という地獄を味あわせて差しあげますから……』

『ひいぃぃぃ…………』 

 ま、ともかく、バッサーノのおかげで、その目星はだいたい付きかけてはいるのだが、

でも、今はもう少し、その記憶は失ったままでいたい。特に師匠の顔は忘却の彼方へ置きざりにしておきたい。できれば永遠に。実にそんな気分である。そんな物思いに更けながら世界駅の向こうに広がる空を眺めてみた。

うっすらとした陽光の中に時折雪がちらついている。今日はそんなに眩しくは感じないようだ。そのまま目線を下げると荒野の彼方へ伸びる陸航軌道が目に映った。

『大地を行く軌道はどこまでも続いている。心まで地の底に囚われてはいけない。列車は希望を乗せてどこまでも走る。大地は無限。おまえは荒野に何を見つける?』

 師匠の問いかけが思い出された。

 まだ何も見つけていないと思う。

 遙か軌道の彼方へ向かう旅は、

 まだ始まったばかりだ。

 でも、いつかはきっと何か見つかりそうな・・予感はしている。

そんな実感を得ながらアレックスはもう一度新聞に目を移し、大きく欠伸をするのだった。


              ( 了 )


 

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グランド・エキスプレス 大谷歩 @41394oayumu

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