第8話 ひよりの覚醒!
その晩。あたしはすっごくリアルな夢を見た。
「えっ。来てない?」
次にあたしたちが立つ予定のステージは定期公演ではなく地域の漁協が主催で行われるイベントだ。まだ寒いこの時期に名物のあんこう汁やあら汁が配布されるとあって、毎年なかなか盛況なイベントであるため、チケットなどもいらない観覧フリーではあるが、去年なんかは新曲を初披露したという思い出もある。
パレットと呼ばれるコンテナとかを載せる土台を組んで作ってあるだけの簡易的な舞台の袖にはトラックが停めてあり、それが音響ブース兼パーティション代わりとなっており、あたしたちはいつもその裏のテントに待機している。今年でもう四回目の参加だ。
そこに、あたしたちのプロデューサーであるやまとさんが何か含みのある表情を浮かべながらやってきた。海風が強いため、出番のぎりぎりまであたしたちは短いスカートの衣装の上にベンチコートを羽織っているのだが、やまとさんが近づいてくるにつれて、なぜか暖かなはずのベンチコートの中がひやりとした。夢なのにその冷たさがリアルで、ほんとうにリアルで、あたしは身を硬らせて末っ子りりりぃを見たら、彼女もそのやまとさんの表情に何かを悟ったのか、すでに泣きそうな顔をしていた。
「来てないんだ」
やまとさんはあたしたちに、いつもいてくれるファンのみんなが来ていないということを告げた。
「そんなの嘘!」
言ったのはいつもは一番冷静な明里だった。
「……やまとさん、良くないですよ」
わたしも言って、立ち上がる。ベンチコートをまとったまま、トラックの運転席の側から顔だけ出して会場を覗き込む。がらんとしているかと思われたその会場にはちゃんと人がいた。
ただし、その人たちは簡易ステージの上で今から何をやるのだかもわかっていない子供たちや、ただ座って休憩しているだけの年配の方、あるいは手の空いているイベントスタッフさんと思われる方ばかりで、確かにいつもの人たちの姿はどこにもない。
もやんさんも、ろむさんも、それから撮影OKの会場にはほぼ必ず来て可愛らしいりりりぃの写真をブログに載せてくれる月島さんの姿もない。
そんな……。
ぞっとしたところで、ようやく目が覚めた。反射的にスマートフォンに目をやると、まだこのイベントまで、実際には一週間以上もある。
だが、それは夢と分かってからもあたしの心をしばらく揺さぶるほどの恐怖だった。
あたしが一体、何をしたって言うんだろう。
夜中の一時を回っていた。
アイドル活動をしていると、グロウライブやSNSなどで生活のほとんどを曝け出すせいか、意外にも生活は規則正しくなる。
水でも飲もう。
あたしはベッドから立ち上がり、腕につけていたヘアゴムで髪をまとめた。あたしの家は農家なのでお庭は驚くほど広いが、キッチンは下の階に一つしかない。そのため、つぐみちゃんと結託してお父さんを説得し、去年の春、小さな冷蔵庫を買ってもらった。
それは廊下の折れたところ、普段使わないものやWi-Fiの機械(モデム? ルーター? よくわからないけれどファンの人におすすめを聞いて買った)が置いてある物置スペースに置いてある。
一つしかドアのない小さな冷蔵庫。あたしは丸に「つ」と書いてあるつぐみちゃんのジュースを避けて、麦茶のペットボトルを取り出してその場で一口飲んだ。小さな努力に過ぎないけれど、真夜中にカロリーは摂らないほうがいいとメンバーで決めている。
そのとき、今まで静かだと思っていた廊下に誰かがすすり泣くような声が届いた。
えっ。思わず声が漏れる。あたしはテレビを付けっぱなしにして寝たことはないし、となりの部屋の妹は明日も早くから部活のはずだ。
だが、振り向くとまるで冷蔵庫を開けたみたいにつぐみちゃんの部屋のドアがうっすらと開いており、その隙間から光が漏れていた。
「いつの間に……」
嫌な夢を見たせいか、全然気がつかなかった。
だけど、そのにわかな明かりの向こうからは、やはり誰か――いや、あたしの大切な妹がすすり泣く声が聞こえていた。
いつも勝気な妹のことだ。ドアが開いていることには先程のあたしと同じで気がついていないんだろう。
「つ……つーちゃん、入ってもいい?」
「えっ……」
「ごめん。なんか起きちゃって。そしたら声……聞こえたから」
勉強机の椅子に座っていたつぐみちゃんは何も言わずにぼうっと上を向いた。本人は誤魔化したつもりかもしれないが、そんな不自然な動作、あたしには涙が溢れないようにしているのは一目瞭然だった。
座るね、とあたしは言ってから、妹のベッドに腰掛けた。そういえば、妹の部屋に入ったのも久しぶりだが、このベッドに座るなんて何年ぶりのことだろう。
妹がなかなか話をしたがらないからか、姉妹の間に沈黙が流れる。だけど、さっきとは違って、不思議とそれは嫌な沈黙ではなかった。
「……ね、さっきはごめんね」
返事はない。
「あたし、あのとき誰も彼も疑ってさ……。ちゃんとつーちゃんのことも聞いてあげられなかった。だから――」
それでもあたしは言った。独り言みたいに。
「今は話してほしいな」
「ひー。……あたしが何をしたって言うの?」
「えっ」
「……ごめん。ひーが悪いわけじゃないの。ただちょっと、友だち――部活の子とけんかしちゃって。でもあたし悪いことなんてしてない」
「それは、その……彼とのこと?」
あたしは立ち上がって後ろから妹の肩に手を置いた。妹は小さく頷く。
「あたしはバレーも、渉くんも好きなだけなのに。朝の練習だって一度も欠かしたことない。ううん、渉くんがいるからこそ練習だって頑張れる」
なるほど、そういうことだったのか。
あたしはときどき、自分でも驚くほどに自分が嫌になってしまうことがある。なんてだめな姉なのだろう。てっきり、あたしが焦っていることにいらいらしているだけだと思っていた。
妹は妹で悩み、そしてまさか戦っているなんて思いもしなかったのだ。
そんな妹――つーちゃんの頭を抱えてぎゅっと腕に力を込めると、小さな声が聞こえてきた。
「わたしが何をしたって言うの」
あたしはただ、みんなを笑顔にするのが好きで頑張っているだけ。妹は好きな人も好きな部活も頑張っているだけ。
好きなことをして何が悪いというのだろう。
そしてそれはもしかしたら、鹿島めろんにとっても同じことなのかもしれない。
「つーちゃん。つーちゃんは何も間違っていないよ。お姉ちゃんや未玖たちなんかよりももっと頑張ってる。だからバレーも彼も離しちゃだめ。もしも離れてしまいそうになったら、あたしも一緒に掴んであげる」
「ひー……」
そうか。やはり、あの夢はあたしたちの未来なのだ。ただし、それはこのまま他人のことばかりを気にして、自分たちが好きで好きでしかたなかった活動を疎かにしてしまった未来だ。
「つーちゃんは悩むことなんてないよ。悪いことなんて何もしてないもん」
そりゃあ好きな人ができて練習が疎かになるなら問題だ。だけど、まっすぐ、自分の好きで――大好きでたまらないことを貫いた先に気がついたらファンのみんながついてきてくれていただけだ。今必要なのは偵察や批判なんかじゃない。
あたしはことさら強く、妹の頭を抱きしめた。
「い、痛いよ……」
と言った彼女の声がわずかに揺れる。真夜中に目に涙を浮かべながら抱き合うそれなりにもう大人といってもいい年齢の姉妹の様子のおかしさに、くすくすと笑っているのだ。
そんな彼女に頑張ってもらうには、姉であるあたしも頑張るしかない。その姿を見るとまた一週間頑張ろうと思えるんだとファンの人に言ってもらえたように、その姿勢で励ますことがあたしの仕事だ。だからつーちゃんも頑張って。それが自分が選んだ道なんだって、心から言えるように!
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