第二章 続誦哀歌――闇夜邂逅路

今でもその時の事は鮮明に覚えている。でも夢に見たのは久しぶりだった。その日は家族で外食する予定だった。留学先から兄も帰国していたので、いたくご機嫌だったのを覚えている。いつものように運転手のおじさんがドアを開け、いつもどおり、お父様が先に車へ乗り込む。ただ、そこで大きな音がして目の前が炎に包まれるという…そんな夢だ。その時に味わった体の痛みも覚えている。お母さまに買ってもらった洋服が血だらけになってボロ切れのようになって、これじゃ叱られると思ったのも覚えてる。

 みんな何をしているの? 今夜は楽しい夕食会よ!

 燃えあがる炎と自動車。バラバラになった家族の残骸。そして見た。車に乗って去っていく顔が三つもある女と黒いスーツに身を包んだ男たち。

 ふと気づけば、すぐ側に少年が立っていた。その姿は幼い頃のお兄様にそっくりなのに、それは朧気で何かがちがって見えた。それがひどく自分を悲しませた。やがて、その少年が首を横に振り、そして、こう言ったのだ。

『そなたの兄は死んだぞ。でも、そなたには生きて欲しいと願っていたぞ。おまえは、まだ生きたいか?……』

 少女は肯くしかなかった。すると少年の髪が燃えるような深紅に染まり、その姿がより明瞭となる。なんとなく家族との永遠の別れを理解できたような気がした。

『そなたの兄は滅び、我はその想いと、その魂をもって顕在を得た。案ずるな。その者の魂は我が内なるぞ。されど、その霊魂はすでに命数尽き、同じく命失いしそなたもまた不完全なり。我らが存在するには欠けたるぶんを共に補い、共有することになろう。故に、そなたには真名を教えねばなるまい』

 少年は大層な物言いでそんな説明をしたが、それは兄の魂を依代にして全く別の存在となり、自分たちをこの世に止めるという意味なのだろうと理解した。やがて周囲に磁界の渦が起こり、体内に霊素が入り込んできた。

 そして手に焼けるような痛みを感じて見てみると、そこに炎の形をした霊術紋のような、そんな聖痕が記されていた。

『冥界より来たりて魔を喰らう霊命もまた古より霊術に支配されし者。その真名は決して他者に教えてはならぬ。それが契約の証。それが破られし時、我は他者に支配される事となり、そなたは再び滅ぶであろう』

 神の託宣でも読みあげるように言った。

『わかった。じゃぁ、まずは、あたしから。あたしはセシリア。あなたの名前は?』

『熾天将ナユタ・クシュリナ・アグニーナというぞ。我が主よ……』

『じゃぁ、今日から君はアグニねっ』 

 不思議と悲しみはなかった。だから炎の中から再び立ちあがる事ができたのか。ともかく、それは復讐と使命を果たすための蘇生。そして正義の味方になるための復活だった。

             

 第四車両第三エリア。

 その十四階部分にある一等客室。

 その前に張・レモンは立っていた。

 今年、二十七になる彼女はすでに中尉への昇進を果たしているものの、その姿は今日に至るも白衣と丸眼鏡のままである。そんな彼女の前にある扉には『公安部危機管理室・出張中』という張紙がしてあり、その、およそ達筆とは言い難い野性味あふれる部署名の下にはミミズののたくったような字で『セシルの秘密基地』と記されていた。そこを目掛けてノックしたレモンは返事も待たずにドアを開け、まず通路右横の部屋を覗いてみた。すっかり事務所と化したリビングは惨憺たる有様だ。灰皿は天こ盛り。書類は悲惨に飛散し、電子通信機からはまだ目も通してない書類が山盛となって溢れだしている。溜息を吐き、今度は左横のドアをぶっ叩く。

「開いてる」と、ただそれだけ。眠そうな声が返ってきたので入るとキングサイズなベッドの上で下着姿のセシリアが胡座をかいて背伸びしていた。「ふぁぁ」と涙目になってる股ぐらの上には、ちょこんと小さな男の子が座って、同じように欠伸をしている。

「おはよ。アグニ」と挨拶すると、その七つか八つくらいに見える赤髪緋眼の男の子も口から火を噴いて答えてくれた。

「うーん。今日も元気な炎だ!」

 その男の子の髪をくしゃくしゃ。撫でながらセシリアがブチュっと接吻するとアグニはくすぐったそうにニコニコ。レモンは慌ててドアを締め、「あのですねぇ!」と目くじらを立てた。

 こんな現場を誰かに目撃されてはまた妙な噂や恥ずかしい伝説が流布しかねない。

「少しは自重してくださいっ!夜遅くまで、あんなマニア生唾の、いやらしい格好で出歩いてるから寝坊するんですぅ!朝礼もとっくに終わって列車ももうすぐ発進ですぅっ!」

 その睨む先には漫画や雑誌が散乱している。その表紙に描かれているヒロインの悩殺ポーズは昨夜のセシリアそのものだ。昨晩遅く、いきなり出所不明のサンプルを持ち込んでおきながら、本人はさっさと部屋へ戻り、今までアグニを抱っこして寝ていたのだ。

 この豪華な客室も艦長をたらしこんで、しかも経費ロハで接収したという噂がある。

「なんだよ。ちゃんと調査もしたぞ。いったい朝から何の用よん? あ、そうか、昨晩のやつか……それで何か解ったか?」

「もちろんです」

 いくぶん胸を張るレモンだが、そこはやはりペッタンコなので慌てて引っこめる。

 セシリアは起きぬけの一服にとアグニに火を付けてもらい、煙草をぷかぁーーーーっ。

「そいで?」

 その命状しがたい優越な態度に込みあげる怒りを抑えながらレモンは報告に取りかかった。

「乾燥してましたが人工細胞ですっ。憑依式人造体の皮膚組織にまちがいありません」 

 それでも丸眼鏡はキラリと光る。

「憑依式人造体はその戦術的有能さから現在では軍事転用が固く禁止されており、それを起動させるに必要な封霊石もまた国際法上使用が厳しく制限されておりますが……」

 そこでむっと口を尖らせた。

 見ればセシリアは紫煙で輪っかを作り、アグニを喜ばせて遊んでいる。

「ま、所詮、人造体にできる事なんて限られてますけどっ。たとえば要人暗殺。爆弾設置。潜入工作。大規模な強盗。問題は動力に用いる霊を感知にしにくい所なんですけどっ」

 仏頂面で物騒なことを並べたてる。

「ですが人造体の全てが危険とは言えません。その使用目的と、どのような霊を封じるかで用途が様々ですからっ!」

「だよね。だから参ってんのよん。いま届いているテロ予告がすでに二枚。暗殺計画書が三枚。あたし宛に届いてる脅迫なんて百三十枚にもなるってのに……」

「悪戯の犯行予告なんて陸航列車には付きものです。ましてや処女陸航ですから……」

「でも東アジアのお歴々が多数乗り込んでるんだ。看過はできんよん」

 とベッド横に置いてあるリストを手にし、ボリボリと尻を掻く。

「……蜀南連邦の資源局長。大漢連合の次席書記長。中華民国の総統補佐。台湾の副総督。東蒙古の産業相。満州国の貿易庁長官などなど。そして、この山西国の経済大臣。なんだか微妙に偉い人ばかり揃ってるん」

 そんな状況のなか、秩序国世界指名手配中のテロリスト、アリス・クロウリー潜伏の形跡を発見したのだから、それなりの警戒も必要だろう。だが、どうも腑に落ちない。なぜ機動を停止させた人造体をわざわざ残すような危険を冒したのか?宣戦布告のつもりか? それとも、なにかの警告か? 情報部がアリスを利用していることは把握している、ここは一足、だしぬかれたか。

 あの倒産した会社は半年ほど前に山西国の経済大臣に買い取られていたらしいが、その真相についても闇の向こうだ。おまけに情報課が先に何かを掴んでいるようだが、あそこの腹黒課長が素直に情報提供に応じるとも思えない。情報課のくせにあるまじき事だが、公安部と情報課の確執は今に始まった事ではないのだ。こちらとしても頭を下げてまで奴らから情報を買うような真似はしたくないが、ただ幸いなことに他にも宛はある。そう、あの少年が何か目撃しているはずだ。あの少年はこの列車に乗っているだろうか?そうと願うばかりだ。ともかく後で調べ、それからブランにでも任せればいいだろう。 

 セシリアはほんの一瞬の間にそれだけの事を巡らせてから話の矛先を少しずらした。

「それより実家の薬屋には顔を出したのん?父さんの墓参りもするんじゃなかった?」

「ええ。ちゃんと父には会いましたよ。相変わらず墓のほうにはいませんでしたけど」

「そうか……」

 ちょっと羨むように朱唇を綻ばせる。

 それからリストに挟んであった一枚の手配書を握りしめ、眉間に皺をよせた。

「人造体とは嫌なことを思いだすな」

「ええ、デューク・アルバトロスⅡの……」

 二人の言葉が重なり、かわす視線の中から過去の忌わしい記憶が甦ってくる。

 七年前のあの日。

 欧州特急デューク・アルバトロスⅡの第四車両を襲った悪夢のような惨劇……それは死者の数三百名以上を出す公社史上始まって以来の大惨事となってしまったのだった。 


 艦内の医療施設に駆け込んだセシリアは改めて唖然としたのを憶えている。

 その少年は、周辺にある医療器機と同化するほど機械化された状態にあり、それは霊術器機が皮膚を破って体内から露出するという状態ながらも奇跡的に存命しているという現実を医療部員たちに突きつけていた。

「霊術機器だけではありませんよ!」

 レモンが今にも泣きそうな顔で言った。

「血液の二割近くが磁界石ナノ細胞に変質してますし、皮膚などの組織にも、それらの人工細胞が移植されてますぅ……」

 いったい、どれほどの残酷が少年の身に降り注いだのだろうか。様々な改造手術を施されたおかげで、あるべき有機組織の多くが失れていると報告を受けた時は反秩序派テロ組織の狂信者どもを一人も血祭にできなかった事に対して心からの後悔を覚えたものである。

 倫敦で退治した霊獣などはなんの腹いせにもならなかった。少年の心と体はもう完全には元に戻らない。それは誰の目からも明らかだった。しかも複数の霊とすでに霊合しており、更にまた別の霊合現象が今も継続中という。ただでさえ事例の少ない複合霊合。そこから発せられる異常霊波も尋常ではなかった。

「霊質、理性ともに高位の霊が魂魄からの完全融合を果たそうとしているので、それなりに時間はかかります。有機嗜好性の強い霊のようですから体に取り付けられた霊術機器が邪魔になってる可能性もありますし、なにより先に融合している霊との拒絶反応が問題です。でも必ず両者とも助けたいんです……」

 その表情に浮かぶ覚悟は悲愴なものだったが口調に揺るぎないものを感じたセシリアは少しばかり安堵した。高位霊命が魂魄融合するのは体質的にその能を有する者だけである。中でも死の淵に立った者を甦らせて再び命を与える霊命は啓示によって主を選ぶとも言われており、少年を選んだ事に何らかの意思が存在するならたとえその一部が機械となり、複数の霊に取り憑かれていようと霊合を果たし、その命を救ってくれるにちがいない。

 それを信じるしかなかった。

「きっと、なんとかなります」

 医療部員の一人が言った。レモンだけでなく、まだ他にその希望を捨てずにいてくれる者がいる事に多少は心も安らぐ。だが状況は刻一刻と曙光への猶予を閉ざしつつあるのだ。すでに異常霊波が多くの霊を集めつつある。それが人に対して友好的でない事は明らかだ。異常霊波が誘き寄せるのは大抵、たちの悪い次元霊と相場が決まっている。下手をするとSクラスなどの出現で列車自体を乗っ取られる可能性もある。生命に対して親近な霊と同じく、その他の次元霊たちもまた『生』という根源的な活動に惹かれているのだ。

 列車が走る荒野とはそんな霊類の巣窟だ。もし、これ以上の危険な兆候が見えれば止む終えないが少年を再びの死へ追い戻さねばなるまい。あとは列車を守護する霊命たちの力に期するより他にない。幸い、このアルバトロスⅡに宿る霊命はB=4からA=2クラスと高い霊位を誇っている。それらの霊によって駆動する列車は霊電動力が生まれる際に発する陽子性プラズマを周囲に放射しており、それが近づく霊のほとんど破壊するので、そうそう危険に遭遇する事もないが、しかし車内から強い異常霊波を放出していれば、それは、どのような結果をもたらすのだろうか?

 やがてセシリアは何度も脳裏を掠める嫌な予感を紛らわすように作成中の報告書へと再びの目を通してみるのだった。

 やっと解決をみた児童誘拐虐殺事件。その顛末に奥歯を噛みしめた。政府関係者の子息ばかりを狙った極悪非道の四文字。大英帝国を震撼させたクーデター。この二つの惨事は表裏一体だ。世界浄化の理想を掲げる霊能テロ組織『青き憂聖団』と反政府組織が手を結んで起こした国家転覆。犠牲となった子供の親はみな秩序派の貴族なり政治家だ。その幼き犠牲者の数は二百名を越える。まさに史上類を見ない凶悪事件だが、それを暴くのに多大な犠牲を要したにもかかわらず無事救出できたのは、この少年の貴重な体ただ一人分だけだった。そのうえ監禁場所となっていた研究所から現れた霊獣のおかげで周囲数キロが壊滅するという惨事まで起き、暴虐の限りをつくした人外の者どもを取り逃がすという散々たる結末に終わった。事実結果がそうなのだ。報告書に記された血の通わぬ印字が矜持に怒りを落とす。憤りが暗澹とふり積もり、少年と霊命との間に霊合が起きた事だけがせめてもの救いとなっていた。その要因は定かではないが、たとえ真実が闇に葬られようと、その命の灯は何があっても消したくはない。

 公社と法都が少年の保護を決めたからでもなく、それを心から願わずにはいられなかった。

 工作腕が少年の体にある霊術機器を少しずつ除去していく。その度に体が大きく跳ねた。ナノ粒子が細胞を取り込んでいくと同時に霊素が魂に浸透していくのだ。そこへ機器を除去する過程で生じる神経への過電圧が起き、そのショックに体が悲鳴をあげているのだ。しかも、その直後だった。意識のないはずの体が起きあがり、同時に機械部分が意志を得たかのように暴れ、連動して周辺機器や各装置までが蠢き始めたのである。

 医療部員が舌打ちした。

「……っ、人工知能変異が始まりました」

 そして指示を促すようにガラス張り向こうの治療室を指差す。とくに取り乱している様子はない。予想していた事態なのだ。

「ただのE=2クラスです。無機物嗜好霊のようですが……」

 次元霊の中でも弱者の部類に入る無機物嗜好霊は雑多で、その能力には幅がある。

 だが、車外ならともかく、ここに現れたという事は守護霊命の結界を破って侵入してきたという事に他ならない。

「背後に潜んでる奴でもいるのでしょう。Eクラスはただの陽動です。列車に喧嘩をしかけてくるなんざ、けっこうな霊力の持ち主のようですが、このまま放置するわけには……」

 それは霊命が次元霊に喰われ、さらにその憑依を受けて列車自体が機械性の大霊獣になってしまう可能性をも示唆している。この倫敦からの『最終便』には英国から亡命してきた人たちが大勢乗っているのだ。

 レモンがすぐに方針を決めた。

「時間がありません。ナノテクはどうにもなりませんが、その他の雑多で余計な霊術機器は一気に剥離します。あとは運まかせ!」

「わかった。雑魚霊は任せておけ!」

 言うが早いかセシリアは異常の起きつつある治療室の中へ躊躇なく飛び込んでいった。そして呟くように、ほんのわずかに薄目を閉じ、それでも力強く相棒の名を喚起する。

『熾天将ナユタ・クシュリナ・アグニーナ!』

『……はい、マスター』幼い声が内側から発せられ、その髪がふわりと浮きあがる。

 そして周囲に鬼火が飛び散った。

『炎滅せよ……』短く命じた瞳が紅玉のごとき緋眼となって輝き、飛び散る炎が一つにまとまると、工作腕が機械部を一気に剥離……

 血飛沫があがり、そこに混じるナノ粒子が蠢く。切り離された霊術機器が暴れ、それが悶えるように捩れた瞬間、閃光とともに消滅。そこでセシリアは息を止めた。再び床に倒れた少年の背から輝く物体が溢れ出たかと思うと、それが可憐な少女の姿に変貌した。人ではない。霊命の形成体だ。その瞳から涙のように霊素を溢れさせ、それがまるで何かを懇願しているかのように彼女の目に映った。

「そうか。おまえ、この少年のことを……。だいじょうぶだ。なにも心配するな」

 そう答えてやると安堵したのか霊命は少年の内へ吸い込まれるようにして消えた。やがて血色が戻り、傷口もみるみる塞がり、燐光に包まれながら少年は人らしい姿を取り戻していった。続いて右手の甲が燃えるように燻り、そこに複数の十字架を重ねたような形の聖痕が記された。そこでセシリアも肩の力を抜き、やれやれと仲間のほうを振り向く。だが、その先に待っていたのはより深い闇と悲愴だった。……再び呼吸が止まる。

「……いま……非常事態宣言……レベル5が発令されたとの報告が……」

「どういうことだ!」

「憑依式人造体に霊を隠し、車内に潜り込ませていたそうです。その霊を着点にして何人もの次元霊使いが瞬間移動してきたと……。第四車両はすでに……絶望的と……」

 続いて列車を揺るがす轟音が響き、まもなく全駆動が停止した事を示すように車内の照明が非常用のものへと変わった。

 セシリアは救命室を飛びだした。

 

 それから二週間後。

『デューク・アルバトロスⅡ』は第四車両を失った状態で法都の世界駅へ到着した。

 少年の国際指名手配が英国新政府より発せられたのはそれから間もなくの事である。少年の写真を載せた手配書にはその本名と、九歳という驚くべき年齢と、犠牲となった子供たちの名と、それらを虐殺した罪状と、生きて捕らえた者には賞金五百万ポンドが送られるという旨。そんな内容が記されていた。  


 やがて、セシリアはその手配書を丸めると手から炎を揺らめかせて焼却した。これまでに何度それを灰にしたか数え切れない。それでも、その手配書を見かける度に持ち帰り、過去の屈辱を心に刻みながら燃やすのである。

「まったく、あの時は不甲斐ない結末ときたら……」

「青き憂聖団……」恨みのこもった声でレモンがその名を囁く。いま思いだしただけでも震えが止まらない。だが、それでもこう言うしかないのだ。

『そう……我々は公社公安部の危機管理官なのだ』――と。

「ですから次はあんな事にはなりませんよ。……あっ……」

「おっ!……」二人の声が重なった。

 ゴゴゴゴゴゴッ!……と地響きにも似た振動が体へと伝わってくる。

「発進したな。次の世界駅は石家荘か……」

 呟きながら窓の外へ顔を向けた。舞いあがる砂塵。吹きあがる炎。それは巨大列車が世界一周の旅に向けて軌道上を進み始めた事を告げている。車体から放射される霊電磁界のプラズマが上空へ向けて飛散し、その光景を窓からも視認することができた。

 その大きさは高さ八十メートル、横幅九十メートル、長さに至っては二キロメートルにもおよぶ。

 やがて、ゆっくりと陽曲山の全容が遠ざかり、荒野の景色が動きだした。

 

 二十二世紀の終わりに人類は滅亡の危機を迎え、それまでに築きあげてきた文明を一瞬にして失った。その原因は『人為的ワーム・ホール実験』の失敗によるものである。世界人口の八割が消滅するというその大惨事を、後に人類は『大空間変動』と呼び、それ以降を『アフター・インパクト』と改め、平行地球世界の新たな歴史として刻み始めた。

 そして時はAI歴の307年。地球を汚し続けてきた人類に最後の審判が下されてからすでに三百年あまりが過ぎ去っていた。

  

 『神様・・神様・・神様・・神様・・』

 誰もが、その名を呼びながら死んでいった。

 ある少年は別の生き物へと変貌させられ、理性を奪われた挙げく仲のよかった妹を食い殺してしまった。他の何人かの子たちは一つの身体に押し込められ、そのうち狂死した。

 命の尊厳もなく玩具にされ、あたかも粘土で作られた人形のように破壊され……

 それでもまだ生きている者もいた。

 やがて、そんな阿鼻叫喚の地獄を創造した異端者たちは研究所の排水施設に、すでに死んだ仲間の亡骸と共に、僕たち……まだ人の形を止めている者たち……を閉じこめた。

 何の為にそんな事をするのかは解らなかったが、ただ、あの左右の瞳の色の違う者たちはこう言ったのだ。

『さぁ狂気に身を委ね、そこから真理を生みだせ。この腐った秩序を覆す基盤を……』

 許せない。そう思ったけれど何ができただろうか。連中は実験に耐えきった者を地下の迷路に閉じこめて殺し合いをさせた。暴力と恐怖は人を狂わせる。自分たちが生き残る為になら人間はどこまでも醜くなれる。

 それを連中は、『蠱毒』の呪法と呼んでいた。

 そんな地獄。そんな残酷。そんな悲愴。

 そんな狂気。そんな絶望。そんな醜悪。

 それでもただ一人、あのルシアだけは、どこまでも正義を信じ、助けを信じ、神を信じ、人を信じ、愛を信じ、さながら希望の象徴のごとく仲間を励まし続けていた。

 なのに救いなど一欠片もなかった。なるほど。やはりこうなる運命だったのかと諦める。だって、そこにあるのは彼女の死体だ。よく似合っていた青いリボンを残して彼女もまた人でない物へと変貌していたのだから。しかも、その冷えきった物体には他の遺体と同じように白い蟹が群がっていた。そう、排水溝に生息するあの蟹。昔は海の浅瀬に住んでいた生物が今は地下の水路や水脈を縄張にしている。大空間変動は生物の生態にも多大な影響を及ぼしたのだ。でも、そいつらがここまで凶暴だったとは知らなかった。きっと地底では栄養のある餌にはなかなかありつけないのだろう。だからか数え切れないほどの群が誘き寄せられ、生きている者にも襲いかかり、弱っている者から食い殺していった。

 彼女をこんな姿に変えたのもその蟹だ。

 でも、なんでこんな事になってしまったのだろう。僕たちのグループは決して他者を傷つけなかった。親友だったマイクもトニーもまだ自分たちが何をすべきか、どうやって生き残るべきかを冷静に考える力を残していた。なのに、もうここにはいない。原因はやはり与えられた食料が少なすぎた事にあるのだろう。男たちが創造した殺し合いの環境。他者から奪わないないかぎり先に死んでいくだけという弱肉強食。そんな酷薄な環境に、より幼い子たちが耐えられるわけがなかったのだ。自分たちの食料を分け与えてなんとか命を繋げてきたがもう限界だった。だから、そんな仲間たちを助けたいと思い、監視役の連中を襲撃する計画を立てたのだ。そして、それを実行し、食料を奪う事には成功した。連中は都合よく携帯食を持っていたのだ。それはピーナッツ入りのヌガーバーだった。でも、そんな物を手に入れるだけに三日も費やし、その戦いで大切な友も失った。しかも、この広い地下迷宮は戦時中に造られたもので複雑に入り組んでいて、仲間のいた所まで戻るのにもかなりの時間を必要とした。何もかも僕の責任だ。そして全てが手遅れだった。そこには、さらなる絶望しか残されていなかった。だから泣いた。ルシアの遺体を抱いて、群がる蟹を食い殺し、まずくても生臭くても、ルシアを返せ、トニーを返せ、マイクを返せ、ジミーを返せ、ディアナ返せ、カレンを返せ、 みんなを返せ!・・と、ただ泣いた。

 そして吐いた。ゲーゲー吐きながら、それでも蟹を食い殺し、吐き、食い殺し、そして希望という希望を全て吐きだした。その時。 また、あの狂者どもの声を聞いたのだ。

『きっと君が生き残ると思っていたよ。さぁ、君の中に世界の秘奥を宿すとしよう……』

 まだ狂気が続くのかと神を呪った。当たり前のように迫る死に、あまりにも無防備な僕たちに神は温かい手など何一つ差し伸べてくれなかった。だけどもういい。ルシアのリボンを手にして嗚咽する事しかできない自分にも死が待ってるだけ。既に、どす黒い霊気が周囲に立ち込めていた。次元霊が誘き寄せられいるのだ。これだけ死体があるのだから数多の霊が集合体を造ってくれるだろう。霊汚染も凄まじいものになるはずだ。さらなる地獄絵が見られる事に心地よさを感じる。もう恐怖などない。残されていたのは戦えない自分に対する慚愧と狂気にへし折れた薄弱さ。そして全てに対する呪いと諦念だった。


ここが病室だと理解するには少し時間がかかった。陸航列車の一両目。その十階部分は全て医療施設になってるというのは車内パンフにも記載されていた事項であったが、それを思い出すまでは、かなり焦ってしまった。なにしろ個室だったし、華美ではないまでもそれなりの調度品も置かれ、冷蔵庫にクローゼット。シャワールームまで備わっていたからだ。

 もちろん、こんな部屋に滞在できる余裕はない。だから、すぐに起きあがり、戸惑いと共に周囲を見回した。そして安堵した。見ればベッドは介護用。点滴具も置いてある。なるほど上等の病室だ。やがて事情が飲み込めると次に自嘲が込み上げてきた。蟹に対するアレルギーは治療を受けても改善しなかった心の病。どうにもならないトラウマだ。そんな情けなさに悄然としながら壁にある時計に目を向けてみた。針は午後の三時四十分を差していた。かなりの時間眠っていた事になる。列車もとっくに発車している。しばらく茫漠と病室の窓から見える曇天を眺めていた。雲の切れ目から光が降り注ぎ、砂塵に煙る荒野を照らしている。朧気だが眩しく感じてならない。今見ている世界は以前に見ていた物とはまるきり違う。自分を希薄にさせながら切々と圧迫するようで心苦しくさせるのだ。人は生まれる時は頑なに目を閉じ、産道に潰されそうになりながら外へと出でて初めて目にする光に恐怖し、泣き喚くらしい。そんな話を聞いた事がある。

 その叫びはきっと地獄へ生まれた事への嘆きだろう。

 そんな事を思いながら目を擦り、涙の跡に気づいて慌てて拭った。さらにドアをノックする音がしたので思わず返事してしまい、咄嗟に表情をとり繕う。やがてドアが開き、そこに女性が二人立った。一人は白衣姿だったので医師とすぐに解った。もう一人は朝礼の場にいた白い制服の女性だ。どちらも髪は黒。白衣はポニーテールで制服は肩の辺りで切り揃えたショートカット。どちらも魅力的な女性と言えるだろう。呆然としていると、白い制服のほうが帽子を取って慇懃に頭を下げてくれた。

「申しわけない事を致しました。なにぶん新鋭艦という事もあって至らぬ点も多く……」

 すぐに清楚という言葉が頭に浮かんだ。女性らしい曲線がはっきりと輪郭を与えていて凛と落ちる静謐の気配に包まれている。アレックスは自分が謝罪されている事にも気づかず、一瞬の間、ポカンとしてしまった。

「それにしても、お怪我もなく、本当に安堵を致しました……」

 どうやら暴走した人型重機のせいで何らかの痛手を負ったものと思われているらしい。

「いえ、そんなお気遣いなく。あははは……」

 薄弱に笑って適当に誤魔化す。

「最近はちょっと栄養失調気味でして……」

 これは嘘ではない。卒倒したのは、そこにも原因があるのだろう。……すると、

「こんにちわ……」と、さらに制服の後ろから白衣の女性が顔を覗かせ、丸眼鏡を向けてくれた。とても可愛らしい女性だ。どこかで会った事があるような既視感も湧き起こる。それが、くすくす笑う。

「蟹が十匹も髭にぶら下がってたんですよぉ。取るのにとても苦労したですぅ」

「それは……大変……お手数を……」

 それ以外になんと答えれただろう。嫌がらせではないらしいが耳まで熱くなるのを感じる。そこへ制服の女性が再び顔を向けてきた。特に髭への関心がないのは助かるが、その視線の方向が気になった。あからさまに手へ注がれている。いつも両手に手袋を填めているので聖痕は表に出していない。目がさらに訝るように細まった。

 アレックスも彼女の右手へ目を向けてみる。手袋は填めていない。自然な動きでそれを隠そうとしたが、まるで咲き誇る花を図化したような痣がちらりと見えた。霊質、霊力を示す霊命紋、つまり聖痕である。なるほど霊合者だ。今は霊力を抑えているのだろう。その霊術の完成度からレベルの高さも窺える。やがて微動だにしないまま淡々と自己紹介をしてくれた。

「わたしは北条サラと申します。階級は中佐。この艦の副艦長を務めております」

 漆黒の瞳に吸い込まれそうになった。

 一方、女医のほうも何かを口にしかけたが、そこで手持電話機に呼出しがかかり、ろくに会話もできないまま慌ただしく退出してしまう。少し残念に思いながらサラのほうへ視線を戻すと、こちらは先ほどと変わらず泰然とした面持ち。二人きりでいる事にいたたまれなくなる。やがて唇から清陰とした声がもたらされ、この冷えきった空気をさらに張り詰めた物へと変えてくれた。

「どうか楽にしてくださいませ」

 と言われても、よけいに堅くなってしまう。

「まだ熱があるかもしれません」

 冷やっとする手が額に置かれ、もう一方の手で枕へ誘ってくれるが、もはや緊張感は最高潮だ。でも、その動作のリズムはまるで無機質的というか機械的というか。

「この部屋はしばらくご自由にお使いください。衣服は既に洗浄ずみです。お手持ちの荷物もここへ運んでおきましたから」

 ……洗浄ずみ?

 見るとテーブルの上に洗濯された修道服がきちんと折りたたまれ、その横にスーツ・ケースもあった。それを見て自分が患者服を着ている事に気づいて一気に体温が回復する。

(さぞかし服は汚れていただろう……)

 やがて首筋に髪をはらりと揺らしながら敬礼し、「では失礼」と背を向ける。

「あのう……」と声を掛けたが、きりっと振り向く姿にも整然さが張り付いており、思わず口籠もる。その透徹とした眼差しに向けて、とてもじゃないが求職の依頼などできるものではない。サラはそのまま部屋を出ていってしまう。

 ふぅと息が漏れた。まるで機械人形のような完璧な挙措。冷く堅苦しい感じ。あれでは誰でも萎縮してしまうに違いない。武術で言えば無駄に力んでる感じか。それに何だろう?あの硬い表情の中にある自責のようなものは?……それが何だか自分の心にこびり付いている物と似ているような気がしたアレックスは天井を見あげて放心した。

 でも、よく考えると、こんな事をしている場合ではない。今のうちにシェラと霊信しておくべきだろう。乗車してから一度も連絡してないので、さぞ心配しているはずだ。が、ここはひとまずシャワーくらい浴びたいところ。貧乏なので水の補給もできず、ここ数日は風呂にも入っていない。さすがに、この不潔でウロウロするのは目立ち過ぎる。

 それにやっと薬の効力も落ちてきたらしい。シーツの上に髭と髪がボロボロ落ち始めている。やっとこの鬱陶しさともおさらばかと、ほっとしているのも束の間、思いきり抜け出したので慌ててシャワールームへと駆けこんだ。


病室を出た北条サラは一両目第一エリアに向けて通路を進み、やがて角を曲がった所で立ち止まった。やや広いエントランス。そこは艦内を行き来する平行エレベーターの乗り場である。

その順番待ちを整理するロールテープの前に三人の女が立っていた。暴走する人型重機に向かって駆け出していったあの者たちである。その中の一人が代表するように敬礼した。

「霊合者ならば、これ以上近づくと警戒を気取られる恐れがありますので……」

 黒い制服は艦内霊撃手の証。その胸にある意匠は紅い薔薇のワッペン。そこにⅢの文字をあしらった刺繍が施されている。もちろん薔薇はTCGE999・アースエンプレスの象徴で、数字は第三車両の警備責任者である事を示している。他の者の胸にもそれぞれⅠ。Ⅱ。の刺繍が施され、その襟元にはそれぞれが軍曹である事を示す『三本軌道』の階級章が輝いていた。

 サラも敬礼し、表情を引きしめる。

「今朝見た霊術操技は霊の気配を感じさせない不可解なものでした。とにかく素性がはっきりするまで、あの者から目を離さぬように」

 対する第三両長は顔に訝しさを浮かべて向き合っていた。それはサラのような警戒の表れとは違う困惑のようなものである。

「単純な技ではないようですね。憑依武器を使用した気配も感じませんでしたし……」

 メッシュの入った亜麻色の短い髪と、しなやかな体はどこか猫科の猛獣を奇想させる。

「それに体調もどこか悪そうに見えましたが、何か気になることでも?……」

「ええ……まあ……」

(あの少年……気のせいだろうか。なぜか泣いていたような気がしたのだが……)

 サラはそれを口にせず、

 厳かな表情のまま続けた。

「警戒は微に入り細を穿つほど徹底し、常に細心の注意を心掛けてください。不審者は徹底的にマークです。よろしいですね」

「了解」と三人が敬礼。

「では、わたしは艦橋に戻ります。そろそろキリング艦長との交代の時間ですから」 

 そう言ってサラは平行エレベーターに乗り込んだ。それを見届けてからⅡのワッペンを付けている第二車両長が舌打ちした。

「ちっ、まるで子供あつかいだ」

「いつも気取った喋り方をするのは名門北条家のご息女だからかねぇ?」

「上官への失礼な言葉は慎むべきだぞ」

「相変わらず、真面目なことで……」

 第一車両長の言葉に第三車両長ことジェシカ・メイソン曹長はむっと眉をしかめた。 

 自分とて子供を諭すような言われ方は気に入らない。それに上官の手前、油断していないような物言いはしたが、正直、少年に対する警戒までは不必要と感じている。

「……だが、四車掌たちが最初の意識同化に入ったばかりで、霊命たちもまだ完全に艦を制御できてない時期だ。艦の守護力が完璧でない今が一番危険だと仰ってるんだ」

「まだ同化の調整、終わってないんですか?」

 第二車両長が腰に帯剣している憑依武器をいじりながら訊いてきた。

「意外と時間かかるんですね?車掌自身は艦内警備には携わらないのですか?」

 ジェシカはそんな事も知らないのかと暗澹たる思い。だが無理もない。他の二人は最近まで香港本部の警備部に所属していた者たちである。そういう自分も陸航の現場に出てまだ一年しか経っていない。副艦長の危惧は取り越し苦労とは言えないのである。

「どの列車もそうだが、四つの車両に分かれ、第一車両から第四車両の第一エリアに駆動機関を備えている。その四つの機関によって列車は動いてるんだ。車掌は各機関の管理者で列車を守護しながら動かす霊命たちの主だ。時には霊信を使って安全対策指示を出す事もあるが陸航中はずっと機関を通して艦と思考同化した状態にあるから意識は艦外の安全にのみ向けられている。車掌たちが艦内の防衛に携わる事はまずない」

 もしそんな事態に陥ったとすれば……

 それはもはや生きては帰れぬかもしれない状況にあるという事だろうが。

「とはいえ艦の防衛指揮を担うのはもっぱら艦長、副艦長、公安部主任、情報課長の四指揮官だ」

 そして、その四人は確かに世界最強の一角を担う霊能者たちだが、ただし、そのもとで実働任務に就く霊撃手や霊壊砲手や戦重機乗りなどの戦闘員は数ヶ月前まで勤務していた列車よりも格段に人数が少なく見えるのは気のせいではないだろう。

「あまりにも整備期間が短かすぎたのだ。艦との意識同化や機関の慣らし駆動には本来数ヶ月は必要になる。それを山西国政府の申し出だからと出発を早めてしまったのが問題なんだ。スタッフの訓練も不充分なのは間違いない……」ジェシカは現状を説明しながら眉間に指を立てた。

「でも、まぁ……我らの上司が北条中佐や他の車掌であったのは……むしろ僥倖だと思うぞ」

 まるで頭痛でも堪えるかのように、

「一番危険な第四車両の連中は公安部主任兼車掌の南雲大佐の指揮下にあるのだからな……」

「まじっ?」他の三名はそれぞれ気の毒そうに顔をもたげた。鉄道職員にとって『灼炎公女』の異名を持つその女の名は恐怖の対象に他ならない。昨夜、太原市の最下層で起きた不審な爆発火災はもしかするとその大佐が仕組んだ自作自演のテロだったのではないかという恐ろしい噂が今職員の間で持ちきりである。

 これまでも耳にしてきた伝説的な噂の数々もまた全てが驚嘆すべき物だった。いずれもろくな物ではない。どこぞの居酒屋で散々酔っぱらった挙げく炎のストリップ・ダンサーと化し、居合わせた客に天国と地獄を同時に味合わせたとか、まさに耳も疑う武勇伝ばかりだ。そんな人物の下で扱き使われるなど想像しただけでも肝が凍える。

「ちなみに第一車両はキリング艦長。第二車両は情報課長のファーレン中佐、そして第三車両は北条中佐がそれぞれ防衛責任者を務めておられる」

「なるほど。じゃあ、ここはメイソン曹長にお願いしてもいいですか?」

「はぇっ?……」

 四人の目が意地悪そうにジェシカへと向けられた。まあ、そうなるとは思ってたけど。

「たかが少年の見張りに三人も車両長は必要ないではありませんか?」

 ジェシカは首を振って溜息を漏らした。

「わかった。わたしがやるよ……」

          

その頃、第一両目の同じ階の通路を行く一団があった。その先頭を行くは、問題の多い訓練生が一人、ジュリア・スペンサーである。まるでドリルを連想させる先の尖った金髪の縦巻きを殺伐と靡かせて不機嫌も露わに闊歩する姿はまさに戦いの女神もかくやたる猛々しさである。

「どうして、この、わたくしが謝罪などせねばなりませんの!」

「そりゃそうだろ。おまえが一番に謝れ! 殴ったんだからなっ!」

 くっと尖る朱唇に向けてブランがびしっと命令した。でも、あまり威厳は感じられない。

「だって!あんなとこ触るんですもの……」

  ジュリアは語尾も尻切れ気味にモジモジ。 ブランの鼻がニターッと伸びる。

「それでトキめいちゃったとか?だから会いに行くのが照れくさい……グボッ!……」

 腰の入った見事な正拳が顔面に食い込んでブランはもんどりうって倒れた。

「わたくしの鉄拳が決まる前から死にそうだったじゃありませんか!だいたい何ですの、蟹みたいに泡吹いて髭モジャで気持ち悪いったらありません。トキめくわけないでしょ!」

「やはり蟹アレルギーでもあるのだろうか?」

 エリカ・スチュアートが凛々しく歩きながら首を傾げた。その後に続くミーナ・ハルベリーが「かに~♪かに~♪」と連呼。

 息を吹き返したブランがその後を追う。

「ともかく原因ははっきりしないが、病室に運ばれる事になった一端は俺たちにもありそうだ。それに今日はもう講義も終わったし、夕方からの練武もない。それにミーナは助けてもらったんだから、お礼も言わないと……」

「本当にそうなんですの?」

 うん……とミーナは肯いてから「でも、ぜんぜん嬉しくなかったよ」と、しょんぼり。

「もったいない事を言う。わたしならば素直にその状況を満喫していたはずだ」

「あなたはもう少し慎みを学びなさい。というより、なぜ、あなたが付いてきてますの?」

 ジュリアは日頃からエリカに対してどことなく対抗心が強い。

「仲間はずれにするな。少年が美味であると、わたしの女性ホルモンが訴えているのだ」

「……な、なにを南雲大差みたいなことを!」

「むっ、大差を馬鹿にするな。それに、あの少年はかなりの武芸者だと確信もしている」

 ジュリアは目を細めた。今の切り返しは中佐を侮るなという意味なのか?それとも自分も含めて馬鹿と認めている。という意味なのか?今ひとつ判然としないな。と思いつつ、ふんと鼻を鳴らして言い返す。

「まさか、わたくしの右ストレート一発でノックアウトだったじゃありませんか」

「それはやはり何か不測の事態が生じたのだ。あの倒れ方はそうとしか考えられん」

      

 そんな不穏な気配などつゆ知らず、アレックスは石鹸の泡を飛ばして鼻歌まじりのご機嫌だった。水飛沫が跳ね、泡が滑らかに肌を滑り、無駄な髪や髭を洗い落としていく。しっとりと銀灰色の髪も垂れ、前髪も丁度よい長さになって素顔が顕わになる。まるで生まれ変わった心地である。やがて疲れも癒し、体の隅々まで洗浄したアレックスはバスタオルで体を拭きながらシャワールームから出て冷蔵庫の前に行き、サービスの牛乳を一気飲みして人心地ついた。

 そこでやっとシェラの事を思いだす。慌てて部屋にある鏡の前に立ち、右手をそこへ向けて霊信に必要な霊気を調節しながら霊門開放を行った。

 即ち霊門開放技。雲外鏡信の術。

 右手の聖痕から燐光が迸り、やがて鏡面が膜を張ったような霊気に包まれ、そこにシェラの顔が映り込んだ。それがもの凄い形相だったので、思わず後退ってしまう。

「何をやっていた!」いきなりの怒声である。

「ごめんなさい!」すかさず謝る。

 下手な言い訳をするよりこのほうが鎮火が早い。

「あーっ!」その顔がさらなる怒気に震えた。







「自分だけシャワーを浴びたな! ずるい!ずるいぞ! ずる過ぎる! ずるーいっ!」

 そんな事を言われても。だが言い訳の余地はない。バスタオルを腰に巻いた状態だ。

「あとでシェラも浴びるといいよ。この部屋は自由に使ってもいいって……」

「それは本当だなっ!……むっ!」

 そこで湯上がり姿に意識が向いてポウッと明滅した。恥ずかしそうに俯いてしまう。

偉そうなくせに恥じらいがあるところはまだ可愛いな……と、そこは素直に思う。

「それより霊波を感じるかい?僕も少しは感じてはいるんだけど……」

 霊波とはもちろん次元霊の出す反陽子性の反応である。次元霊は既に車内に潜伏しているとアレックスたちは考えているのだが、

「微かだな。たぶん死体にでも憑依しているから感じにくいのだろ……」

 やはり予想は的中ということか?まぁ、それは当然の帰結だが、問題はこれからどうやって霊の行動を追跡するかにある。感じられる霊波の質があまり高くないのも逆に懸念される。本体を封印していたはずの封霊石は車内に持ち込まれていないのだろうか?さらに気懸かりはラキに感染していたあの霊素である。なにやら植物系の霊から分離した霊組織のように思えたが、シェラが食べてしまったので、今さら調べることはできない。

「あの封霊装置にあった霊表記は多頭竜系を示してたね。戦争の道具にでも使う気だったのかな?法都の資料はなんて?……」

 今の世界は空間変動によって変化したと認識されているが正確に言うと以前の世界から弾き出された物だけが存続している事になる。この世界の過去は地球の過去だけでなく他次元の過去にも繋がっており、複数の空間が絡まって危うく存在しているのだ。

 それを修復するのは、いかに反秩序派国が解決策を研究しようと前世紀の科学を復活せんと目論んでも不可能というのが真実である。なのに依然と多くの国がそれを信じていない。その事がテロや戦争という悲劇に繋がっているのだが、しかし、いかに人類がその業を背負い続けても時空曲界から生じる次元霊もまた歪んだ空間の中に進化の歴史を有しており、それを現時からしか知覚できない者に真理の開眼など不可能というのもまた事実だった。そして現実として、その怪物の中には有機体に憑依感染し、それを依代に獣化する物がいる。今回アレックスたちが追っている霊もその類だ。死体であろうと生体であろうと感染して巣くい、潜伏期間を終えると脱皮して霊獣化。そして、さらに増殖していく一般的なタイプである。

「反秩序派だった大清国が大漢連合との戦いで使用するはずだった霊かな?」

「正解だ。増殖させた霊を人造兵士に憑依内蔵させ、殲滅したい都市へ送り込む計画を立てていたのであろう。それを察知した秩序派合軍は陽曲山要塞を徹底的に攻撃して壊滅させた。それを境にdai

東亜戦争も集結。大清国は崩壊の道を辿る事となるのじゃが……」

「で……陥落する前に坑道の奥に封印した。霊獣化して三頭竜として復活されると厄介だし、人間に憑依されると、もっと厄介だよね。その前に何とかしなきゃ……」


むむむ……」その顔がさらなる怒気に震えた。

「こんな時に、おぬしは暢気にシャワーを浴びていたのかっ!」

 そんな事を言われても。だが言い訳の余地はない。バスタオルを腰に巻いた状態だ。

「だって、ここのところ満足に風呂にも入れなかったし……」

「まぁ、それはそれとしてだ。この列車内に蔓延している異常な霊波を感じているか?」

「うん、少しは感じているんだけど……」

 この場合の霊波とは、もちろん次元霊が放出する反霊電素子性の霊力のことである。アレックスとシェラは、あの場に封印されていた次元霊がすでに車内に持ち込まれていると考えている。それは、その根拠にもなる証しでもあった。

「うむ、おぬしの言うとおり、かなり微弱だな。たぶん、まだ封印状態にあるのだろう」

「きっと、どこかの国の工作員かテロリストだろうね。乗客に紛れ込んでいるとしたら判別するのはまず無理だよ。それに、きっと、あの作業所で採掘された汚染磁界石も、この列車内に運び込まれているにちがいない。それを証明するのも、かなり困難だけど……」

 陸航列車は霊電磁界石を燃料として動いている。その駆動機関には今や大量の磁界石が積み込まれているはずだ。その中から汚染された物だけを取り除くのは、とても困難な作業が必要だろうし、いまだ見えざる敵が、その時間的余裕を与えてくれるとは思えない。

 その事実が、今後この列車にどのような影響を及ぼすのかは容易に想像ができる。

 汚染された磁界石は列車の駆動力にダメージを与え、霊電磁界の結界を弱めるだろう。

「うーん。やはり予想は的中ってことかな? まぁ、それは当然の帰結かもだけど、問題はこれからどうやって引き起こされるべく犯行をくい止めるかだね。それに最も気がかりなのは、あの霊科学機械だ。法都の資料はなんて?」

「あの時、わらわが解答したのと同じ答えしか見つからなかったが……非常にまずいぞ。どうやら、あの装置に封印されていたのは、かなり高位の憑依系次元霊だったらしい。次元霊の中には無機物や有機体に憑依合体し、それを依代にして霊獣化するものがいる。人間であろうと機械であろうと感染して巣くい、霊獣化する。高位のものになると、さらにそこから増殖していくタイプもいる。どうやら、そのタイプであった可能性が高い。先日に起きた聖都トリアノンでの悲劇がまたくり返されるおそれがある」

 その悲劇は高位の憑依系次元霊が聖都を襲ったことに端を発している。その悲惨な事件のおかげで、他にも様々な失態を犯したアレックスは聖教騎士団を追い出される羽目になったのである。

「反秩序派だったアルボス共和国がハルマニオスとの戦いで使用するはずだった霊かな?」

「正解だ。増殖させた次元霊を人造兵士に憑依内蔵させ、殲滅させるべく都市へと送り込む計画を立てていたことが判明している。それを察知したハルマニオス軍と秩序は派連合軍は一大軍事拠点であった陽曲山要塞を徹底的に攻撃して壊滅させた。それを境に大戦も終結へと向かい、反秩序派連合軍や大清国は衰退していったのじゃが……」

 なぜかシェラは世界の秩序を乱そうとする者に対して強い嫌悪感を抱く。それはアレックスとて同様であるが、シェラのそれはそれ以上の激しさであった。これは、おそらく彼女が霊命体となったことにも由来しているのだろう。ただし、その理由を問いただしたことはない。愚かな戦乱に巻き込まれ、人としての命を失い、霊命体となった者は数多くいる。まちがいなくシェラもその一体であろうことは深く考えなくても理解できた。

 そんなシェラが雄弁に言葉を続ける。

「おぬしも知ってのとおり神聖秩序派と反秩序派の戦いは霊電磁界石の鉱脈をめぐり半世紀以上にも及んで続けられた。それは神を中心とした国家を形成する国々と霊科学のみを信奉する国々との戦いでもあった。その戦乱で多くの国が消滅し、現在ソロモン大陸には二十の神聖国家と六つの反秩序派国が存在するのみだ。その中でも聖教国ハルマニオス。神聖共和国アルメシオン。神聖連邦オファニム神聖教国などの四大国はいずれも秩序派であり、その領土も広く軍事力も桁ちがいだ。その他の国々を抑え、ソロモン大陸を支配し、秩序を維持している――」

 この惑星エデンには科学では解明できない現象が多々存在する。移住を終えて世代を重ねるごとに不思議な奇跡を起こす者も出現してきた。人々はそこに神の存在を感じ、多くの者がこの星が人類最後の楽園であると考えた。秩序派の国々は国家の安定をはかるため、そのような信仰心を利用した。もちろん惑星エデンは楽園ではない。人類は常に次元霊の脅威に脅かされ、薄暗い地下都市で生活するしかない。もし神などというご都合主義的な味方が存在しているならば人類はここまで悲惨な暮らしはしていないはずだ。

 が、しかしである。だからこそ人々の神への信仰心はますます深まり、多くの国々が、そのような神の威光を借りて国家の秩序を安定させているのだ。

「そんな世界の在り方に不満を抱く者もまた多い。いまだに反秩序派の旗をかかげ、神を罵り、霊能者こそ絶対者であると考え、神などというものを中心に据えた宗教政治を破壊しようと画策する者は後を絶たない。イギリス連邦のように国が乗っ取られる大事件はあれ以来起きていないが、ルーアンの街はそイギリス連邦と国境を接しており、ハルマニオスとはいまだ敵対関係にある。おまけに『鉄道公社』との関係も最悪だ。世界駅は占領され、今や完全に鎖国状態となり、軍事力を高めることにのみ、その国力を集約させている」

「しかも過去に滅ぼされた国の流民が多数流れ込み、そうとう過激な秘密結社を抱え込んでいるという噂も聞くね。まぁ、悲しいことに、ぼくの祖国ではあるんだけど……」

 四十年前にようやく終結した戦乱で国土を失った国民や元兵士は大陸の全土に拡散し、各地で起きている様々なテロ事件の温床になった。今、現在、あちこちで暗躍しているテロリストたちは、そんな流民の中から生まれてきたと言ってもいいだろう。

「もしロビニオの支援を受けたテロリストが危険な次元霊を手に入れていたとすれば、なにをするか知れたものではないな。……だが、すべてを一人で抱え込むようなことはするなよ。いくら、もと聖教騎士団の一員であり、数多の霊命体を従えているからといっても一人で出来ることなどたかが知れている。無理はするな。命取りになるぞ」

 シェラが心配するのも無理はないとアレックスは自戒した。同じような憑依系次元霊との戦いでアレックスは多くの仲間を失い、自らも大きな深手を負ったのだ。

「うん、分かってるよ。でも、そんな次元霊を車内で解き放たれたら、それこそ大惨事だよ。その前になんとかしないとさ。この列車には秩序派の各国から大司教やら高級官僚やら政治家たちが多数招かれて乗車しているからテロを起こすにはもってこいだよ。












「うむ、そうだな……」とシェラが肯いたところでドアをノックする音が聞こえた。



「ここで間違いありませんこと?」

「あぁ、十二号室だな。ここでOK。レモンちゃんがそう教えてくれたもん」

 ブランが愛想よく答える横でジュリアはドアを睨みつけ、ミーナが妙な弱音を吐く。

「なんてお礼を言って謝ればいいのぉ……襲われたらどうしようかぁ……」

「それはないだろ。修道服を着ていたぞ。といことは聖職者だ。……あっ!」

エリカが何か重要な事に思い至ったらしい。

「それではロマンスにならん!」

「あのなぁ……」ブランが溜息。「危惧するポイントはそこかよ。ま、それは、まず間違いなく杞憂に終わるだろうさ。彼は修道士は修道士でも……霊道士っぽい……」

 その後はミーナが説明した。

 その表情もすっと厳かに引きしまる。

「霊道士の多くは一般的に配偶者を持つ事が認められています。どの国でもそう。それは優秀な霊能の血を残すため。特にカトリック系の聖騎士や王家の守護騎士は高い能力をもってその資格を得ているため、どの国でも彼らの生活保証や育成には力を入れます。彼らは宗教的立場から霊能を行う戦士です。だとしても、あの子がそうとは限りませんが。そうとしても年齢的にまだその見習いと思われます。修行の旅の途中かもしれません」

 そんな風に知識を口にする時だけミーナは淡々とした大人口調になる。が、そんな事には無関心とエリカは勝手気ままに自己中心的世界の構築に走っている。

「修行中の霊道士さま。……あぁ、あなたは私を置いてまた旅に出ていってしまうのだ。わたしは、いつまでも、あなたの帰りを待っているぞ……」

「おいおい……どこまで逝ってる? おまえの脳みそは腐ってるのか?」

 ブランが呆れ、ジュリアが侮蔑を込めた眼を向けたがエリカはそれにも微塵の関心も示さず、長い暗褐色の髪を芝居がかった仕草でくしあげると今度は吐き捨てるように言った。

「だが、ミーナが襲われたら、わたしが瞬殺してやるぞ。まあ、とびっきりの霊能者ならわざと襲われてみてもいいが。その期待はすでに荒野の彼方にあると思っておこう。あまり期待しすぎるのも体に毒だからな」

 と言いながら制服の第二ボタンばかりか第三ボタンまで外し、すでに迎撃体勢に入っているのはどういう訳だとブランもジュリアも苦虫を噛みつぶした。

「毒なんて既に全身に回ってるじゃありませんか。とにかく、いきますわよ……」

 ジュリアが目配せしてからドアをノック。

「えーっと、旅の霊道士様、お部屋にいらっしゃいますでしょうか?」


 とドアをノックする音が聞こえた。

「シェラ!誰か来た!霊信を終える!」

「おい!待て!」

 シェラの呼びかけを無視してアレックスは霊力を一方的に切断し、慌ててドアの方を向いて、いそいそとバスタオルを胸元まで引きあげた。今から服を着ている時間はない。

「それは女の仕草だ!」とシェラの忠告も耳に届かないほど焦っていたアレックスは、

「開いてます」と反射的に答えてしまった。


「開いてますって、言ったんだから入ってもいいだろ」とブラン。

「あぁ、もう!」とジュリアがまどろっこしいとノブを掴んで開く。「失礼します!」と全開に部屋の中へ一歩。と、そこで息が止まった。というのも目の前にいたのが可憐な美少女だったからだ。しかも湯上がり美人ときた。その肩に掛かる艶やかな髪は月光を紡いだような銀色で流れるようにうなじに馴染んで、もう官能的といったらない。透明な碧洋色の瞳が驚いたように見開かれ、それはまるで水の妖精の可憐さを思わせるような煌めきである。きっと深窓のお姫様くらいしか着れない白いドレスが抜群に似合うだろう。

「うほっ!」驚愕が口から漏れた。

 一瞬にして類人猿化したらしい。

「ばか!見るな!」

 エリカがブランの顔を手で覆う。

 慌ててドアを閉める。

「どうして、ここに女の子が!もしかして看護課の訓練生じゃありませんの。あんの髭め。早くもあるまじき不埒な行為を!」

 言ったが早いか再び猛然とドアを開け、何か言おうとしたが、そこにいる美女を目の当たりにしてまた言葉をなくす。均整の取れた身体にバスタオルを巻いて固まっている。もう少し胸があったらと思わせる肢体。だが待てよ。胸が小さいというよりは皆無だ。肌は玉のように艶やかで悔しいがここにいる全員が負けを認めざるを得ないが、その身体にはあまりにも無駄がない。というか鍛え抜かれた女の身体ともやはり異なる。それは戦場で培われたような硬質の筋肉。肉食動物の敏捷さを具現した美。よく見れば顔立ちも女の子というには精悍すぎる。ジュリアはもちろん全員の目が釘付になった。恐る恐るエリカを見る。腹に魚雷を食らったような顔。ミーナはというと、えっ?なぜに泣いている?と、そこで何を企んでるのかと疑いたくなるような絶妙のタイミングで、はらりとタオルがはだけ落ちた。『ひいっ!』と声にならない悲鳴。しかも、その瞬間に至るまで、ごく自然に相手は何も喋らない。

(この空気をどうしろと言うのですか!)

 ひとまず退却です!

 再びジュリアはドアを閉めた。ドアの前で全員がぜいぜいと息を吐く。エリカが虚ろな目をして再びドアを開けようとするのを必死に止めた。だが、混乱はそれだけではない。

「俺にも見せろぉ!」

 と獣化したブランの横でニーナが号泣。

「もう、お嫁に行けないぉ。若い身空で完全無比な生を!それ以上の存在なんてどこにもない逸品まで見ちゃったもん。きっと女神の裸身を見て鹿に変えられたアクタイオンのように狩人に追い回される転落人生を歩むんだぉ。だったら今ここで至上の快楽をぉ……」

「お、お待ちなさい!はやまっては……」

 ジュリアは乱心するミーナを止めるのにも必死になった。そういう自分も動悸が激しい。

 そうしているとドアが開いた。

「何か御用でしょうか?」

 なんという変わりようだ。洗い立てのローマンカラーに素朴な修道服。ところどころ縫って修繕してあるが、だからこそ余計に容姿の美しさを引き立てている。今は胸にロザリオを吊るし、見るからに清貧を旨とする修道士の姿だ。近寄りがたい清らかさをも感じさせるその姿にジュリアは我を失った。

「どうぞ……」と、はにかむように部屋へと誘われつつドアが開かれる。少年の背後にある鏡にビシッと亀裂が入っており、なぜかそれを見て背筋が凍りついてしまった。


「ほぉ……そのような話は初耳ですか?……」

 第二両目・第三エリア二十階にある一室。情報部第三課長ギース・ファーレン中佐は透き通るような白い指先で秀眉をなぞりながら相対する人物に目を細めていた。

 挙措に不審な点はないかと探るような眼が僅かに固定されてから部屋を一周する。一等客室の客間。室内は華美を抑えた落ち着いた雰囲気である。飾る調度品もさりげなく上品さをアピールしている。

「確かに太原市はかつて大清国の軍事拠点でしたが霊を軍事利用していたという話は聞いた事がありませんな」

「霊術軍事に関する研究機関があったということもですか?」

「ええ、初耳です。それに中立を旨とする我が国が、過去の軍事的遺物を掘り出そうとしていたなどという噂。まことに、噂に過ぎぬとは思いますが……ありえない話です」

 今この場には三人の人物がいる。一人は鉄道公社情報部第三課課長ことファーレン中佐である。『裂天豹ヴァーユ』という名の黒き豹の霊命を従える彼は『腹黒野獣』という外見とはほど遠い通り名を持っている事でも有名だ。

 そのソファーの前のテーブルには二つのティーカップが置かれ、紅茶が湯気とともに香気を立ち上らせている。そのカップの間にある黒光りする結晶体のような装置を挟んで、もう一人の人物が言い切った。装置には複雑な霊術紋が記されている。

「それに、それは何ですかな?」

 眉根をあげて装置に目をやったその恰幅のよい壮年の紳士は、着ているスーツから懐中時計を取り出して時間を確認した。その襟元には山西国の代議士バッジが付いている。李宝山。山西国の経済大臣である。四十八歳と政治家としては若いほうだが強引な手腕で大臣にまで登りつめ、落ち目にあった太原市に世界駅を誘致して再び活気を取り戻したと評される人物だ。恰幅のよい体は肥満しているのではなく筋肉質ゆえである事が服の上からも窺え、見る者に威圧を与えている。

「これは俗に結界石という装置で霊術回路に組み込まれて封を補助するものです。ちなみに単体でも機能します。ちょっとした霊なら祓えますから、お守りにぴったりですね。最近は霊類を移送するコンテナにも使用されますが、しかし、こんな古い型式は滅多に見られませんよ。裏のコレクターにでも売ればいい値がつくでしょう。あと霊術軍事に使用されていた物と思われますので、その手の関係者なら目を輝かせるかもしれません」

 ギースは言いながらカップを手に持ち、音もなく上品に紅茶をすする。

「むっ……これは上等なアールグレイだ」などと感心したりもしているが、そこはかとなく諧謔も潜んでいるようだ。一方、大臣は困惑を……わざと大袈裟に見せるように、

「公社の高官が見えられたのです。そのくらいの持てなしは当然でしょう。しかし、そのような珍しい物をどこで手に入れられた?」

「ちょっとした知り合いから頂いたのです」

「まさか、それを自慢しに来られたわけでもありますまい」

 と、やんわり話の矛先を変える。

 ギースもとぼけた口調。

「いえいえ、これはほんの座興。といって本題も大した用事ではありませんがね」

 と装置を白いスーツの懐中にしまい、

 つと部屋の隅へ目線を移す。

「エドガーさんに野暮を聞きに。先ほど通路で見かけて追いかけて来たのですよ」

 そこで会話に引きずり込まれたのは部屋にもう一人いた人物である。眼鏡をかけた学者然とした青年で紺色のスーツを着ている。部屋の隅で所在なげに立っていたところ急に話を振られて戸惑っている様子だ。その顔には自分の用件は既に終わっているので早く退出したいが、その機を逃してしまったという気弱さが滲み出ている。彼は北京で行われる経済会議の日程表を持参しただけで、この後はすぐ第二両目・第一エリアの機関部へ戻る予定だった。

 彼が務める多国籍企業『グレゴリ霊電工業』は会議のホスト役を務めており、このTCGE999アース・エンプレスの建造にも関わっている。彼はその技術責任者で第二駆動機関の最終調整の為に列車に乗り込んでいた。

「第二駆動機関の調整は後どのくらいかを聞きたくて?」

「たぶん……あと一日か二日で終わるとは思うのですが。大変申しわけ御座いません」

「おっと恐縮しないで下さい。こちらの都合で出発が早まったのですから。いえ、それだけのこと」とギースは立ちあがり、「素晴らしいお茶をご馳走になりました」と愛想よく謝辞を述べ、そのまま部屋を出て行ってしまう。それを追うようにエドガーも慌てて部屋を飛び出した。残された大臣は眉間に皺を刻み、息を吐く。それを待っていたように背後の扉が開かれた。そこから黒スーツの男を引き連れて現れたのは一人の美女だった。眼鏡にタイトなスーツと、こちらも知的な雰囲気だが、どこぞの霊能医師とは違い、見る者を圧倒する美貌を包み隠さず溢れさせている。

 すぐ傍らに部下と思しき若い女を伴い、

「ふん、あの腹黒め……」と嫌悪も露わに毒づくが、その怜悧さが失われる事もなく、青い瞳には不敵な光を宿し、大臣の横にドカッと腰をおろす態度は太々しくも大胆だ。その所作に黒スーツの男たちが渋面を作る。

「なぜ、あやつが、あれを持っているのだ?」と大臣が訊ねた。

「さぁね、こっちが訊きたいよ。だけど軽率は禁物だよ」

「心得ておる……」

「ここは列車の中。そして、あんたは大臣。鉄道公社は秩序派だからこそ中立国には干渉しない。事を荒立てなけらば手は出してこないはずさ……」

「どこまで知っているかは気になる。あ奴の目的次第では考えねばならん」

「その時は、あたしが何とかするさ」

「そう言うが、今は霊命が傍にいないおまえにどうやって?」

「まだ戦うとは決まってないさ。それに、あたしの霊命は訳あって分離させてるんだよ」

「やはり……昨夜起きた最下層での爆破騒ぎは……おまえの仕業か?」

「そうよ……獲物は仕留め損なったようだけど。でも、そこは霊命を遠隔操作してるんだ。そいつは仕方ないだろ」

「だが、よい首尾だったと思うぞ。これからも役に立ってくれるなら、おまえには、それなりの暮らしを保証してやらねばな」

「いいねぇ。山西国元首の妻にでもなるかい。……フフッ」

 その婉然に誘われるように大臣が金髪に手を伸ばし、その女の唇を奪おうとするが、

「あぁん……みんなが見てるじゃないか」

と悶えるように足を組み直し、艶やかな太股を露わに姿勢を正していなす。横にいる女が冷ややかな視線を向けた。その北欧系の顔にある左右色の違う瞳には明らかに侮蔑の色が浮かんでいた。すらりとした姿勢をそのままに、その女――アリス・クロウリーの横に置いてあるトランク・ケースを護るようにして立っている。

「あなたの生命はちゃんと護ってやるさ。……エルザ……中身を確認する時間だよ……」

 そう言って合図する。命じられたエルザがトランク・ケースをテーブルの上に置いてロックを解除し、慎重にその蓋を開けると中から白い冷気が溢れ出た。周囲が一瞬にして凍りつくような緊迫に包まれる。背後に控える屈強な男たちの顔にも緊張が走った。トランクの中身はそれ自体が一つの霊術回路になっており、いくつかの結界石と組み合いながら中心に赤黒く輝く物体を内封していた。即ち、そこに組み込まれている物こそ封霊磁界石である。石はトランク・ケース型の装置と共に凍結されているようにも見えた。

「心配ない。霊凍結を施してある。霊命が、すぐ傍にいなくとも、このくらいの力は使えるんだが、完全封印してあるものの、せめて二時間おきには……」

 と右手袋を外し、手の甲にある雪の結晶のような形をした聖痕を露わにする。

 それが燐光を放ち、霊気を迸らせてトランク内の装置に力を与えていく。

「こうして霊気を補充してやらないと封印が解けてしまう。おかげで寝不足だよ。美貌にも悪影響さ。だが……造った装置は完璧さ。あたしを誰だと思って?」

 ふふっ……と小悪魔のように笑う女に大臣は苦笑した。

「氷雪蒼眼のアリス。裏世界に名を轟かせる霊科学者。おまえが私の前に現れた時は、正直、始末しようかと悩んだものだが、そうしなくて良かったと今にして思う。我々だけではこいつを封印し、運ぶ事など容易ではなかったからな。そんな物騒な物が我が国の都市にあってはならんのだ。ましてや陽曲山の地下で見つかったという事実は何があっても隠さねばならん。でなければ我が国の磁界石価格はさらに暴落する」

「封印しても次元霊からは反陽子霊素が発生してしまうからね。そいつは磁界石を汚染する。そんな事実が流れりゃ、太原市の鉱脈から採れる石の全てに疑いが持たれてしまう」

「その通りだ。だから、そんな物は反秩序派の国に売り渡すのが良策なのだよ」

「……けど、裏の世界じゃ、もう有名になってるみたいだよ」

 大臣はしばらく押し黙った。封霊石は本来、四つである。今ここにあるのは本体のみを封印した物で他に分離体を封印した物が三つあったはずだ。先に本体を運んだ後に残りの回収と後始末も依頼したはずだが残り三つについては何も聞かされていない。この女は信用できないが、今のところは使い道がある。

「先に本体を回収したのがまずかったのさ。それで分離体が目覚めた。あんたの依頼を実行した連中はその分離体に殺されたようだけど……問題は、その空になった残りの封霊石を誰が回収したの……かという事だね」

「ギースか?……」と唸るように言う。

「さあねぇ……」とぼけるように返す。

「それより相手先への仲介役は大丈夫なのかい?本体さえあれば商談は成立するだろ。そうなりゃ金も入るし、恩も売れるし、事実も隠蔽できて良いことづくめだねぇ」

 アリスはまた婉然と、

『……そうなればいいんだけど……』

 心中ほくそ笑みながら大臣に媚を売るように足を組みかえ、トランク・ケースの蓋を閉じるのだった。


 第三両目第一エリアの基底部。

 そのほとんどの区域が職員の為の施設になっており、そこには第三霊撃隊の詰め所もある。その一角……検死所の室内にて、グスタフ・キリング艦長は、その古強者の武人といった顔に憂慮を浮かべていた。

「中尉。それはどういう事なのかね?」

 艦長は我が耳を疑ってしまった。

「ですから、この三つの遺体は、この車内で死んだんじゃないって事ですぅ。腐敗状況から見て、少なくとも死亡してから二週間以上は経過しているんですぅ」

 第三エリア基底部にある磁界石搬入口付近において数時間前に三体の男性遺体が発見された。いずれも死因は銃殺。姿は労働者風の作業着で、しかも、おびただしい血痕が衣服に付着しており、身許を証明する物は一切所持していなかった。今のところ遺体が職員の物でない事だけが明らかになっていた。

「何者かが遺体を車内へ運び込んだと?」

「まぁ、それだといいんですけどぉ……」

 言いながらレモンは検死所から直接に繋がる隣室の扉へと向かう。

「遺体から微弱ながら反陽子反応が出ました。つまり次元霊に憑依感染されていた可能性があるという事です……」

 と、そこで、ほとほとに参った顔をし、

「……まぁ、この惨状をご覧になって下さい」

 とばかりに扉を開けた。その向こうは霊撃隊の会議室になっている。開かれた扉の向こうを見た艦長はあまりの光景に絶句した。


 ここにいる誰もが『灼焔公女』の異名を知っている。彼女が世界最強の一角を担う最上級の霊能者であり、警備に携わる者なら誰もが憧れる公安部のエースである事はもちろん、同時にその奇行の数々が誰からも恐れられている事も熟知していた。つもりだ。……が、ここまで常軌を逸しているとは思っていなかった。……でも逆らえなかった。

 逆らうと次に何をされるか皆目見当も付かないという不安もあったし、おまけに彼女自身が自分の行動のおかしな点には微塵の疑いも持ってない様子なのである。

「うーん?……誰の体からも怪しげな反応は感じらんないわね……」

 当たり前だ!と誰もが叫びたかったが、それを口にできる者はいない。ここにいる全員が警備に携わる者としての誇りを微塵に砕かれる思いで直立不動させられている。そこへ呆れ返る張中尉と尊敬すべきキリング准将が登場してくれた。誰もがやっと助けが来たとほっとした。会議室に招集をかけられた時は何事かと思い、戦慄したものである。まず最初に女子霊撃員が室内に通され、しばらくすると全員が怒り狂った顔で出ていった。中には泣いている子もいた。不安を抱きつつ入室してみると、やはり理不尽が待っていた。

「全員、今すぐパンツ一丁になりなさい!」

 上官の命は絶対であると言わんばかりの勢いだった。そして、その後、恥ずかしい姿をためつすがめつ眺められ、とても、いたたまれない気持ちになった。そこへ、やっと助け船が到着したのである。

「こ、これは何の大騒ぎかね?セシリア君!全員の服をひん剥いて……」

「次元霊に感染されたドジな奴がいないか、その痕跡を調べてたのよん」

「はぁぁぁ……」と艦長は深ーい溜息。

「えらくダイナミックな調べ方だね……」

「これが一番手っ取り早いのよん。憑依武器や術具を身に着けてると霊波を察知しにくいからん」と   セシリアはあっさりそう言った。

 艦長の顔に疲労の色が濃くなる。確かに、霊撃手たちが身につけている制服などは、それそのものが霊能を高める術具の一種ではあるが。

「まあ、もういいわ。異常は見られないようだから全員解散」

 ようやく、その言葉を聞けた。誰もがセクハラで訴えてやると言いたげな顔をしていたが、やはり、みな口を噤んだまま退出した。ただ、仲間内の一人が気分を悪くして医療施設へ行っている事はそんないざこざの中ですっかり忘れ去られていた。その、ほとんど全員が退出した部屋の中でセシリアが真剣な表情で言った。

「警戒態勢レベル2を発動して下さい」 


第二両目三エリア。その中層部の繁華街にある喫茶店『森の熊さん』に今アレックスはいる。なぜそうなったのか?と問われてもよく解らないが、ともかくここへ案内してくれたのはブラン・ハウエルという名の中尉さんだった……ところが、いざ着いてみると、

『じゃ、ここは奢るけど、おいらは退散。青春を邪魔するのは野暮ってもんだからなっ』

 などと財布から紙幣を取り出し、それを女の子に手渡すや、自分はさっさと何処かへと消えてしまうのだった。その去り際に囁いてくれた言葉が今もアレックスの耳に何やら呪文のようにこびり付いたままである。

『十代ってのは大人になれば感じない輝きってもんに一喜一憂しながら大事なもんを失っていく二度と戻らない時期なんだぜ。それは神様がくれた人生のお試し期間よ。一瞬一瞬が鮮やかに濃密に過ぎていくってもんさ。だから存分にドキドキするがいいさぁ……』

 アレックスはその言葉どおりドキドキしながら三人の自己紹介を聞いたのである。

「へぇ、ジュリアさんとミーナさんは以前は香港の亡命者居留地に住んでらしたんですか。僕はアレックス・テイラーといいます」

 それから首の据わらない案山子のように顔を動かして店内を見回した。周囲が女の子ばかりなので正直どこへ眼を置いていいのか迷ってしまう。借りてきた猫みたいに縮こまり、おどおどしているので挙動不審に思われないかと不安にもなる。まったく、こんな事をしてる場合ではないのだが。

「鉄道職員ってのは亡命者や、住んでた都市を失った者が多いとは聞いていたが……」

 とはエリカ・スチュアートの説明だった。仰々しい言葉遣いとは裏腹に全身からムンムンとした何かを漂わせている。そんな彼女がどうしてテーブルの上に身を乗り出し、服の中が覗けそうな不自然な体勢を取っているのかに関してはあまり意識しないようにした。恐らく、重くて疲れるからだろう。

「即座に撤去なさいっ!」とジュリアがいくら注意しても効果はまるでないようだ。どころか、ますますその危険物体は近づいて感触を伝えてくる。隣にミーナがいるので全く逃げ場がない。やがて目を吊りあげるのを諦めたのかジュリアがその後を続けてくれた。

「欧州もでしょうが、東アジアにも英国人亡命者が大勢います。わたしとミーナも亡命者です。四川へは霊術修行をかねた遊学に赴いておりました。いわば根なし草です。ですから世界を巡る鉄道職員になるのには何の未練もありませんが……」

 そこで言葉を切り、メニューをミーナの前にぶら下げた。背の低いミーナはそれを取ろうと手をバタバタさせている。なんて意地悪なんだと思ったが驚きは別にもあった。彼女が自分より年上とは驚きだ。そのミーナが膨れながらジュリアを小突き、とろんとした目を残してメニューの向こう側へ姿を消した。

「ジュリも、エリカも、ミィもね……成都から来たの……」

 メニューの確保に息を切らせながら声を発した。自分の事をミィーと呼んでいるらしい。顔がテーブルの高さと同じくらいの位置にあるので顎をちょんと置き、その前にメニューを立てている。恐らく、そこからだと凄い眺めが……。などと、そんな妄想を追い払うのに苦労しながら

「蜀南連邦の首都の?」

「そうです。エリカのお父様は高名な武芸者でして。以前から親交もありましたので、しばらくご厄介になっていたのです。ご家族の方にも大変お世話になりましたので、こうして出てくるのは心苦しかったのですが……」

 それから困ったふうに隣を見る。

「いいんだ。実家の道場は兄が継ぐから、わたしは武者修行のつもりで出てきたのだよ」

「とか言って……半ば家出してきたんじゃありませんか……」

 とジュリアは咎めるような眼。

 でも、どこか嬉しそうでもある。

 アレックスはそんな二人を観察しながら、少なからずの興味を抱かれてしまった。

「……あの、もしかして、お父上というのは成都の武芸者ダン・スチュアート氏?」

 ジュリアが目を細め、「父を知ってるのか?」とエリカもうろんげな眼差しである。ここは適当にお茶を濁すしかない。

「いや、その、だって有名じゃないですか。旋風脚とか、烈風掌とか、……確か、風の双牙系の達人でしたっけ……」

「なるほど父上は有名か。なのに、わたしは、まだ初級の霊門解放技しか扱えない。三級霊撃手になるには最低でも中級までの技をマスターしなくちゃならんというのに……」

「霊撃手?……」

「社内資格だ。三級霊撃手の資格を得れば伍長の階級が与えられ、艦内霊撃員になれる」

「へぇ……」

 返事しながら周囲に目を泳がせた。淡い色に統一された木の温もりを感じさせる店内の雰囲気は別に気にならないとして、やはり男の客が自分一人だけというのは落ちつかない。しかも修道服姿なのでかなり目立っている。やがて周囲の目が段々と気になり始めているとウェートレスが注文を取りにやって来た。その着ている赤いベルボア生地に白いファーの縁どりを施した丈の短いワンピースはクリスマス時期だけの制服なのだろう。

「いらっしゃいませ。ご注文は?」

 とスカート裾を軽く持ちあげて一礼した。なんとも過剰なサービスだが、その一撃だけで気を動転させたアレックスはすでに茫然自失の呈である。自分の指先がメニュー表の思いもかけない所を差してるとも気づかず、しばらく固まっていると、やがて各々に注文を終え、ウェートレスがオーダーを復唱した。

「……で、こちらの修道士さまは『特製ウサちゃんプリン』で……よろしいですね?」

「ふぇ?」と自分が訊かれていると解り、視線をやっとメニューに戻す。その指先が差していたのは可愛いウサギさんのイラストだ。

「えっ?いや、これは、ちがう……」

 慌ててメニューを手に取り、いつもどおりタマゴサンドを探す。ところが、なかなか見つからない。いや、それっぽいのが目に止まった。その名も『生まれる前のぴよぴよサンド』とはこれいかに?……いや、怖いって!卵が先か?鶏が先か?この場合は卵が先であるほうが好みだけど、それが生だと、とても困った事になるような気がする。さらに気が動転するなか目はメニューの上を彷徨った。なんと奇々怪々な品名はそれだけではなかった。他にも摩訶不思議な品目で溢れている。例えば『激辛プッタネスカのアナコンダ風』いや、これはまだましとして『海鮮ボンゴレ蟹の大行進ビアンコ』はどうよ?もう字を見ただけで気絶しそうだ。それから比べると『ウサちゃんプリン』などは随分初心者向けに思えてくるのだが「それ、すんごく、いけるよ」とミーナの後押しがあっても不安はなかなか消えやしない。散々迷ってるとウェートレスの目がウルウルと潤みだしてしまった。

「ウサちゃんは嫌いですかぁぁ?」

「いや、べつにそう言うわけでは……」

「当店自慢のプリンなんですよ。たっぷり卵のミルク仕立です。手作りなのにぃぃ……」

「え、いや、じゃ、それで……お願いします」

 惨敗である。その瞬間、ウェートレスの目が勝ち誇ったように輝いた。どう見ても気合の入った表情を垣間見せつつ意気揚々と立ち去っていく。改めてメニュー表を確認すると、ただのプリンとは思えない高額な……といってもたかが知れてはいるが……値段が付いていた。けれど今さらどうにもならない。また不安に目が泳いでしまう。

(いったい、この店は何なんだ?)

 そんな店内はそのあちこちにクリスマスツリーを飾っていた。窓には白いスプレーで描いたトナカイがソリを引いて夜空を駆け、そこから見える広場にも大きなもみの木のツリーが立ち、周囲に輝きを放っている。他にも色んな電飾が辺りを飾り、ミーナが言うに、

「夜はもっと綺麗だよ」……だそうだ。

(まるで列車の中は一つの街のようだな……)

 と改めて感心したアレックスはそんな車内風景を眺めながら、しばらくぼんやりしてしまう。


 ……そう、七年前のあの冬。

 世界の全てに絶望したあの夜。生き残ったアレックスは公社のローマ支部で治療を受けた後に法都へ預けられる事になった。それから一年近くが経過しても心の傷が癒える事はなく、相棒の霊命にも会わず、部屋に籠もりきりで無為に日々を過ごしていた。

 そんな中で訪れたクリスマ前日の朝。

 師匠が『何か欲しい物でもないか?』と訊ねてきたのでアレックスはただ一言、

『さっさと僕を殺してください……』

 と返事した。その時の師匠の顔は今でも憶えている。その夜、師匠が自室に自分を招いてくれた。特に何の期待もせずに部屋へ入ると、そこに待っていたのが、

 あの『二百四十二名の笑顔』だった。

 それは決して現実の顔ではなかったけれど忘れようとしても忘れられず、されど、もう見る事はないと諦めていたものだった。その壁に貼られた無数の笑顔に混じって星やトナカイがキラキラ輝いていたのも憶えている。

『この中におまえもいるよ。探しておいで』

 後に師匠となるシスター・ジャネットはそう言って微笑んでくれたっけ。

『多くの笑顔が奪われていく時代だ。生きてるおまえの笑顔までが消えてはあまりにも悲しいと神は仰っておられる。一人で泣く事はないんだ。これからは、みんなと一緒に、かつての笑顔を少しずつ取り戻していこう。それが、おまえの中にある多くの御霊を安らげる事に繋がるといいんだけどね……』

 そう言って抱きしめてくれたっけ。そして久しぶりに泣いたっけ。師匠は頭に被っているそのウィンプルで僕の涙を拭ってくれたっけな。……そして誓ったんだよな。

『シェラに会わせてください。彼女のために法都の騎士になります』……と。


 窓の外の風景をどのくらい眺めていただろう。我に返ると、じっと睨むジュリアの目がそこにあった。ぎこちなく笑い返すと、ぷいっと顔を背けられてしまう。やはりというか当然というか、ともかく嫌悪を抱かれてしまったらしい。故意ではなかったにせよ、あのような醜態を曝してしまったのだから、それも無理はない。数分前の出来事は思いだしただけでも赤面する。なにしろ全裸を見られてしまったのだ。

 気を紛らわそうと店内に流れるクリスマスソングに耳を傾けてみた。ちょうど次の曲へ変わるところ。やがて流れてきたのは『ザ・マジック・オブ・クリマス・デイ』という四百年ほど前のクラッシック・ポップスだ。歴史に名を残す歌姫が『あぁ、神さま。全ての人に祝福を。善き人にも、悪き人にも、幸せな人にも、そして悲しい人にも……』

 ……と歌っている。

 そこへウェートレスが注文の品をトレイの上に乗せて持ってきた。

 ジュリアは白鳥のミルクティー。

(なんだ、ただの紅茶じゃないか……)

 エリカは小熊のホットココア。

(なんだ、ただのココアじゃないか……)

 ミーナはトドのチョコ・パフェだった。

(うっ!一人で完食する自信はないな……)

 そして目の前にウサギの形をした生クリームどっさりの、しかも四人分はあろうかという巨大なプリンが置かれる。

「……ふぇっ?」

 こんなプディングは初めて目にした。すごく可愛くて食べるのが勿体なく感じられる。つぶらな瞳はチョコレートかな?それがこちらを見つめている。そんな目で見られたら食べられないじゃないかと戸惑っていると、

 ウェートレスがこう言った。

「ウサちゃんをご注文された男性の方にはサービスで一口目は食べさせてあげる決まりになってるんですよぉ。はーい、あーん!」

「…………」

 ウェートレスはすでにスプーンを握っていた。それがウサギさんのお尻をけずり取る。

「はーい、あーん!」

 ジュリアの視線が痛かったが、もう、ここはどうにでもなれの気分だった。ぱくりと食べる。生クリームの程よい甘さと酷のあるキャラメルが相まって、なんともいえないハーモニー。それはまさに至福。甘露の調べ。禁欲生活の記憶を一瞬にして払拭せしめるだけの爆発力を秘めた命状し難い美味だった。

「うん、おいしいっ!」

 ただ、ちょっとプルプル震えてしまったのは大袈裟だったかも……と自分でも思う。

 その子犬のような目の輝きに、

「こりゃ一本取られた!」ってな風にエリカはおでこを手でひっぱたき、ミーナはウルウル目を輝かせ、ジュリアは逃げるように顔を背ける。でも、それだけでは終わらなかった。

「たまんなぁい!ね、どこから来たの坊や?」

「あたしが食べさせたげるぅ!」

 と店中から女性客が集まってきてしまった。アレックスはペットショップの子犬みたいに縮こまり、ますます年上女のストライクゾーンを刺激し続けた。

 が、災難はここからが始まりだった。

 突然テーブルのカップがカチカチと音を鳴らしたかと思うと床が微かに振動し始めたのである。アレックスは身構えた。言うまでもなく霊波だ。ジュリアとエリカも表情を強ばらせた。店内に溢れ出した霊力がどんどん強まり、やがて霊素が濃い霧のように立ち籠めだした。それが中空で輝きながら収束し、みるみる形を整えていくのだ。その気配は店外からも察知できるほど強力なものだった。

 

 ……当然ながら、

 店の前で張り込みをしていたの第四車両長ことジェシカ・メイソンもその異変には気づいていた。ところが、どうやら彼女は二の足を踏んでいる様子なのである。

 ……ここは踏み込むべきか。

 ……否、張り込みを続行すべきか。

 中華飯店『四暗刻』の看板に隠れて眉間に皺を刻み、今、彼女はとても懊悩としていた。

(あぁ……大いに悩む……)

 店内から感じられる霊波は徒ならぬものだが霊撃員の制服を着たまま突入するのは女心的には躊躇われる。外観からも解るように、それはもう女の子にはたまらない可愛らしい店なのだ。看板の熊さんはピンク色だし、店内を飾る大きなきなテディーベアなんて、ここから見ただけでも五匹も確認できる。

(いつか、わたしも素敵な殿方と、このような店でイチゴ・パフェなどを味わってみたい。その時に着る服は、そうだな。きっと、お気に入りの白いジャージなどがよかろう)

 などと甘い夢を頬に手を添えながら思い描かせてくれる。……そんな、お店。

 だから背後に忍び寄る不吉な影には全く気づいていなかった。さらなる異様な気配に戦慄して振り返えると、そこに南雲中佐が立っていて、なぜか両手をニギニギしながら喜悦の表情を浮かべていたのである。

「……へっ?」

 気づいた時にはもう遅し。一切の抵抗も許されないまま服をはぎ取られ、あっというまに半裸状態にされていた。


 ……むっ!

 と、そこでセシリアは作業の手を止めた。周囲には泣き崩れる女性職員が数名ほどいたが誰もその異常な霊波には気づいていないようだった。けれど、それも一瞬の霊感だったので彼女も気にしない事にした。だから再び仕事に没頭する。やっているうちに、なんだか別の意味で面白くなってきたところだ。

「おらぁ!……さっさと脱ぎやがれぇぇ!」

 第二車両第三エリアはただ今地獄と化している。


 右手の聖痕に疼きを感じたアリスは手にしていたブランデーグラスを見つめ、やがて琥珀色の液体に唇を付けると舐めるように一口満足げに味わい、それからそっと呟きを漏らした。その傍らに控えるエルザがむすっとした表情でそれに耳を傾けていた。

「ラキめ、ちゃんと仕事してるじゃないか」


 ここは第一両目第一エリアの指令艦橋である。

「な、なんですの?この強力な霊波は?……」

 思わず艦長席から立ち上がった北条サラは思わず全身の肌を粟立たせた。

「デフコン2の発令準備を急ぎなさいっ!」


 第二目第十二エリア、列車の十二階部分であるである。

 そこにある一等客室では「おやっ?」と、ファーレン中佐が小首を傾げていた。

「おやおや姫さまがご立腹でいらっしゃる」

「何か仰いましたか室長?……」

 地味な灰色のスーツを着た男が訊ねた。暗い部屋の中には、そんな男たちが数名いる。なにやら警備の任に就いているようだが、軽い火傷に、腕の骨折。打撲に、むち打ちなど重傷ではないにせよ無傷でいる者は一人もいない。ギースはそんな部下たちを順番に見回してから大いに嘆息を漏らした。

「まったく情けない。情報部一個小隊うち揃って少年に返り討ちにされるとは……」

「お言葉ですが、これは南雲大佐が大暴れしてですね。負傷したのは大方そのせいで。第一なんで変装した大佐があそこにおられたのです?危うく殺されるところでしたよ!」 

 リーダー格らしき男が、ギースの無慈悲な言葉に非難を加えて言い訳をした。

「だまりなさいっ!」びしっと返された。

「情報部が公安部に後れを取るなど言語道断です!それよりも容態はどうなんです?」

「……今は治療ベッドの中で眠っております。室長が出ていかれてすぐに発作が起きまして張中尉に来てもらい処置してもらいました」

「そうですか……」

 ギースはカプセルベッドの中で眠る少女の寝顔と、その横に置いてある車椅子とを交互に見つめ、こちらもまた懊悩とした皺を眉間に刻み込むのだった。


 おっ!とブランは平行エレベーターの途中でニンマリと笑みを浮かべた。

「むふっ……いいねぇ……青春だねぇ……」 と短く呟く。目指す第四車両第一貨物エリアは目前だ。こんな所でセクハラ女に捕まってる場合ではない。



そして再び『森の熊さん』である。 

 それはまるで輝く蝶のようだった。溢れる燐光を振りまきながら霊素はやがて少女の姿となり、金色の長い髪を揺らめかせて美しい人型を顕現した。ただし、その顔は憤怒の色に染められていた。すっかり怯えるアレックスの前に降り立つや周囲にある全てを震わせながら耳もつんざく大音声で罵った。

「アレックスの馬鹿ぁぁぁ!――っ!」

 さらに腹から変な音を出し・・

 激しくピンク色に明滅。

 ぐギュゅるるルルルぅ――っ! 

 そして、ばたりと倒れ、そのまま動かなくなってしまった。


 さて、ところ変わって第四両目第一貨物エリア。その貨物甲板の貨車置き場に今アレックスの運搬車は停車している。

「どこへ行ってたんです?ずっと探しとったんですよぉ……」

 その運搬車を見あげるブランを睨めつけながら青年甲板員が文句を口にした。

 この臨時部長は常に仕事場にいない。

「第三車両まで迎えに行こう思とったんですけど。なんや南雲大佐が強制わいせつ行為、いえ、強制身体検査を敢行中やとか。みんな慌てて逃げてきて、もうえらい騒ぎで……」

 呆れながらブランの横に並び、同じように見上げながら運搬車の前に立つ。

「まぁ、霊に憑依感染されても早期発見できれば命は助かるからね……」

「はい?」甲板員はつなぎ服のポケットからプレート状の金属片を出しつつ怪訝な顔。

「いや何でもない。それより、その金属片がここに落ちていたんだよね。ふむ……」

 見あげる運搬車の横腹は装甲の一部が剥がれていた。正しく言えば対霊緩衝プレートの一部が長旅の疲労で剥離しかけていると言うべきだろう。緩衝プレートは本来の下地を隠す役割を果たしているが、それがあちこち傷ついて一部が露わになっている。そこから僅かに聖母像と№4の文字が覗いていた。

「この運搬車、かなり偽装してますけど、まちがいなく軍用でっせ。そんな頑丈な外装をここまでボロボロにするやなんて、どこを走ってきたんですやら?」

「そりゃ、荒野を踏破してきたのさ……」

「まさか?あっ……でも、この聖母像……」

 見あげる聖母像はキリストを膝に抱え、燦々と涙している。それはミケランジェロの彫像『ピエタ』をモチーフにしているとかいないとか。その嘆きの聖母と呼ばれる騎士団章に向けて甲板員は厳かに十字を切った。

「そうだな。十字軍十字も描かれてるし……まちがいないだろ……」

 十字軍十字。大きな十字架を中心に小さな四つの十字架をあしらった意匠。それが聖母の横に記されている。その四つの十字は肉体に顕れる聖痕を暗示していると言われ、それは遙か昔に活躍した悪名高き十字軍の紋章だが今世紀においては反秩序原理主義者を震えあがらせる象徴として知る人ぞ知る存在となっている。そして、この運搬車もまたオンボロ中古に見えるよう偽装してあるが、その隠蔽の下にあるのは、まだどの国にも共用させていないはずの軍事用強襲運搬車。日本国製のクハ式四型ムラクモ。それを特別改造した通称『ゲオルギウス』と呼ばれる車両にちがいない。カトリック教徒を迫害したディオクレティアヌス帝に斬首されたローマの軍人。悪竜を退治して王女を救ったという伝説の聖人。その名を冠したこの車両は自動追尾システム内蔵の霊壊砲に六十ミリ擲弾発射機などを搭載し、他にも光学迷彩やアクティブ防御システムなどを装備している。車体に描かれる聖母像とは裏腹に物騒という言葉を満載した隠密作戦用の運搬車なのだ。№4・智天位A=5の車体番号から判断して使用者は聖碧布帯の三騎士たちに次ぐ能力の持ち主と見てまちがいないようだが、

「この運搬車がここにあるって事はやっぱり、この列車かなりまずい状況にあるって事かな?って、おーい!どこへ行くつもり?……」

 そそくさと立ち去ろうとする甲板員の首根っこをブランの腕が捕まえた。

「せやかて、こんなん見たら、心境は危ない船から逃げたがるネズミちゃん……」

「あほっ!どこへ逃げるっちゅうねん!すでにここは荒野のまっただ中やっ!」

 思わず口調が移ってしまったブランは慌てて目を反らし、甲板員は目を輝かせた。

「ここに、これがあるって事は安全が確保されつつあるって事なんでしょ」

「ああ……なるほど」

「それより、誰にも気づかれないうちに装甲をなんとかしろ。騒がれるのは少年も迷惑だろうし、使命に支障をきたす恐れもある。情報部はすでに感づいてながら放置しているようだけどな。うちの大将は暢気だから……」

「中尉の頼みなら聞かんわけにもいきませんけど、外装より問題は他でっせ。見てください。磁界石の装填部には亀裂。霊電タービンにかけては上蓋も取れかけてグラグラ。使うてる磁界石も、うわぁ、もう見ただけで粗悪品ですわ。立派な軍用車が泣いてまっせ」

「まぁ……いくらゲオルギウスでも単機で荒野を進めばこうなるわな……」

「なのに兵装を一つも使用した形跡がないというのも理解不可能ですわ」

「なんだって?」

「ですから、これだけ上にゴタゴタと擬装用装甲を取り付けてあるんですから、そりゃ霊壊砲はおろか対人銃火器はもちろんミサイルの一発も撃てませんわな」

「なんてこった。こりゃぁ……」

 それは兵器の一つも使用せずに荒野を進んできたであろう事に驚いているのか、それとも、その平和主義的なところに呆れているのか、よく分からない口調だったので、

「はい?」と甲板員はまた怪訝な顔をした。

「ともかく。ここは一肌脱いでやれ……」

「せやかて、いくら法都の聖騎士……おっと!」

 そこで口を噤み、また十字を切る。

「……今日会うたばかりの少年に、そこまで入れ込むっちゅうのも……」

「性分でね。重い責務を必死に背負ってさ。今にも泣きそうな顔して、それでも頑張って歩いてる、そんないじらしい少年を見たら応援したくなるのもまた人情ってやつでしょ」

「おぉ!まさに浪花節やっ!」

「つまり君のその熱い心に期待というわけさ。それから、君は整備課志望の中でもかなり優秀と聞いてるよ。だから、もう一つ頼みがあるんだけど……」

 ブランはそんな前置きをしてから小さなポリ袋を数枚、懐中から取り出した。その中には砕けた金属粉が入っており、そのジッパー付きの小袋の外側には油性ペンで番号が殴り書きされていた。

「これは磁界石を結晶化する際に削りとる不要廃石ですやん。これが何か?……」

「そう。……各機動部にある処分場からサンプリングしてきたんだ。そいつを、ちょいと検査してほしい。……というのは……」

 ブランは耳に口を寄せ、わざわざ小声で指令を与える。「なるほど……」と甲板員は眉間に皺よせながらも瞳を輝かせた。



「あははっ!それでは行き倒れになっても、無理はないというものだな!男の子はちゃんと食べないと駄目だぞ!そのような事では、いささか育ちが悪くなってしまうからな!」

 ここは第二両目第一エリア。列車の基底部にある社員食堂・狸亭の一角である。そこにあるパイプ椅子に座したままエリカが暗褐色の髪を掻き上げて豪快な笑声をあげていた。仕草はまことに磊落で、姉御肌な気性をいかんなく発散するその肢体は彼女の中にある躍動美を存分に表現している。ただし、そこはかとなく下品なところが玉に傷で、視線はアレックスの下半身を窺い、そこには不穏な笑みが張り付いている。はっきり言って怖い。

 ジュリアがまた一言二言、注意しようと苦虫を噛みつぶしていたが、いいかげん無駄も悟ったらしく、今回は眉間に筋を浮かべるに止め、代わりに、その行き場のなくなった眼光は、なぜかアレックスほうへ注がれてしまうのだった。それは隣にいるシェラにも時折向けられ、挙げく途方に暮れた顔をする。まるで吸血霊を疑う杭打師のような睨みと悪霊を逃がした霊狩人のような焦燥である。そんな顔を交互に向けられては堪らない。そんなわけで先ほどからアレックスの目はまたもや泳ぎっぱなしで、自然とそれはシェラのほうへ向けられていた。そんなシェラの前には大きな皿があり、スプーンがひっきりなしに動いて黄色いルーの掛かったご飯をせっせと口へと運んでいた。その口の周りがご飯粒だらけで恥ずかしいから取ってあげようとしたら……

 これまたジロリと睨まれてしまった。

 なるほど邪魔するなって事ですか。今夜の献立は大好物のカレーライスだもんね。

 ちなみにアレックスと、他三名の皿はすでに完食された状態になっている。

「ひゃぁ、高位の人型霊命って初めて見たけど……すんごく食べるんだねぇ……」

 ミーナの驚きにアレックスは苦笑するしかなかった。霊命が霊力を維持するには様々な要素が必要だが人のように食事をするのは希である。普段のエネルギー摂取は、大抵、霊電物質の補充や宿主の霊気を取り入れる事で済まされる。たまに次元霊の霊素を食う事もあるが、これは最高のご馳走になるらしい。しかしカレーライスが大好物と言って憚らないふざけた霊は世間広しといえど恐らくシェラくらいのものだろう。それがまた、とんでもない大食いとくれば尚更のことである。それを目の当たりにしたジュリアの眉間には、さっそく三本もの青筋が立っていた。

「……この方には大霊としての矜持がおありなのですか?」

 ここでもまた、そんな嫌味を口にするのがジュリアのジュリアたる所以である。

 ただ、不思議な事もあるもので、それを耳にしても今夜のシェラは大人しかった。

「おかわりっ!」と先ほど装いだばかりの皿を勢いよく突き出してけろりとしている。

 今は腹を満たすほうが優先なのだ。

 そんなシェラの大食いは今に始まった事ではない。その旺盛な食欲には一魂同体の身なれど多少辟易しているのもまた事実である。他人から見ればさぞ奇異に見えるだろうが、ただ、それを差し引いてもシェラの元気な姿が見られた事は何より感謝すべき事にはちがいない。

「なるほど。これでは食費もかかり、生活費も馬鹿にならないというわけだ」

 もくもくと食べ続けるシェラに興味津々とした目を向け、エリカが得心を示す。重ねてジュリアの呆れた眼差しも向けられた。

「それで……仕事を探していると?」

「そ、そうなんです・・」

 アレックスは悄然と項垂れながらカウンターへ歩みより、頭をさげながら食堂のおばさんからカレーライスの御代わりをもらう。それからまた席に着いた。

「職種は何だってかまいません。もうこのさい好みの云々など言ってられませんから」

「うむ、事情はだいたい解ったぞ……」

「まさに同情を禁じ得ませんわね……」

 そこへまたジュリアが割り込んでくる。

「明日にでもハウエル中尉に……」

「いえ、ワタクシから頼んでみましょう」 席に着くや二人して積極的に請け合ってくれた事にアレックスは目を輝かせた。ただ姉御肌なエリカが世話を焼いてくれるのは解るにしてジュリアまでが親切なのは意外である。そんな様子にシェラが一瞥を投げかけた。

 見た所、アレックスは現状に全く気づいてないらしい。安堵して再び食事を再開する。今や、ジュリアとエリカの間には睨み合いが勃発し、一触即発の火花まで飛び散っていたが、その原因たるアレックスには、それが綺麗な花火にでも見えているのか、そこにあるのは鈍感に弛んだ笑顔でしかなかった。

「ありがとう」と素直に謝辞を述べている。『だから旅はいい……』とは師匠の言っていた言葉だ。旅には色んな人との出会いがあり、たまに思いがけない人情にも触れられる。師匠は『その一つ一つが痛ましい魂を治癒してくれるだろう』と言っていたけれど、本当に、そうかもしれないと思う時もある。人との触れ合いが、こんなにも身に沁みるのは久しぶりのことだ。今までが今までだっただけに、そのありがたみは値千金以上に思えてくる。だから、こういう時こそ、師匠の言いつけどおり、僕はみんなのためにも頑張って笑わなきゃいけないんだと思う。

 ……しかし。

 先ほどのシェラの行為は看過できるものではない。なにも世界には自分の味方になる者ばかりが都合よく勢揃いしているわけではないのだ。下手をすればいらぬ警戒心を与え、それがのっぴきならぬ事に繋がる可能性もある。なんといっても空間転移を駆使しての霊体顕現をやってのけたのだから大騒ぎになっても当然だ。瞬間移動はシェラの得意とする霊能の一つだが周囲に及ぼす影響も大きい。すぐに光子流を反作用させて霊波を打ち消したからよかったものの、それでも、その強い霊波を感じた者は少なくなかっただろう。普段の彼女からすれば浅慮とも思える行動だが、そうさせてしまったのは自分にも責任がある。そのうえ誰もが目を奪われる美少女形態だった事からますます観衆が興奮し、そこへ追討ちとばかりにシェラが空腹でぶっ倒れてしまったのだから、

『……霊道士としては失格ですわね』

 とジュリアに冷然と言われ、それに同調した周囲の人たちからも散々の非難を浴びせられてしまった。そこにはちょっと可愛い男の子を苛めてやろうかという諧謔も含まれていたのだが、無論アレックスがそんな事に気づくはずもなく、ますます未熟さを痛感させられ、とうとう忍耐もこれまでと恥もかなぐり捨てて助けを求めたという次第である。

『どうか食べ物を恵んでください……』

 斯くして一行は(セシリアの魔の手に墜ちる事なく)その場を後にし、食堂へやってきたのだったが、ここ三日間ろくな物を口にしてない事を告げるや山盛のカレーライスを振る舞ってくれた食堂のおばさんがシェラの大食らいに目を丸くしたのは言うまでもない。

「行き倒れ寸前まで腹を空かせるなんて大変だったねぇ。昔は旅の霊道士さんを見りゃ、お布施したもんさぁ。昨今はご時世かねぇ」

 そんな嘆きを受けるように、やがて待ってましたと質問をしてきたのはエリカだった。

「やはり旅の目的は武者修行か?」

 なんでも自分流に解釈しようとするそのスタンスには苦笑を覚えるも、正直に言える部分だけをかいつまんで答える事にした。

「まぁ、そのようなものです。修道院から用事を言いつけられまして、ひとまず霊合者となった時の見届け人を訪ねようと思い、香港を目指している途中なんです」


「そうか、やはり霊合者なんだ。しかし……」と言いよどんでエリカは沈思黙考した。

 霊命を相棒にしているからといって、その者が魂魄融合しているとは限らない。霊命を使役している霊能者はいくらでもいるし、霊合者ならば普通は霊門を通じて霊と一体となっている事のほうが多く、アレックスのように霊を分離させた状態を維持しているのはどちらかというと精霊使いの在り方に近い。だが、その精霊使いも術具などの中に霊を眠らせているのが通常で、その在り方はどこまでも常識から外れていると言っていいだろう。

「まぁ、何か理由があるのだろうが……」

 事情を説明するのに窮する素振りだったのでエリカもそれ以上は詮索しようとはせず、その矛先を変えながらも、しかし、やはり次もまた単刀直入と切りだした。

「ならば、それなりに霊能技にも通じているのではないか?姓と出身地を聞いただけで、わたしの父が『風霊使いのダン』と解ったくらいだ。それなりの修行もしてきたのだろ。霊門開放はどこまでやれる?霊術操技のほうはどうなのだ?」


 武芸を志す情熱が伝わってくるような表情だった。アレックスは思った。直情とも思える眼差しは生きてる事を実感している証。それはとても羨ましいもの。思わず口に出てしまった事への痛恨も感じさせない好奇心の発露であるが、しかし、ここで全てを開陳するのは憚られる。

「いえ、まだ未熟者でして……」

 霊能技には大まかに分けて二つの流れがある。その一つが霊能闘技という強化体術だ。生者もまた肉体に宿る霊的存在であり、その魂内にある霊門は肉体や霊力を強化する源である。それを通じて生じさせる霊光子流は身体だけでなく脳にも影響を及ぼし、それを操る者の中には神懸かりな力を発揮する者もいて特に霊合者の場合はそれが顕著と言われている。そしてもう一つが霊術操技である。これは古の魔術の系譜からなる術の事で分野や流儀も幅広く一概には言えないが基本的には霊力を駆使して体内外に働きかける霊能技である。その二つの技は全く別物に思えるが、味方の霊を内に収め、敵を外に封じるという考えに乗っ取り、複雑に絡みあって相乗的に効果を高める。それが霊門開放と呼ばれる霊能技の基本的概念である。つまり自らがどれだけ霊に近づき、どこまで霊との憑依深度をあげる事ができるかを目標としているのだ。即ち、その技名や技能を相手に知らせる事は自分の正体を明かす事にも繋がりかねない。アレックスはその質問に対する解答を虚空へ彷徨わせるのに四苦八苦した。

「……だから、そのう……旅に出されてるわけでして……」

 その目は注視から逃れようと窓を通して艦外へ向けられてしまう。夕闇に陰晦とする荒野を清めるように白い雪がちらつきだしていた。その目を追って気づいたらしい。ミーナが早速とはしゃぎはじめた。その嬉嬉が水を差し、話もうやむやになって助かったが、まもなく、その場の空気を一変させるアナウンスが鳴り、どうやらそれ所でもなくなってしまった。

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