第四章・奉献唱――鎮魂の聖夜

 

第三両目第三エリア、その二十階にある広間は大勢の人で賑わっていた。イブニングドレスを着た淑女にタキシードの紳士。シャンパンを運ぶボーイにデザートを取り分けるウェートレス。輝くシャンデリアの下にはテーブルが幾つも配置され、巨大ツリーの電飾も煌びやかに並ぶ料理は豪華絢爛。楽団が演奏するは赤鼻のトナカイ。そして全面窓ガラスの眺望は舞い散る雪と今や宴もたけなわの盛りあがりを見せている。

 なのに、そんな会場の隅っこで身を縮め、身も世もなく嘆く一人の美少女がいた。その姿はまさに可憐の一言。遠くから、その儚さを眺める男たちはみな恋も千夜の溜息か。

だが、そんな連中を押しのけて少女の背後に立つ金色の縦巻髪は今宵も一層不機嫌そうに揺らめいている。

「なにをメソメソと。これも立派な仕事でしょ!男を見せなさいっ!男をっ!」

「そうだよぉー。すごく似合ってるぉー」

「そんなこと言われても~」

 銀色の髪を揺らめかせて美少女がぐすんと振り向いた。

 なんと、その正体はアレックスである。

「こういう趣向もなかなか萌えるの~」

 そんなエリカの毒々しさはまさにトドメ。アレックスは羞恥に悶えて足をモジモジ。 同じくその場にやってきたスコットは一目でドン引だ。おかげで、さらにドンと落ち込むものの、その半泣き顔もまた麗しく、事情を知らない男たちはさらに感動。一方、事情を知る女どもは嫉妬を周囲にまき散らした。

(あぁ、今宵は聖夜だというのに、これでは天国のお母様もさぞお嘆きにちがいない)

 アレックスはぐっと涙を堪え、この身の不幸を呪った。これではまだ髭を生やしていた方がましだった。確かに今の方がよりクリスマ的かもしれないけれど、あまりにもこの姿は耐えがたい。されど無情にも窓に映る姿は少女のそれに他ならず。着ている服も喫茶店『森の熊さん』で使用されているあのミニスカワンピのサンタ給仕服。そこへ、きっちり化粧も施され、頭の先から足の先まで、もうどこを見ても可愛らしくて完璧だ。

 そう、今朝の事である。ジュリアたちに叩き起こされたアレックスはそのまま連行され、さっそく仕事の話を持ちかけられた。

 ただし、その起床の際、シェラと仲よく寝ていたのを目撃されてん…『…不潔よぉぉ!』と叫ぶジュリアの声が部屋中に木霊したのはご愛敬。おかげで頭が呆っとしたまま拉致られ、なぜか朝礼にも参加させられ、その後にハウエル中尉と面会した。ところが、たかがバイトというのに試験まで受けさせられ、それがまた霊術操技に関する出題から世界情勢に至るまでと多岐に渡って手強く、いったいどんな仕事かと不安に思ってると契約書にサインするよう言われ、それが終わると面接もそこそこに、あの紅白の給仕服を差し出されたのである。もちろん散々抵抗したし、『できれば男性ホールスタッフにして下さい』と懇願したが他の任務は全て埋まってるとのこと。ウェートレスに森の熊さんスタッフを雇ったが一人風邪をこじらせているらしく、代役を務めてくれというたっての願い。

『だったらジュリアたちがいるでしょう!』 とも言ってみたが、『あの三人はパーティーに客として参加したいんだとよ』と言われ、

『給料はずむからぁ』の一言と、

『霊も人の多い所に誘き寄せられるはずだ』とのシェラの助言に従い、渋々この仕事を引き受けたのである。そんなアレックスの横に並ぶシェラもまた同じ服装で二人並んだ姿はまさに美人サンタ姉妹とでも言うべきか、ともかく救いは給料が二人分になった事くらいだが、そのシェラはというと、さっきから旺盛な食欲を満たす事に専念している。

「シェラちゃんはグルメだねぇ……」

 負けじとミーナも丸焼きチキンを頬ばって、さしずめ大食バトルの様相だ。

「うむ。わらわは上品な味しか受けつぬぞ。……むっ、これはなかなか絶品だのぉ。北京ダックと申すか。この金華ハムとやらもよい。おおっ!この美味なるものは何じゃ!……まったくアレックはしみったれでのぉ。毎日タマゴ・サンドばかりを食わせよる」

「な、なに言いだすんだよ、いきなり!」

 そこで爆笑。アレックスは四肢をバタバタ。その様子にブランはいたく満足げである。

「やっぱり俺の目に狂いはなかったな!」

 と公安部の制服を着ながら、まるで我が子を見る親のように目を細めている。今宵はいつもとちがい、どこか士官然とした姿でいるが、いかんせん。そんな張りぼての威勢など一撃で粉砕と、その踵に向けてジュリアがローキックを叩き込んだ。しかも全力で。

「イテテッ!なにしやがる!」

「なにしやがるじゃありませんわ! なんて格好をさせてるんです!」

「おや、ご立腹かい?そっかぁ、ジュリアはアレッ君には凛々しくあってもらいたいんだよな。おっと図星!……おぐはっ!」

 今度は横腹にリバーブローが見事に決まり、ブランはくの字に折れ曲がった。その傍らでジュリアは耳まで赤く染める。

「な、なにを仰るんです!」

 さらに注意して見ると、そんな修羅場へ恐れもなく近づく人影があった。何を隠そうあの第四車両長のジェシカ・メイソンだ。彼女はいつもと同じ制服姿のままだったが、そこには武芸者らしい凛々しさなど木っ端微塵に失われ、無骨さのみ漂う僅かな女らしさも恥じらうようにチラチラ伺いながら忍び寄り、いつの間にか自分でも驚くほどの急接近を遂げていたのだ。そんな不自然さに気づいたのがこれまたブラン。さっそく、その背後に回り、得意の囁きを敢行する。

「人生を熟成させる言葉は星の数ほどあろうとも、恋ほど味に深みを加えるものはなし。とくに女の子の場合はね。さぁ勇気をもって最初の一歩を踏みだしなぁ~」

「なっ、ななっ……」

 気の毒にジェシカは完全に硬直。

 その立ちんぼ状態にアレックスは怪訝な顔。

「あっ、たしか、あなたは……」

「わ、わたしを知っているのか……?」

 と眼を見張る。もしや監視がバレてしまったか? 対するアレックスは当然の顔。

 もちろん尾行には気づいていたが全く気にしていない。そこに敵意や悪意がなかった事くらいは解るもの。もしかすると護衛かな?と思うほど、それは穏やかな監視だった。

 アレックスは少し恥じらいながら口にした。

「もちろんです。暴走した重機を停止させた方ですよね。とても見事な片手平突き。憑依武器の発動から技の完遂までの流れには迷いもなく、とても美しかったです」

 決してお世辞で言ったのではない。彼女の技の冴えは事実だったし、自分もまた武芸を志す者として思うままを言ったまでである。

 

 しかし、ジェシカの狼狽は周囲にも解るほどのものだった。しかも、それは何とも心地よさそうな当惑。照れているのを必死に隠そうとしている慌てぶりだ。一方、その様子にジュリアとエリカはむっとしていた。なぜかアレックスに武芸の事で褒められるのはとても高揚した気分になれそうだ。なのに、この女が真っ先にその栄誉に浴するとは口惜しやである。――と、までは言わないまでも表情にはありありとそう出ていた。そんな様子に訳知り顔を向けながらブランはとても楽しそう。

「僕はアレックス・テイラーといいます。これでも……」

「いや、何も言うな。だが、そういう姿も、なかなかいいでは、ないか……」

 とても、しどろもどろ。

 彼女は可愛いものにはとても弱いのだ。

 アレックスが「ドリンクはいかかがですか?」

 と小首を捻るとますますツボ。

 心中悶えつつオレンジジュースを受け取るも、その手つきは完全に震えていた。

 ところが、そこで背後からの声に驚き、

「ひゃっ!」と情けない声をあげてしまう。恨みがましく後を向くと、

「任務中ですよ!何をやって……」

 と、そこにいたのがサラだった。どうやらアレックスの姿を見て絶句したらしい。

(なんという憎めない姿をしているのか……)


「まぁ、いいじゃないか。そう堅いこと……」

 ブランは言いかけて、おっ?と首を傾げた。 なんと、こいつまで呆然としてやがる。これはもしかすると拾い物かもしれないぞ。


「むっ」とシェラがまた感嘆の声。

「この……小龍包もなかなか」

「さっきから食べてばかりだよ!シェラも仕事しなよ」

「あら、男のくせに女の子に仕事をまかせる気なのですか?」

 ジュリアに睨まれてしゅんとする。

「だってシェラの分も給料出てんだよ」

「あなたが二倍働けばいいことでしょ!」

 あはははっ!――とまた笑いが起きる。

 笑顔。笑顔。笑顔。笑顔。笑顔。そして、その中にシェラもいる。素直に、これって幸せなこと?と思った。これこそ望んでいた事かもしれないと。屈託なく普通の人のように笑顔を共有するシェラの姿。これこそ必死に夢見ていた希望ではないのか。それが、いとも簡単に手に入りそうな予感さえした。


だから僕も笑わなくちゃ。と、そう思った。

 こういう時こそ笑わなくちゃ。

 みんなのためにも笑わなくちゃ。

 でも、本当にそれでいいのか?

 そうなのだ。忘れてはいけない。

 僕がここにいる理由。そして抱える矛盾。

 聖職者でありながら時には人命を奪う。

 それが『法都守護十字騎士団員』の務め。 自分がなぜ生きているかを考えてもみよ。その存在理由があるかぎり狂気と混沌から逃れる術はない。必要悪の聖職者。それらを統べる嘆きの聖母の十二使徒。永遠に消せない罪業と、その意義を否定する術を僕は知らない。精神に深く食い込んだ楔がそれを許さない。汚らわしい掃除も誰かがしなければ世界の住み心地は悪くなる。任務であり、科せられた義務とは完全に刷り込まれた言葉。そのうえで一日も早い死を願い、そんな自分を軽蔑する。真に生くべき人たちは他にいた。その者たちの代わりに生きている。だから心底から生を倦み、憎悪に押し潰されまいと強さを求む。これは贖罪。みんなの笑顔を取り戻すための懺悔。それだけを望んでいる。なのに法都を追われる事となり、師匠もそれに同意した。いったい何処へ行けばいいのか?本当に笑う事が自分には許されるのか?出口のない自問自答。でも心が願うのは、

 ……いつか訪れる安らかな死。

 一時の幸福感などは束の間の幻想。

 それが必然かのごとく響きわたる悲鳴!

 それが全てを一変させた。いや、その変化を待っていた自分に自虐的な嫌悪を抱いて快感を得る。そう、いとも簡単に希望は瓦解するからこそ素晴らしい。だからこそ……。

『僕は神を呪う事ができるのだ』


 楽団の演奏する曲が『清しこの夜』から『神の御子は今宵しも』に変わった。エルザは所在なげに会場を見回し、サーモンマリネ一口を摘む。はっきりいって退屈だ。大漢連合の高官と関税率の問題で話し込む李宝山をちらりと見、それから不満顔をアリスへ向けた。アリスは大臣のすぐ側にいた。いかにも要人警護な男たちに混じり、こちらも地味なスーツに眼鏡という出立ちで知的然と立っている。会場には警備にあたる鉄道職員が何人もいたが誰もそこに『氷雪蒼眼のアリス』がいるとは気づいていない。それもそのはず。その髪は黒く染められ、凍てつくような蒼眼も黒のコンタクトに隠して極限まで色気と存在感を消している。どこから見ても女秘書だ。ただ目に付く部分があるとすれば、それは、その傍らにあるトランク・ケースくらいだろう。それも秘書が重要な荷物を預かってると思えば納得のいくシチュエーションだ。つまり何も問題なしという事だ。それが不満だった。いったい、いつになったら行動を起こすのか?エルザはむすっとしながらシャンパングラスを煽った。冷ややかな甘みが咽を潤す。なかなかの味だ。ドンペなんたらという名前らしいが小さなグラスにちんまりとしか入ってないのが残念である。ケチケチせずジョッキにでも入れてくれるとありがたいのだが、とにかく、それくらいクイクイ飲めてカーッと恋でもしたい気分にさせられる。でも時折こちらを見るアリスの表情が呆れ返っているのはなぜだろう?けど、まぁいいか、ともう一杯。さらに次のグラスを受け取ろうとボーイさんに手を伸ばしたその時だった。こちらを見るアリスの目がいきなり剣呑に細まったのである。続いてエルザの右目もチカチカと明滅した。反陽子反応を感知するコンタクトレンズ。安全の為にアリスがくれた物である。右目の色が変わるのが難点だが、それが反応したからには近くに次元霊の存在があるという事だ。酔いが(酒を飲んでるつもりはないので酔ってるとは思っていない)が一気に醒め、緊張が突きあげた。周囲を見回してみる。すぐに異常が目に止まった。おぼつかない足どりで近づいてくる職員が、どこか視点の定まらない目をギョロギョさせ、それがトランク・ケースを見つけるや痙攣するように震えだし、突然に襲い掛かってきたのである。思わずエルザは悲鳴をあげた。


「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 その悲鳴に向けて会場の目が集中した。

『アレックス!』

 シェラの霊信が心に叫ぶ。

『……霊反応は?』これだけ互いが近くにいれば鏡や水などの霊信触媒は必要ない。

『さっきまではなかった。突然に弾けたような感覚だ。なにかおかしい!』

 中毒になりそうな戦慄に押され、アレックスは瞬時に駆け出していた。碧洋色の瞳が闘いを求めて炯々と輝き、瞬時に悲鳴をあげた女と、挙動のおかしい職員の姿を視認した。……あれかっ!

 近くに山西国の経済大臣もいる。重要参考人になる人物だ。それを狙ってのことか。一気に『霊気』を発生させて霊門を開放する。続いてシェラの『霊波』を取り込んでそれを身に纏い、後背から翼のごとき銀色の霊燐をなびかせながら大きく飛翔。霊門を次々に開放しながら体を捻り、女性を襲おうとしている霊撃手に向けて斬切の型に気体変流の術を加えた霊撃を叩き込んだ。

 即ち二霊門開放技。爪牙旋風掌。

 爪と牙のような旋風が舞いあがり、それが鋭利な刃となって襲い掛かる。そして、そのまま女性を庇うように着地。霊撃手は血反吐を吐いて倒れたが、その体内にあったはずの霊反応は消えていた。また悲鳴があがった。周囲の目にはアレックスがいきなり襲い掛かったようにしか見えないが、それでも彼の霊眼はまだ依然と異界の者を捉えていた。霊撃手の体から抜け出した次元霊である。だが、それは次元霊とは違う何かまた別の霊類なのか?……そう感じた。

『次元霊は次元霊だ。惑わされるな!』

 すぐ近くから霊波を繰り出し、支援してくれるシェラが言った。その刹那、肌が粟立つような感覚に襲われた。霊眼がまたも異常な気配を捉える。それは会場の隅にいた。眼鏡を掛けた青年だ。微かだが、しかし、侮りがたい霊気を発散しているにも関わらず、その周囲はとても穏やかな気に包まれていた。

『霊気のみに頼るでない。霊眼を駆使しろ!』

 シェラの忠告はいつも正しい。そう思いながら霊の気配を追う。霊は実体化すらしていない。高位の霊能者でも感知できないほどに反応を抑えている。なのに恐ろしく動きが速い。その力はすでに多頭竜系を凌駕していると言っていいだろう。いったいどういう事だ?その霊素が大臣のほうへ向かっていく。中級の霊門開放くらいでは反応が追いつかない。だが、それ以上の開放を行えば周囲に霊流渦(光子流の渦)を発生させ、会場をより混乱した状態へ陥らせてしまう恐れもある。そうなると他にも負傷者が出てしまうにちがいない。だが悠長な事は言ってられない。アレックスは霊に向けて七本の矢のごとき鋭利な霊撃を放とうと開放準備にかかった。だが同時にまた戦慄を覚えた。会場の隅にいたあの青年が眼鏡を外したのである。そこから現れた瞳は右目が赤みを帯びた茶色で左目が青みを帯びた緑色だった。その人とは思えぬ縦に細長い瞳孔はまさしく次元霊使いだけが持つ肉体的特色である。即ち……邪眼。

それが、こちらを向いて、ほくそ笑んだのだ。 ……なるほど誘ってやがる。

『ヒドラ分離体は既に次元霊使いに支配されてると見て間違いないであろう』

『うん。そうだろうね。今ちょうど標的を視認した。すぐそこに奴がいる……』

 そんな霊信の後、右腕から気塊を放った。 霊門開放技。北斗破軍星射。

 破突の型から繰り出すその霊撃は高速にして目標だけを狙いやすく、周囲に及ぼす影響も少ない。しかし霊はそれをいとも簡単にかわしたのである。行き場を失った気塊は単なる破壊の権化となって襲いかかる。なんと、近くにいた女性秘書が大臣の前に立ち、その身を挺して庇おうとしてくれた。と同時にシェラの胸の十字架が光を放ち、溢れ出した霊素が少年の姿となる。その霊命が厚い氷壁を瞬時に築いて霊撃を相殺してくれた。

「……ラキッ!」

 だが、砕けた氷塊が周囲に飛散し、シャンデリアなどを破壊する。華やいでいたパーティー会場は一気に凄惨な現場へと変化した。飛び交う絶叫。悲鳴。混乱。

 そこで垣間見た嘲笑い。いつのまに奪ったのか、その手にトランク・ケースを持ち、あの青年が音もなくここから立ち去っていく。

 そして振り向けば、そこにサラがいた。

 鋭い眼光をアレックスに向け、そこに憎しみすら籠もってそうな侮蔑を浮かべて睨んでいた。いつもそうだ。法都の聖職者たちもずっとそんな目で僕を見ていた。やがて霊撃手たちが間合を詰め、アレックスを取り巻きながら憑依武器を発動させていく。

「あなたは何をするつもりだったのです?」

 サラの詰問を浴びながらアレックスは自分の中にある何かが乱れていくのを感じていた。……だめだ。みんな……だめだ。

「たかが精霊使いごときが何人いようと……」 自分の中にいる誰かが傲慢と笑った。

 とてもイライラする。……だめだ。

「その程度で僕と戦うつもりですか?」

 そんな態度に憤懣したサラが激怒を乗せて叱咤一鞭と号令をかける。

「自分のした事を思い知らせてやりなさい!」 同時に霊撃手たちも突破の構えを取った。

 この少年の技は先ほど見ている。この若さで上級の霊門開放技を扱うとは驚異的であるが、これだけの人数が相手では、さすがに、なす術もないだろう。だが油断はならない。



サラもまた部下が攻撃を仕掛ける間に相棒の名を喚起

しようと開放の準備にかかった。暗がりの中に刮目するような感覚の後に霊気と霊波が彼女の全身を包み込む。

(天華欄女ベルベッサ・ベル・ダラニダーラ!)……体を植物の蔓のような霊素が包み、大輪の花が咲き誇る。その背中から透明な羽を持つ妖精のような少女型の霊命が現れて周囲に霊波を溢れさせていった。

『アレックス!』シェラの霊信が頭に響く。

『いや、いい……手は出さなくていい……』

 やれるものならやってみるがいい。

 また誰かが冷笑を放った。

 霊撃手が飛び込んで来る。一斉に繰り出された、その技は霊門開放技、。爆裂指弾。

 

対するは開放技、爪牙旋風脚!

「……あぁぁ……!」エリカが眼を見張った。

 そこに無言の悲鳴と驚愕を込めて。

 サラも愕然。『何て子なの!』飛び込んで行った霊撃手たちはあっという間に残らず跳ね飛ばされてしまった。だが、そこまではまだ想定内である。いかに技に優れていようとも、それがここで何になるというのです!

「集団の力を合わせ、そして確実に護る。それが鉄道職員です。舐めないでください!」

 光りの渦が舞い、同じくサラの開放技。棘蓮斬掌が放たれた。

 その閃光の花弁が次々に襲いかかり、

 アレックスの体を切り刻んでいく。

 されるにまかせる格好となった。

 そこには防御も反撃も抵抗もない。

「……なっ……なんなのよ……」

 血飛沫が散った。常人なら即死の攻撃は相手が相当な能力者と踏んだからこそである。まさか真っ向から無防備に受けるとは思っていない。これではただの処刑だ。

 しかし、そこにある顔のなんと安らかな事だろう。……まるで痛みこそ許し、

 血は神への供物と言わんばかりの恍惚。

 それが心底からの恐怖を煽った。

 いや、その自己犠牲を秘めた純粋な狂気に心奪われる事への畏れか。少年を失う事への悔恨にも似た心の痛みか。ともかく、そんな不快感を無我夢中で振りはらい、虚ろな顔をして膝を折る少年を可能なかぎり見下ろした。そして衝撃から立ち直った部下たちに心を重くしながら命令を下す。

「連行なさい。時間が惜しいので隣の部屋でいいでしょう。事情を聞きます!」


 ジュリアは呆然と立ち尽くしていた。何が起きたというのか?ほんのさっきまで笑っていたのに。子犬みたいな目をして困っていたのに。ただの男の子だったのに。手を差し伸べたらすぐにじゃれてきて甘えてきそうな少年でいてくれると思っていたのに。その瞳がいきなり凍りついたかと思うと、目前から消えていた。そして周囲が滅茶苦茶になり、ここにいた全員から笑顔が奪れてしまった。

「なんで、どうして……こんな事になるの?」

 そう言うミーナーの顔は少し涙目になっていた。エリカは蒼白な顔で呆然としている。車両長のジェシカも同じだった。いや、自分の不甲斐なさに打ちのめされながら辛うじて立っていた。あまりの唐突の惨事に身が竦んでしまい動く事すらできなかったのだ。

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 思わず駆けだした。何の原因もなく、このような惨状が起きてなるものか!これには何か事情があるはずだ。そう思ったらじっとしていられなかった。少年に襲われたかのように見えた霊撃手はすでに駆け付けてきた医療部員たちによって運び出されようとしている。どうやら命に別状はないようだ。見た目からすれば少年のほうがよっぽど重傷だろう。その少年は霊撃手たちに引きずられ、隣の部屋へと連行されていく。そこは警備の控えに使っていた部屋だ。そこへ罪人のように、あんなに重傷なのに連行されていく。

「まぁ、大丈夫だろうとは思うけど……」

 何に対してなのかブランがそう言った。

 不思議と気休めには聞こえない。

 どこか優しさと憐憫を含んだ声。

 ジュリアは肯く事しかできなかった。

「おやおや、これは……」

 次いで会場の入口のほうから声がした。

「この子にも聖夜を楽しんでもらおうと思って来てみたら……」

「これまた派手にやらかしたものねん……」

 見ればそこに深紅のチャイナドレスを着た南雲大佐と車椅子の少女を連れたファーレン中佐が立っていた。二人の姿がなんだか救世主のように思えてならない。

「アレックス……」

 シェラががくりと項垂れた。



車両長たちは揃って首を傾げた。「あれ、エドガーさん?」いつのまに、ここへ戻ってきたのだろう?全く気がつかなかった。だが青年の穏やかで、それでいて、どこか人を魅了する笑顔にほだされ、そんな些末な疑問はうやむやになってしまった。

「まだ仕事が途中なのでパーティーもそこそこに……ですよ。ほんと、やれやれです」

 青年技師は苦笑を浮かべながら駆動制御室へと足の矛先を向け、自分たちが警備している隔壁通路を通り過ぎようとし、そこで頭を下げた。特に怪しむべき事はない。技師を手伝う機関員たちも今は警備に回されているため仕事が倍増しているのだろう。青年はグレゴリ社から派遣されているエリートで、もちろん今夜のパーティーにも招待されている身分だが、それも返上で機関の調整に従事しなければならないとは気の毒な話だ。

「あとで夜食でもお届けしますから頑張ってください」

 青年はそんな車両長たちの声援に愛想笑いを返してから隔壁をくぐり、駆動部へと入っていった。そして奥にある立ち入り禁止であるはずの中枢通路を躊躇いもせず進んでいく。本来ならここで警報が鳴り響くはずが何も起きなかった。やがて大きな扉の前に立ち、持ってきたトランク・ケースを開け、中から凍結した状態の封霊石を取り出し、それを床の上に置いた。続いて霊術紋を展開させると黒い霊素が周囲に充満しだし、曖昧模糊とした霊体が姿を現したのである。

 その刹那、青年の身体からも無数の霊触手が現れ、その霊体を喰らい始めた。それはまるで原始の森に存在していたような、それこそ太古の生物と呼ぶに相応しい禍々しい姿をしていた。

(やはり喰らうにはまだ尚早でしたね…) 

 それはやむを得ない事だ。当初は列車の足止めだけが目的だったのだ。だから本体まで喰う必要はないと考えていた。ところが急遽、雇い主から依頼を一つ増やされてしまった。その条件として本体の捕食を許可してもらったのである。そうでもしないと、あの少年を相手には戦えない。だが今の心は戦いに備えて高揚としている。今回の雇い主のなんと素晴らしきことか。どこの組織もあの価値ある少年の足取りを掴めていなかったというのに、その情報を得ていたのだから。

(……元傭兵に、それから労働者どもを生け贄にした甲斐もありましたよねぇ~)

 当初は列車内にうまく分離体を招くための余興に過ぎなかったゲームである。べつに本体だけでなく全てを李の野郎に運ばせてもよかったが、それでは楽しみも緊張もない。詰まらない仕事にはもう少しくらい不確定要素を効かさなければと、その味付けのつもりで行った戯れだったが、それが新たな獲物を誘きよせる血の臭いになってくれるとは。

「まぁ、本当は獣化させてから喰らうつもりだったけど、思ったより早く、こちらに気づいてくれちゃったし。さて、そろそろ狂える聖夜に戦慄の鐘でも鳴らすとしますっかね」

 青年は何でもなかったように霊を体内に収めると立ちあがり、扉の向こうへ姿を消した。


 机上の照明が顔に向けられた。

 さっきから色々と質問が繰り返されていたが、いったい何から話していいのか解らず、自然と黙秘に繋がっていた。

 受けた傷の具合も芳しくない。

『植物型霊の中には霊気を乱す力に長けておる者がおる。中には霊命の霊波を麻痺させる者もいて、傷を負うと厄介だぞ。たとえ、おまえでも回復するには時間がかかるだろう』

 とは師匠の教えだったか。

 霊気を巡回させて血中にある磁界石ナノ粒子を作動させてはいるが、その忠告どおり、なかなか傷口が塞がらない。黙っていると、ますますサラの睨みづきが倍増した。

「大臣を襲った理由を言いなさい。鞄の中の大金はどうやって手に入れたのです!」

 口調は完全に頭から決めつけている格好である。それも無理はない。次元霊は完全に霊反応を消していた。あれを察するのは練達の者でも難しいだろう。敵はさすが手練れと言ったところか。みすみす掌の上で踊らされてしまった。あれではまるで自分が大臣を襲ったようにしか見えない。おまけに、いつの間にかパウエルの鞄まで押収されている。状況を総合すれば見事に金で雇われた暗殺者が完成するというわけだが、その結論は、いささか安直すぎではないだろうか。

 ただ、名誉のために言わせてもらえるなら、こう言っておきたい。

『本気で暗殺するならもっと上手く、それこそ誰にも気づかれる事なく終わらせていましたよ。実際に今までそうしてきましたから』

 でも火に油を注ぐ事になりそうなので黙っておく事にした。それでなくともサラの口調は段々と詰問気味になってきている。

「黙秘ですか。いいでしょう。全ての事が終わり次第、また尋問して差し上げます」

 もはや完全に容疑者扱いである。この人はどうしてこんなにも強く当たってくるのだろうか?他にも何か原因があるのかな?そう思っているとサラの口元がいびつに歪んだ。

「しかし、殿下も墜ちられたものですね……」

「えっ?……」

「早く、真相を話してくれないかしら。アレックス・テイラー。いえ、アレクサンドル・ガブリエル・ウィンザー公と、お呼びしたほうがよいのでしょうかね……」

「どうして……それを……」

 それはとっくの昔に捨てた名前だ。

「非業の死を遂げられたお父上もさぞお嘆きでしょう……」

 ウエールズ公リチャード・ウィンザー卿。

 それが父の名である。自分が生まれて間もない頃に暗殺されたと聞いている。

 そのせいで顔も見た事のない人の名だ。ウィンザーの家督も祖母が継がせたもので、その祖母のいた王宮で暮らしたのも僅かのことだ。ニューベーカー街の安アパート。母と暮らしたその狭い一室が今でも自分の故郷である。その母を殺した犯人は不明で、父はその数年前に暗殺されたと聞かされている。でも父と母の接点は知らされていない。ともかく母の死後、自分の意思とは関係なく王宮へ連れ出され、気づいた時には寄宿制の神学校に入れられていた。生まれついての霊合者であり、また王家の者として、それはごく自然の成り行きであったが、その学校での生活そのものは楽しかったと朧気に感じている。微かに残る記憶の残滓がそう語っているのだ。たしか良家の子息ばかりが在学していた清教徒系の霊能神学校で、所在は地下倫敦の郊外にあり、校舎は洒落た木造だったと思う。現在その学校はない。七年前に起きた児童誘拐虐殺事件の標的にされ、それと同時にクーデターが勃発。そのまま消滅した。幸か不幸かその学校生活の記憶はほとんどない。その後の体験が原因か、かなり曖昧になっている。部分記憶喪失というらしい。ともかく、その事件から三年後に十二聖騎士・智天位の称号を得た。周囲の目からすればそれは驚異的な事だったらしいが、それは生まれついての高い霊能のうえ、さらなる複合霊合者となった結果とも言えよう。そのうえで時の教皇は『背負う十字架がそれを成し遂げさせたのだ』

 と側近に漏らしたそうだ。それから法都の聖騎士となった自分はハミルトンという母の姓と、ガブリエルという母がくれたミドルネームと、ウィンザーという祖母がくれた家名を捨てた。それがどんな影響力を持っていたのかは今をもって知らない。その名を聞いて顔色をなくしているジェシカやサラのほうが色々と知っているのだろうが、今さらそこには何の興味もない。

「この大金が、どこの組織から支払われたのかを正直に仰って下さいませんか?そういえば、法都を追放されたそうですね。霊術には優れているようですが、聞けば守護霊命体との完全憑依は一度も経験がなかったとか?それでは霊道士になられても苦労されたのではありませんか?だからですか?寄付金を横領したのは?それで追放処分に?その挙げくに裏稼業へ身を墜としたと?」

 何を根拠にそんな事を言ってるのか?と疑問に思っているとサラは数枚の書類を机の上に置いた。一つはローマの二流新聞が発行した二ヶ月ほど前の記事である。記事の見出は『霊道士、寄付金横領により法都を追われる』となっていた。もう一つはネットワーク上にあるカトリック系サイトの記事を印刷したもので不正を働いた霊道士を糾弾していた。確かに、それらの資料は疑いを掛けるのには格好の材料になるだろう。ただし、そこにはアレックスがいまだ聖騎士の地位にある事までは記していない。それでも否定を口にしなかっのは、それが真実に近く、自分で説明するのも何か言い逃れをしているみたいで嫌だったし、信じて貰えるとも思えなかったからだ。けれど、もし言い訳をするならこう言うべきだったのかもしれない。

『騎士団幹部には寄付金の用途を決める権限があります。それを行使しただけです。ただ、その寄付先の記録を何者かが改竄し、反秩序派国の指導者へ献金したという虚偽事実をでっちあげたんです。そんな政治家の名は聞いた事もなかったし、もちろん顔も知りません。何度もそう訴えました。でも裁判において司教のほとんどが罪科を認めるに至り、不本意ながら追放処分となってしまいました』

 ――と。

 ただそれだけのこと。理由なんて何でもいい。アレックスという化物を、もと清教徒の異端者を、怨霊の塊たる怪物を忌み嫌っていたというお話。だから居場所なんて何処にもない。いつも心のどこかで死を渇望しながら彷徨っている。といって簡単には死ねない体。シュウシュウと音をたてて傷口が塞がり始めた。ナノプロテクトによる復元機能が起動しだしたのだ。それを見る霊撃手たちの目が大きく見開かれた。そうだ。みんなそんな目をする。むしろそれは快感だ。そうだ。もっと汚物を見るような目で視てくれなくちゃ。

「化物め……」

 サラのこぼした言葉が部屋の温度を下げた。続く言葉がさらに鞭をふるい、アレックスは目眩を覚えて呼吸を荒げた。

「デューク・アルバトロスⅡという名の列車には今もご執心のようですわね?」

 その列車の名は……ゼェゼェ……。それは過去に一度だけ乗った事のある……ハァハァ……。陸航列車の名だ。英国から逃げだす人を満載し、ローマを目指している途中で霊に汚染され、死者を三百名以上も出してしまった悲劇の列車。当時、瀕死の状態だった自分も乗っていた。霊合者として蘇生する途中に強い異常霊波を放出してしまい、それが原因で大規模な霊汚染を引き起こしてしまった。

「わたしの兄は、あの列車の第四車掌でした。見捨てるように接続分離されたアルバトロスⅡの第四車両とともに運命を共にし、荒野へ消えてしまいましたけれど……」

 紡がれる言葉には呪いでも込められているのかアレックスは全身の血が沸騰するような痛みに苛まれ、吐き気と目眩に膝が震えた。

「そんな事は今関係ないじゃありませんか!」

 そう訴えてくるジェシカの声も僅かにしか耳に届かない。サラが僕を責めるのはもっともな事なんだ。だから、もっと踏みにじってくれないと。でないと代わりに神が罰を与えに来てしまう。それではまた多くの人が犠牲になる。なぜなら僕は悪魔だから。あのとき蟹に喰われるルシアの体を抱えながら僕は自分だけが生き残ってる事に猛烈に感動してしまったんだ。まるで多くの生贄が僕のために捧げられているような快感に取り憑かれ、震えるほどの優越感に浸ってしまったんだ。そして気づいた。自分が何より邪悪な存在であることに。それなのに、シェラは僕の傍にいてくれる。

 それが生きてる事よりも辛いんだ。

 いまや、その顔には絶望と渇望の入り交じる苦悶のようなものが浮かんでいた。

 

 それは……まるで……全くの別人。

 さっきまであった秀麗さなど微塵に砕け、そこに不吉な何者かが宿っているようにも見えてジェシカは全身が粟立つのを感じた。だが、それがすぐに水面を乱したように消えると、それを追うように衝撃が走った。それは列車全体を揺るがすほどの振動だった。少年の目が再び炯々と輝き、その表情に淫靡な殺気が一瞬過ぎると同時に運行速度が一気に落ち、継いで緊急アナウンスが響き渡った。

「第四車両に異常発生!至急、各員配備に付け。異常部は第四車両全域に拡大中。速やかに非戦闘員を避難させよ。第一に乗客の安全を確保。迅速に霊汚染への拡大を阻止。これは演習ではない。アース・エンプレスは、ただ今より緊急事態宣言5を発令する!」

 緊迫する声にジェシカは悲鳴をあげそうになった。仲間の車両長たちが今現在その四両目の警備に就いているはずだ。それは司令部から言い渡された直接命令だったはず。

「すぐに第四車両に全艦内霊撃手を集めなさい!」

 叱咤するようにサラが立ちあがり、

 ……そこで振り返る。

「霊命と完全憑依もできない霊合者など役に立つものではありません。そこで大人しくしてなさい。取り調べはまた後に続行します」

 そこで立ち去ろうとするサラの行く手を遮るように声が掛かった。

「取り調べをする相手を間違ってんじゃないかしらん?」

 開かれた扉の向こうに立っていたのはセシリアだった。目で促す先にいる大臣はなぜか腕にナイフを突き立てた状態で呆然とし、その前にはアレックスが助けた女性が座り込んで泣き崩れていた。周囲に人が集まり、戸惑い気味にそれを見守っている。囁かれる言葉の断片をかき集めると大体の状況が飲み込めてきた。

 女性がいきなり果物ナイフを手に取り、大臣に襲いかかったらしい。一体なぜそんな事になったのだろう?けれどサラはそれを無視し、まるで取り繕うように今度はジュリアたちのほうへ顔を向けた。

「訓練生は乗客の避難誘導に向かいなさい」

「……さて、行こか……」

 そう言いながらも、まずこちらへ向かってきたのはスコットだった。そして手渡してくれたのがシェラ用に加工したという、まるで青金石のように輝く結晶磁界石。

「ほんまは、夜の十二時を過ぎてから渡そうと思うとったんやけど。クリスマスやし。プレゼントの一つくらいあっても罰なんか当たらへんやろ。でも、まだ調整がいまいちかもしれん。せやから、必ず明日も笑顔で会うてくれると約束して欲しいんやけどな」

 それにアレックスは無言で首肯した。そうしないといけないと思ったからだ。すると、スコットは何でもなかったように踵を返し、扉へと向かう。それはほんの一瞬の疎通。でも、それが小さな光を落としていったように少年の心は感じていた。すでにサラたちはいない。それを追うように不満を押し殺した声でジュリアたちも「行こう」と立ち去っていく。それを見届けてから肩を竦め、やれやれとブランがギースのほうへ敬礼した。

「そろそろ事情を説明してくれてもいいんじゃないすかね?・……中佐どの……」

 その視線を受けるように車椅子の少女が、不安そうにギースの手を握り、

「パパぁ」と消え入りそうな声を発した。

 それから円らな瞳で大臣秘書を見あげ、

「ママぁ……」と甘えるような声。

「はぁぁぁ?」とブラン。

「いったい、どういうことよん?」

 一瞬気の抜けた動揺が走り、それから落ち着くまでにはしばらく時間がかった。エルザに刺された大臣の傷の手当ても終わり、ようやく人心地が着いた頃にはアレックスもその場に連れてこられ、まずは改めてセシリアとの対面を余儀なくされた。

「七年ぶりね。南雲セシリアよ。憶えてる?」

「あぁっ、そのチャイナ・ドレスは!・……あのときの爆殺大魔神!……」

 ズゴッ!と脳天に拳骨が落ちてきた。

「どうして気づかなかったのよっ!」

「そんな無茶な。セシリアさんだって……」

「あんな髭モジャで解るわけないでしょ!」

「あ!やっぱりアレックス君だったんだ!」

 またも会場の入口から元気な声がした。

 見ればレモンがアレックスのスーツ・ケースを持ち上げながらニコニコともう一方の手を振っている。

「やっぱり先生でしたか!」

 アレックスも頭をぺこり。

 そこへまた拳骨がズゴッ!。

「ど、どうして?……」

「約束したじゃないのっ!七年前にあたしと瀕死の床での指切りゲンマン!」

 涙目をパチパチさせた。

「元気になって、大きくなったら、あたしのお婿さんになるって!」

 アレックスは耳まで赤くした。

 それを面白そうに見ていたギースがいいタイミングとばかりに話の腰を折る。

「では、いいですか?そろそろ説明しますけど、その前に紹介します。氷雪蒼眼のアリスと言えば、みなさまご存じでしょうが。じつは……現在、裏社会に潜伏しつつも、鉄道情報局の情報員として、働いてもらっています。しかも、わたしの別れた女房でしてね」

 またしても間抜けな動揺が走り抜け、そんな寒い雰囲気の中を恐れずに堂々と、しかも憮然としながらアリスが話を切りだした。

「まぁ、もと、お尋ね者だからこそ少しは役に立つってもんだ。反秩序派国よりも鉄道公社の方が報酬額も大きくてね。もと旦那のコネも使って現在は、まっとうな道をを歩んでいるってことさ。鉄道公社には感謝してるよ。おかげで、お尋ね者から、まっとうな社会人になれたからね。これからは逃亡生活もしなくていい。おっと、そんな話はどうでもいいや。そうそう、公社情報部員のパウエルから連絡を受け取ったのはカシュガルの駅から陸航列車に乗った頃だったかな……」

 彼女の任務は法都を追放された少年の後をつけ、影ながらその護衛をしつつ、その旅の航程を逐一ギースに報せる事だった。

「ゴビ砂漠を目前に見失ってしまったのだよ……」

 いたく心外な面持ちである。

「ずっと荒野を行くのだから堪らないよ。天山山脈は霊の巣窟。手練れでも避けて通る難所だってのに、その坊やときたら強盗とドンパチやらかすは霊獣狩りはするは。そりゃもう追いかけるのも命懸けさ。こちらが巻き込まれてる内にさっさと行っちまいやがった。でも行き先は解ってたから先回りしようと列車に乗ったところで連絡があったんだ。娘の病状が少しばかし良くないってね……」

 アリスの娘は重い霊障害を煩っており、太原市にある公社の付属病院に入院していた。その面倒を同僚のパウエルに押しつけて彼女は任務に就いていたのである。一方、パウエルは太原市にて潜入捜査任務に就いていた。不純物の多い磁界石が出回っている事に公社も過敏になっており、情報員を市内のあらゆる採掘所へ潜り込ませていたのである。

「潜入捜査員の身許は社内でも極秘にするのが当たりまえですが、公安部の室長なら、こちらの動きくらい察知していて当然のものと……」

「な、なによ、えらそうに!……後々になってさすがに気づいたわよ!」

 負け惜しみのように言い返したが、真っ赤な嘘である。

「アレックスの法都追放も密命のためってこともちゃんと知ってたもんっ!」

 これも嘘。公社本部からそれに関する書類が転送されていたが、つい今日に至るまで全く気にもせず、先ほどレモンに促されて目を通し、慌ててここへ駆け付けたくらいである。

「法都の追放が密命のため?」

 心細げに訊き直すアレックスの目は宙を彷徨っていた。

「仕方なかったのだ。処罰による追放と見せかける事で追っ手の目を誤魔化す苦肉の策じゃ。でなければ、とんでもない数の追っ手が差し向けられていたであろう。それに……」

「敵の手に堕ちても情報が漏れないよう記憶を操作した。ジャネット師匠がそうするよう命じたんだ」

「そなたの安全を守るためじゃぁ」

「きっと、それには僕も同意したんだ。君が黙ってそんな事するはずないもの……」

 すっかりシェラは身を縮めている。取り敢えず頭をなでなで。シェラはピンク色に明滅。

セシリアの不機嫌だけが急増した。

「なんか、あたしだけ蚊帳の外ぉぉ」

「ちゃんと報告書を読んでれば、こんな事にはなってませんっ!」

「だって……」

「だっても、くそもありませんっ!」

レモンがぷーっとを頬を膨らませた。その隣でブランが頭を掻きむしった。

「それで教政司教たちの思惑どおりアレックスは荒野を進み、反秩序原理主義者どもの捜索網に捕まることなく太原市までは無事に到着というわけだ。旅の貧乏も師匠の思いやりだったってわけかよ。でなきゃ、密命を果たせる確率は低かったかもしれないな……」

「仰る通りかもしれませんね……」

 ギースが厳かに肯定。

「アレックス君の出奔と前後し、契天位でしたか、最下位クラスの聖騎士が数名同じく,この陸航列車を目指したようですが誰一人到着してませんよ。その者たちは何の情報も与えられていない、いわばただの囮だったにも関わらず全員殺害されたとの報告を受けております。お救いできなかったこと慚愧に堪えませんが、それを知りうる情報網をもってしても、アレックスくんの足どりを追う事は不可能でした。さすがと言うべきでしょう」

 慰めにもならない言葉をギースは淡々と言ってのける。

「全ては僕のために……」

「そのとおり。実を言いますと、私が派遣された理由もそこにあります。南雲室長のほうはどうも、よく解りませんが……」

「先輩は支払賃金増を目当に新鋭艦の公安主任になりたがってましたから、人事部を私的に脅迫した疑いが濃厚です。情報部のほうで証拠を押さえてください」

 レモンが目を三角にして暴露。

 もちろんギースがそんな事をするはずないと踏んでの冗談ではあったが、

 セシリアは『ぎくぅーーーーーーっ!』

 と、すっかり青ざめている。

 ギースは一瞬驚きの表情をみせたが、やがて愉快そうに笑いを噛みしめると独白のように呟いた。

「相変わらず真意の掴めないお人だ。ですが敵のほうもさすがと言うべきでしょう……」

「また僕のせいで多くの人が……」

「それはちがう!」

 シェラが大声をあげた。

「ジャネットたちがどれだけ悩み、苦渋の決断を下したかを今のおまえは忘れているだけだ。それに、これは、そなたのせいではない!世界の歪みが起こしてることだ! この陸航列車を守ることが世界の歪みに抵抗することだ。それが、おぬしに課せられた使命じゃ!」

 アレックスは無言。それを肯定と受け取ってかギースがアリスを促した。

「パウエルからの連絡は私的なものだった。娘の病状が悪化したので香港の病院へ移送する事になったと。そりゃ気を揉んだけど、あたしが急ぎ太原へ戻ったのはそれだけじゃない。なんだか嫌な予感もしたからさ……」

 霊能者には大なり小なり様々な霊感能が備わっている。予知知覚もその一つだ。それは漠然とした勘のようなものだが、それに従う事は霊能者にとってごく自然な行動である。太原市につくやアリスはまず病院へ赴いた。しかし娘は退院した後だった。

「聞けば退院させたのは前の旦那って言うじゃないか!頭にきたさ。どういうつもりかと文句の一つも言ってやろうと思ってさぁ。でも、やっぱり嫌な予感もしてたんだよ……」

 そしてアリスはあの採掘所へと向かったのである。

 

 そこで目にした光景は凄惨の二文字でしかなかった。太原市の最下層。さらにその地下にある採掘所。あの閉ざされた空間へアリスがやって来たのはアレックスがそこを訪れるよりも三週間ほど前の事だった。アリスは暗がりの中で呆然とした。悲嘆に暮れながら膝を折り、それでも血を流して横たわる同僚の身体を観察し、もっと早くにここへ来ていたらと自分を責めた。すぐにギースへ連絡を取ろうとしたが、その前にまず頭を切り変える事に専念した。まず私心を廃し、周囲の状況を把握する事こそ情報員に求められる資質だ。

 どうやらここは古い採掘所らしい。一昔前の磁界石ラッシュの頃は羽振りもよかっただろうが今では会社としての機能も充分に果たしていなかったと思われる。それは、ここへ来るまでの様子を見れば一目瞭然だ。すでに引っ越した後のような閑散とした佇まい。

 ただ、そこにも違和感を覚えながら来てみればこれだ。パウエルを含めた労働者全員が殺害されていた。被害者の数は三十人前後。掘削を行うには少な過ぎる人数だが、その者たちが何を掘り出し、何を見つけたかは奥の金属扉が物語っていた。その周囲には最近になって発見されたと思しき鉱脈が輝きを放っていた。

 本来なら太原市をあげて喜ぶべき事態のはずが、それを覆す物が同時に見つかったのだろう。闇に溢れ出す反陽子反応がそれを告げていた。アリスは躊躇せず中を確認した。古い型式の結界石が散乱している。何かを運び出そうとしていたらしい。解せないのは、その口封じの実行犯たちもまたこの場で死体となっている事だ。

 男たちは一目で裏稼業と判る姿をしていた。お決まりの黒スーツは全部で五体。どれも屈強な体格である。恐らく元軍人か傭兵の類だろう。軍隊にいた経験を持つアリスには同じ臭いを嗅ぎ分ける事ができる。周囲を見回してもう一度状況を確認した。施設の動力が生きてる事と死後硬直の状況から犯行は数時間ほど前と見ていいだろう。労働者を殺害するのにロシア製の対人用自動小銃を使ったらしいが、そこがまた腑に落ちない。

 周囲に飛び散る薬莢の数が多すぎるのだ。殺害後もまだ銃を撃ち続けたと判断するしかない。それに死体が一カ所に固まっていない。まるで何かと戦う為に銃を構えていた形跡もある。戦場さながらの状況。労働者たちとは明らかに異なる断末も窺える。体の一部を食い千切られ、または腹を貫かれ、まるで肉食霊の仕業のような。だが、ここにある装置がそうであるなら封印されていたのは憑依性の次元霊のはずだ。

 憑依性霊は種類によって感染する獲物が決まっており、多頭竜系が主に感染先として選ぶのは人間である。分離組織となる頭部を人体に感染させ、潜伏期間を終えると脱皮し、二足歩行の三頭竜人へ変体する。しかし、確かに三頭竜人は殺戮を好む凶悪な霊獣だが、ここにいたのはそうなる前の状態だったはず。

「まさか……次元霊使いか……」 

 思わず声が漏れたその時だった。

 背後で悲痛な叫び声が響いたのである。

 

あの日、あの夜、エルザは買い出しに出かけていた。今夜で短期契約の仕事が終わる。 そのささやかなお別れパーティーの為の、ちょっとした外出だった。

「だけど、なんで、あたし一人だけが買い出し要員なのよ!」

 不満たらたらの両手にさげた買物袋はパンパンに膨れあがっていた。中にはスナック類にジュース類。つまみやビールなどの酒類が入っている。そんな物を買うにもせめて中層に近い街まで汽車に乗って行かなければならない。おかげで二時間以上も仕事から離れなければならなかった。データー転送や書類の処分は終わり、後は大した業務も残っていないが、まだ最後の給金を貰ったわけではない。

「早く終わらせて、ぱぁっとやりたいわね!」

 ぶつぶつ言いながら、うらぶれたコンクリート剥きだしの玄関をくぐり、通路を進んでエレベーターの前で立ち止まった。何かがおかしい?と感じたのはその時だった。確かに廃業間近の会社だけれど上階に誰も居ないというのは不用心すぎる。ちゃんと戸締まりをするまでは誰か一人くらは居てもいいはずだ。もしかすると自分をほったらかしにして、お別れパーティーを始めたのかもしれない。

「あぁ、そんなのずるいぃっ!人に買い出しを頼んどいてそれはないよう~」

 頬を膨らませながらエレベーターを待った。まもなく扉が開き、十四下層を示すボタンを押す。そこが最後の仕事場だ。よくは解らないが、そこで発見された歴史的にも重要な遺物を運び出す作業を終えたらこの仕事は終わり。数ヶ月の契約だったが報酬は驚くほどの金額だった。エレベーターが金属音をたてながら降下を始めた。酷い音なのでいつも壊れやしないかと冷々したものだが、そんな徒労も今夜かぎりである。もうすぐ最後の報酬を手に入れて、この街とはおさらば。そして憧れの陸航列車に乗り、姉とその夫との三人で香港へ向かう。姉の新婚旅行も兼ねた旅なので奮発して二等客室を予約してある。しかも乗車するのは……あの新鋭艦TCGE999だ!

 出発は三週間後である。

 まもなくしてエレベーターが止まり、

 坑内へ足を踏み入れた。

「えっ?……」……と声に出してみた。

 それは無意識が告げる警告に感応した呟きだったのかもしれない。明日には操業を停止し、一緒に仕事をしてきた仲間ともお別れになる。そのみんなが待っているはずだ。でも鼻孔を刺激するのは噎せ返るような血の臭い。「えっ?……」と足がガクガク震えた。

 それでも前に向かって進んだ。

 坑道の奥へ、奥へ……そして見た。

 死体に囲まれて冷たく目を怒らせる青いスーツを着た女の姿を。

 ……買物袋がどさりと手から落ちた。


「おい目を覚ませ……」誰かが頬をパチパチ叩いているのが解り、エルザは目を開けた。「お姉さん?……」そして先ほど見た光景を思いだし、ひっ……と咽の奥を鳴らした。

「ひ、ひっ……人殺し……」

 そう言うのがやっとだった。

「やったのは、わたしではない……」

 苦渋に満ちた声。

「信じる信じないは、おまえ次第だが、あたしがここへ来た時にはすでに……」

「そっ、そんな!」

 エルザは血相を変えて起き上がった。

「姉さんは?ミリア姉さんは?ジムは?……みんなはどうなったのよ!」

 仲間のほうへ這いながら進んでいった。姉はすぐに見つかった。すでに異形と化したそこには以前の溌剌とした笑顔の欠片もなかった。絶望と恐怖。そして多くの事を思い残した悔しさと歪んだ苦痛が残されていた。とてもそれが姉だとは思えなかった。ジムもすぐ見つかった。同じように恨みの籠もった目で歯を食いしばりながら姉を守るように夥しい数の銃弾を受けて息を引き取っていた。

 そこには涙を流した跡もある。

「……どうして、こんな事に! あと三週間もしたら二人は結婚するはずだったのに!

どうして!こんな! どうして!こんな! どうして! どうして! どうしてぇぇ!」

「おい、やめろ!」

 背後から抱きすくめられても悲痛の衝動は止まらなかった。腕を振り払い、

「うぁぁぁぁぁぁ…………」と泣き叫んだ。

 女が静かに見下ろしているのが解ったけれど溢れ出す涙は止まらない。姉を抱きしめ、その手に填められている指輪を見て、さらに涙が溢れた。背に手の温もりを感じ、その胸に飛び込んだ。英国のクーデターで両親を亡くし、命からがら逃げ延びて姉と二人で必死に働きながら都市を渡り歩き、やっと掴んだ希望の切符も一瞬にして絶望の彼方へ飛んでいった。全くいい事なんてなかった人生。亡命難民を迎える国などほとんどなく、多くの者が明日も知れない人生を懸命に生きて生きて生きて、なんとか一縷の幸せでも掴めたらと願って頑張ってきた。ここで働いていた人たちもみな同じような境遇だった。いったい、その人たちの何がいけなくて、こんな苦難を味わい、その果てに、このような殺され方をしなければならないのか!悔しさと無念が嗚咽となって漏れた。……許せない。

「……おまえの気持ちは解る。……あたしがもう少し早く来ていたら……」

 女は言った。「そこにいる男は、あたしの仲間だったんだ……」

 エルザははっとし、男の死体を見た。

 腕を広げた大の字になって倒れている。

「まったく……霊能者でもないのに無駄な努力をしたものだよ。こんな状況になっても、みんなを庇おうとして……それで全員殺されてりゃぁ……世話ないやね……」

「パウエルさんは、あなたの、お知り合いだったのですか?……」

「まぁ、そんな可愛い間柄じゃないが長年ともに仕事をしてきた仲間だよ。こんな惨い殺され方をしなきゃならない理由なんてありゃしないよ……」

「パウエルさんは、ここにいるみんなの世話を焼いたり、とても親切な方でした。まるで、みんなの……お父さんのように……」

「ありがとよ……」

「……あなたは何か目的があって、ここへ来たんでしょう?だったら、あ、あたし……あたしも何か役に立ちたいです!」

 その目に決意が宿っているように感じたアリスはそっとパウエルの目を閉じてから肯いてみせた。仇を討ちたい、などと言わないところが気に入った。

「そうだな。こんな事をした奴でも許せるなら聖母さんにだってなれるもんさ。ましてや、そいつを野放しにしておくわけにはいかないが、口封じの実行犯はすでに死んでるし……」

 言いながら指を差した方に首を向けてエルザは絶句した。「この人たち……」

「知っているのか?……」

「はい。バッサーノさんの指示で普段は警備の仕事をしてた人たちです。バッサーノさんは雇われ社長です。といっても数ヶ月前に就任したばかりとか。その前からこの会社はあったそうですけど、それを誰かが買い取ったそうです。前の会社から残っていた人はパウエルさんと数名しかいませんでした」

「パウエルも危険な仕事を任されたものだ。……で、おまえはどうして生き残った?」

「少しのあいだ買物に出ていて……」

「それで命拾いしたか……」そう言いながら続けて「ラキ……」と誰かを呼んだ。

 エルザは息を止めた。いつのまにか驚くほどに美しい少年がすぐ近くに立っていたからだ。少年には似つかわしくない、というより到底運ぶのは不可能と思われる大きなトランク・ケースを背負い、しかも、それを軽々と担ぎながらトコトコやって来てペコリと頭を下げてくれた。首元にリボンを結んだ水色のブラウスと古風な象牙色のブレザーを身に着けている。髪は透き通るような青色の縮れ毛で、こんな時でもなければ、まぁ可愛い坊や!と抱きしめていたかもしれない。

「あのぅ、アリスさんの御子さんですか?……えらく、力持ちなようで……」

「な、何を言っている!……あっ……おまえ、霊命を見た事がないのか?……ラキ……」

 また、その名を呼んだ。すると男の子はトランク・ケースを前に置き、その体を明滅させながら「拙者はラキと申しまする。今後お見知りおきを」と幻滅させるには充分な時代がかった口調で自己紹介をしてくれた。

 どう見ても普通の人間ではありえない。

「ふぇ?」

「そう、あたしは霊合者だ。氷雪蒼眼のアリス。その名くらいは聞いた事があるだろう」

 確かに聞いた事があった。裏社会の霊科学者。英国国教会の裏切り者。そして英国亡命者が最も恐れなければならない人物として。

「ひぃぃ!……どうか命ばかりは!」

「何度言ったら解るんだい。そんな事をするくらいなら、とうにやってるさ。だけど、まぁ……状況が状況だからね……」

 そこでアリスの全身が鋭利な緊迫に包まれた。「……ラキッ!」

「ひぃぃ!」今度こそ腰を抜かしそうになった。死んでいたはずの黒スーツがむくりと起きあがったのだからもう心臓が止まるかと思った。

「全てを殺せ……それが主の意思……」

 体から植物の蔓のような物をウネウネさせながら男が迫ってくる。もちろん、エルザは知る術もなかったが、既にもうその時にはアリスが霊命の真名を喚起していた。

『白鳳君ラキスト・シリス・アルビレオ!』 だが完全憑依には間にあわない。刹那男の体から溢れ出た霊素がアリスの体を跳ね飛ばし、棘のある触手がラキの体を縛りつけた。

「くっ!動きが速い!そいつを凍らせろ!」

 即ち、霊門開放技。霊結霧氷陣。

 と同時に植物のようなものが凍てつくように色を変え、男の動きが止まった。その体内から出てきた物体を目にしてエルザはまたもや絶句した。まるで植物のような姿をした獣が霊素を氷結させようとするアリスの技を跳ね返し、それでいて、形もあやふやな体をのたうたせるような動きをみせつつ、やがて胡散霧消と姿を消したのである。

「やれやれ、A=2ってとこか。その分離体だろうけど嫌な予感がますます高騰するよ。ありゃ、ラーミアのように見えたけど……」

「A=2?……」

「霊能ランクさ。EからSまでの霊能査定があって、さらに、それぞれに六段階の霊術査定を組み込んだ階級。A=2はまぁまぁ最強ってとこかな。ちなみにラキはA=3だけど」

 そこで言葉を切り、アリスはまじまじと黒スーツの亡骸を見下ろした。

「なるほど、生贄ってわけか。先に本体を運び出してから後始末をしろとでも命じられていたか。ここでドンパチやらかすと霊の分離体が血の臭いで目覚めると知っていながら、わざと、そういう指示を出したんだな。霊は感染しようと暴れ、生贄どもはパニック。しかも自らが使役する霊の分離体を前もって生贄どもに感染させていたらしい。生贄を殺害したのはそっちだろう。そしてヒドラ分離体は死体に感染。本体が無ければ力を失うもんだから、それを探し求めて移動を開始する。その霊もすでに支配してんだろうな。今のラーミアはその残り糟か。そしてその狙う先は列車。だが、なぜ、そんな面倒なことを?」

 よく解らない事を口走った。エルザは目を瞬かせた。霊能者の戦いを目の当たりにしたのは初めてである。先ほどの戦い。アリスが戦ったのはまるで伝説に出てくる悪魔のような怪物だった。おかげでアリスは負傷し、霊に寄生された様子のラキもどこか苦しげである。なのに、そんな状況なのにアリスは平然と背負い式の大きなトランク・ケースの蓋を開け、何やら思案に耽っているのだった。その中にはノート型の霊信端末や他にも陽子銃などが収められていたが、その中で最も眼を引いたのは予想もしない物だった。もちろん目を引かずにはいられなかったのだが、それは冷凍されたマネキン人形のような物体で、装置に囲まれながら身体を複雑に折り曲げ、気持ちの悪い格好で、しかも生きて眠っているかのような状態で収まっていたのである。一瞬、冷凍人間かと思って息が止まった。

「こいつは、いわば危険回避用のダミー人形さ。中にプラスッチック爆薬を仕込んである」

「…………」

 危険な任務に就くアリスにとって身代りになる人造体は必需品だが、エルザにそんな事情はまるきり解らない。何をするものかと見ていると、まず彼女は霊信端末を取り出し、ひそひそと通信を始めたのである。

 

 まずアリスが最初にしたのは上司に報告し、指示を仰ぐ事だった。そして、まもなく返信されてきた内容に困惑を隠せないでいるのは誰の目から見ても明らかだった。

 というのは、その指示が甚だ理解困難な物だったからである。それは、まず山西国の経済大臣に接近する事を命じており、その為に現場の隠蔽を準備しておけという内容になっていた。これは大臣の信用を得ながら逆に脅迫できる立場を得る事を目的とし、アリスの裏の顔を最大に活かす事に他ならなず、その為に敢えて行う虚偽の行動であるとは理解したが、それと同時に事件が密かに噂になるような策も提案してきにのには驚かされた。これは黒幕を心理的に揺さぶる策謀と思われたが、下手をすれば作戦そのものを危うくしかねない。さらにギースはアレックスという名の少年がTCGE999へ確実に乗車するよう仕向け、車内に危険が潜んでいる事を何らかの形で事前に報せておく策(さすがにこれは補助策と前置していたが、恐らく、こちらがメインなのだろう)も伝えてきた。よくも、こんな腹黒い事を短時間の間に考えられるな……と感心しながらアリスは黙考し、しばらくしから行動を起こす事にした。

「バッサーノと言ったな。まさか、そいつの名はアレッジォ・バッサーノか……」エルザが肯くのも待たずにキーボードを操作する。

「ふん、堂々と本名で掃除屋とは何を企んでるのやら?最近、奴が複数の霊科学企業と契約を結んでいるとこまでは本部も掴んでるようだが、色んな顔を持ってる野郎だ。本人の特定は難しいな。TCGE999の建造に関わった企業なんて数えたら切りがないから焦ってんのか、命令の要点が支離滅裂もいいとこだ……」……だが、そこには、

『世界の安全を脅かす者は鉄道公社が裁く』という理念が込められているだけでなく、例の少年を確実に列車へ案内するという陰険な策謀も巡らされているのも確かだった。

「ともかく山西国の政治家が絡んでるのは当然として。どうも危ない橋に思えるよ。他の部署にも合図を送れる手立てを考えたほうがいいかもしれないね……」

「あのう……うちの社長が……何か?……」

 アリスがぶつぶつ言うのを聞きながらエルザが質問した。

「あぁ…そいつはな、裏の世界ではちょいと有名な変体野郎というか犯罪者だ……」

 案の定、エルザは顔色をなくした。

気の毒に思いながらアリスは軽く説明する。

 「まぁ、こんな口封じの仕事をするような奴じゃないんだけどな。今、本部から色々と情報を得てるんだが、なるほど、大臣の李宝山はグレゴリ霊電科学の有力株主で、しかも磁界石の掘削権を大量に取得していると。……単純な利権絡みの隠蔽でもなさそうだが」

「どうするんです?……」

「面倒だが、その李なんたらとかいう政治家に近づいてみるさ」

「そ、そんな面倒って……そんな、ぶっきらぼうさで上手いく事なんですか?」

 エルザは間違った人物に協力しようとしているのではと、ちょっと不安に思ったが、そんな気も知らず、アリスは坑道奥の扉のほうへスタスタと歩いていく。

「こいつが、要は事の発端なんだろうけど」

 中を覗きながら言った。その周囲にも結界石と同じものが転がっていた。

「その昔ここには軍事施設があったらしい。そこは人造体兵士に内蔵するに適した霊の細胞霊素を取り出す研究をしていた機関だそうだ。要塞陥落と共に放棄され、そのまま、その一部が長らく眠っていたってわけよ」

 言いながら結界石を拾い、それから外に出て「ここにある死体が全てじゃないだろ?」

という遠回しな質問をした。その意図するところ掴みかねていたが、ようやく飲み込めたエルザは確かめてみた。すると三人の社員がいなくなっている事に気がついた。

「やはりな。すでに脱出してて当然か……」

「まずいじゃないですか!街中にそんな怪物が出ていったりしたら!」

「心配ない。次元霊のほとんどが地下では霊素の維持が困難だ。あいつらは地下が苦手なのさ。次元霊たって元々はこの世界の住人じゃない。奴らは地球そのものに宿る『大いなる魂』の影響に近づくと崩壊するらしい。まぁ、その真なる要因は解明されていないが、奴らが地下を恐れる習性は確かだ。さっさと荒野か、まぁ列車を目指すだろうよ。それより、しくじったよ。今のでだいぶ霊力を消耗したし、ラキもちょいと毒されちまった。そのくらい放っとけば治るが時間的余裕がない。誰かが様子を見に来るとまずいしね……」

 言いながらアリスは死体の周囲に結界石を置いていく。

「次元霊用の結界石も霊力を増幅させる装置の一種さ。霊を活発化させる事ができる」

 言いながらその右手にある聖痕から燐光を溢れさせると、やがてパウエルの遺体からも人魂のような発光体が現れた。

 発光体は何か苦しげに明滅しているだけでエルザの耳には何も聞こえないが、それでもアリスは瞑目したまま何度か唇を動かし、その明滅に合わせて相槌を打っていた。

「苦しかったろ。もう喋らなくていいよ。すまないが、事後のことを任せたよ」

 そう言ってアリスはしばらく眼を閉じてから苦しそうに膝を付く。まるで力を使い切って崩れるように。そして同じように発光体もそこで消え失せてしまった。

「もともと、霊媒力は乏しいほうなんだ」

「何かを……お願いしたんですか?」

「あぁ、ここにいる者たちと協力し、できれば、ある霊能者を導いて貰えるようお願いした。その思いが届くかは解らないが、きっとパウエルならやってくれるさ。だからここに僅かな期間でも定着できるよう結界石を置いたのさ。目当ての人物ならきっと死者たちの無念を汲み取ってくれるだろう。それでも心配だからラキを残していくがね。それが人でなしどもの悪事を広める仕掛にもなるってもんさ。だから、おまえさにゃ申し訳ないんだけど、姉さんや婚約者の遺体はここに残していくよ。そして後始末を完結させないと。つまり遺体を隠す。なぜって?それはこの廃坑の噂を広めるにあたり無駄に秘密を知って犠牲になる者を出さないためさ。そして、もう一つは大臣に恩を売るためさ」

 そう言ってアリスは霊術操技の力を使って辺りの瓦礫を運び、あっというまに坑道の入口を閉ざしてしまうのだった。それから社内施設に赴いて、そこに細工を施した。

 つまり、それは……。

 下層施設の空き部屋に例のダミー人形を設置し、入院中の娘に届けるはずだったという薔薇をそこにあった花瓶に入れ、さらにダミー人形の装置を身体に取り付けて操作し、人形に自分の姿をコピーさせたのである。

「どうして、そんな艶めかしい人形を、わざわざここに置く必要があるんです?」

「そうだね。さすがに、このままでは、ちょっと、あたしも恥ずかしいよ」

 そしてトランク・ケースからキャミソールとペチコートと白衣を取り出し、申し訳なさそうに着せる。

「四本の薔薇はTCGE999のトレードマークなのさ。さも怪しさ抜群だろ。なにしろ公社から指名手配されている犯罪者のダミーが、ここでほくそ笑んでるんだから」

「それじゃ、まるでアリスさんがテロを計画しているみたいに見えるじゃないですか?」

「ま、それでいいんだ。解る奴には解る。そういう合図なんだよ」

 と、それが結局、徒労に終わるとも知らず、今度は至る所にセンサーを取り付け、

「何者かが社屋下層施設に出入りし、尚かつ、全ての者が屋外に退避したのを感知してから起爆するよう設定しておいた。ただしラキはここに結界を張り、ターゲットの者以外は入れないようにしてくれ。その下の坑内には誰を近づけても構やしないが、あたしの噂のほうが先に流れたんじゃ身も蓋もない。それに目当の者以外がここを訪れる前に爆破してしまったのでは意味がないからね」

「つまり、それは必要な人物にのみ情報を知らせるためと。・・ここの噂が広まり過ぎないようにするため。そして後に大臣の信用を得るため。・・ですね?」

「解ってきたじゃないか。でないと次の仕事がやりづらい。報部員としてのね。じゃぁ、ここを後にしよう。すまないがラキは後を頼む。力を貸してやってくれ。パウエルたちの霊が自縛化し、騒ぐようになれば否応なしに噂も立つようになるだろ。そうなれば、すぐに霊能者が何人もやって来るはずだ。だけど雑魚に用なしだから上手く追っ払ってくれ。やり方は任せる。なに?あたしの娘の姿で追っ払う?あまり感心しないが、まぁ、労働者が表に出すぎると思惑を気取られる危険もあるから好きにしろ。じゃあ、行くよ……」

 そこでエルザが逡巡するように立ち止まった。

「その前にもう一度、姉さんたちにお別れをしてもいいですか?で、その前に作業所の本部に立ち寄って欲しいのですが……」

 アリスが溜息を吐く。「いいだろう」

 そしてラキを含めた三人でエレベーターに乗り、再度下層へと向かったのである。それから作業本部の受付カウンターへ行き、エルザは壊された端末機の下を確かめていた。

「やっぱり残ってた。このディスクも消去しておけと命じられてたんですけど、その前に買出しを頼まれてしまって、ここに置きっぱなしにしていたんです。これには社員名簿とか給料の支払明細とか、その他にも個人情報が入っています。何か役に立ちますか?」

「なるほど。あとで犯罪を立件する上での証拠資料に使えるだろ。コピーしておこう」

「持っていかないんですか?」

「いい導きがあるかもしれない。何か此処に思いを残せるような遺品でもあればいいが、あたしが見たところ綺麗さっぱりと……」

「そうですね。かなり片づけられてしまいましたし、あたしが外出している間にも……」

 そこで悲しそうに差し出したのは小さなフレームに入れられた写真だった。

「今夜のお別れパーティーが終わったら二人にプレゼントしようと思ってたんです」

「そうか……」

 それをエルザはコピーし終えたディスクと一緒に壊れた端末機の下の隙間に置いた。

「じゃ、みんなにお別れを言いに行こう」

 そしてアリスは押し殺すように嗚咽するエルザの体を抱きしめたのである。





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