グランド・エキスプレス

大谷歩

序章 入祭唱~ 第一章 黎明の軌道

              序章   入祭唱




AI歴302年1月9日。仏領北東部。

 パ・ド・カレー県。モントルイユ周辺。


 霊電艦陸航列車(グランド・エキスプレス)『欧州特急デューク・アルバトロスⅡ』の指令艦橋はいまだ続く緊張状態のせいか重い空気に、いや、モクモクとした煙に燻されていた。

数分前に煎れられたコーヒーはすっかり冷め、それを飲むべきかを逡巡する艦橋員たちも落ちつかない様子でカップにカチカチとダンスを踊らせている。

 午前二時四十分の事である。

「き、危機管理官のぅ……南雲少佐をぉ、お願いしますぅ……」

 なんとも滑舌の落ちつかない声だった。しかも折悪く、同時に発せられた号令に掻き消されそうにもなっていた。だが、その声を聞き漏らした者は誰もいない。ただ号令に集中するほうが先だっただけである。

「第一エリア右舷、光子流霊壊砲、斉射!」

 刹那、右舷前方に閃光が迸り、巨大列車に群がる次元霊どもが藻くずとなって消滅した。だが、依然と状況は二重の意味で警戒を怠れない。

 当時、その陸航列車の通信手を務めていたブラン・ハウエル曹長(二十一歳・男独身)は、その時の心境を後にこう語ったている。

『そこにいた全員がソルティー・ドッグを飲みたがるナメクジ的な気分だったと思うぜ。まぁ一人を除いてな。できれば酔っぱらって溶けちゃいたい。って解る、その気持ち?』

 その者はウェーブがかった紅色の髪を不吉の代名詞にしている事で有名だった。一介の少佐なのに提督なみの権限を持っている事でも有名だった。

 それは災厄を招く女だとか。魔性の美貌が周りに不幸をばらまくだとか。理不尽な行動に災厄の根幹があるのだとか色んな噂も絶えないが、ともかく、その経歴が恐怖と伝説に彩られている事はここにいる全員の知るところだった。強面で知られるキリング艦長が席を明け渡し、付き人のように突っ立っている事実も軽視すべきではないだろう。そして、その『触らぬ神に祟りなし』はというと、さっきから艦長席に座したまま一切無言。鬼のような形相で煙草を吸い続けている。おかげで発煙弾でも打ち込まれたような白いモヤモヤに艦橋内は包まれており、誰もが燻された顔に非難の文字を浮かべていたが、やはり、それに対して文句を言えた者は一人もいなかった。後にブランだけが、こっそりと陰口をたたいたものである。

『まるでマスタード味のジェラートでも食いながら薫製にされてる気分だったぜ!だって機嫌を損ねてみろ。一瞬で消し炭だぞ。つい先だってはクーデターで揺れるロンドン地下都市に現れた霊獣を一瞬で爆殺したって言うじゃねぇか。しかもA=3クラスだっ!』

 それは車内でも持ちきりの話題だった。他にもこんな噂がある。本部の人事部長が最近全治数ヶ月の大火傷を負ったとか。原因はちょっとしたセクハラだったとか。英国への出張を命じられた腹いせだったとか。

 もちろん、そんな根も葉もない噂を車内中に広めていたのは他でもないブラン本人だったのだが、それが原因かはともかく後日彼の元に届いたのは勤務先の移転を報せる通知票だった。

 やがて氷河期のマンモスよろしく、その寒い環境に誰もが限界を感じ始めた時、そのハウエル曹長の通信画面に呼出音が鳴り、全員の顔が強ばった。

 救命室からの緊急呼び出しだった。無視する訳にもいかないが、ここにいる全員の心境は『関わりたくない』の一言である。そもそもこの列車がこの異常な数の次元霊に襲撃されているのは、そこにいる災厄女と、その滑舌の悪い女医のせいである。二人が列車に運び込んだ少年のせいで大規模な異常霊波が発生し、このような危機的状況に陥っているのだ。英国から無事脱出できた事さえ奇跡である。ほんの少しでも発進が遅れていたら今頃は新政府軍に拿捕されていたに違いない。せっかく生き残ったのだ。五体満足で生還したいと誰もが願っていた。まもなく艦長席の表示画面に映像が回された。現在、その席で足を組み、豊満かつ引き締まった半身を反らして周囲を威圧している人物に注視が注ぐ。

 その派手な深紅色の制服は特別注文だそうだ。付けてる装飾品も半端ではない。ネックレスにピアス。ブレスレッドにバングル。リングは十本の指に各種わんさかと。全て虹色がかった銀色をしている事から霊電磁界石製の術具だと解る。そんな彼女の名は南雲セシリア(年齢不詳・女・独身)。鉄道公安部の危機管理官第一室長にして公社きっての疫病神と言われる要注意人物だ。

 見るからに爆発寸前の機嫌の悪さで、もうかれこれ二箱目になろうという勢いで煙草を吸い続けている。ただしライターらしき物を手にしている所は誰も見ていない。いったいどうやって火を点けているのかは不明だが、それ以前の問題として艦橋内は禁煙である。

「なんだ……?」

 凍てつくような声だったが、その滑舌の悪い声の主は怯まなかった。

「なんだじゃありませんっ!」

 責める目が容赦なく上官に向けられる。

「またそんな高飛車な態度で!そんなだから、あたし、どこへ行っても肩身せまくてぇ」

「……ふっ、類い希な美貌がそうさせるのよん。レモンは発育不全を眼鏡で誤魔化しすぎ。もっとホルモンを刺激しないと」

「ななっ、発育不全はぁ禁句ですぅ。それに眼鏡は前世紀から注目されてきた玄人なアイテムなんですぅ。それに、そんなこと仕事さぼってる人には言われたくありませんっ」

「それは心外よん。亡命政府の世話を焼いたり、事後処理とやらで、もうヘトヘトよん。それより、例の少年の容態はどうなのん?」

「どうもこうも。ずっと霊合異常ですぅ!緊急事態に備えて待機してくださいっ!」

 誰もが凍てつくような会話に耳栓したいと耐えるなか、画面向こうの女医は気が動転しているのか憤然としているのか判断しにくい声を発していたが、どのような異変が起こっているのかだけは誰の耳にも明らかだった。間違いなく異常霊波が増幅しているのだ。

 張・レモン少尉。(二十一歳・女・独身)。

世界鉄道公社・公安部に所属する霊能医にして霊汚染などの分野における専門家である。セシリアと共に英国での活動を終え、現在は『特急デューク・アルバトロスⅡ』内にて瀕死状態にある少年の蘇生医療に全力を注いでいる。その状況が芳しくないのは一耳瞭然だ。セシリアもまた女神の憂鬱とも言うべき焦燥を顔に浮かべていた。列車はまもなくルーアンの世界駅に到着する。艦橋員たちが安全の最終点検を行っているところだ。陸航列車(グランド・エキスプレス)が最も危険にさらされるのは発進時か到着時と相場が決まっている。速度を落とすその時こそ最も狙われやすい。だが躊躇してる暇はない。艦外の防衛は車掌や艦内霊撃手たちに任せておくのが最良である。より慎重を期すべく憂慮は再びの死に瀕している重要人物を保護しているという一点に尽きる。

「現在、追っ手の状況は?」

 期すべき解答を待ちながらセシリアは煙草の火をもみ消した。

「追跡中の機動歩兵ならびに機動騎兵はドーバー海峡の大トンネルを手前にして諦めたようです。現在の警戒体勢はレベル4」

 ハウエル曹長のきびきびとした回答だった。いかに大英帝国を武力制圧した新政府軍とはいえ、まださすがに『世界鉄道公社』を相手に本気で事を構える気はないらしい。

「そうか……ならば、あとは頼む」 

 そう言ってセシリアは席を立った。艦橋内が溜息の渦に包まれたのは言うまでもない。


          

『死っ、死っ、死っ、死っ、死っ……』

 と世界が笑っていた。肉体は既に闇に溶け込もうとしていたのに瓦礫を踏みしめる足音がして、それがすぐ近くで立ち止まった。

『みんな死んじゃえ……』

 そう言いたかったのに声が出なかった。

「なんと不憫な……」

「どうするよん?シスター……」

「この子を頼みます。できれば、その後は、我ら十字聖騎士団で預かりたい……」

 そして僕は死そのものになったんだ。


              第一章  黎明の軌道



 

 AI歴309年12月23日。

 東アジア北西部。山西自治国。

 首都太原市。陽曲山。

 風が霧を晴らしていくにつれ空に青さが増していった。舞い上がる砂塵が光を乱射させながら大気は凛とした冷気を含み、そこへ溶け込む朝日を受けて一両の運搬車がゆっくりと岩だらけの斜面を登っていた。

「うーん。やっぱり。これはまずいかも?」

 アレックスは前面窓ガラスに付属している右舷後方視認鏡に白い息を吐きかけながら、朝の冷気にブルッと体を震わせた。運転室の暖房機能は万全とは言いがたい。金がないので気の利いた防寒着も買えず、そんな身上にはどうにも情けなさが募ってくるが、今ある問題は何もそればかりとは言えなかった。

「いくら眺めたところで無駄であろう……」

「そうでござるよ。見苦しいだけでござる」

 隣にいる相棒と首から下げている十字架からそれぞれ嫌味を言われたが、それでも顎に生えた白い髭を引っぱり、一昨日に購入した薬剤の箱を睨まずにはいられない。

 何度読んでも『二日間は完全持続』の文字。 

 サンタクロースのイラストがこれほどゲンナリする経験は初めての事である。

(ふっ……実に見事に生え揃ったものだね)

 そもそも地下都市の、とある薬店でクリスマス用のホルモン変化剤を購入したのは確か三十七時間と三十五分ほど前の事だった。


「あのう。すみません、って、あれっ?この薬屋さんは霊に店番をさせてるんですか?」

「あいな~。うちの旦那ある~。もう人間やめて七年になるけど。なかなか成仏してくれないある~」

「へえ~。よっぽど愛されてるんですね。それより、おばちゃん。うんと年上に見られたいんだけど、そんな霊薬はある?」

「そんな薬はねぇがぁ。……これなんかいいんでないか?」

 その結果がこれである。

 こんな下らない事になるならと自分の浅慮を呪ったが、もはや後の祭でしかない。

 とほほ……と無数に敷かれた軌道の中から行くべきを道を選んで進む運転室の窓からゆらんと髭をなびかせて朝の空気を吸い込み、悄然とした顔を眼下へ巡らせ、気を取り直す事にした。

 そこに見えるのは多層構造の建造物。無数の光子流霊壊砲に囲まれた世界駅。

 陸航軌道(グランド・ライン)に巨大な列車が停車している。

 思わず目が釘付けになった。

「さすがに大きいねぇ。……ここまで近づいて見ると……」

「……うむ」

 どこか鷹揚な肯きが返ってきた。それを聞きながら再び運転席に腰を沈める。

 陽曲山の麓を埋め尽くすその巨大武装列車を人は霊電艦陸航列車(グランド・エキスプレス)と呼んでいる。 

 なぜ人はこのような巨大な乗り物を利用しなければ大地を行く事ができないのかと、つい先頃までは理不尽に思っていたが、その何人をも恫喝する霊科学の結晶を目の当たりしてはさすがに言葉を失うより他にない。

 ……揺るがす駆動は大地を威圧し、溢れる炎は龍のごとく。噴き出す蒸気は雷鳴となり、発する荷電粒子は大気を震わす。

 そんな巷の修飾をさらに確固たるものにせんと世界鉄道公社が満を持して登場させた新鋭艦は最近行われたレセプションの場で『トランス・コンチネンタル・グランド・エキスプレス999=アース・エンプレス』という艦名が公表されたばかりである。披露を兼ねた処女陸航とあって東アジア諸国のお歴々が多数車内に招かれているらしい。連日その話題で報道関係は持ちきりだ。周囲を護衛する機動砲兵もざっと見ただけで五十機以上。まるで最前線基地の物々しさである。

 その中心に紺碧色の車体が鎮座し、『四つの薔薇』の紋章を輝かせている。

 そこに眩しさを感じない者はいないだろう。地球と同じ蒼穹の色。その延長線上にある空へアレックスは視線を泳がせてみた。

 陸航列車の百分の一にも満たない個人運搬車。そこから見上げる空は時折七色の輝きを見せている。都市を守護する霊命の結界が周囲の空を染めているのだ。

 彼方へ思いが馳せた。二ヶ月前まで暮らしていた街の情景が目に浮かび、師匠と旅した荒野の記憶が懐かしさとなって甦ってくる。

『大地を行く軌道はどこまでも続いている。心まで地の底に囚われてはいけない。列車は希望を乗せてどこまでも走る。大地は無限。おまえは荒野に何を見つける?』

 師匠が愛したサンピエトロの丘。寺院を一望できるその丘はアレックスにとっても大切な場所だった。師匠の病が重くなり、共に任務に携われなくなっても無事に帰還すれば必ず迎えに来てくれて、その後はいつも一緒に登ったものである。

 風もない荒涼たる丘だったが、二人きりになれる場所だった。

 今、見えている大地に何があるのか?

 たまに見る啓示夢に荒野の風景も現れるが依然とその答えは見つからない。夢に出てくる軌道は遙か大地の終焉まで続き、やがて幾重にも重なる霊術紋となって世界と自分を包みながら消えていく。よくは解らないが荒野とはそういう印象だ。

 その大地は今や異世界から来たる様々な霊類に支配され、人類は三百年ほど前から地底に暮らすようになった。世界駅とはそんな荒野へ続く入口だが、

 さて、ここにきて、まだ臆する気持ちが消えない事に忸怩たる思いを隠せない。

 さすがにここまで登って来ると昇降口は目前なのだが、それは情けないほど予防線を張った呟きだった。

「……鉄道公社ってのは世界に冠たる国連企業なんだよ。やっぱり、この髭はまずいよね。こんなんじゃぁ採用は難しいかも。香港までの運賃なら、なんとかなるし、募集も若干名だから、もう締め切られてるんじゃ……」

 そこで汽笛の音がし、後を確認すると隣の軌道を走って来る機関車が見えた。蒸気を上げる車体に一瞥をくれてから運転台に放置したままにしてある募集チラシに目を凝らす。昨晩、そのチラシを手にした時はまるで砂漠に沃地(オアシス)を見たような興奮があったのに朝にはそれが蜃気楼のごとく霞んで見える心の萎え具合には我ながら呆れてしまう。

 気弱すぎると情けなくも感じるが、それはここ数ヶ月の不運を振り返れば無理もない事かと脱力もする。おまけに今の姿といったらどう見ても褒められたものではない。

 よく効能も確かめずに飲んだ錠剤のおかげで剃っても生えてくる髭も鬱陶しいが、その副作用で伸び放題になった髪はかなりホラーな趣だ。角度を変えれば厳しい修行を終えた賢者に見えなくもないが、それは身に着けているローマンカラーと黒い修道服のおかげだろう。

 それもここ二ヶ月の放浪でボロボロだ。ただ唯一、腰に巻いてある長い十字架付きの鎖のような物体だけがピカピカと輝いて意味なくそこだけ目立っている。それもそのはず。それはなかなか高価な憑依武器なのだ。霊術具屋にでも持って行けば、さぞかしいい値がつくだろう。毎日の食い扶持を心配せねばならない今の身上を鑑みれば、そこは大いに悩むところだ。

 アレックスは暗澹とする思いを吐きつつ、進路を確認してから運搬車を減速させた。

 そんな未来を見据える運転室の窓にはベタベタとこれまた色んな紙切れや写真 が貼り付けてある。自分でもおかしな事とは思うが周囲に何かを貼り付けて、そこを巣のようにしてしまう習性があるのだ。どうしてかは解らないが、その混沌とする中に身を置くと、なぜか心が落ち着くのである。

 ただし、そのまま放置しておくと巣は際限なく広がりをみせ、やがて世界から隔絶した空間を形成してしまうので要注意である。特に運転室の場合は窓を塞いだりするから危険でもある。だから、そろそろ整理しなきゃとは思うのだが、なかには風船ガムの当たり券やら食料品店のスタンプカードだとか捨てがたい物も沢山あるから困りものだ。そして、その中には師匠から手渡された教訓の数々も入っている。その一つがふと目に止まり、いつもの日課が思い出された。……それは、

『一に笑顔。二に笑顔。はぐれ霊道士の基本は奉仕の心。明るく元気ならどこへ行っても好印象まちがいなし』……というわけで、

 今日も頑張って笑顔を作ってみるが、これがまた上手くいった試しがない。

 さっそく隣にいる相棒が毎度の苦言。

「今日のはまるで特ダネ写真を収めた瞬間のパパラッチのようじゃ。さすがに引くのお」

 取り敢えずは無視。笑顔を作る練習は毎日欠かさず行っているが今日は特に修行が足りないものと実感する。さておき、窓に貼ってある紙切れはまだ他にもある。例えばそれは路線図や経路を行くに必要な列車運行表など。それから貯まった燃料費に通行費の請求書などなど。これらは後に清算するので忌々しい事だが重要とは考えているが、それらを目にすると、どうにも溜息が止まらなくなる。

「いつかはどこかの街に定住したいよね。そんな平穏な生活が可能かは疑問だけど」

「無理だろう……」とまた隣の相棒。

「気の毒だがシェラどのの言う通りでござる」と胸の十字架。

 すげなく否定が二重で返ってきた。その通り、アレックスには同じ場所に長居できない理由がある。たとえ手配書が出回ってない秩序派の国へ行こうと、その身を狙う奴は必ず潜んでいた。ここへ来るまでに何人の賞金稼ぎを返り討ちにしてきた事だろう。だから平穏な生活などとっくに諦めたはずなのだ。生とは穏やかな死を迎えるまでの重い枷。簡単に死ねない体は背負った十字架。人としての幸せを求めるなど罪悪でしかないとあの時に決めたはず。そして、そんな理念とも少し関係しながら今回は特に一刻も早く都市を脱出しなければならない理由もできてしまった。おまけに追放処分を言い渡された際に極秘の任務まで授かったらしい。まず、それを片づけねばなるまい。問題はその後だ。いつまでもこんな生活を続ける訳にはいかない。自分はともかく相棒にはなんとか平穏な日々を提供したいと思っている。でも、それには一体どうしたらいいのか解らない。これまで人との関わりを極力避けねばならなかった事から社会に対する弱腰がどうしても拭えないのだ。できれば自己責任の名を借りた自由と無責任な平凡を旨とし、はぐれ霊道士として生きていけたらと考えていたが世の中はそんなに甘くはないらしい。

「師匠も師匠さ。追放処分を認めるなんて。おかげでスッカラカン。だから二ヶ月も荒野を放浪する羽目になる!そのうえ、なんだかよく解らない使命まで与えるなんて!」

「……むぅ。くよくよするでない……」

 とうとう隣から舌打ちが飛んできた。老成した口調だが声色は少女のそれである。尚かつ不機嫌が手に取るように解る。恐る恐る目線を横へやや下向きに。まず目に映ったのは白と黒を基調とする修道女の服装だ。一見しただけでは年齢は解らない。小柄で華奢だが驚くほどの均整を顕示しており、見方によれば十代にも二十代にも見える。グルメ雑誌と銃器類専門の物騒な通販カタログを同時に見ながら、もう一方の手で愛用の拳銃を弄んでいる。いや、これはまた見慣れない銃だ。見たところ『ベレッタM84FSゴースト・チーター』とお見受けした。含鉄磁界石の銃身。対次元霊用の小型自動式陽子銃。一つ前のモデルだが、これがけっこう値の張る逸品だ。 いつのまに、またそんな買い物を?と眉をしかめるも、それを問いつめる間もなく先に瞳を剣呑とさせたは相棒のほうが早かった。

「気合を入れてやる!」

 雑誌ではなく銃のほうを振り上げる。

「ひいっ!」普通はそっちじゃないでしょう!

 蒼白になって慈悲を求めるも無駄。容赦なく弾倉部がこめかみを強打し、しかるのちに悶絶。それが真剣に思ってくれての行為とはいえ、あまりの仕打ちに涙がこぼれる。

 ぐすん……って男の子だもん。

「ローマを出てからずっとこうだ。いい加減に腹をくくれっ!」

 ぐさっときた。なんといっても『半永久追放』という処分を言い渡された身。それが解けるまで法都へ戻る事は許されていない。おまけに師匠から授かったという任務に関しても記憶が曖昧で思い出そうにも制御が掛かって目眩を起こす。恐らく霊術による精神支配を受けているのが原因で、その解除コードは相棒の中にでも隠されているのだろう。

 ただし相棒がすんなり霊術を起動するとは思えない。だから、その事については今はいい。今ある問題はもっと深刻だ。つまり、このままでは、いつか行き倒れになってしまうということ。

 仮にも霊道士たる者が荒野で餓死とはしゃれにもならないが、現実として都市から都市へ移動しながら収入を得るのは難しい。

 ただ、幸運な事に昨夜久々に仕事の依頼を受け、その依頼料を頂けたので正直言えば今は多少は裕福である。と言っても、まだその仕事を終えた訳でもなし、本来その金を受け取るべき者たちも他にいるので、それを費やすのは気が引ける。だから、ここは他にも何かいい方法を考えねばと悩んでいるのだが、さて、ここで昨夜の事を思い出してみた。

 同じ現場で武装した男たちとも出くわしているが、その事はひとまず隅に追いやり、同じ場所で出くわした女の姿を脳裏に甦らせてみた。馬鹿馬鹿しい話だが、やはり、その姿は異様で、なぜか売れ筋漫画のヒロインの格好をしており、おまけに驚くほど強かった。しかも、さらに不可解な事に鉄道職員募集のチラシをくれたのがその人である。どういうつもりかは、さっぱり解せないが、もしかすると怪しさ抜群の割には根はいい人だったのかもしれない。その根拠はただの勘である。そういや、これから会いにいくという命の恩人という人も確か女性で、その二人は公社の職員と聞いている。もしかすると、これはなんとかなるかもしれない。そう思う事にした。

『その人たちを訪ね、ある重大事を伝えなさい。以後の事は、おのずと知れる事になるでしょう。その使命を果たす事で法都への帰還も叶うかもしれません。いいですか。その為には少なくとも太原市くらいからは列車に乗って香港を目指すんですよ。それから変な人に着いて行っちゃ絶対に駄目ですからね!』

 とは師匠から釘を刺された言葉である。

 後は、その恩人とやらが昨夜のような変人でない事を心から願うばかりだ。

 と、そうしている内に運搬車の横を汽車が追い抜いていった。

 その汽車もまた陸航列車の昇降口を目指して急な斜面を登っている。速度は鈍いが、そんな鈍足に追い抜かれるのもどうやらこれで五回目だ。

「大丈夫。出発までにはまだ余裕があるし」

 けれど相棒はぶすっとしたまま姿をポウッポウッと身体から発する光を明滅させてばかりいる。運搬車の動力を上げようと光子を放出してくれているのだ。その透き通る美しさはまさに人のものではない。幾年月きを生きた神木のような威厳と、それに相反する幼さがそこにはある。その不思議な魅力はいつも自分に、それが過ぎたる相棒である事を自覚させるものだ。しかも今は無職も同然。よくもこんな甲斐性なしに着いてきてくれると自嘲する毎日で彼女には感謝の言葉もない。だから正直にそんな気持ちを伝えようと髪を撫でてあげたのだが、それでも、やはりニコリともしない。

「ちょっとばかり気持ちいい事をしてくれてもの。気分は悪いままだぞ。昨夜の女を思い出していたろ。わらわの胸はチクチクする」

 本当にチクチクと刺しそうな顔をしたのでアレックスはしゅんとした。

 なるほど何もかもお見通しという訳だ。

 だが、彼女のほうとしても、それほど責めていたわけではない。むしろ嘘でも言って欲しい否定の言葉などを期待しての態度だったのだが、アレックスにそれを求めるのは太陽を目指して飛んだイカロスの無謀よりも徒労に終わる。とはいえ、その拗ねた仕草も輝かんばかり。一目で恋に落ちそうな可憐さと太陽のような金色の長い髪。そして……煌めく瞳の奥にある琥珀色の深淵。

 彼女の名は『シェラザール・シャダルパ・チャンドラーヤ』その大霊としての真名こそが彼女を再びこの世に具現させている力であり、その真名を守る事が彼女と魂を共有する者の務めである。その名は決して他人に知られてはいけない。だから単に長くて発音しにくいからだけでなくアレックスは彼女の事を『シェラ』とだけ呼んでいる。

 気まずい空気を入れ替えようとアレックスは運転室の窓を開けた。法都から持ち出す事を奇跡的にも許されたこの運搬車は居住区付きの一両編成で単体型の磁界石駆動車としては大きいほうだ。その動力源である加工済結晶磁界石から霊電の力を得て機関を動かしているのがシェラの霊力であるが、ただ、その磁界石もまともな物が買えないので、どうしてもパワー不足が否めない。その事もまた彼女を不機嫌にさせている要因の一つである。

『不純物だらけで配合もなってない粗悪品だから、ぜんぜん力が湧かない!』

『仕方ないよ。シェラ用には微妙な配合が必要だもん。そんな仕事ができる連金師はそういるもんじゃないし、いたとしても特注になるから金も掛かる……』

 そのうえ法都を出てから一度も整備してないので、あちこちガタがきだしている。だから色んな意味も含めて列車には乗る必要があったのだ。それに昨夜出会った連中の事も気掛かりだ。連中が何者かは知らないが一連の事件に関わっている事は明白だ。髭を生やした甲斐もなく連中は既に自分の正体に気づいているだろう。しかも、その内の数名に怪我を負わせてしまっている。

 連中から見ればもう立派な標的だ。

 だから朝も早い内に地下都市を発し、昇降口を目指す事にしたのだが……そもそも事の起こりは昨夜の事だった。


 中華人民共和国が崩壊して三百年あまり。いまや東アジアの地は幾つもの国に分裂し、掲げる主義や諸問題から度々紛争を起こす地となっていた。大空間変動後の地殻変動期に生まれた陽曲山はかつて、そんな東アジア最大の霊電磁界石の採掘地であったが現在は鉄道公社の世界駅に活用され、その地下には古い採掘跡を利用して築かれた太原の地下都市が存在する。さらに、その地下にも採掘中の磁界石鉱脈や炭鉱が数多く存在しており、山西自治国の貴重な財源となっていた。

 

 昨夜、アレックスはそんな地下都市のさらに地下にある採掘場の一つを訪れていた。

 長い年月を掛けて掘り進められた坑内は、どこも霊電磁界石の欠片の発する光に満ち、普段目にする事のない、どこか異界のような雰囲気に包まれていた。そんな坑内の奥深く、召霊を行う声が厳かに響き渡っていた。

「Ex Deo nascimur In jesu morimur Perspiritum Sanctum……」

 歌うように響くボーイ・ソプラノ。唱えられていたのは『三位一体』の詠唱であるが、やがて手にするL字型のダウジング棒で位置を特定したアレックスは服の内にそれを収めて口を閉じ、霊門から溢れさせた霊気を体の隅々へと漲らせていった。意識しながら独特の呼吸を繰り返し、シェラとの魂魄リズムを合わせ、まもなく霊気が集中したところで何者かが塞いだと思われる瓦礫の壁に向けて霊撃を放ち、それを一撃の下に突き崩した。

霊門開放技。天突破。

 その静寂揺るがすを合図に周囲も騒がしくなり、やがて労働者たちの活気に満ちた声や掘削機の音なども聞こえ始めた。

「くそ野郎ども! 手の空いてるやつは十四坑の奥に集合しろ!」

 そんな放送が響いたのもその直後だった。シェラが霊波を張り巡らせていく。今は夜の九時を少し過ぎた頃。ほとんどの採掘所が夕方の六時には終業するので、これは異例な事と言えるだろう。だが彼らにそれを気にかける様子はない。いつも通りの手順で作業を進めていく。霊気を流し込んだ霊波は光子流を作り、それは狩るべき霊の動き封じて周囲を監視する役割も果たす。ただカトリックの立場から術を行うので少々儀式ばってしまうだけの事だ。これでもアレックスは法都を護る霊道士の一人だった。十の時に従順、貞潔、清貧の誓いのもと修行入りし、その資格を得ている。これまでに狩ってきた霊の数も優に百を超すだろう。霊術戦の経験もそれなりに豊富だ。恐らく信仰に対する独特な理論さえ持たなければ、それまで通り法都で暮らせていたに違いない。それが何故このような目に遭っているのかというと、それには自業自得な面もなきにしもあらず。言ってはならぬ事を口にしてしまったのも災いか。さる聖下謁見の場にて少年はかねてより抱いてた疑問を教皇に対して次のように述べてしまったから……法都は大騒ぎになってしまった。

『確かに、信仰が科学の隙間を支配していた前世紀なら神は愚行の弁護者たりえていたでしょう。ですが今や信仰は科学と混沌。神もまた至高の精神科医たる存在から引きずり下ろされ、つまり古の物理学者が申したように人間を相手に人生遊戯(すごろく)などなさらない存在だったと証明されたのではありませんか?』

 もちろん、この発言は大いに物議を醸した。と言うより法都にいる聖職者という聖職者を激怒させた。だが少年の教義に対する前衛的な試みはそれだけでは終わらなかった。

『その神を崇める人類は既に地上の支配者ではなく地底に暮らす敗残者。これまでの常識さえも失ったこの地に、これまで通りの威光が降り注いでいるとはとても思えません』

 まさに火に油を注ぐがごとく真っ向から否定してしまったのである。

 さすがにこれには教皇も苦笑したそうだが、それだけで彼が異端視されたのでもないらしい。だからか、そんな彼の心を縛るものは神への誓願ではなく、他に存在するようになったのだろう。ともかく、その少年が祈りを捧げるのは相棒や、その他の報われない人たちに対してであり、それとて何の役にも立たないと知りながら、ただ安らかに眠れるようにと願い、祈るのだと教皇は理解した。そこに何か特別な力や救いがあるとは思わず、ただ、魂内にある者たちと共に生き、共に戦うと誓い……少年は祈るのだと。

  

 やがて岩を砕く掘削機の音が静まり、周囲に喝采の声が起こり始めた。

「髭を生やした小汚いガキだそうだ!」

 労働者たちが我先にと現場へ急行する。迷路のような坑道を行った先に人集りができ、粉塵まみれの男が群がる中心に修道服を着た銀髪の少年と、うら若き修道女が立っていた。

 いや、少年のほうは一見しただけではそれとは見えないが、そこで祈りを捧げているのは紛れもなくアレックスだ。長い髭と伸び放題の銀髪という風体である。その前には瓦礫が山となって崩れ、その先はさらなる闇へと続いていた。

 



 そもそも、アレックスがこの太原市へやって来たのは、それより二日前の事だった。もとより、この街の世界駅を目指していた事もあり、なんとか列車の陸航開始までには間に合いたいと思っていたので到着した時は嬉々としたものである。

「いよっ!可愛い子ちゃん?じゃなくて、なんだ野郎か。ともかく長旅だったようだな」

 旅を終えたばかりの少年を見るなり車両置き場の経営者はそんな声を掛けてくれた。

 アレックスもまた到着した嬉しさから正直にこれまでの辛酸を口にした。

「うん。遙々アルプスを越え、カザフスタンの紛争地帯でゲリラどもをやっつけて天山南路を経由する時には列車強盗を一網打尽にしたってのに一度も賞金が貰えなくて、ひもじい思いをしながら砂漠を越えて来たんだ!」

 修道服姿のまま物騒な事を口にする少年に経営者は目を丸くし、そして爆笑した。

「馬鹿言っちゃいけねぇ。どこに荒野を運搬車一台で踏破できる奴がいるってんだ。あはははっ!冗談うめぇな大将。気に入った。隣の食堂もうちの経営だ。飯をおごってやる」

 おかげで到着も早々に、腹を膨らませる事には成功した。

「ところで、加工済の結晶磁界石を買いたいのですが。これが金属の配分表で……」

 それを見た経営者はまた爆笑した。

「あんな、ぼろ運搬車を動かしてる精霊に、こんな大層な配合は必要ないだろ。小憎いね。あちこちに冗談を盛り込んでくれるなんざ」

 怒ったシェラが経営者の尻に噛みついたが、どのみち、まともな磁界石など手に入るはずもなく有り金で買えたのは銀の含有も少ない不純物だらけの粗悪品だった。とはいえ霊電磁界石は大空間変動後に存在するようになった鉱石で霊力増幅には不可欠な資源である。金銀銅鉄鉛など様々な金属と混合して高温高圧のもと結晶化すると様々な波長の霊電物質を発するようになり、それが霊類に影響を及ぼして光子を発生させる事から陸航列車を始めとする様々な動力に利用される。動力核になる霊命体の質に合わせて配合を変える必要はあるが、その理論を学んだ専門家は錬金士と呼ばれて重宝される。ただし、その加工法や利用法以外は謎で解ってる事は『AI世紀以前には存在しなかった』という事だけだ。そして、ご多分に漏れず、そのような現場での労働は危険を伴うので賃金払いが魅力的。長期雇用には資格もいるが日雇いならすんなり働かせて貰えるかもしれないと聞いたのでアレクッスもまた多くの流れ者がそうするように旅で失った金を得る為と列車の切符を手に入れたい事情があったので落ち着く間もなく鉱山会社を訪れたのだったが、残念な事に働けるのは十九歳以上という決まりになっていた。アレックスはまだ十六歳である。

「それに、おまえ、本当に男かぁ?ちゃんと股ぐらに二個と一本付いてんだろうな?」

「失敬な!なんなら見せてもいいですっ!」

「いや、そこは見せるな。身分証を見せろ!」

 そして、あえなく玉砕。

 そこで今度は年齢を誤魔化そうと浅はかな考えを思いついて再度挑戦してみたのだが、

「サンタが来るにゃまだ早ぇ。おおかた修行が厳しくて逃げ出してきた神学生だろ!」

 と何処へ行っても同じ事を言われ、次の日の十件目を追い出されて観念した。その後はクリスマスに向けて彩られる街の賑わいに失望しながら地上へ伸びる無数の高架鉄道を見上げ、あてもなく街を彷徨う羽目となった。

 アレックスが滞在するのはいつも下層区である。そこは反射鏡から送られる光もほとんど届かぬ昼なお暗い地区だが幼少の頃を貧民街で過ごした彼には心落ち着く場所だった。母と暮らしたわずかな思い出に触れるのも心地よく、ほどよい闇が安堵をもたらしてくれる。それに、ほとんどの次元霊が地中を嫌う習性を利用して建てられる都市ではより下層のほうが安全なのだ。だから、どの都市へ行こうと必ず光を避けて滞在する。アレックスはそんな下町をシェラと徘徊しながら中層まで足を伸ばしてみた。   

 色んな店があった。街に溢れる独特な文字と色彩豊かな街並みが改めてアジアな雰囲気を感じさせてくれる。しかも色んな店が乱立するなか、やたら飲食関係の看板ばかり目立つのも気になるところ。地下都市では珍しい海鮮餐庁や本場の味が楽しめそうな中華料理店の数々。どれを見ても腹が鳴って仕方がない。シェラが食べたいと駄々をこねたが、お望みのイタリアンは蟹のパスタが本日のサービスだったし、中華屋は蟹炒飯が本日のランチだったので、それらは見送る事にした。アレックスは過去の精神的打撃から重度の蟹アレルギーに罹っており、蟹は見るのも駄目だし、ましてや食べるのは問題外だった。

 そんな訳で大抵の都市にあるチェーン・ストアの珈琲店に入り、タマゴサンドとカフェ・オレを注文。それを半分ずつして飢えをしのぐ事にした。それから無駄に生えた髭をしごき、やっと思案に暮れ始めた頃には夕方近くになっていて大いに焦る事となった。グランドエキスプレス・アースエンプレス「999」の陸航開始は明日の午前十時である。それまでには貨物用の切符でいいから手に入れたい。別に客室は必要ない。これまでもそうだったように運搬車の中で寝起きすればいいのだが、それでも今の所持金ではかなり不足してると思われる。

 悲しい事に、財布をひっくり返しても出てくるのは小銭と埃ばかりである。

 いったいどうすればいいのか?

 と、そんな風に困り切っていたところ、

 パウエルと名乗る中年男が現れて、ありがたくも声を掛けてくれたというのが、これまでの経緯だ。

「おまえさんを、かなりの霊能者と見込んで、ぜひ頼みたい事がある」

 その男、パウエルが働いていたのはいわゆる、非公認の会社だったらしい。下層外縁にある廃坑に近い払い下げを操業しているのはそんな業者ばかりで、移民や流れ者の多くはそのような所で働くしかないのが現状だと喫茶店の片隅に腰を下ろして彼は話を切りだした。

山西国が三年ほど前から少しずつ衰退の途にあり、今ではかつての隆盛も影を潜めている事は知っていたが思ったより状況は深刻らしい。採掘権を巡って紛争を繰り返してきた周辺都市が和解し、新たな鉱山開発が行われた事で資源価格が暴落。その煽りをくらって失業率も上昇。今は財政も逼迫しているとか。それを打開しようと世界駅を誘致し、陸航列車の建造も行ったが、その恩恵を受けたのは一部の企業と政治家ばかりというどこでも聞くような話が新聞の批判になっている。その不況の強調がさらに貧困者の職場を奪っているのも皮肉な事実だろうが、果たして報道が与える影響は神以上のものと深く考えさせられるものである。そして往々にして報道とは金になる事実ばかりを伝えたがるもの。それは彼らが批判する社会悪と果たしてどちらが罪深いかは解らないが、ともかく、そんな成果も虚しく経済は停滞の一途を辿り、磁界石の採掘量も減って最近は不純物の混ざる粗悪品が出回る事も多く、当局が検挙に乗り出しているが手を焼いてるという話題も最近の記事を賑わせていた。太原市には資源会社が二千以上もある。パウエルが働いていた会社も以前はそのような不正に手を染めていた業者だったそうだ。ところが最近になって過去に開発が中断されたまま手付かずになっていた鉱脈が再発見されるやオーナーが変わり、その仕事内容も採掘とはほど遠いものになってからは高額な報酬が貰えるようになったという。

 依頼された内容はそれに深く関わる事だった。

 ただし、それが危険と解りつつも断れなかったのは背に腹かえれぬ状況にあったからだけでなく、それが本当に無視できぬ事件だったからだ。という訳で、さっそく、その問題の会社へ赴いたアレックスたちは、まもなくして、その現場を発見したのである。

「ここに間違いないですね?……」

「あぁ……ここに違いねえ……」

 もと作業員のパウエルは肯くと、さらに坑道の奥へと入って行った。そこは、これまでとは較べものにならないほど鉱石の光に満ちており、霊命体であるシェラも「おぉ……」と感嘆するや充満する光を体内へ取り入れようとしていたが、「どうやら、この鉱脈は汚染されておるようじゃ。感覚が麻痺しよる」と、すぐに眉をしかめてしまった。

 それは小さく漏れた呟きだったが、されど悪魔が見せる幻覚を打ち砕くには充分な呪言だったに違いない。偽りの天国が暴かれた瞬間だったとも言える。

 確かに、ここには、この世から隔絶された異物の存在感があり、それを感じた刹那、鼻孔を突き刺す死臭と、内蔵を締めつけるほどの無念な想いが噴出してきたのである。……だからだろう。ここを発見するのは容易だったのだ。

 急いでパウエルの後を追う。

 予想どおり、そこには夥しい死体があった。かつて働いていた労働者たちであろう。その数全部で三十体ほど。中には事務服を着た女性らしき遺体もあった。死後三週間といったところかと確認しながらアレックスは目眩を覚えた。

 これまでの経験上、このような残酷に遭遇するのは慣れてはいるが、やはり毎度のごとく体が凍りつくように、血の全てが水銀にでもなって蝕まれていくかのような死の共感に襲われた。

「だいじょうぶか?……」

 シェラが気遣ってくれたが平静を取り戻すのには暫し時間が必要だった。このような現場に遭遇した時はいつも感覚を麻痺させる事にしている。耳にこびりついて離れない鎮魂歌が鳴り響き、冷静を取り戻してくれるのだ。

 主よ、憐れみたまえ……。

 主よ、憐れみたまえ……。

「もう、だいじょうぶ・・」

 そこにある凄惨に心を凍らせ、それでも憐憫を宿し、静かに黙祷。それから注意深く周囲を見回す。まもなく、それらの亡骸に混じってスーツを着た場違いな遺体が存在するのに気がついた。労働者たちの衣服にはどれも銃痕があるのに、それらにはない。明らかに死因が異なっている。その衣服は裂け、または貫かれていた。やがて、これらの元凶を求めるように坑道の奥へ体を向けた。そこには金属製の扉があった。扉は円形で直径は人の背丈ほど。まるで大型金庫のような重厚さだ。扉は開かれ、その内部から残留する霊波が微かに感じられた。シェラが警戒を強めて外套の下を明滅させる。

「磁場の乱れに混じって反陽子性の霊波が感じられるの……」

 さらに眉を吊りあげ、扉の中へ霊素の燐光を向けた。光がまず捉えたのは数々の機械とそれを連結するコード類だ。その向こうは壁のように立ちはだかる大きな装置になっていて複雑な霊術回路が見えた。かなり大掛かりな装置である。これほどの物は法都でもあまり目にした事がない。だが装置は解除され、中心部にある窪みと、それを取り巻く幾つかの窪み、つまり封霊石を設置する部分であろう箇所には何も存在せず、回路にそって組まれていたであろう多数の結界石も幾つか床に落ちて、遺体の周囲にばらまかれていた。すでに装置は稼働を停止し、封霊石は霊ごとどこかへ持ち去られた跡と見ていいだろう。

「つい最近まで、この装置も、ここに封印されていた次元霊も生きていたみたいだね」

「鉱脈の発する微弱な霊電が影響を及ぼしていたのだろう……」

「でも装置から漏れ出た反陽子霊素が徐々に周囲を汚染していった……ってとこかな」

 正物質だけで構築されていた前世界なら、その反物質だけで都市は跡形もなく消滅していただろう。だが複雑に空間の絡み合う平行世界はより量子的で通常起こりうる膨大な力を生み出す事はないと言われている。

 ただし、それもはっきりと解明されたわけではない。ともかく、現在を支配している平行空間に影響を及ぼす魂内の霊門を開く事によって生じる霊気、霊波、光子流などの影響を受ければ互いに打ち消し合うことができ、また霊類なら互いに取り込んでエネルギーに変換する事も可能だということは解明されている。

 しかし陰陽両面の霊電を生みだす磁界石に定着した反物質性は霊命体などの陽性霊類には悪影響を及ぼしてしまう。

「まぁ、汚染より封霊石がどこへ持ち去られたかが問題だ。そんなものを扱える連中は限られてるだろうし、パウエルさんが言うように地上には格別な獲物も存在している」

 つまり、その獲物とは陸航列車の事だ。あの巨大列車を襲う次元霊もまた滅多にはいないだろうが、そこに反秩序派テロ組織などに所属する霊能者が介在すれば話は別だろう。

 シェラがヒューンと霊音を鳴らした。

「わらわの記憶では第三次東亜戦時の施設という解答であるな。陽曲山はかつて大清国の軍事拠点であったからのう。その遺物であろう。あの霊術紋は……」

 そして舌なめずり。

「詳しい事は法都の記録保管庫にでも霊信接合せねば解らぬが霊術紋に描かれている霊表記は多頭の竜を示しておる。それに別の残留霊波もさらに強烈なのを感じるぞ……」

「……だね。これから列車に乗ろうって時に嫌な物を見つけちゃった」

「よいではないか。こういうのを一席設ける、という。憶えておくがよい」

「一石二鳥じゃなくって? あっ、そうか。大物を狩って宴会って意味だ」

「……そ、そうだぞ。ぱ~っとやるのだ」

 ピンク色に明滅するシェラの背後で、

「ごほん!」と声がした。

 坑道のほうへ体を向けると、そこにパウエルの青白い顔が大接近していたので思わず悲鳴をあげそうになる。

「おたくらに任せて大丈夫かね?……」

「まったく無問題ですよ。あははっ……」

 正直言うと、かなりの高位霊が此処にいた形跡もあるので楽勝とは言い難いのだが、

「まぁ、パウエルさんが責任を感じる事でありませんよ」と、なるべく気遣うように言葉をかけ、それから坑道の入口近くに倒れている遺体へ近づき、改めて死者を弔う祈りを捧げてから作業着の中から鍵を取りだし、それをポケットの中へしまい込むのだった。

「では失礼します」

 頭を下げてさっさとそこを後にする。その後はパウエルの再びの案内で作業本部のある坑道へ向かった。シェラの体がさらに明滅していたが、それを気にとめる労働者は一人もいなかった。作業本部は下層十二階の坑道に設けられていた。やがて案内されるまま足を運び、着替部屋の錆び付いたロッカーの前で立ち止まる。ロッカーは全て壊され、中には何も残されていなかったがパウエルが奥の壁に向かって指差すので目を凝らすと板が填められているのが解った。薄暗いので見分けにくいが周囲と少し色がちがっている。

 それ外すと、そこに金庫が現れた。

「貴重品入れだ。誰も盗みを働くような奴はいなかったんで無用の長物でね。……もっぱらただの私物入れになっていたが……」

 パウエルがそう言うので先ほどの鍵を使って開けてみると、まず内側に黄ばんだ写真が貼ってあるのが目に止まった。どうやら妻と娘らしい。あとは古びた革製の鞄が収められていた。それを取り出し、中を見ると紙幣がどっさり入っていた。それを確かめてから写真をその中に収納して再び立ち上がり、今度は本部の受付へと足を向ける。

「手間を取らせてすまねぇ。こんな体じゃなきゃ……」パウエルが足を引きずりながら申しわけなさそうに謝った。

「これも依頼のうちです。そう約束しました」

 そう請け合い、長細い机の前にて立ち止まる。そこにいた受付嬢はぎょっとした顔。髪を短くまとめた北欧系の清潔感ある女性だ。しばらくアレックスの髭にどう対応していいのか戸惑っていたが、その修道服を見て安堵するや厳かに十字を切り、頭を下げた。

 そこでシェラが再び明滅。

「おい、結界が弱まってきている。このままでは霊の定着ができなくなるぞ」

「解ってる。急がないと……」

「そうだ急げ。腹も減ってきた。こいつ喰っていいか?」

 受付嬢が助けを求める目。毎度の事と苦笑する。嫌がらせなのは解っている。確かに魂魄融合している高位霊命は何でも食べるが、さすがに生きてる人間や人霊までは食べない。ただシェラは美人を前にすると必ずその相手を威嚇する。

「駄目に決まってるでしょ!」

 だが、その理由を全く理解してないアレックスにそんなアピールなど徒労の一言。

「……むう。そんなのは解っているのだ」 

 シェラの露骨な態度以外は何を言っているのか全く理解できない会話である。

 パウエルが呆れた顔をしてからアレックスの耳もとで何かを囁いた。それを聞きながら近くにあった古ぼけた紙とペンを取り、文字を書く。紙に住所と電話番号が記された。

 それも無造作にポケットへしまい込むと再び受付へと顔を向けた。

「何か立証できるような物があれば……」

「お待ちしておりました。ディスクがそこに」

 と卓上の端末機を指さす。が、それは完全に破壊されていた。何者かが銃を乱射したにちがいない。とても稼働するとは思えないが、それでも肯くと端末の裏側を確認。そこに一枚の磁器ディスクが残されていた。

「社員名簿です……」

 所在に気づいたのを確認すると受付嬢は悲しげに目を伏せ、「もう、それしか……」と言い足した。そこに儚い涙のようなものが見えた気がしたアレックスはディスクと一緒に小さな写真立てが隠されている事にも気がついた。若い男と一緒に映る笑顔の写真。きっと処分されるのを嫌ったのだろう。写真の男は先ほど坑内で見かけた一人にちがいない。坑道で発見した遺体の中に女性と同じ事務服を着た者がいた。それは血にまみれていた。別の遺体と抱き合いながら倒れ、二人の手には指輪が填められていたのを憶えている。結婚の約束をしていたのだ。人の人生はズームアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇であると、そんな事を大昔の喜劇俳優が言ったそうだが、彼女たちの人生は長い目で見て本当に笑える生涯だったのだろうか?かくいう自分もまたである。人生という舞台で笑いながら踊り狂う道化師が主役の喜劇だったらなんとか脚本出来そうな気はするけれど……やがてディスクを受け取ると受付嬢は粒子のような状態になり、微かな思念を残して胡散霧消と姿を消した。アレックスは無言の祈りを終えてからディスクとフォトフレームを鞄の中へしまい込んだ。

「なんとか間にあった。もう消えかけてたし、見事に掃除も行き届いていたから……」

 自嘲気味に踵を返す。もうここに用はない。証拠は完璧に葬られた後だった。なんとか情報を集める事はできたが、それはそれを望まない者への宣戦布告を意味するだろう。それでも依頼を受けるのは驕慢からでも正義感からでもなく、義務を感じたからだ。

 悪人の排除に大層な使命感はいらない。

 師匠の言葉が脳裏を過ぎる。

 急いでエレベーターを目差す。坑内はすでにそうであったように無人。先ほどまでの活気が嘘のように静まり、色褪せた現実が残されていた。鶴嘴や、うち捨てられた掘削機などから僅かばかりの霊素が揺らめき、消えていく。ここへ侵入する前に放棄されて久しい発電機をいじくったので動力は復活しているが明かりが照らすのは無情な時間の経過。だが、そのせいで何者かが自分たちの存在に気づいたらしい。上の施設内に気配を感じだした。電灯が明滅。強い霊波が感じられる。エレベーターは間もなくやってきた。パウエルが先に乗りこみ、軋むような金属音を発して動きだす。照明の幾つかが音をたてて消え、エレベーターを下りると社内の通路になっていた。明滅が警告するように扉を照らす。その扉の幾つかが開いていた。自分たちの後に何者かが侵入した形跡。だが今はそんな事を気にしている場合ではない。

「くるぞ……」

 シェラが溜息混じりに吐き捨てた途端目前の空間が歪み、どこからともなく車椅子が現れて前方に立ちはだかった。車椅子は誰も乗っていないのに、ゆっくりと近づいてくる。

「……なかなか出てこないから、ちょっと心配になったけど……」

「それより腹が減った。昼は一人前のサンドイッチを二人で分けっこだったぞ。あぁ~。蟹炒飯……腹いっぱい食べたかったぁ」

彼女は大空間変動後の世界に存在するようになった霊命体の一種。今はかつてのようには生きてはいない。だが魂魄融合を果たしている人型霊命は、その感情も日常の在り方も、ほぼ人のものと変わりない。

「それ……本気で言ってる?……」

 シェラが情けない事をわざと口にしてアレックスを憤からせるをパウエルはまた呆れ気味に眺め、やがて穏やかな笑みを浮かべると、それを見送るように姿を朧気にさせた。

「思い残した事はいっぱいあるが、もう後は任せるよ。その金も好きなように使っていい。だから、ちょっとはいいもんでも食え……」

 そう言い残してパウエルもまた姿を消してしまうのだった。アレックスは十字を切って冥福を祈った。……どうか安らかに。

『それから……大きなお世話です』


 どういうこと?と南雲セシリアは首を捻った。冷静に見据えようとも、その一歩先が嘲笑を浮かべているように感じられた。明滅する灯りがぽつぽつと闇の中に死体を浮かびあがらせている。遺体は半ばミイラ化した状態で革張りの椅子にもたれ、不遜な鋭さを浮かべていた。断じて死を迎えようとする者の顔ではない。これから戦いに赴こうとする者が勝利を期して前祝い。そんな面構え。机上の花瓶の薔薇もくすんだ赤の鮮烈を残して乾燥。遺体が着ている物は色褪せてない白衣。まるで今から死後の世界へ遊びに行ってくる。そんな気楽さもそこにある。後悔や満足など今生のしがらみは一切感じられない。

 ましてや死因や死亡時期はまるで不明だが、その者が女性で年齢が三十代後半である事はすでに見当が付いている。どれだけ変わり果てた姿になろうと、公社公安部に所属する者なら、その顔を忘れるはずがない。

「静寂を保った戦慄の嬌笑とでも言ってほしいか? おまえここで何をやっていた?」

 遺体の正体を知っている。アリス・クロウリー。A=1クラスの霊合者。背徳の霊科学者としても有名。氷のような美しさという陳腐な形容がこれほど似合う女をセシリアは他に知らない。公社が多額の懸賞金を懸けて追う指名手配犯。それが目の前にいる。

 都市の最下層。流民街の閉ざされた一角。そこにある廃ビルの地下に今セシリアはいる。何年も前は羽振りが良かったかもしれないが今となっては分不相応な施設にちがいない。だが、まさかここで、こんな獲物に出くわすとは思わなかった。出くわしたのは偶然としか言いようがなく、他の目的があって誘われたと結論づけるしかない。最近、巷で有名な霊の出る採掘所。その廃坑に夜な夜な現れる怨霊。すでに霊能者が数名返り討ちにあっているという。そんな話をセシリアは中層区の郊外で耳にした。幾つもある資源会社を巡って抜き打ちの査察がてら街に出ていてふと立ち寄った場末の酒場でドライ・ベルモット入りのジンをストレートで味わっていた時のことである。カウンター近くに居合わせた男たちがそんな話をしていたのだ。

「流民街四区の坑だろ。最近出るらしいな。夜になると掘削機の音が聞こえるんだとよ」

「三週前の事故で倒産したらしいが、それいらい悪霊の巣窟だって。役所も霊能者を派遣したらしいが全員返り討ちだと……」

 最初はほとんど無関心だったのも無理はない。霊命化もしてない普通霊が集団で活動し、一週間以上も現世に滞在し続けるなど空間変動後の世界でもそうある話ではなかったからだ。ただし例外はある。霊媒力を持つ霊能者が助力すれば可能。活動範囲は限定されるが霊の固定化はできる。セシリアは部下であり親友でもあるレモンの顔を思い浮かべた。あの家系は代々女性に霊媒力が受け継がれている。が、その力をもってしても何体もの霊となると無理である。はて、何がおきているのか?おまけに普通霊が群てれば次元霊や霊獣を誘き寄せ、その餌になるだけのこと。普通霊もすぐに姿を消すのが通常。守護霊命の結界、環境維持障壁に守られる都市内に次元霊が出現する可能性は低いが、もし、それが事実なら無視できない。下手すると都市の壊滅に繋がるが返り討ちにされた霊能者はみな『車椅子に乗った少年助けを求めている』などと怪奇チックな事をほのめかしているとか。今の世ではすっかりすたれた怪談話。想念の弱い普通霊が助けもなしに明確な意思を伝える事はまず考えられない。だとすれば、それはすでに霊命化している存在という事だ。そのような霊が駆除され兼ねないような事をするとは考えにくい。儚い少女の霊が夜な夜な恨みを晴らさんと現れる。そんなノスタルジックホラーは漫画や小説の世界にしか存在しないのがAI世紀。いまや魔術は霊術と名を改めて現実のものとなり、宗教は武力にも相当する。現代の霊問題は西暦時代より深刻だ。だから普段なら一笑に付して聞き流すレベルのはずだった。

 ところがである。

「あの採掘所にはまだいい鉱脈があるって聞いた事がある……」

「なのに前のオーナー。坑の権利を売って失踪したらしい。働いてた連中の遺体もまだ見つかってないって言うじゃねぇか……」

「案外、とんでもねぇ、はぐれ霊獣でも潜んでんじゃねぇの?……」

 こんな場末の酒場にやって来る連中はほとんどが採掘所の労働者だ。その手の噂には事を欠かない。だから、その時点になると少し気になった。最近は特に不正業者の横行が目立つ。その数があまりに多すぎて当局も根をあげる始末だ。新鋭艦に使用される磁界石はもちろん検査しているが全てを完璧にするのはさすがに不可能。質の悪いものが紛れ込んでる可能性は充分にある。それは列車の安全を脅かす事に直結する。件の問題は山西国政府だけの物ではない。だが、おかしな点も幾つか浮かぶ。そのような噂がたてば、わざわざ捜査してくれと宣伝しているようなものだ。……少し興味が湧いてきた。

「ねえ……一杯飲まない」と男たちを誘い、色々と聞きだしてみた。

「それにしても姉ちゃん。ずいぶん大胆な格好をしてんだなぁ。いつもそうなのかい?」

「うぅん。今夜は特別なのん」そして、かなり気をよくして酒場を後にしたのだった。

 そんなわけで噂については懐疑的なまま一応は調査するかと訪れてみたら正解だったというわけだ。廃坑のもと管理者はどうって事ない業者として記録されており、すでに倒産してる事も調べが付いた。そして戸惑った。いくらなんでも物がない。ここまで整理する必要があるか?とにかく残されていた物はほとんど無いに等しく、ようやく見付けたのがこの遺体。それなら噂の前に当局が動いてもよさそうだが遺体については何も耳にしておらず、お尋ね者が椅子にふんぞり返っているのに誰もその事は語っていない。そしては薔薇の花。銘柄は紅女皇。それが四本ある。そういやアース・エンプレスのシンボルも四本の薔薇。まさか狙いは列車?そう考えると甚だ物騒に思えてくるが、そこで施設の動力が生きてる事にも気がついた。だからこそ、ここへくる事ができたのだが興味はすでに動力を復活させた何者かへと向けられていた。

「先客がいるね。この霊波。けっこうなクラスの霊命だ。それが二体と一人は霊合者か。他にも怪しい連中がいるな。……そいつらが何者か?この下に何があるのか?……ぜひ確かめたいとこだけど……」

 セシリアは今夜のスタイルを完成させる最後のアイテムとして用意していた仮面を胸元から取りだして装着し、手にしている扇子を広げながら遺体をまじまじ観察した。

「せっかくの美貌も台なし。高級エステもお手上げかぁ……」

 言いながら机上の端末をいじくりだす。恐ろしく早い手つきでキーボードを操作し、どんどんプロテクトを解除。

「やっぱり駄目。……そりゃホスト端末の中にもめぼしいものは残ってなかったもん」

 よっこらと机の上で足を組み、手で髪をくしけずりながら遺体を睨めつける。薔薇の花といい、この遺体といい、不可解なキーワードに思考が乱される。取り敢えず遺体が身に着けている白衣を開いて内側を覗いてみた。

「レモンに頼んでみるか。って中は下着だけ。いつでも勝負できるってわけね。もう少し慎ましさを学ぶべきじゃないかしらん」

 少しむっとしているようでもある。そこで背後の扉が開いた。灰色系のスーツを着込んだサングラスの男が四人。セシリアを発見するなり緊張を走らせて銃を抜く。振り向かなくてもそんな事は察知できるが気に止めるでもなくミイラとの会話を楽しむ。

「ちょっと……身体の一部をもらってくね」とスリットから太股を露わにし、そこに巻きつけてあるベルトから投げナイフを一本抜くと死体の皮膚を削ぎ落とす。パラパラと乾燥した欠片が粉となって落ちた。まるで石鹸かパルメザンチーズでも削っているような感触だ。人の体とは思えない体組織を手首にある携行装置……普段は腕時計として使っている……に付属しているサンプルケースに収めると、そこで、やっと背後から威嚇の声が放たれた。

「おまえ……ここで何をしている?」

 オーソドックスな誰何に多少の失望。

「両手をあげ、ゆっくりと床に伏せろ……」

 そう言われてそうするのは一般人だけ。男はみな東洋人らしいが裏稼業の者ではないらしい。そっちの関係者ならそんな手引書通りの手順は踏まない。もうすでに仕事に取り掛かっている。職業上の癖は消せないものと苦笑し、どこの国の機関かは知らないが、ここはやり過ごすにかぎると判断した。非合法な組織より無法を行う国家機関のほうが往々にして厄介というのは大抵の場合そうだろう。

「不法侵入はおたがいさまです……っと」

 言いざま身を翻して机の下に潜り込むと同時に銃が発砲された。

「馬鹿もの!早まるな!」

 リーダー格らしき男が制する。その隙を逃すはずもなく、次の瞬間、深紅のチャイナドレスが宙を舞う。それは全身を捻った回し蹴り。あっというまに華麗な足技で銃を叩き落とされた男たちは冷静になる暇もなく女が視界から消えた事にも狼狽。そして身構えた時にはもう遅い。床を這うような姿勢から裏拳と肘当を叩き込まれ、続く上段蹴りで一人は顎を砕かれた。その化物じみた瞬発力に翻弄され、圧倒された。リーダー格の男はもはや自分が銃を持っている事さえ忘れて状況把握に必死。が、いかんせん。非現実的な身体能力を有する女を相手にしての訓練は受けてなかったし、それが怪しい服装に身を包んでいる場合のマニュアルなんて読んだ事もない。思考が混乱するなか鳩尾に激痛が走る。慈悲を請うように顔をあげたその先に白い何かを目撃。さらなる戸惑いのうちに容赦ない踵落としを食らった。

「……っ!」垣間見えた下着に違和感を覚えながら意識を混濁させた。

「……どうして、そこは白なんだ?」

「戦士はいつ死んでもいいように、そこだけは一点の曇りもない白にしているものよん」

 そんな捨て台詞を残して事務所から去っていくその背中に向けて男は苦悶の息とともに吐き捨てた。

「……くそっ……仮面の怪人が、いや、怪しげな女がいたぞ。化物じみた強さだ。たぶん霊合者だ。気を付けろ……」

 意識を失う前になんとか仲間と連絡を取る事には成功した。


銃声が聞こえたが僅かに視線を下へ向けただけだった。音は階下から。様子もだいたい察知できる。霊能者が数名いる。いっぽう近づく車椅子の上には青い気体のような物が浮かび始めていた。かなりの濃度の霊素である。それが人の形となり、やがて現れたのは幼い少女の姿だ。こちらを睨み、なかなか侮れない力を発している。荷電した霊素を放出しながら磁場を造り出しているので容易には近づけない。憑依者からの支援も術具もない状況を鑑みればかなりのクラスと推測できる。だからこそ腑に落ちない。

「うむ。霊力4霊質5。A=1クラスといったところだろうが、わらわの敵ではないな」

 それでもシェラが鼻で笑う。あからさまな挑発だ。相手もそれに刺激されて機嫌を損ねたらしい。壁や床が小刻みに振動し、重力が増したかのように圧力がのしかかった。

 霊波だ。直ちに霊撃の射程から後退しつつ、霊気を霊門へ突きあげて右手に集中させた。

 霊門開放技――極天波。

 霊気を開放して霊撃を片手で弾く。いなした霊波は壁を崩して部屋を破壊。霊命はますます猛り、霊波を強めて照明を粉々に砕く。

「霊合者と切り離されて気が立ってるの?でも、なんでそんな事になったんだろ?とにかく、わざと挑発するのはよくないと思うよ」

「喰っていいか……」

「だめっ!」

「……むぅ。いたしかたあるまい……」

 刹那、周囲に光が迸り、磁界の渦が巻き起こる。相対する霊命とは格段にちがう威圧のような物がそこには確実に存在していた。

「もうよい。さっさと真の姿を現すがよい」

 それは負けを認めろと言ってるに等しい。語調はやる気なしだが、語彙は甚だ尊大だ。ところが霊命も霊命だった。そこであっさり降参した。もしくは最初から争う意思がなかったのか。ともかく意とも簡単に車椅子の少女から姿を変えた。といっても年格好はほとんど変化なし。品のいいブラウスにピカピカの靴。そして首元を飾るリボンタイ。青い髪をした七つか八つくらいの少年だ。ただし、その姿だけで霊の質は推し量れない。霊にとって姿形など便宜上のもの。霊合者の思いや好みを反映しているに過ぎない。そして大抵の人型霊命がそうであるように、その態度や言葉の端々には大仰さが滲んでいる。

「お初にお目にかかる。手前のことはラキとお呼びいただければよろしいかと………」

 それが真名ではあるまい。それを知るのは霊合者のみだ。ただ、よく霊視ると、その霊命は別の霊素に寄生されていた。棘のある植物型霊の分離霊素が体に食い込んでいるのだ。そのせいでここから動けなくなったのか?なのに宿主はどこへ行ってしまったのだろう?相棒を置き去りにして消える霊合者などありえない。他の霊たちを活性化させていたのは恐らくあの結界石だとは思うのだが、どうも解らない事だらけだ。

 アレックスは相棒の意見も訊こうと思い、顔を横に向けた。

 ……って……あれ? 

 まったく止める隙もない。さすがにその暴挙には釘を刺さねばと思ったが、自分が喰われるかと恐怖しているラキを見てその気も失せた。

 シェラは寄生霊素のみを器用に捕食し、すでに残り糟を口から吐きだしている。おかげでその霊質を調べる事ができなくなった。よほど腹を空かせていたのだろう。餌はちゃんと与えないと問題を起こすかもしれない。

 そう肝に銘じたアレックスは胸の十字架を手に取り、その中へラキを憑依させる事にした。霊合者の元へ帰すまでの一時的な措置である。これが意図的な遠隔操作であれば別だが、そうでなければ霊命はやがて魂の拘束を失い、またもとの浮遊霊に戻る。霊命はそれですむからいいが霊合者は死ぬ事になる。

 見る限りラキもかなり弱っている。単独で力を使い過ぎたのだ。とりあえず磁界石で造られた術具の中に休ませて詳しい事は後ほど聞くのが賢明だろう。ラキもすぐに体を霧状の霊素に変えて十字架の中へ姿を消した。アレックスたちも、それらの処置を終えると、さっさとここを後にしようと出口のほうへ足を向ける。背後から声がしたのはその時だ。

「なかなか手際のいい処置だね。ますます興味が湧いたぞ。きみっ!」

 びしっと突き出される指の感触を痛いほど背に感じて振り向くと、そこに女が立っていた。互いに見つめ合うこと数秒。尻尾を踏まれた猫みたいに髪を逆立てるシェラの横でアレックスは目を見張った。その、しなやかな体には全く隙がなく、赤い髪はまるで返り血を浴びたような戦慄に染まっていた。目元を仮面で隠しているが溢れる美貌は抑え切れず、誰もが目を奪われるであろう肢体は深紅のチャイナドレスに包まれていた。火を噴く龍が腰の辺りにとぐろを巻き、その龍の鱗は緑色のスパンコールだ。ハート形に切り取ったように大きく開けた胸元を誇張するように羽毛付き扇子をヒラヒラさせながら婉然と近づいてくる。あっ!と閃くものがあった。思い出したのは、あるベストセラー漫画だ。

 

 目の前にいる不審者が少年であると気づくのにセシリアは約二秒を必要とした。なんて見事なふさふさの髭だろう。そうか!もうすぐクリスマス!なんてサンタな少年だ。

 もう……心の底から大感激!


 どちらがより常軌を逸していたかはさほど問題ではない。その時に互いの素性を確認しなかった事こそ後々の問題になった。 


「おいっ、サンタな少年!」

 そう声をかけられた時にはすでにがっちりと抱きしめられていた。

「もさい髭で欺こうたってそうはいかないわよ!」

かなり驚いた。仕事を得るために年齢を誤魔化そうとしたのがどうしてばれたのか!

「ピチピチ少年を嗅ぎ分ける。それもドーベルマンなみの鼻が備わってんだからん」

 犬の嗅覚は人間の一億倍とも言われている。なるほど、それならしかたがないかも。お世辞にも控えめとは言えない胸の谷間にムギュムギュされて心臓もバクバクしだした。尻にシェラがかぶりついていたのに不思議と痛みも気にならない。やがて頃合を見計らったように女が言った。

「気に入った!」

 それから胸元から一枚の紙を取りだし、裏面にキスマークを付着させ、

「これをやるっ!ここで名は証せぬが……」 うぅぅぅぅぅぅ……と唸った。

 とても名乗りたそうだ。

「……もしや、今はやりの漫画、霊能探偵ドラゴンクイーン?」

 アレックスは少しドキドキ。

 いっぽうセシリアは驚愕の顔。

「まさに、そのとおり!」

 その正体に気づくとはまちがいなくいい子だ。セシリアは勝手に想像する。

 ヒーロー好きに悪い子はいない。夢を与えるのも正義の味方と心得る。ここで身柄を拘束するのは容易だが、それはどうも悪者っぽい。それに殺気だつ霊命が側にいるかぎり穏便にというわけにもいくまい。見たところ大きな鞄を抱えている。恐らく旅の霊道士だろう。廃坑の哀れな霊の噂でも聞き、その供養にでも訪れたか。もちろん鞄の中身を透視しようと試みたが相手も霊能者。ちゃんと霊力によるプライバシー保護は張っている。といって、すぐに事件性へ結びつけるのは早計だ。ただ採掘所で何か見たかもしれないという点には興味を抱かれる。だったら、ここは自分の縄張に誘き寄せるのが得策。

 そう考える事にした。だから堂々とお誘い。

「ぜひ、あたしに会いにTCGE999へいらっしゃいっ!」

 アレックスは目を丸くした。言ってる意味が解らない。もしかすると事件に関与する人物か? いや姿は個性は強烈だが悪人には見えない。それは目を見れば解る。でも、あまり関わりたくない感じもする。ともかく他人からそんな事を言われるまでもなく列車には乗るつもりなので、ここは穏便に済ませようと考えた。

「奇遇ですね。僕もアース・エンプレスには乗車する予定で……」

「そうか。ならばよし」有無も言わせず、もの凄い勢いで肯定された。

「では逃げるぞ!」女はすでに何の躊躇もなく駆けだしている。どうしようか?ともかく後を追うしかない。「あっ、こら!」シェラが大層気を悪くしたのは言うまでもない。

「変な人について行っちゃ、駄目って言われてるのにぃ!」

 そんな通路の向こうには部屋が見えている。洒落た電灯に大きな机。色褪せた絨毯。かつての栄華を偲ばせる遺物はそんな物しか残されていない。そこにある大きな窓からは同じような廃ビルを幾つか闇の中に見通す事ができる。明かりは灯っていない。この区域には廃墟が多く、最下層なので電力もほとんど供給されていないのだ。上層区なら人工の夜空が広がり、クリスマス用の電飾が人々を照らして賑わっていたろうが、ここはどこまでも闇に包まれ、その色の抜け落ちた中に忽然とここだけ輝いている。

 世間はもうすぐクリスマスというのに、ここはあまりにも天国から遠い。そんな事をぼんやり思う。そういう自分も、これまでクリスマスらしいクリスマスなど経験した事がない。少なくとも記憶上はそうだ。

 いや一度だけある。でも、それだけ。

 降誕祭。その日を聖誕祭とも言うが主の御子が生まれたのは本当は一月六日とか三月二十八日とか言われていて、どうもはっきりしない。もとはミトラ教の冬至祭とかが起源とされてるし、ましてやサンタなんて。

 だから僕らには関係ない。と、そんな詭弁で心を納得させる毎年の恒例。それが喪失感の再確認日。今年もその日がやって来る。そして今宵、廃ビルの通路を暗澹と走る自分を慰めるにはそんな屁理屈がとても貴重に思えてくる。世の中には『聖夜』と『寂夜』を同義とせざるをえない悩める子羊もいるのだ……。

 ところで、いったい自分は何から逃げてんだろう? やがてビルの外へ出ると、その疑問に対する回答の一つが待っていた。そこにスーツ姿の男たちが武器を手にして待ち構えていたのである。男たちは六人。携行している武器は銃ではなく、なにやら金属製の塊だった。

「ぼくに争う気はないのですが……」

 試しに言ってみる。それは一般的に『憑依武器』と呼ばれるもの。男たちは無言で武器を構えた。なるほど問答無用らしい。

「魂魄融合はしてない精霊使いですね……」

 言いながら長い鎖状の物を腰から開放して腕に巻きつける。精霊とは下級霊命の別称で霊力の劣る動植物型をそう呼んだりする。また理性の劣る人型もそう呼ぶが逆に高位の動植物型をそういう別称で呼ぶことはない。

「うんそうだねん。三級霊撃手くらいかなん」

 肯きながらセシリアも扇子を構える。見れば扇の羽毛には匕首が仕込まれ、その骨組みも金属製だ。シェラは我関せず。そんななか男たちの武器が変形しだした。それぞれ黒い鳥のような有翼の霊命を従え、それが金属塊にまとわり憑いて形を変える。憑依武器は磁界石ナノ粒子で造られており、霊を憑依させる事で適した形を整える。その形状は銃弓と言ってよく、霊撃を放つ得物と理解できた。アレックスも腕に巻きつけた武器に霊気を注いで態勢を整える。奇妙な武器である。形は流星錘のような軟器械に似ているが本来、紐である部分が鎖状になっている。それを解き放つと変幻自在な動きをし、その先の十字架が錘となって打撃を与える。

 やがて男たちがまず先手と霊撃を放ち、霊術戦を仕掛けてきた。アレックスは体を軽く捻ってそれを避ける。そこで気づく。どうも攻撃が緩慢である。察するに霊気を練るにも時間が掛かるらしく、霊術戦を得意としているようにも見えない。だったらなぜ挑んでくるのか? そこに違和感を覚えながらも鎖に霊気を走らせ、その放たれる霊撃を次々に相殺。そして同時に相手の腹に十字架を叩きつけ、螺旋の動きで翻弄。そこへ連続の蹴脚をお見舞いし、さらに霊気を帯びた崩拳の連打を放って、あっさり戦いに終止符を打つ。

 曰く、霊門開放技。天突連破。

 あまりに実力差がありすぎた。男たちはあっというまに悶絶。その間わずか数秒のこと。

 

 セシリアは眉を寄せ、「ほぅ……」と刮目した。が、同時に疑問も浮かべた。霊命を分離させた状態を維持するには基本的な霊門開放を習得してれば何も問題ない。だが、ほんらい霊合者とは霊と一体となった状態で霊術を駆使するのが通常である。自己の霊力だけで戦うのは単なる闘技の熟練を顕示するもので霊能の優とは言いきれない。霊門を通して体内より霊の本質を顕現させ、身体霊力を強化するのが真骨頂だ。それに分離させた状態では霊は宿主から霊気という養分を得られないので外部から様々な方法でエネルギーを摂取しなければならない。つまり霊合者にとっては楽をしている状態にあるとも言えるし、それではせっかくの霊能技も力不足になる。

(そりゃ、この程度が相手なら完全憑依も武器発動も必要ないって事なんだけど……)

 だが、強力な次元霊や霊獣。さらにもっと高位の霊能者を相手にするには闘技の器用さだけでは不充分だ。相棒を戦かわせるのを嫌う霊合者もいるからその類だろうか。だとしたら興味も薄れるが。もしかすると複合霊合者という可能性もある……。

 と、セシリアは微妙な顔をした。少年が従える霊が、どこか不満げな様子だった。その贔屓ぶりを見れば相棒との絆も推し量れるもの。つまり心身ともに優れた霊能者にはちがいないという事だ。

 セシリアは少年への興味を持続させる事にはしたが、さすがに彼が何者かという所までは思いを巡らせはしなかった。

 やがてビルの内から応援が駆けつけてきた。彼らはすでに痛い目を見ている者たちである。だからか今度は油断なくその手に陽子銃を握っていた。(こんな街中で対次元霊用の装備だと?)またしても疑問が浮かぶ。

 しかし、ここは先手必勝とセシリアは扇子を横に走らせた。その刹那、眼前に炎が膨れあがり、今度はアレックスが目を丸くする。


 なるほど高度な霊門開放技にちがいない。どんな霊術操技を用いているのかと興味を抱かれる。燃焼を起こすには可燃物、酸化剤、エネルギーの三要素が必要だ。それらが揃って発火し、燃焼に至る。見たところその燃え方は爆発と呼ぶに近い。そんな得体の知れない攻撃に男たちも冷静ではいられない。結束を乱して個々に銃を乱射している。その射線もバラバラだ。それに対してアレックスは十字架連鎖を展開させて防御し、セシリアも巧みに匕首を飛ばして応戦。その暗器は炎を纏い、男たちの手から銃を奪い落としていく。やがてシェラが鷹揚な口振りで解説した。

「都市には汽車や工場の出す煤煙が蔓延しておる。コークスなどを大量にふくみ、工場の廃水で気中の水分も汚染されておる。わらわの感覚ではかなり酸性濃度が高い。つまり、それらを利用してリンやトルエンといった物質を精製し、気中に化合火薬を造り……」

「……霊燐を使って発火させている」

「ま、そのようなものだ。やつの霊能は発火系の物質変異に長けておるのであろう」

 と、そこでまた爆発が起きる。

「ふははははは!燃えろ、燃えろぉぉ!」

 その恐怖図に男たちはすでに戦意喪失だ。 

 確かに謎の怪人に爆殺されるより任務失敗を選ぶほうがよっぽどましにはちがいない。

「あの人すごいね。やっぱり仮面かなぁ?」


 そんな手放しの感心にシェラが頭を抱えた。微妙に視点もずれてるし、なにより、あの地獄絵図を見てよくそんな事が言えるものだ。もはや、あの炎の怪人を止められる者は誰もいないように思われた。このままでは広範囲の火災にもなりかねない。

 

 と思いきや今度は上から水が降ってきた。

 ドゴッ!……見ると隣のビルの上に人がいて、そこにある給水タンクを破壊していた。なんと、その者の腕は鉄板を貫いて金属タンクに穴を開けている。そんな穴が幾つも開いて水が勢いよく噴きだしていた。ドゴッ!また金属を突き破る音が響いて、謎の女も男たちも動きを止めた。その者はそれだけの存在と威圧をビルの屋上から放っていた。

「いくら下層の離れ区域だからといって無粋にあちこち燃やされてはたまりませんよ」

 声のあとにまた大量の水が落ちてきた。

「ちょっとは自重してください。公安部の苦情処理はもうご免ですよ」

 闇を切り裂くように響くテノール。

 でも黒い結晶のような声。

「やれやれ、これっぽちの水じゃあ足りませんかね」

 笑いを殺したような呟きなのに耳に届くのが不思議だった。ところが、それと前後するように凄まじい爆音が起き、その声も掻き消されてしまう。霊能技ではない。本物の爆発による轟音。それは廃ビルの一階部を容赦なく吹き飛ばし、建物をさらに地下へと沈めていく。見事な爆破。そして証拠隠滅。何者がそのような仕掛をしていたのかは不明だが一拍おいたあとに自分たちが命拾いした事に気づいて誰もが安堵に戦慄の表情をないまぜにした。

 そんななか屋上にいる男だけが悠然とたたずみ、そこから白い影と黒い影を放射していた。白い影が陶然と笑う。その容姿は恐ろしく繊細で、しかも幽霊のように白かった。スーツもネクタイもシャツも白。服装だけでなく髪の一本一本まで白。体が透き通っているのかと思うほどの白い肌。アレックスの銀色の髪も白く見えなくもないが、その男の無色さに比べると、まだはっきり色があると解るほど、その男からは色素というものが完全に抜け落ちていた。

「白はいいです。闇の中でもっとも目立ちますから。それは全ての光を示す存在……」

 その言葉を肯定するように、その隣にいる黒い陰が唸り声をあげた。黒い体。朱色の瞳。銀髪のアレックスと黄金のシェラもまた一対のペアとも言えたが、その男と、その獣との在り方ほど正反対ではない。何もかもが対になるオセロの駒ような相対性。

「獣の分際で挨拶かえ」

 シェラがふんとすまし顔。

「これは無礼いたした。金色の姫よ……」

 慇懃に頭を下げながら男は獣の首筋を撫でている。それは巨大な黒豹。人の優に五倍はありそうな巨体。静かな威厳を湛え、そこに謙虚さをも同居させている。まさに畏怖堂々たる動物型の霊命だ。アレックスが見取れていると、やがて白い男とその黒い獣は飛ぶ鳥のように跳躍し、ビルからビルへと信じられない飛翔を見せて、そのまま姿を消した。

「なんで、あいつが?」

 と気を削がれた様子の謎の女もシュタッという音が聞こえそうな駆け足で闇の彼方へ姿を消す。続いて消防車などのサイレン音が聞こえ始め、男たちもいつの間にかいなくなり、そこにアレックスとシェラだけが残された。爆発の余韻を伝える微かな炎が手中の紙を照らす。そこに付着するキスマークに頬を赤らめながら記してある印字を読んでみた。

『鉄道公社はフレッシュな笑顔を求めています。あなたも新鋭艦に乗って国際的な仕事をしてみませんか。世界一周に向けて職員を大募集!』と書かれ、敬礼する鉄道マンのイラストがあり、その下に各職種がつらつらと記されていた。『見習い添乗員。見習いコック。見習い甲板員。見習い霊撃手。見習い機関員ほか車内訓練生を若干名募集……』

 大募集なのに若干??だけど『三食付き』とはなんと甘美にして天国を思わせる蠱惑的な言葉だろう。おまけに『保険も福利も充実』とある。まさに神のごとき慈愛に満ちた福音の響き。……アレックスは叫んだ。

「おぉぉ!」闇夜に吼える犬のように。近隣住民から罵声が浴びせられたが気にしない。

「うるせいぞ!花火ならほかでやれ!ペットの散歩かぁ?糞処理はちゃんとしとけよ。この馬鹿たれが!」それを耳にしながら心に希望の炎を燃やす。もっとも目を惹いたのは、『運賃全額支給』の文字だった。



「だから俺は、やめとこうって言ったんだ。しかも、もうすぐ朝礼が始まるってのに!」

 電電磁界陸航列車『アース・エンプレス』の第四両目の第一リア区画。その機関部のある最後尾はほとんどが運送関連の施設になっている。その第三倉庫に朝っぱらから響く声があった。声の主はブラン・ハウエル公安部副主任、階級は中尉。陸航準備の激務で倒れた運送部長にかわり臨時部長を務める羽目になっていた。立ち入り禁止になっている倉庫内で懐中電灯を振り回し、通路のあちこちを照らしている。

 通路は三人通れるのがやっとで両脇には重量感のあるコンテナがずらりと並び、うっすらと周囲を闇に閉ざしている。

「次のコンテナを開ける気はもうないぞ!」

 なんで俺がこんな連中のお守りと臨時部長なんかを務めなきゃならんのだ。おかげで朝も早くに起こされて散々な目に遭わされる!

 とまでは、さすがに言わないまでも懐中電灯を一際でかいコンテナに向けて憮然とする。その扉には、がっちりとした錠前がぶらさがっており、そんなブランの腰の辺りには可愛らしいツインテールの髪が揺れていた。

「え~っと三Bのぅ、二十三ばんの鍵ぃ~」

 どこか間延びした声である。身長は売店のカウンターに届くかどうか。その容姿もあどけなく、車内で見れば迷子の小学生にしか見えないだろうが、これでも彼女は筆記試験をトップ合格した訓練生だ。ミーナ・ハルベリー・十七歳。見た目と裏腹の明晰さが気に入ってか、セシリアがさっそく公安部候補として目を付けているとかいないとか。その彼女がいじくっているのはブランが腰にさげている鍵の束である。

「おいおい……開ける気満々かよぅ……」

 ブランはもう勘弁してくれと肩をげんなりさせた。その着ている作業着はあちこちが焼け焦げ、ポニーテールに結んだオールバックの茶髪もややチリチリになっている。手に持つ電灯でこれまで封印を解いてきたコンテナの入り口をかれこれ一時間の苦闘を振り返るように照らしてみせる。照らされたコンテナの前は黒く煤けており、その向こうにあるコンテナの前はなぜかギタギタに床が切り刻まれ、さらに、その向こうにあるコンテナの前は凍りつき、小さなアイススケートリンクができているみたいだった。

 そこにいま一人の少女が倒れている。

「…………」 

 無言で見つめてから再び顔をもどす。そこにコンテナの分厚い扉がある。そして、そこにはこれでもかという数の封霊紋が記されていた。その封霊紋のペンキには磁界石製の特殊顔料が使用されている。これは低レベルの次元霊や霊獣などを弱らせて閉じこめておくのに最も一般的な方法とされている。が、その数がまた尋常ではない。封印をする際に担当者が重傷でも負ったのか閂にはべったりと血の痕も残されていた。

「……このさい撤退も視野に入れて再考する必要があるのではないか?こんな危険な倉庫点検並びに検品作業なんてありかよ」

 眉間に指を添えて言う。

「だいたい訓練生が朝礼をすっぽかしていいわけがない。こんな馬鹿馬鹿しい作業はだな、いい加減に終わらせて……」

 そこで言葉が止まったのは腕にむっちりした感触が伝わってきたからだ。期待に胸を膨らませつつ横に視線を落とすと、やはり、そこに色っぽい谷間が見えて額に汗が滲んだ。

 んぁっ、おほん……と咳払い。

「予想では今までに勝る強者にちがいない。第一、ここにあるコンテナの中身が研究用の低級霊獣だなんて、あのくそセシリアめ、一言も言わなかったぞ。なにが中身と運搬許可書の記載が合っているか確かめろだ。ふざけんな!命がけの検品作業なんてあるか。さっきの憑依されたガスレンジなんて火炎放射器みたいなやつだったぞ。その前はなんだ!」

「肉をミンチにする機械が憑依されて霊獣化した特異的な例……」

 ミーナがぼそりと言ってニヤっと笑う。

 鍵を見つけたのだ。

「うむ、全くもってそのとおり。とても模範的な回答である」同意しつつ言葉をつづける。

「そして、その前がモンスター製氷器だ。怪物レストランでもオープンする気か?滑って転んだジュリアはまだ氷の上で気絶したままだ。また問題を起こしてみろ。副艦長に嫌味を言われるのは俺なんだぞっ……」

 そこでまた言葉が中断。

「この作業にはとても重要な意味があると思うのですが」

それはとても毅然とした声だった。

 なのに、さっきから腕に当たるムチッとした感触が止まらない。そんな女の武器を冷然と使用してくるのはエリカ・スチュアート・十八歳。ミーナと同期の訓練生である。武芸者の家系で育ったのが原因か仰々しい喋り方をするくせに態度の徹頭徹尾に色気を漂わせる困ったちゃんだ。ふとした笑みや髪を掻きあげる仕草も凄まじく油断ならない。地味な紺色の制服をどう改造すればそうなるのか?露出度急上昇中のその姿はまるで車内添乗員に扮したキャバクラ嬢だ。勘違いした乗客も数名いたと聞くが公社ではそのようなサービスは行っておりません。そこがまた気に入ってかセシリアが早くも公安部の候補として目を付けているとかいないとか。

『スパイには色気も必要なのよん』と言われた時は『公安部はスパイではありませんよ』

 ……と具申する気にもなれなかった。

「南雲大佐は、この艦がまだ発進もしていないのに人工知能変異などの霊感染が頻発しているという事実を危惧しておられるのです」

 ……なるほど。

 すでに忠実な部下一号というわけだ。

「だけど無許可での積載物検査はまずくね。……ここら辺にあるコンテナは……」

 現在、情報課の管理下にあり、届け先は研究開発部になっている。倉庫の管理は確かにブランの担当だが中身を確認するには許可の申請が必要だ。そしてこの倉庫は確かに怪しげである。至る所に封霊紋が散乱している。だから早々に退避することをお奨めしたい。

「たかが実験用の霊獣ごときが、それほどの異常霊波を出してるとは……思え……」

 と、そこでまた腕にプニュッと感触。

 おぉ!刺激が二割増!

「中尉が黙ってれば問題なしでありましょう」

 さらに耳にも吐息。その追加攻撃は期待しておりましたよぉぉ……おほんっ!

「それで、次の記載には何とあるんだね?」

 ちょっと威厳を加えてみたりする。

「蟹です」ミーナが率直に答えた。

「カニ?」「そう蟹です」 

 聞きまちがいではないらしい。今度は食材ときやがった。にしてもコンテナのでかさが気にかかる。今までよりもこれはまた格別に大きいじゃないか。まさかそんなに巨大蟹?いやいや、そんなガニラな怪獣さすガニいないでしょ。あ、でも、マジいたら強そうだな。そこはかとなく嫌な予感。なれど、すでに鍵はミーナの手中にあり、その声も期待に膨らみつつある。

「蟹なべ、蟹なべっ! 蟹なべぇ!……」

「ちょっ、ちょっと待て……」

 止める間もなく錠前に鍵がガチャッ!

 と、その音に敏感に反応した者がいた。あの気を失っていた少女である。意識を取り戻して立ちあがるや、青いリボンをなびかせて霊門開放の呼吸とともに気合を入れだした。幾つもの房をつくる金髪の縦ロールをゴージャスに揺らめかせ、見るからに攻撃的な霊気を身に纏いはじめる。彼女の名はジュリア・スペンサー。花も恥じらう十七歳。翠玉色の瞳に闘魂の気迫を燃やし、やがて復活しての開口一番はまさに華麗なファイティングポーズとともに放たれた。

「先ほどは不覚をとりましたが今度は必ず仕留めます。さぁ、次の敵をおだしなさいっ!」

「敵って……」ブランは苦虫を噛みつぶした。他の二人と同じく、これまた問題児な訓練生である事まちがいなし。容姿の秀逸さは車内でも一二を争うというのに、あまりにも血の気が多すぎる。それを知らずに近寄って大怪我した男どもはもはや両手では数え切れないだろう。だが、そんな熱血なところも気に入ってか、さっそくセシリアが黒革の手帳に将来有望と記入したとかしていないとか。

 やがてギィィッと不気味な音をたててコンテナの扉が開かれた。ジュリアが傲然と睨みつける闇の向こうにゴソゴソと蠢く何かが見えた。無数の目が光ったような気もした。そして足足足足足足足足足……さらに凶悪な爪。そこから溢れ出てきたのは確かに蟹だった。空間変動後に突然変異し、驚異的な攻撃力と殺人的な爪を持つようになったいうベーリング海の王者。『陀羅刃蟹』の……大群だ。

 コンテナの中でどうやって元気にしていたのか?という謎はすくに解けた。まちがいなく悪質な低級次元霊に憑依感染されている。

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!……」

 第三倉庫にブランの悲鳴が轟いた。


  地平線の彼方から巨大線路が集まり、そこからまた世界へ広がっていく。そんな陽曲山は四方に環境維持結界を巡らせて都市を守る要塞でもある。その斜面から遠くを臨めばかつて都市だったという遺跡に目を凝らす事も可能だ。三百年前の変動が生みだした荒野。無数の霊類が生息する霊現の地。たとえ有能な霊能者でも油断すれば次元霊に憑依され、もしくは霊獣などに食い殺されてしまう人外境の地。そんな大地がどこまでも続いている。

『大空間変動』

 次元の異なる宇宙どうしが重なって引き起こされた時空変異。……それ以来地上は霊の顕在する世界となり、生ある者は地底に暮らすようになった。そんな地上において最も安全な長距離移動手段が陸航列車だ。

 潤沢な資本を背景に世界を繋ぐ国連企業。

 それが『世界鉄道公社』なのだ。

 信号係が減速を指示したので従った。巨大列車を取り巻く軌道は無数に施設されており、その上を行く汽車が人や貨物を乗せて昇降口へ吸い込まれていく。その一般軌道は幅2140ミリメートル(7ィート1/4インチ)で、その鉄道網もまた陸航軌道と同じく都市のみならず荒野の果てまで続いている。運転する運搬車は昇降口の第四階層を走っており、それは列車最後尾の右舷へと続いている。やがて引き込み線へ誘導する笛の音が幾重にも重なり、周囲にも活気が満ち、直に車内へ到着という空気が感じられるようになると、そこで胸の十字架から申し訳なさそうな声が漏れてくるのだった。

「そろそろ霊力を眠らせて気配を絶ちたいと思うのでござるが……」

 いきなりそんな事を言いだした十字架にアレックスは渋面を作った。声の主は,あのラキである。昨晩……あの採掘所の廃ビルで知りあった高位の人型霊命だ。

「えぇ、なんでさぁ?……落ち着いたら君の霊合者について訊こうと思ってたのに……」

 ラキがその事について話したがらない事は承知している。霊命も霊合者も互いの分身といえる相棒の情報を漏らすような事は絶対にしない。ここは繊細な問題だ。けれど全てを黙秘されては堪らない。それを甘受しては依頼の遂行も難儀する。それに知りたいのはそれだけじゃない。採掘所で何が起きていたかはもう少し把握したいし、施設内にあった気持ちの悪いミイラについても、車椅子の少女との関係についても知る必要がある。いくら霊を口寄せをして霊視したところで充分な情報を得る事など不可能なのだ。なのに、

「それはいずれ解る事でござる……」

 などとラキは言うのだ。しかもジジ臭く。

 そして……こうも続けた。

「御言葉でござるが車内には我らの敵となりうべき存在が潜み、そして、あなた自身もまた訳ありの霊道士。他人の目を惹くような事は避けるべきではありませぬか?霊命をしかも二体も堂々と引きつれて乗り込む乗客が一般的とは思えませぬ。ただでさえ貴公の魂内には……いや、これは出過ぎたことを……」

 もっともな事と納得するしかなかった。ラキの言ってる事は正しい。だからひとまずは同意。そして誘導員の案内に従う事にした。運搬車を徐行させながら第四両目の第一エリア右舷ゲートを潜り、緩やかに甲板へ進入。そして指定された置き場に停車させると、まもなく甲板員が近づいてきた。

「やぁ!お疲れさん……おっ?……」

 予想どおりの戸惑いである。

「その髭は何ですかいな?……あぁ、なるほど。明日は聖夜やさかいな」

 葡萄茶色の髪をした白人の青年だった。なのに独特な訛のある英語を喋っている。ただし列車内には浮遊霊式自動翻訳システムが設置されているのでアイリッシュ訛の英語もちゃんと聞き取れる。

 青年は怪訝そうにアレックスの髭を観察してから、

「では切符を拝見。ようこそアース・エンプレスへ」

 アレックスは、シェラに運搬車の見張りと留守番役をお願いし、その際に胸の十字架を預け、手荷物にスーツ・ケースだけを持ち、一人で運搬車から下り、昨夜、早速購入した乗車券をその甲板員の青年に手渡した。

「これが運搬車の持ち込み許可書です。それから切符と……あのう……」

 そしてタラップを下り切ってから昨夜入手したスタッフ募集のチラシも見せる。

「僕はアレックス・テイラーといいます。できれば仕事を希望しているのですが?」

 そこで甲板員は頭を掻いた。

「スタッフ募集の件かぁ……もう締切は過ぎとるんやけどなぁ……」

 案の上である。今日から陸航が始まるのだ。すでに必要人員が揃っているのも当然だが、ここで引き下がるわけにはいかない。

「そこをなんとか……」

「ちょいっと待ちぃ。車内のサービス業者やったらまだ募集が残ってるかもしれんけど、でも今は朝礼の最中なんやわ。しかも、ここの責任者も、どっか行っちまってて……」

 見れば広い甲板の中央では大勢の職員が朝の体操を行っていた。一番前にある台上でピッ、ピッと笛を吹いてる女性もいる。

 どうもタイミングが悪い。

「いったい、臨時部長はどこへ行ってるんだか。……あぁ……来た、来た……えっ?」

 そこで俄に青年の顔が引きつった。確かに部長はその方角から現れたらしい。ただし背後になぜか蟹の大群を引き連れ、まるで冥界から逃れくる竪琴の名手のような形相で走ってくる。同時にアレックスも顔を蒼くした。続いて職員たちも騒ぎ始める。それが悲鳴に変わるのにそれほどの時間は必要なかった。しかも、その騒ぎは別の不慮的災難によるものだった。広い甲板は吹抜けの作業所になっており、そこで働く労働者たちはコンテナを運ぶのに光子蓄電式の人型重機を使用している。その内の二台が暴走し始めたのだ。

「また人工知能変異か!ここんとこ連続やな。しかも陸航列車の中やで。ここで憑依感染が起こるやなんてどないなってんや……」

 ピ~~~ッと台上の女性が笛を鳴らし、

「退避ぃぃ!」と叫ぶ。それを合図に黒い制服を着た者が三人、驚くべき脚力で暴走する重機のほうへ駆けだして行った。その三人もまた女性で腰の剣帯に憑依武器を携行している。いっぽう勝手に動きだした重機はコンテナを蹴ったり殴ったりと大暴れ。操縦者はパニック状態である。職員たちも右往左往。そこへさらに蟹の大群がなだれこみ、重機の一台がこちらに向かって突進しだした。その進路上に少女が一人倒れている。蟹に蹴躓いて転倒したらしい少女は何が起きているのか解らず硬直しているようだ。このままでは踏み潰されかねない。黒制服が武器を構えたのと同時にアレックスも動いた。大量の蟹を見て目眩を起こしそうだったが、そんな事には構ってられない。すでに一台は駆動部を破壊されて沈黙しているが、もう一台は振りあげた腕を少女の頭上へ落とそうとしている。黒制服の一人が武器を発動させたが、今からでは間に合わないだろう。

 そう判断したアレックスは瞬時に命門から気を練りあげ、霊門へ繋げると床に手を突き、一気に力を放出。

 霊力を帯びた精気が霊気と化し、床から突風噴きあげる力の流れを起こす。

 甲板員はそこに霊術紋を見たような気がしたが…それは…一瞬のこと。

 さらに眼を見張ったのは、そこから溢れるように蠢きだした甲板の一部だった。

 霊門開放技。物質変異の術。

 即ち…金剛流砂。

 その流体化した金属床が重機の足に絡みついて動きを止めると、黒制服の一人が刀状に変化した武器を機体に突き立て、やっとのことで駆動部を破壊し、次元霊も消滅した。次に目を向けると、もうすでに甲板は元通り。少年の姿もそこになく、重機がどっと横倒しに落ちてきてヒヤッとしたが、少女の姿もそこから消えていた。

 

 そこでミーナも何が起きたのかを理解した。……つまり…自分が『お姫さま抱っこ』されている事に気づいて、わくわくしながら顔をあげたのである。ところが、そこにあったのは…ゆらんと揺れる白い髭…。

「大丈夫ぶですか?」と慰められても、

「怖かったですか?」と髭の合間から白い歯が覗いても、何の感動も起きなかった。どころか『早く降ろせ、この髭もじゃ!』とさえ思ってると頭の上から蟹が降ってきた。

 第三倉庫は三階部分にあり、その壁面を囲むように張りだした通路から止めどなく蟹がわんさかと押し寄せてくるのだ。

 いったいどれだけいるのか?

 と思っていると髭モジャが悲鳴をあげて腕の力を抜いた。おかげで尻餅。その痛い思いに腹も据えかね、取り敢えず蟹を一匹捕まえると、その顔面に押しつけてやった。

「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」

 アレックスは蟹アレルギーである。過去に酷い経験をしていらい、それに触れるのも命がけ。それは爪を見ただけでも呼吸困難を起こすほどの症状になる。

「なんですか、これはっ!」

 笛の女性が怒気を発した。

「やれやれ。これは倉庫に保管しておいた霊獣ガニじゃありませんか。明日の聖夜パーティーで豪華な前菜へ生まれかわる予定だったのに。……おやっ、この少年は?…」

 憑依された蟹はすこぶる味が良くなるので世間一般では高級食材に指定されているらしい。なぜかそんな事にも思いを馳せながらアレックスは遠退く意識の中でその声を聞いた。聞き覚えがあった。まちがいなく昨夜の白い男だ。なんだ公社の職員だったのか。

「ところで、この髭モジャは何者ですの?」

 そんな声も聞こえた。薄れいく意識の中で目にしたのは青いリボンに飾られた豪奢な金髪の縦ロールだった。得体の知れない物でも見るような顔をして傲然と睥睨している。

「おいおいジュリア……そんな言いかたはないぜ…きっとお客様だぞ…」

 いったい何人が見物しているのだろう?そんな事より、この蟹をなんとかしてください。体のあちこちを爪に挟まれてもう息も絶え絶えです。……すると。

「いったい何事ですの!ブラン・ハウエル!」 と笛のお姉さんが不機嫌も露わに詰問した。

「俺の責任じゃねぇ!」

「とにかく暴走した重機を片づけなさい!」

「それこそ俺のせいじゃねぇ!」

「それから蟹と、この髭もなんとかなさい。作業の邪魔です!」

 また笛のお姉さんだ。白い立派な制服を着ている。きっと一番偉い人なんだろう。だけど髭だの邪魔だのってそれはあんまりです。あっ、蟹がゴソゴソ動いてお姉さんのほうへ。 「……イテテ……とにかく全て公安部の責任です。今すぐセシリアを呼びなさぁーい!」  もうどうでもいいや、と力なく倒れた。

 ポフッとした感触が顔に当たる。 なんだろう?……とニギニギすると金髪の少女が顔を真っ赤にして拳を握りしめた。

「なななっ!、ど、どこを触って……こ、この、いやらしい!……」

 そこから先はもう何も覚えてません。顔面に激痛を感じながら呟いたのは……『みごとな右ストーレトをありがとう。よければ左もどうぞ。アーメン』……だったと思います。







  大谷 歩  メールアドレス


   oayumu@gmail.com


 

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