第4話 伝説の神機

六日間にわたる学年末考査が終了したのは、その日の正午過ぎだった。

 技士科の成績は術式学、兵装(へいそう)学、一般教養など多岐にわたる試験科目によって判定が決まる。

 その長い試練の最後の舞台は、午前中を使いきって行われた魔装工学(まそうこうがく)の試験で幕を閉じた。

 そんな日の午後である。

「最近、麻呂たちは何かと脚光(きゃっこう)を浴びておるような気がするでおじゃるな」

 二郎が翼の向かいの席でそわそわしていた。最終試験を終えた二人は技士科棟(ぎしかとう)の向かいにある食堂で待ち合わせをし、只今、翼は一杯五文のきつねうどんを、二郎はたぬき蕎麦をすすっていた。客席数、三百を誇る食堂には所狭しと洋卓が並び、今日も大勢の学生で賑(にぎ)わっていた。

「あら、なにかしら、あのモサモサした二人は?」

「あはは、春になると、陽気に浮かれて変なやつが出てくるからね」

 少し離れた座席から女子生徒らの話し声が聞こえてくる。

「あのさ、浮かれてるとこ悪いんだけど、どうも変人あつかいされてるみたいだよ」

「へ、変人とな!」

「おいらと同じ恰好をしているからだよね」

 がっくりと肩を落とす二郎は、あの日以来、なぜか翼と同じ髪型をしている。総髪の元取(もとどり)をはずして前方に追いやり、その長い髪で顔面を覆(おお)い隠す例の落ち武者風である。

 そんな怪しげな風体が二人もいては嫌でも目立つというものだ。

「なんで真似してんだよ?」

「病院での騒動の折、麻呂は人前に顔を曝(さら)しておじゃるから、なにかと不安なのでおじゃる」

 何がどう不安なのか、その理由を翼は訊かなかった。自分の正体を必死に隠そうとしているのが間抜けなほど痛々しくて、そんな気分になれない。病院での出来事を思いだすと尚更(なおさら)である。あの日、結局、二郎は一言も口を開かなかった。ただ俯(うつむ)いて何かに耐えている様子だった。

「だいたい、あの時、君は、おっさんだったじゃん。誰も君だなんて分かりゃしないっての。それより、病院にいた大量の赤ちゃん、あれ、君の仕業だろ?あのままにして帰ってきたけど、大丈夫だったの?」

「それは心配いらぬ。麻呂の術は時間がたてば勝手に消滅するでのぅ。さても気がかりは朔夜殿じゃ。麻呂の魔法は希有なものゆえ……正体を見破られたかもしれぬ」

 と噂をすればなんとやら。天井にある発音機からカコキンと間抜けな音が響いてきた。放送を合図する鉄琴の音だと思うが、普段とちがい音階が中途半端にずれているので耳に煩わしい。

 さらに、その後に続いて女子生徒の苛立つ声が、その発音機からもたらされた。

『姫様っ、放送合図の鉄琴はちゃんと鳴らしてくださいませ!』

『むぅ、楽器の類(たぐい)は苦手なのじゃぁ』

 と続くその声の主こそ、今、噂をしていた姫様である。

『では気を取り直してコホン。えーっと、全生徒に告げる。七日前に起きた騒動については聞き及んでいると思うが、その事件の犯人がまだ捕まっていない』

 一瞬、どきっとした。翼は恐る恐る二郎と顔を見合わせた。まさか、あの日のことが校内で蒸し返されるとは思わなかった。あの日の事件のことは魔掟放送(まじょうほうそう)や新聞、雑誌などでも取り上げられ、連日、姫様の恋人発覚事件とならんで世間を騒がせている。

 特に大量の赤ん坊が出現して消え失せた謎の事件と、全裸(ぜんら)の男女が同室に押し込まれていた珍事件については病院側にも多くの批判が集まり、病院長が自ら記者会見を開いて謝罪する事態にまで発展している。

「まさか、事件の真相が明らかにっ!」

「まぁ、落ち着きなって。とにかく放送の内容を聞こうよ」

『そこで防衛省では市民の安全を考慮し、戒厳令(かいげんれい)が発令されることに決定した。申し訳ないが、しばらくは許可なく夜間に外出することは禁止となるので、あしからず』

 と、そこで二人は安堵したが、それを耳にした生徒らの間には落胆と不満の色が満ちていった。

 というのも、明日から交代で長期休暇に入る者がこの場には少なからずいたであろうからだ。または試験も終わったことで、久しぶりに夜遊びを企んでいる者もいたはずだ。

「ありゃ、こりゃまいったね」と翼も頭を掻いてしまった。これでは仕事も夜回りもできない。

『――というわけで、居残(いのこ)り組は校内で宿直(とのい)をする準備をいたせ。翼士科生には持ち回りで市中警護の任務にも就いてもらう。なお、担当(たんとう)地区ならびに勤務(きんむ)状況については各々(おのおの)の〈魔掟書〉にある伝言掲示板に詳細を添付(てんぷ)しておくので、ちゃんと確認しておくように、以上である』

 そこで放送は終了した。カコキン! 

『あっ、またしても姫様っ!』

『むうぅぅ……』

 さては居残り組とはまた乱暴な言い方をしたものだ。連合加盟の祝賀準備に人員を割かれ、今、この大穢土京は人手不足に陥っている。士官学校からも選抜された生徒が式典の催される朔洲に回され、そのすべてが門閥出(もんばつで)で固められているとのこと。大穢土京に残っているのは士族出や平民出ばかりで、その残存兵力を指揮するよう命じられたのが姫様だという話であるが。

「ねぇ、なんか、お姫ったら、ちょっぴり不機嫌そうだったじゃんね?」

「まぁ、今回は明らかに貧乏クジだし、雑誌なんかでも騒がれちゃってるしねぇ」

 まるで堰(せき)を切ったように、そんな会話もあちこちで発生している。

「いやはや朔夜殿も、いい迷惑でおじゃるな。報道番組も連日その話題でもちきりでおじゃる」 わざとらしく二郎が食堂に置かれている魔掟放送の受像画面へと目を移した。画面は先ほどまで、その恋人発覚事件について無責任な報道をくり返していたが、ありがたいことに今は月へ旅立つ使節団の映像に切り替わっている。画面には一隻の古びた戦艦が映しだされている。

 連合加盟の調印式に向かうのだろう。番組はその月への出航のもようを生中継していた。

「それより話の続きでおじゃるが、さても麻呂のことより、翼殿こそ気をつけられよ。いくらなんでも、古今東西、ただ視認するだけで〈天魔〉を退ける能力者など麻呂の知る限りは――」

 その後を二郎は続けなかった。翼もその先を聞きたいとは思わない。

「だったら、その言葉そのまま返すけど二郎こそ何者だよ? そもそも天枢国の貴族が揺光に留学すること事態がおかしいじゃん。天枢の学生なら枢軸連合のいずれかの国に留学するのが通例だもん。ま、これから起きようとしていることに関係してんだろ。でも、これだけは言っとくぜ。この先、何が起きようと、君とは一蓮托生なんだから、もう勝手なことはすんなよな」

「うっ、この前のことは心から謝るでおじゃるよ。じゃが、何故、そこまで麻呂のことを?」

「これは、もう性分だろうね」

 翼はため息交じりに肩をすくめるのだった。


 ようやく蕎麦を食べ終えた二郎は少しずつ平常心を取り戻しつつあった。

 そこへ、目の前の少年が不機嫌そうな声を投げつけてきた。

「――っていうか、勝手に死なれたら目覚めも悪いんだから、命は大切にしろよな。まぁ、おいらも君には感謝してんだよ。自由研究を手伝ってくれてるしね。いくら試験を頑張っても、おいらは今んとこ下町育ちの芸者の息子ってことになってるからさ」

「む、身分差別はどの国でも難儀でおじゃる。麻呂でよければ協力は惜(お)しまないでおじゃる」

「うん、ありがとう。でも、やっぱ問題は、そこだけじゃないような気もすんだよな」

「はて、ほかに問題というのは、やはり、あの〈神機〉のことでおじゃるかの?」

「おいらが言いてぇのは、あんな物をおいらに預けた晦日(つごもり)先生こそ怪しいんだよ。あれって、おいらの力なしでは復活させるのは無理そうだし、そこには何者かの思惑もあると思うんだ」

 一瞬、ぎくりとして思わず顔を逸らしてしまった。まさに、その通りである。

「ならば……なぜ、修復作業を続けたでおじゃるか?」

「そりゃぁ進級を餌に持ちかけられた話だもん。途中でやめたら、それこそ退学じゃん」

 いや、どうだろう。それはないと思うが――さすがに。

「でも、作業を続けてるうちにさ、その先に何があるのかも知りたくなっちゃってね。はたして自分は何者なのか――その存在意義を確かめるためにもさ」

 大いに呆れた。十年ぶりに再会した友はもはや過去とはまるで別人のようであるが、その根本的な部分までは変わっていないらしい。その楽天的な性分は昔と同じか、それ以上である。

「でもね、最初に、あの〈神機〉が無惨(むざん)な姿で氷結されているのを見た時、まるでこの国みたいにも思えたんだよね。戦乱に傷ついた、この国みたいだなって。そう思うと、なんか悲しくてさ。だから、もう一度、飛び立てる機会を与えてやりたいなんて思っちゃったんだろうな」

 そう語る少年の正体を知っているだけに二郎の胸には深々(ふかぶか)と刺さる言葉だった。

「まぁ、そんな感じで前途は多難だけどさ、これからもよろしくね」

 と苦笑する友の顔に心の痛みを我慢しながら二郎は頷き返すことしかできなかった。

 その後、二郎は翼と一緒に食堂を後にし、このところおなじみになっている例の工場へと向かった。いつものように灼熱魔法に護(まも)られた結界を通り抜けて工場内へ入ると高さ九米突(メートル)ほどもある巨躯(きょく)が出迎えてくれた。その複雑な機械類に囲まれた整備架台(せいびかだい)の中に一騎の〈神機〉が屹立(きつりつ)している。その背にある天翼(てんよく)を畳(たた)み、静かに佇(たたず)む巨体を深紅に輝く鎧装甲(がいそうこう)が包んでいる。これほど荘厳、かつ、見る者に畏怖を与える〈神機〉はほかに見たことがない。それは、かつて世界を炎に包むとまで怖れられた伝説の〈神機〉――その銘(な)を〈凰火零式(おうか ぜろしき)〉というそうな。


 その夜である。夕食の後、翼は月花楼の二階にある自分の部屋から夜空を眺めていた。

 相変わらず夥(おびただ)しい数の宇宙艦(うつふね)がはるか彼方の光となって群をなし、月へ向かっているのが見える。今日、朔洲(さくしゅう)から飛び立った外交使節団も、あの光の中に混じっているのかと思うと、なぜか心がざわついた。月は遠すぎて、いくら手を伸ばしても届かない。古来より神秘の象徴とされてきた夜空の主はただ虚(うつ)ろに人類を呪いながら、今夜も巨大な魔法陣を浮かべている。

 今宵は戒厳令のせいで仕事もなく久々にのんびりと過ごしている。町の警護は翼士生たちがその任務に就いているので何の心配もないはずだが、なのに、やはり心が落ち着かない。

 そんな暗澹(あんたん)とした気分を窓辺にもたれさせながら翼は夜闇の深墨(しんぼく)に義母(はは)の面影を描いていた。彼女の名は火選崎夜宵(かえりざきやよい)。かつて揺光にその人ありと称えられた屈指(くっし)の〈魔掟士〉である。

 そして数多(あまた)の〈天魔〉に挑み、過酷な運命に殉(じゅん)じた女である。

 その死にざまを思うと、いつも凍てつくような悲しみに心は閉ざされてしまう。幼い頃の記憶がない翼にとって彼女と過ごした歳月(さいげつ)は何より色濃く大切なものなのに、その中心にあるべき存在が、じつは虚実(きょじつ)だったと理解すると、ぽっかりと心に穴が開いてしまうのだ。

 その空虚は五年前の暴動事件に元凶があると定義づけたところで埋められるものではない。

 そもそも、あんな悲劇がなくても彼女はいつか義母(はは)であることより士である道を選んだだろう。

 力なき者を護るために士道と使命を天秤(てんびん)にかけ、その結果、彼女は迷わず誇りある死を選んだのである。その一方的な遺言が、今はすごく重く感じられてならなかった。

 だからこそ常に自問し続けなければならないのだろう。

 さても今日、少しだけ翼は二郎に自分の思いを口にした。それは二度と、この前のような無茶はして欲しくなかったからだ。誰かのために誰かが犠牲になることを強(し)いるは乱世の理(ことわり)かもしれないが、その苛烈さをすべてに許容することは少なくとも翼の思う正義ではない。こんな世界だからこそ、どんな命も最後まで諦めてはいけない最も価値あるものだと翼は思っている。

 さても二郎が抱える問題の大きさは計り知れないが、喩えそれがどんなものであろうと己の命と引き替えにするほどのものではないはずだ。なのに彼は、その難問を解決するのにいとも簡単に自分を犠牲にしかねぬ危うさを秘めている。そんな危惧を抱きながら翼は遠くに瞬く星を眺めていた。禍々しい月に存在を朧気(おぼろげ)にしながらも健気に輝く星々は地上に蔓延(はびこ)る怨念からは隔絶された存在である。そのせいか、その真摯(しんし)な光には何かしら穏やかなものが感じられてならない。そこに未来の曙光(しょこう)を願いながら翼は二郎のことを考えた。

 これは憶測にすぎないが、彼が天枢国を出奔(しゅっぽん)した理由には、あの奇天烈な魔法も少なからず関係しているのではなかろうか。あそこまで物理法則を無視した希有(けう)な術となると、どう考えても、ただの〈血銘術〉とも思えない。恐らくは最も崇高な存在にのみ適合した〈太極系〉の魔法と考えて然(しか)るべきである。


『麻呂の術は、その物に与えられた時間の概念を操るでおじゃる。といっても時間の壁を越えて過去や未来に行けたりするわけではないでおじゃるがの』

『じゃぁ壊れた物を復元することは?』

『壊れた物はあくまでそのような物体としか認識できないらしく、その状態で新しくしたり古くしたりはできるのでおじゃるが、復元するのは現在(いま)の麻呂の力ではまだ無理でおじゃる』

『じゃぁ病気や怪我の治療なんかは?』

『場合によっては可能でおじゃるが、ただし魔法や呪力による障害には、さして効果を発揮しないでおじゃる』

『ふーん、でも使いかたによっては、かなりやばい術ではあるよね』

 そうなのだ。特別病棟を警備していた〈魔掟士〉たちを全員まとめて無力な赤ん坊に変身させた術である。その気になれば生命誕生まで時間を遡らせることも可能だろうし、その逆もまた然(しか)りであろう。操れる時間の概念も、その度が過ぎれば、その対象物は滅びるかもしれない。

 そんな危険な力を、はたして枢軸連合や朝廷が手放すだろうか? いや、ありえない。

 恐らく、その深淵(しんえん)に潜む危うさは、あの禁術どころの話ではないだろう。

 それに、もう一つ気懸かりなことがある。これは病院での騒動の折に試して確信したことだが、どうやら自分には他人の術に干渉できる力が宿ってしまったらしい。といっても、これは他人の術を模倣(もほう)できるという便利なものではない。どうやら魔力を同調させる相手が近くにいないと、この力は発動しないらしく、どちらかというと己(おのれ)の魔力で他者に影響を促(うなが)し、強引に発動させてしまうという厄介な代物と言ったほうがいいだろう。

 いったい自分はどうなってしまったのか。

 〈血銘術〉は体質的に独立した魔法なので互いの魔力が干渉し合うようなことは起きないはずなのだが――と、そこへ冷たい夜風が窓の外から肌を刺し、ぶるっと体を震わせた。

「うわっ、部屋が冷え切っているでおじゃる。春先とはいえ風邪(かぜ)を引くでおじゃるぞ」

 どうやら二郎が部屋にもどってきたらしい。

 ふり向くと浴衣(ゆかた)の合間から湯気を立ちのぼらせて若干のぼせ気味の顔をしている。

 そこに夜風は気持ちいいかもしれないが、湯冷(ゆざ)めさせては申し訳ない。

「ごめん。ちょっと考えごとしてたんだ」と翼は慌てて窓を閉めた。

「そうでおじゃるか。ついに明日でおじゃるものな」

 二郎が言ってるのは自由研究のことである。明日いよいよ例の修復作業が完了する予定だ。

 二郎にも様々な術式の組み立てや魔術融合率(ゆうごうりつ)の調整など、色々な面で協力してもらった。

「先に風呂に入らせてもらったでおじゃる。疲れたから、もう寝ようと思うのでおじゃるが」

 月下楼に居候(いそうろう)するようになってからというもの二郎は翼の部屋で寝起きしている。

 調度品など一つもない部屋だが、魔法研究の道具や書籍が所狭しと詰めこまれているので布団を敷くともう足の踏み場もない。二郎が欠伸(あくび)をしながら翼の布団も敷いてくれている。

「もう、そんな時間かぁ。じゃぁ、おいらも風呂に入ってこよ。あ、先に寝てていいからね」

 そう言って翼は部屋を後にした。その足で階段を下りて離れにある浴室へ向かう。当然ながら男風呂には誰もいなかった。さっそく脱衣所で服を脱ぎ、逆さ海月(くらげ)の暖簾をくぐって湯気の籠もる中へ足を踏み入れる。濃い木の香りが鼻孔をくすぐった。その浴室を独り占めするようにまず体を洗い、ゆっくり湯につかる。檜を贅沢に使った湯船に安らぎを感じながら湯肌の温もりを堪能していると、そこへ「若…」と呼ぶ声がした。窓を少し開けると狭霧が立っていた。

「ここ最近の騒動の裏には、どうも筆頭家老、十五夜重盛殿の姿が見え隠れしております」

「ふぅん。なるほどね。ま、そんなことだろうと思っていたけどね」

「しかも、かつての帝都――月下聖京へ頻繁に使者を送っている様子」

 かつて、その月下聖京こそが世界の中心であった。現在は四つの大公国に分裂しているが、中央大陸にはかつて広大な皇帝領(こうていりょう)が存在し、その繁栄が帝国の基盤(きばん)を支えていたのである。それが今から三十年ほど前のこと。二代前の揺光国主、煌月鳳晩(かがやづきたかかげ)が腐敗する朝廷政治に異を唱え、恐れ多くも連合軍を募って皇帝領へ攻め込むという暴挙を引き起こしてしまった。

 時の月下皇帝、喜烙帝(きらくてい)はその大軍に恐れをなし、抵抗することなく連れ出され、その後しばらくは揺光国の帥都、破軍京が帝の御所となってしまう。ちなみに朝廷に与(くみ)した天枢国はその時、連合軍の前に潰走(かいそう)しており、その事件を切っかけに乱世がますます混沌を深めていったのは言うまでもない。それ故、かつての皇帝領は現在、四人の大公が帝の代理人として治める地となり、なかでも最大の実力者である関白、望月清衡(もちぢききよひら)を筆頭に枢軸連合と拮抗(きっこう)する勢力として君臨している。

「まぁ、清衡公も、さぞや天枢国の朝廷に分家を潰(つぶ)されてお怒りだろうけど、そう上手く後ろ盾になってもらえるだろうか?」

 今の状況で揺光国が枢軸連合に加盟しても、各国の風下に立つことになるだろう。それを避けるためには大きな後ろ盾が必要だ。

「まぁ、確かに望月家は代々、朝廷を動かしてきた摂関家(せっかんけ)の筆頭だよ。その親戚筋を、十年前の〈第一次揺光動乱〉の折りに天枢国に派遣し、帝位継承権二位である双月皇子二に託したのは時の権勢と結ぶ朝廷への圧力のつもりだったんだろうけど、そんなごり押しが可能なのも、それだけ強い権力を維持している証だ。その威光には絶頂期の煌月家(かがやづきけ)でさえ逆らえず、現在(いま)の四天同盟(してんどうめい)でさえ迂闊(うかつ)に手を出せない。

 ――ん、待てよ、今回、月での軍事行動には天枢国以外の四天同盟は参加していないと聞くね。さても今回の揺光の同盟入りには、なんか胡散臭いものを感じるね」

 ともかく過去に何があったにせよ歴史はくり返すものである。玉座を手に入れて我が世の春を謳歌(おうか)した揺光国もまた、その犯(おか)した罪を贖(あがな)うかのように天枢国に帝を奪われて衰退した。

「……ま、それよりも天望家(てんもうけ)のその後の動向が気になるね。今はどうなってんの?」

 天望家とは本家望月家の分家にあたる天枢望月家(てんすうもちづきけ)の別称である。

「当主および重臣いずれも行方(ゆくえ)が知れずです」

「う~む……」

 天望家の没落については翼も耳にしている。芸者の仕事をしていると世界情勢の動向は報道より早く耳に届くことが多い。さても、かの名家の没落は帝の玉座とともに天枢国へと移った時に宿命づけられたようなものだ。いくら摂関家(せっかんけ)を後ろ盾に皇位継承権二位の皇子を預かる一族として朝廷と威を競きそおうとも相手は一筋縄ではいかない四天同盟と、その影響力を持つ月影皇子である。事実上、朝廷を牛耳る皇子からすればさぞや邪魔な存在であったろう。

 やはり、その末路は哀れなものだった。天望家は朝廷の命で連合内で起きた反乱鎮圧などにこき使われ、その力を衰退させていったという。

「しかしながら、その遠征には第二皇子の二郎君様も同道しておられたとか」

「うん、それは、おいらも知ってるけどね」

 今上皇帝――明智帝(めいちてい)の第二子たる御門月二郎(みかどづきじろう)こと双月宮殿(ふたつきのみや)。

 彼は帝に目通りを願い、朝廷百官が居並ぶ前で戦(いくさ)へ赴くことを宣言したという。帝の御前で皇子が自ら帝国の安寧を願い、出征を奏上すれば誰も異を唱えることはできなかっただろう。

「双月宮様(ふたつきのみや)の狙いは天望家を滅ぼさないようにするためだね。御門月家直系の者が戦場へ赴くことで皇軍という立場にする。さすがに帝家の者に弓を引くことなどできるはずもないので無駄に血を流すことなく和睦が行える。双月宮殿下にとって天望家の帰趨は自分の立場を守るための生命線とも言えるからね。

 ……ん、てことは、あの禁術に冒されていた女の人が天望家の現当主と考えてもいいのかな?」

「ぴんぽーん。さすがは狭霧の若様です」

 どうも狭霧は時々おかしな受け答えをする。

 それはさておき、皇子様は自分と同じくらいの年齢頃なのに、その明敏さと行動は舌を捲く思いだ。  

 その好感度を噛みしめながら翼は二郎がいつもその懐に大事に閉まっているあの木片の束を思い出していた。木片の一枚一枚には確か人の名前が記されていたはずである。

 さては、その木片を肌身離さず持つことで彼らの無事を願い続けているのだろうか。

「およその見当はついてたけど、裏で筆頭家老の重盛が動いてたとなれば確実だ。このことは、もちろん於吟も承知の上のことなんだろうな。つかぬことを訊くけど狭霧は誰の味方かな?」

「ずばり若様。というより、むしろ若様命でございます」

 即答である。それはそれで湯船につかりながらも体が凍えるのはなぜだろう。

「あぁ、うん……それを聞けて安心したよ。まぁ、引き続き頼むね」

「御意。いかなる汚れ仕事も厭(いと)いませぬ。喩え、この身が汚辱(おじょく)にまみれようとも」

「そこまで無理しなくていいよ。狭霧が頑張ると、だいたいが、ろくな事にならないからね」

 と労(ねぎら)いながらも風呂桶に熱湯を満たす。

「それから何度も言うけど、堂々と、しかも不気味な顔で風呂場を覗くのはやめろ。それから、この前みたいに風呂場を盗撮し、なおかつ、その画像を雑誌社に売り込むのは禁止だからね」

「そんな御無体なっ!」

 なにが御無体だ。浴室の窓はいつのまにか全開になっていた。そこから爛々と血走った目が獲物を狙うが如く鋭い視線を向けている。その顔面に向けて翼は熱湯をぶちまけた。

「熱ぅっ!」と、のたうち回る悲鳴。

されど、それも束の間、なぜか歓喜の声が夜陰に響くのだ。

「寒空に震えるこの下僕(げぼく)のためにっ!」

翼は頭を抱えながら風呂場から退散するしかなかった。


 暗灰色(あんかいしょく)の月を背景にして三百隻以上もの宇宙艦(うつふね)が漂っていた。無数の光がさんざめき、漆黒の闇に瞬(またた)いている。とてつもない光量に掻き消されて星など一つも見えない。それもそのはず、この宙域には天枢国以外にも連合に加盟する国々が戦力を拠出して集結しているのだから。

「じつに壮観(そうかん)ではありますけれど」

 やや不快さを滲(にじ)ませながら通路を進み、艦内にある執務室の前で立ち止まった冴月雪邑(さえづきゆきむら)は長い巻き髪を手で払いながら側近に命じた。

「しばらく一人にしてください」

 白銀色の髪が細氷(さいひょう)のように煌(きら)めき、そこから冷たい空気が流れて将校の頬を掠(かす)めた。

 一瞬、故郷の山が吹き下ろす冷たい風を感じて目を細めた将校は、

「どうぞ、ごゆっくり」と敬礼に微笑を添えて返答した。

 先ほど作戦会議を終えたばかりである。今は規定に定められた休息時間であるが、この女性将校はどんな時も主君の傍近くにいることを心がけている。その忠勤ぶりに心の鬱屈(うっくつ)が少しはやわらぐのを感じながら雪邑(ゆきむら)は、それでも辟易としながら、その室内へと入っていった。

 天枢帥国(てんすうすいこく)、神狼艦隊(しんろうかんたい)、旗艦〈北神(ほくしん)〉。この帝国随一(ずいいち)の戦闘空母(せんとうくうぼ)は雪邑が十二歳で初陣を飾った折に、父、道雪から贈(おく)られた宇宙艦(うつふね)である。それ以来、彼女の御座艦(ござふね)として共に戦場を駆け巡ってきた戦友である。その艦内はいたって実用性を重んじた造りになっており、この執務室もまたその例外ではない。国主の命により国軍を預かる身となって早二年。実質的な成長年齢もまだ十六歳という若さで連合艦隊の司令長官に就任したこの姫将軍がしばしの休息を得るにはあまりに簡素な部屋だと言えるだろう。

 もちろん室内を彩る調度品など一つもなく、ただ大きいだけの机が置かれているだけで、後は通信用の投影装置が壁の一面を占拠しているにすぎない。その簡素な壁にある刀掛かけに愛刀〈雪月牙(せつげつが)〉を据(す)え置くや、金糸に飾られた濃紺の軍服を開襟しながら雪邑は机の上の列盤(れつばん)を操作した。やがて受像画面に一人の少年の姿が現れた。

「いったい、いつまで待たせれば気がすむのじゃ!」

 少年は開口一番に苛立ちを吐き出した。煌びやかな束帯(そくたい)を身につけ、天蓋(てんがい)つきの豪華な椅子に坐している姿を窺(うかが)うに、やんごとない身分であるのは確実だが、それにしても、その傍(そば)近くには、あまりにも人の気配がなさすぎる。恐らく雪邑と同じく人払いをしているのだろう。

 それも当然のことである。今から一国を滅ぼそうという密議がかわされるのだから。

「これは失礼を。会議が長引いたものですみません。それにしても相変わらず、お若い姿に変貌された宮様は双月宮様にそっくりですね。ともかく宮様におかれましては――」

 雪邑は意にも介さず椅子に腰を下ろし、面倒くさそうに軍服の襟(えり)をさらに緩(ゆる)める。

 さても凍てつく大地の如き峻厳(しゅんげん)さと同時に、世の男を悉(ことごと)く虜(とりこ)にするであろう美貌を誇っていようとも、彼女は自身の興味を惹(ひ)くこと以外にはまったく無頓着な性格のようだ。

「まぁ形だけの挨拶などよい。それより少々問題が起きた。黒揺姫(こくようき)の暗殺には失敗したぞ」

「ほう、上弦家(じょうげんけ)の姫君もなかなかやりますね」

「侮(あなど)れぬことは確かじゃの。あれは煌月(かがやづき)の力と連携するとかなり面倒であるからな。できれば排除しておきたかったが、そう上手くいくとは期待しておらぬ。なにしろ余の手駒は禁術の副作用で意識が混濁しておるでな。操るには都合がよいが刺客としての精度にはいささか欠ける。だが、あの女に施した禁術には、揺光のかつての帥都……破軍京、その街とともに封印されている怨霊を目覚めさせる魔力を仕込んである。いかに、国母……月嘆姫が幾重の封印を施していようとも怨霊が覚醒すれば封印の破壊は免れぬであろう」

「その封印の解除は宮様にお任せしますが、されば十五夜家の御曹司のほうは放置しておいてもよろしいので?」

「うむ、厄介さは朔夜のほうが上じゃ。それに今は重盛めに余計な警戒心を抱かせたくない。重盛は下弦家のみならず煌月家の(かがやづきけ)再興も画策しておるが、それは国母、月嘆姫(げったんき)の意に反すること。それでなくとも煌月の小僧にちょっかいを出し、破軍の封印を解くことは諸刃(もろは)の剣(つるぎ)。国が滅ぶ危険を冒してまで、あの小僧の力を蘇(よみがえ)らせるというのは躊躇(ためら)いもあろう。じゃが国主代理の姫がいつ命を狙われてもおかしくない状況となれば正当な血筋にこだわり封印を解く決意をいっそう固めよう。まぁ朝廷からの勅命で枢軸連合の傘下に降るよう命じられれば恐らく覚悟を決めて破軍の封印を解く方向に舵を切るとは確信しておったが、今度こそ揺光を完全に滅ぼす良き機会よ。今のところ〈凰火(おうか)〉の復活に伴(ともな)う仕掛けは順調に働いておるとのこと。すべての封印が解ければ、あの小僧に秘められた力も完全に甦るが、その時こそ再び滅亡の始りじゃ」

「今から相まみえるのが楽しみです」

「ふん、余としては復活(ふっかつ)する前に始末しておきたいのだがな。煌月の力は七天帥家(しちてんすいけ)の中でもずば抜けておる。そのうえ、あの小僧には〈天翼人(あまつばと)〉の血が誰よりも濃く流ておる故、もし今回、生き残ることにでもなれば、あらゆる〈魔掟士〉にとって、それこそ厄介な存在になろうぞ」

「ですが解せませぬ。ならば、どうして先の動乱の折に見逃したりしたのです?」

「それは月嘆姫(げったんき)が封印した破軍京を復活させるために必要だったからだ。本来なら禍根(かこん)となるべき〈凰火(おうか)〉なども破壊しておいて然(しか)るべきじゃが、あの厄介な機体も月嘆姫(げったんき)が封印した。月嘆姫(げったんき)はあらゆる種類の魔法を使いこなす。しかも、その力は強大だ。〈氷襲(ひょうそ)系魔法〉を得意とするそなたでも、あの封印は解除できぬであったろう」

「いま、その封印が解かれ、その他の封印も解除されようとしてるわけですな。しかしながら、〈凰火〉の復活は厄介ではありませぬか?」

「そのために、そなたがおるのではないか。復活した〈凰火〉と天翼丸はそなたに任せる」

「御意。前回は今は亡き鳳熾(たかおき)殿に完膚(かんぷ)なきまでの敗北を喫(きっ)しましたが、今度はそうはまいりません。わざわざ凍結(とうけつ)睡眠の術を自らに施(ほどこ)し、肉体の限界である五年もの長き眠りに就(つ)いて、かの魔王っ子が私の年齢(とし)に追いつくのを待ったのです。今度こそ尋常に勝敗を決してみせまする。

 ですが、もう一つ疑問があります。どうして重盛殿は、あの魔王っ子を復活させる決意を固めたのでしょう? 亡国の危機に貧(ひん)し、窮地に追い込まれての画策でしょうか? まさか、そこに潜む危険性を見抜けなかったと? いえ、この九年間、並(なみ)いる列国(れっこく)を相手に泰然(たいぜん)と外交を成功さてきた重盛殿がその危険性に気づけぬとは思えません。それも承知で、あの〈神機〉を復活させようとしているなら、もしかすると策に填(は)められているのは――」

「その心配はない。この計画には重盛めの予想も超える秘密が隠されておる」

「宮様の慧眼(けいがん)には誰も及びませんか。しかし、これから同盟を結ぼうとする国を討てば連合の信に傷がつき、ましてや同盟(どうめい)調印の使者を討つは内外的にも印象がよろしくないのでは?」

「それこそ杞憂(きゆう)ぞ。揺光は謀反を起こした天望家を庇(かば)い立てし、再び朝廷に弓引く者として誅滅される。その口実をもって進軍すればよい。重盛は揺光に巣くう貴族が始末してくれよう」

「その調略ですが、逆手に取られる危惧はありませんか?」

「そちも意外と心配性だな」

 苛立ちを覚えた。策謀をめぐらせるにあたって慎重にすぎるは当然のこと。驕慢(きょうまん)は命取りになる。雪邑は当初からこの軍事行動には反対の姿勢だった。同盟を確約しておいて騙(だま)し討ちにするなどもってのほかである。戦(いくさ)において大衆の理解を得れない勝利など犬も食わぬというのが彼女の持論だ。四天同盟の決定だから仕方なく従っているが、やはり、この男の言(げん)はすべてにおいて胡散臭(うさんくさ)い。とはいえ、この男は朝廷を牛耳る立場から枢軸連合に多大な影響を及ぼす。連合の中核を担(にな)う天枢、天璇、天璣、天権の四天国に働きかけ今回の軍事行動へと導いたのも、この男の仕業(しわざ)であろう。恐らくは占領後の利権を餌(えさ)に欲深い天璇、天璣あたりの触手を刺激したにちがいない。まったく余計なことをしてくれたものだが、しかし、この二カ国の軍事力は侮れない。その二国が乗り気では我が国も異を唱えるのは難しい。枢軸連合といっても一枚板ではないのである。その意志決定は主に四天同盟に名を連ねる四カ国にて定められ、連合に加盟するほかの国々がそれに追従(ついじゅう)する形で承認されるが、その決定には父に代わり連合の盟主を受け継いだ兄でさえ逆らえない。

 ましてや連合軍の総司令官でしかない雪邑など何をかいわんや。

 ただし、兄、冴月雪都(ゆきさと)は今回の作戦に際し、前もって軍を動かすための条件を提示(ていじ)している。

 一つ、軍事行動の指揮権は天枢国がこれを掌握する。

 二つ、ほかの三帥国は軍事行動には参列せず、その作戦にも口を挟まない。そのかわり天枢国は占領後の利権には一切(いっさい)手を出さない。

 さても、この条件には、さすがに、ほかの三カ国の首脳陣たちも驚いたにちがいない。なにしろ他国の利益を満足させるために天枢国が無駄骨(むだぼね)を折るというのだから気前のいい話である。きっと今の時点では、そこに何らかの政治的な妥協点(だきょうてん)を見つけるしかなかったのだろう。

「だが、そちの申すことも一理じゃ。油断は禁物である。そちも気を引き締めてかかれ」

「その言葉そっくりお返しします。むざむざ弟君に逃げられたことは痛手でありましょうや」

「それも計画のうちじゃ。あやつには密命を与え、揺光に向かわせたのだからな」

「そのために天望家の当主を傀儡(かいらい)に墜とし、走狗(そうく)として送り込んだのですか、なんと哀れな」

「まぁ、とりたてた理由もなく我が弟を害するわけにもいかぬであろう。さりとて、今、この場におられても厄介じゃ。それでは余の思い通りに天望家の残党は操れぬ」

「ですが、いくら年齢(とし)を誤魔化(ごまか)しているとはいえ、さすがに偽物(にせもの)と気づかれるのでは?」

「ふふ、そこは、すでに、すべての将兵が余の操り人形よ」

 ふっと邪悪な笑みを浮かべる男を冷静に見つめながら雪邑は内心で顔を顰(しか)めていた。

〈天魔憑き〉。または〈天魔応身(てんまおうじん)〉の術とも呼ばれる古(いにしえ)の魔法。過去において禁忌(きんき)とされ、時の権力者によって封印された下法である。

 この男は多くの命を生け贄に、その魔法を手中に収めたというが、それもまた侮れぬ力である。いかに北の大陸一の〈魔掟士〉と称される雪邑でも彼の背後に潜む謎の集団と正面からぶつかるのは得策ではない。だが、この先、我が国が覇権を目指(めざ)す上で必ず障害となるは確実のこと。いつか叩(たた)き潰さねばなるまい。

 これからは士族の時代だと雪邑は信じている。武断(ぶだん)による秩序の維持こそが密かに願う我が国の理想なのだ。

 さても〈天魔〉はいくら退治しても切りがない。あれは魔力を源泉に生み出される怨霊である。太陽系の全域に点在している謎の魔法によって〈天翼人(あまつばと)〉の魂を縛り、永遠(とわ)に怨念を転生(てんせい)させ続ける呪いの産物だ。その元凶を取り除かぬかぎり人類に安寧は訪れない。なのに、どの国も〈天翼遺跡(てんよくいせき)〉の攻略には消極的であり、今のところ我が国も同じような立場を踏襲(とうしゅう)している。なぜならば、その攻略には多大な犠牲が余儀(よぎ)なくされるからである。

 その大事業を進めるには強固に統一された国家体制が必要である。力を失った月下帝国にもはやその気概はない。

「では、作戦に変更なしですね」

「うむ、余の合図で天望家の残党を攻撃せよ。だが、あくまで生かさず殺さずだ」

「御意、と、この場は申しておきましょうか」

「相変わらず、強情な姫よな」と、そこで通信は終了した。


 翌日、快晴の空が広がった。今日は自由登校日である。ようやく試験も終わったので、こんな日は本当なら、どこかへ遊びに行きたいのが山々だが、しかし、自由研究の提出期限)が明日にと迫っており、その作業も今日で仕上げとあっては登校しないわけにもいかず、かくして、二郎と一緒に学校までやってきた翼であるが、さすがに今日くらいは晦日(つごもり)教官に面会しておくべきだと思い、昼休みに狙いを定めて教官室へ立ちよることにした。

 ――さても、あの尋常ならざるおかまの思惑が気になるにしても、さればこそ、その真意を探るには、それこそまめに状況報告くらいしておくべきだったと今更(いまさら)の後悔もなきにしもあらず、雲一つない青空のもと紅玉(こうぎょく)の甍(いらか)を輝かせる天守閣を見上げては、なぜか晴れやらぬ心につい溜息がこぼれてしまう昼下がりである。

 今日はせっかくのお天気なので、本丸の西に広がる翔空路(しょうくうろ)を散策がてら本校舎へ向かうことにした。

 いくつもある整備庫の前は今日も大勢の生徒で溢(あふ)れかえっていた。

 さても機体の調整に余念(よねん)がない技士生や、魔神召還をくり返し、肩慣らしをする翼士生たち。

 これから〈天魔〉の駆除に向かうのだろう。担当している城外区の情報を黒板に記し、そこに生息する〈天魔〉の種類を説明している掃撃隊の隊長らしき生徒の声には緊張が漲(みなぎ)っていた。

 また、その向こうには天翼資格の授与式(じゅよしき)を終えたばかりの生徒だろうか、普段はあまり身につけない紋つき羽織(はおり)の正装で晴れ晴れと下賜(かし)されたばかりの〈神機〉を見上げる一団がある。

 そこに屹立する〈神機〉は、まだ若武者の如く頼りなげだが、どの機体も燦然と輝いていた。

 翼には今回の待機命は関係ない。もちろん課外任務にも参加していないので何の役目も帯びておらず、市中警護などの仕事を追加され、校内での宿泊まで余儀なくされる生徒たちには悪いが随分と自由な御身分である。なので、そのような溌剌(はつらつ)とした場面に出くわすと、どうにも居心地が悪い。今日もなんだかんだと、二郎と一緒に昼近くまで二度寝を貪(むさぼ)ってしまった。

 とはいえ晦日(つごもり)教官を捕まえるには昼休みの閑散とした教官室へ行くのが手っ取り早く、そこに多少の言い訳を見い出せないわけでもないので、じつは、さほどの罪悪感は抱いていない。

 その時間帯はほとんどの教官が出払(ではら)っているので、こそこそと肌の手入れをするにはもってこいなのだろう。やはり、そんな当たりをつけて訪ねてみると――

「ほぅ、凛とした後ろ姿が、なんとも魅力的な女性でおじゃるな。ここは麻呂も挨拶を」

 予想したとおり、がらんとした室内には、お目当ての人物しかいなかった。

「だめだめ、絶対だめ。教官室には用のある人以外は入っちゃいけない規則なんだからね」

 なにしろ、このまま行かせては、きっと受ける衝撃も半端ではない。そんな思いをするくらいなら後ろ姿で満足させておいたほうが、よほど幸せだと本気で案じた翼は昼休みで人気(ひとけ)のない廊下に寂寥感(せきりょうかん)たっぷりの二郎だけを残し、覚悟も新たに教官室へと足を踏み入れるのだった。

 ただし目を伏せて近づくのは直視による心の負担を避けるためである。

「あら、翼君じゃない。お久しぶりねっ!」

「おはようございます先生。相変わらず、その野太いお姉口調も健在でなによりです」

「あんた喧嘩売ってんの? こら、挨拶はちゃんと人の目を見てしなさい。失礼だわよ!」

「そこは遠慮させてもらいます。先生の美貌は思春期のおいらにとっては目の毒ですから」

「くっ、……口の減らない糞ガキが……で、何の用なの?」

「じつは自由研究の課題のほうが、すでに佳境を迎えておりまして」

「――はぁ、佳境?」先生は本気で何を言ってるのか分からない様子である。

「だから例の〈神機〉です。今日、修復が完了します。つきましては今後の指示を仰ぎたく」

 すると先生は、なぜか椅子から転げ落ちそうになるのだった。

「なんてことよ! 月影皇子の魂胆さえ読めればいいと思っていたのに、まじ復活させちゃうなんて。あれは怨霊を抑える第一の封印なのよ……このままじゃ本当に恐ろしい災いがっ!」

「あのぅ、なにをブツブツ言ってんですか?」

「ううん、べつに気にしないで。でも春よねぇ。もしかして陽気に浮かれて冗談を?」

「おいらに冗談こいてる余裕あると思います? あれは進級のかかった死活問題なんですよ」

「いやーん。それもあったのよね。この子の根性を舐(な)めてたわ。そうそう、先生、今日は、これから多忙を極めると思うの。そうだわ、こんな時こそ、あの生徒会顧問をこき使わないと!」

「まさか、その生徒会顧問というのは朔夜様のことですか?」

「そうよ。そんな変な肩書きの人、この学校には彼女しかいないでしょ」

 というわけで、なんとなくの無駄足感を味わいながら教官室を後にするしかなかった。


その直後、天守閣の三十二層目にある防衛本部に血相を変えて駆け込む宵越の(しょうえつ)姿があった。

「聴いてちょうだい。我らの若様がやっちゃったわ。あの伝説の〈神機〉が蘇っちゃう!」

「ひえぇっ!」

その一声に指令室は歓喜に包まれるかと思いきや凄まじい絶叫に苛(さいな)まれた。

「さすがは若様ですな。まさに月下一の厄介者でござるな。やれやれ拙者は忙しいので……」

 事務官の一人はそそくさと目の前の書類を片付けようと机に向き直る。

「ちょっと、なによ。その自分は無関係みたいな態度は!」

「だから反対したじゃないですか。悪質な教官をわざと放置して若様を追い詰めるなんて!」

「なによ今さら、あたしは重盛様の指示に従っただけじゃない!」

「ここは、すぐにも御家老様に報告を」

 防衛本部の総意はすぐにも決定した。まもなく司令室の前面にある投影装置に、その重盛の姿が映しだされた。画面上に現れた重盛の背後には物々しい艦橋内の情景が広がっている。

 そこに立つ重盛も朱色の軍服に緋縅(ひおどし)の鎧兜(よろいかぶと)。十五夜家の家紋である〈叢雲月(むらくもづき)〉を散らした陣羽織(じんばおり)に軍扇(ぐんせん)を握りしめ、じつに勇壮な戦装束(いくさしょうぞく)に身を包んでいた。

「報告を訊くまでもなく、貴公らの顔を見れば何が起きたか想像がつくな。皆には黙っていてすまなかったが、じつは月嘆姫(げつたんき)様が施した、あの強力な結界が解除され、殿下が〈凰火〉に接した時点ですでに破軍の封印に亀裂(きれつ)が入る仕組みになっていたのだ。つまり、これは最初から逃れられぬ試練だったのだ。これよりは生きるか死ぬかの戦となろう。このような事態を招いて慚愧(ざんき)の念に耐えぬが、どうか、この重盛とともに命捨てる覚悟で臨んでいただきたい」

「まさか閣下はこうなることを予測しておたれたのですか?」

「そうじゃ。だからこそ事後を、そちに託したのではないか。余に代わり立派に職責を果たせ」

「はっ、しかと承(うけたまわ)りましてございます。ですが閣下も、どうかご無事で――」

「うむ、その、ほうらもな」

 世界にその辣腕(らつわん)ぶりを示し、揺光一の弓取(ゆみとり)とも謳われた名宰相は少し寂しげに微笑み、ここにいる全員に別れを告げるかのように、やがて投影装置の中から姿を消した。


 翼が課題に取り組む整備工場の近くには以前からそれは見事な竹藪(たけやぶ)があった。

 長きに渡る氷襲(ひょうそ)系の結界にも耐えぬいた孟宗竹(もうそうちく)の群生(ぐんせい)は急激な環境変化にも適応し、その勢力範囲を今なお拡大しつつあるかに見える。――それは、まぁ、いい。

 ただ、ある時期から、その版図を脅(おびや)かすように満開の桜が増えだしたのには目を疑った。

 まさか勝手に増えているのではあるまいな。

 いや、そんなはずあるまい。気のせいだ。何度そう思ったことだろう。ところが、今、目の前にあるこの光景を見れば、その怖(おそ)れていたことが的中していたと確信せざるをえなかった。

「どう見ても昨日より増えてるしっ!」

「しかも、いきなりの満開でおじゃるな」

「なにを暢気な! いったい何がどうなったら、こんな、おめでたいことが起きるんだ。人の手も借りずに勝手に根づいて増えていく桜だなんて……」

「ちょっと前から少しずつ増えていたでおじゃるよ」

「見て見ぬふりをしてたんだよ! あぁ、もう、えらい騒ぎにもなってるしっ!」

 おかげで今まで誰も近づかなかった研究区の片隅(かたすみ)が大勢の花見客で賑わっていた。

「全国的な桜の開花予定はまだ二週間以上も先だよ。まさか、おいらのせいじゃないよね」

「そう言い切れるでおじゃるか?」

 その問いかけが不安にじっとりと絡(から)みつく。

 だが、どんな言い訳を模索しようとも、この異常がほかならぬ自由研究課題に取りかかり始めた頃から顕著になりだしたのは疑いようもないことで、それだけに動揺も禁じ得ない。

「さても満開の状態がずっと続いて、まるで散る気配もない奇跡の桜と大騒ぎでおじゃるぞ。とはいえ、皆、楽しそうでおじゃるなぁ」

 よく晴れた午後の昼下がり。あちこちに敷かれたござの上には美味(うま)そうな花見弁当が並んでいる。先ほど食堂で、かなり遅めの昼飯(ひるめし)をすませたばかりなのに早くも腹が鳴りそうだ。だが、今はこんな珍事に関わってる暇はない。

「まったく暢気なもんだ」と背を向け、その現実から逃げるように翼は工場の壁と向きあった。前髪を指で掬(すく)い、眼鏡を外す。その瞳が緋色に輝き、魔力が拡散するや壁に埋め込まれた煉瓦(れんが)の数々に変化が起き始める。やがて異質な隔壁(かくへき)が出現し、その壁面に刻印された魔法陣が燃え上がると、突如、そこに入り口の穴が開くのだった。

 それを潜り抜けると外とはまるで異なる炎の世界が立ちはだかる。それは〈神機〉が工場内で発生させている膨大な熱量を利用した結界であり、摂氏二千度を超える絶対不可侵の空間だ。

 されど翼には、その術式を操る魔力が備わっている。その足を一歩踏み出すごとに炎が消え、魔法の空白地が生みだされていくのだ。その安全地帯を翼の背後から二郎もついてくる。

 ただし、以前のここには、それこそ真逆の結界が発動しており、それが侵入しようとする者を悉(ことごと)く阻んできたのである。しかも、それどころか、工場へ近づくことすら容易ではなかった。

 初めてここへきた時は晦日(つごもり)先生も同行してくれたが、工場の周囲はいつ終わるとも知れない猛吹雪(もうふぶき)に閉ざされ、その建物がどこにあるのかも定かではなかった。

『先生、やっぱり引き返しましょうよ。死んでは元も子もありませんよ』

『大丈夫よ。こんなの君の魔法にかかれば幻想以外の何ものでも……あぁ、超ぉ寒ぃっ!』

 あの時は本当に死ぬかと思った。だから、ほとんど焼糞(やけくそ)で魔法を発動したのである。すると、どうしたことか、たちまち周囲を支配していた魔力が消滅し、結界が一瞬で変化したのである。

そんな事を思い出しながら翼は二郎にも聞こえるような声で呟(つぶや)いた。

「術式を少し書き換えちゃったのは、さすがにまずかったかなぁ?」

「〈氷襲系〉の結界を〈奏焔系(そうえんけい)〉の結界に書き換えるのを少しとは言わないでおじゃる」

「でも作業をするには環境って大事じゃん。だって、そうでもしないと灼熱地獄と化してたよ」

 といっても、その状態であれ翼なら何の問題もなかったはずだ。ただ、それを実現するには作業中もずっと魔法を発動し続け、工場内の熱量を調整するのに気を遣(つか)わなければならなかったし、〈奏焔系〉が引き起こす魔法を同じ系統の〈火鳥封月〉で相殺(そうさい)するのは意外と骨の折れる作業だったのである。なので内部で発生する熱が自動的に排出される仕組みがあれば便利だなぁと思ってしまったのだ。

 その仕組(しくみ)を造るのに翼はあらかじめ設定されていた術式を応用した。誰が何のためにそんな仕組みを作り上げていたのかは今をもって謎ではあるが、さても、そのせいで今は真逆の効果が働き、周囲に異常な事態を発生させているものと思われる。

「でも、それは不可抗力というものだよ。たまたま書き換え易い術式だったしさ」

「そりゃまた君のためにすべてが用意されていたとも取れる、そんな言い種でおじゃるな」

「また、そんな埒(らち)もない憶測を――」

 と否定するも、これまでの経緯(いきさつ)を思い返せば、さもありな部分もあるような気もする。

「それより、おいらの傍(そば)から離れないでよ。結界を超えるまでの辛抱だから」

 と翼は自分の横に二郎を引きよせた。その周囲には、ゆらめく魔法の反応光が漂っている。

「つまり、あの〈神機〉を安全に保管するには、強力な氷襲系の魔法が必要だったってことでおじゃるよ。そして修復する際は、その術式が役に立ち、現在は別の力で安全が保(たも)たれている」

 またもや勝手な憶測を口にしながら二郎が指をさす先には轟々(ごうごう)と炎を吹き上げる巨人が屹立している。深紅に輝く鎧装甲(がいそうこう)と、そして巨大な天翼(てんよく)。そのすべてが炎に包まれている。

「ま、すべての部品が奏焔系で構築されてる時点で確かに世界一厄介(やっかい)な機体だとは思うけど」

「生憎と、貴殿の魔法は炎を操り(あやつ)具現化(ぐげんか)する性質。あらゆる魔法を燃やせる魔法も炎そのものは燃やせない。ただ、その魔焔(ほのお)の質を変えるのみ。だからこそ活(い)かせる膨大な熱量を制御することで起動する〈神機〉と考えると、やはり、あれは翼殿にしか扱えない機体でおじゃろう」

 翼もそれは確信している。あんな〈神機〉を魔装(まそう)すれば余人は寸刻足らずで丸焦げだ。

「まぁ、確かに、おいらなら平気だと思う。だからこそ、あれは、ほかの誰にも操れない。だから問題なんだよ。あのままじゃ危険すぎて誰も近よれないし、課題の審査に提出するのも不可能だよ。だから、おいらの魔力を術式化し、機体に固定化させる作業も必要だったんだけどね。まぁ、あちこち痛んでたし、肝心の主力機関がすべて外されていたから大変だったけどさ」

「でも大したものでおじゃる。後は、仕上げに起動術式を魔法導入して覚醒させれば――」

「機体と同調する亜空間内の〈操魔刀(そうまとう)〉に膨大な魔力を封じ、再稼働できると思うんだけど」

 でも、やはり不安である。そうこうしてるうちに結界内を通過した。もはや先ほどまで荒れ狂っていた熱波は感じない。そこに見えるのは、ただの工場内の風景と、深紅に輝く、ただそれだけの機体である。

 本来、生まれている熱量は翼が再度構築した結界がすべて吸収し、そこに固定した魔法陣が現実の在り方を歪(ゆが)めているので、このような不可思議が発生しているのだ。

 そう、ここは翼の魔法が支配している世界なのである。

 やがて整備架台の制御装置に〈魔掟書〉を結合し終えた翼は、どこか照れくさそうに言葉を紡ぎだした。――ここは旧い工場なので整備架台が一機しかなく、無駄に広い建屋内(たてやない)は些細(ささい)な声でも周囲に響くような気がしてならなかった。

「あのさ、ありがとう、って言っておくよ」

 これまで理不尽な差別に孤立し、そのあげく焼糞(やけくそ)ともいえる課題に活路を求めるようになった翼である。それだけに、先ほど翔空路で見かけた生徒たちの姿を今日は冷静に観察できたのがじつは嬉しかったのだ。士官生になって二年あまり、これといった友人もできず、同じ組の仲間からは無視され、陰では呪われるとか散々なことも言われ、さらには怪奇崎(かいきざき)という無礼な渾名(あだな)で馬鹿にされ、そんな仕打ちに耐えてきた心は、いくら魔法の修行や研究に没頭したところで癒されるものではない。いつもなら、あんな溌剌(はつらつ)とした場面に出くわすと心がささくれだったものである。それが毎日の孤独(こどく)に耐えてきた惨(みじ)めな姿なのである。

 でも、今日はそんな嫉妬(しっと)とは無縁(むえん)でいられたのもありがたく、その嬉しさが、つい素直(すなお)に口から洩れてしまったのだ。

「なんだか君といると心が軽くなってさ、どこか懐(なつ)かしい感じもするんだよね」

 今日も二郎は翼と同じ髪型をしている。背丈もほとんど変わらず、同じく一般生徒用の制服を身に着けているので、眼鏡をかけているか否かの差でしか判別がつかない。

「べつに恰好まで同じにして、つき合ってくれなくてもよかったんだけどね」

 翼に向けられる差別の目はもちろん二郎も承知していることである。そして同じような恰好をすれば、二郎もまた同じような扱いを受けかねない事も承知の上のことだろう。

「いや、これは、正体を隠したいだけの方便(ほうべん)でおじゃるからして……」

 それなら、ほかにもやりようはあるだろう。

「わざわざ同じ恰好をして好奇の目に晒(さら)す必要もないじゃん。やっぱり二郎は優しいね」

「むぅ、君こそ相変わらずでおじゃるな。ちっとも変わらないでおじゃるよ」

「えっ、どういう意味? 君とは二週間前に出会ったばかりだけど」

「いや、深い意味はないでおじゃる。ただ翼殿とは初めて会った気がしないだけでおじゃる」

 と相好(そうごう)を崩す二郎はどこか寂しげで、それを感じる翼もなぜか目の前がぼやけるほど切なくて、どうして胸がしめつけられるのかも分からず、それが逆に希望にも似た勇気に変じていくのも不思議なことながら、そのおかげか、ようやく覚悟が定まった。

 本当は迷っていたのである。あの〈神機〉を甦(よみがえ)らせてよいのかと。今、起きようとしている事態が、どれほどのものかは分からない。自分に何ができるのかも分からない。でも喩(たと)え、そこにどんな試練が待ち受けようとも乗り越えるしかないんだと、そんな決意も新たに翼は深紅の機体を見上げるのだった。

「じゃ、さっそく作業にかかるとしようか」

 さても晦日(つごもり)教官が用意してくれた研究用資金はそれはもう猫の額(ひたい)と言うのもおこがましいほどの雀(すずめ)の涙で、そのほとんどが小遣いに消えてしまったけど、ここにはなぜか緻密な設計図や探せば探すほど発掘できる稀少(きしょう)な部品が用意されていて素材の確保にはあまり苦労しなかった。

 おかげで見事に修復された機体は透き通る深紅の鎧装甲(がいそうこう)に包まれて燦然(さんぜん)と輝いている。

 やがて翼は目を閉じ、意識を集中させた。たちまち周囲に光が充満し、工場内に配置している魔法陣が輝きだす。その構築した魔法世界の中心に立ち、翼は朗々(ろうろう)と呪文を詠唱する。

「目覚めよ、皇国の守護者。我が意に従い、敵を貫く剣(つるぎ)となれ――……」

 やがて光が渦を巻き、広汎する魔法陣と融合するや機体に術式が刻まれ、魔法機関が一つずつ覚醒していくような重い駆動音(くどうおん)が工場内に広がっていった。手応(てごた)えは充分である。

「ところで、あの〈神機〉でおじゃるが、まず最初の駆動試験はどうするでおじゃるか?」

 さらに小一時間ほどが経過し、魔法導入も一段落ついたところで二郎が口にした。

「うーん、審査過程で誰かにやってもらえると助かるけど、やっぱ、それが一番の問題だよね」

 翼は〈天翼士〉ではない。なので勝手に〈神機〉を稼働させれば問題になる可能性がある。

 さて、どうしたものか。ここはまた晦日教官に相談するしかないかと、そんなことを考えながら廃材が散らばる壁際へ歩みよった。そこには廃材を利用して造った茶箪笥(ちゃだんす)が置いてある。

 中には古道具屋で買った急須(きゅうす)などが入っている。中古の茶卓(ちゃたく)や座布団(ざぶとん)に、電気焜炉(こんろ)や小型の冷蔵庫も購入した。修復にはてこずたったが、今は水道や電気も通っているので無許可ではあるが、ちょっとした工事(こうじ)もさせてもらった。

「ま、ここは一休みして考えよう。今日のお八(や)つは栗入りの羊羹(ようかん)だよ」

「ほぉ、それは楽しみでおじゃるな」

「じゃ、さっそく用意しよう」

 と湯呑みや皿を取りに行こうとした、その時である。

 パチパチと手を叩く音がして思わず目を瞠った。

 いったい、いつからそこにいたのだろう?

「なんと人が倒れているでおじゃる」

 まさに、そのとおりである。

 長い黒髪をばさっと広げ、不気味な姿勢で手を叩きながら少女が床に倒れていた。

「見事な魔法導入であったぞ。ちなみに羊羹はわらわも好物での」

 おまけに、あつかましいことをほざいている。ここは二郎と飽きるまで事態の異常性を検証したいところだが、そうもしていられない様子なので慌てて彼女のもとへと駆けよった。

 さても、その夜闇に桜を散らす漆黒の特注制服には見覚えがある。

「いったい、どうして、こんな所で行き倒れになってんだ!」

「無礼者! わらわは行き倒れではないぞ。だが、今はそうは言うても、ともかく水が所望じゃ。凄まじく熱くるしい結界を超えてきたばかりでの、精も根も尽きはててトホホな惨状じゃ」

 なんと彼女はあの結界を超えてきたと言うのだ。俄には信じられない事態である。

 そこで二郎と協力して彼女を運び、古道具屋で買った畳の上に寝かせた。そして改めて驚きを噛みしめる。腰まである髪が一面に広がり宇宙を形成する。その銀河の中心から星を敷きつめたような瞳が虚ろに天井を見上げていた。その唇から呼気を整えるように言葉が紡がれた。

「驚かせてすまんの。魔法導入の途中で声をかける訳にもいかず片隅から拝見させてもらった。しかし無理が祟ってのぅ。して、そのほうらの、どちらが火選崎殿じゃ? 同じような姿で皆目、見当もつかぬぞ。あ、そうそう、自己紹介がまだであったの。わらわは上弦朔夜と申す」



それより二時間ほど前のことである。

 本日の生徒会顧問室は珍しく賑やかだった。というのも枢軸連合への加盟にともなう様々な対応に追われるなか、生徒会長がそろって不在のため防衛省への提出書類もこのところ滞り気味で、ついには、それらの決済が顧問であるところの朔夜にも回されることになり、それ故、今日に限っては目の回るような忙しさだったからである。

しかも、ここ数日は市内警護の人員配置も忙しく、ようやく、それが落ち着いた頃になって防衛省から市街演習を実施する旨(むね)の命令書まで届き、その疲労のせいか、いつもより精彩(せいさい)を欠いた様子の朔夜はほんの寸刻ではあるが、つい、ぼんやりとしてしまっていた。あまりにも気が抜けていたので書類を持ってきた役員の手にまちがって判子(はんこ)を突いても気づかなかったほどである。わざわざ生徒会室から机を運び、ここに対策本部を設(もう)けて仕事の効率を図ろうと躍起になっているのに部屋の主がこれでは、せっかくの勤労意欲も陸(おか)に打ち上げられた難破船よろしく風化の一途を辿るばかりであった。

「あら、お姫ったら、具合でも悪いのかしら? ふふ、もしかして恋煩(こいわずら)いだったりして」

「それって、もしかして例の雑誌の? でも、お姫って鳳熾(たかおき)様一筋じゃなかったかしら?」

 口さがない女子生徒らは朔夜の私生活にも興味津々(しんしん)といった有様で、さっきから仕事の手も止まり、ひそひそ話にも余念がない。幸い、片付けるべく案件はもう残り少ないが、さりとて、このような調子では、いつ仕事が終わるか知れたものではない。

「でも、さっきから鳳熾様の肖像画をボヘーっと眺めてらっしゃるわよ」

 そのとおりである。すべき仕事はこなしているが、時々どうにもならない虚脱感(きょだつかん)に襲われ、このところ朔夜は気が抜けると無意識のうちに、その目が肖像画へと向いてしまうのだった。

 さても、日課としていた夜回りも退院後はずっとさぼっている。巷(ちまた)を騒がせている鳳熾(たかおき)様の怨霊の噂も耳にしていたが、その真偽(しんぎ)を確かめに行く勇気も湧(わ)いてこなかった。そんな懊悩(おうのう)を噛みしめながら右手を見つめた。

 今も体が健(すこ)やかでいられるのは、あの者のおかげであろう。あの者の処置がなければ落命(らくめい)していた可能性もあった詞村(のりとむら)も言っていたが、さりとて、あの魔法こそは、我が、かつて知ったる〈火鳥封月〉の術としか思えない。

 そう、この右手には、未だ、あの者に触れられた時の感触が生々しく残っているのだ。

 と、そんな風に鬱々(うつうつ)としていると、またもや騒々しいことに役員の一人が部屋の中へと駆け込んできた。役員は敬礼もそこそこに報告の内容を口にする。

「先ほど技士科長代理(だいり)の十五夜鏡花殿が例の工場に対し、執行令を発動する宣言をしました。この忙しい時に花見にうつつをぬかす生徒がいるそうで……あれ、どうかなされましたか?」

「むっ、あの例の工場とな。ふむ、なぜ今まで、そのことを失念していたのであろうか?」

「はぁ、何かご懸念でもおありで?」

「むっ、それはだな。あの危険な結界が消えたはよいが、今や真逆の環境が誕生しているのであろう。つまり環境を急変させる何かが工場内には隠されているということではないのか?」

「まぁ、そりゃそうでしょうね。あっ、それに関する報告書を、お持ちしたのですが――」

「な、な、何じゃと!」

 慌てて朔夜は書類をむしり取った。しかし、そこには〈火選崎翼・極秘文章〉と銘打(めいうた)れていただけである。それでも速読術を用いて目を通してみた。たちまち顔色が急変する。しかも時宜(じぎ)よく魔掟通信の(まじょうつうしん)着信音が頭の中で鳴り響いた。通話を呼びかけてきた相手は晦日少佐だった。

 やがて、しばらく意識のみで会話をしていた朔夜であるが、やおら椅子から立ち上がるや、「後はまかせたぞ!」と言い残し、あっという間に部屋から飛び出してしまうのだった。


さても現場は騒然(そうぜん)としていた。生徒会役員と一般生徒が桜満開の下で追いかけっこをしている様はなんとも名状しがたいものがあるが、やはり、それより以前の状況を思い返すと、このような騒動はとても考えられるものではなかった。まさに、これぞ昨今稀に見る珍事であろう。

「おい、そっちへ逃げたぞ、追いかけろ!」

「なんだよ、俺たちは非番中に花見をしていただけじゃないか!」

 早急に用事を済ませて現場に到着してみると、そんな遣(や)り取りが、そこかしこで起きていた。

 それにしても、いつの間にこんなことになっていたのか。ここまで見事な桜の園に変貌(へんぼう)しているとは思わなかった。淡紅(たんこう)の花屏風(はなびょうぶ)が鬱蒼(うっそう)と繁る竹藪(たけやぶ)と相まって得も言われぬ美しさである。

「あ、これは姫様、お疲れさまです」と役員の一人が朔夜に気づいて敬礼した。

「いやはや、ご苦労なことじゃの」

やや気の毒そうに朔夜も声をかけ、それから踵(きびす)を返し、例の工場へと向かう。その周囲にけたたましい音が鳴り響いていた。そこにも役員の一団がいる。

 確認するまでもなく、あの十五夜鏡花が率いる技士科生徒会の面々である。

 その鏡花が、朔夜の姿を認めて騒音の元凶を一旦(いったん)止めるよう指示を出す。

「はて、このような所に姫様が何用でございますか?」

 いささか不遜(ふそん)ともとれる詰問(きつもん)に気を悪くすることもなく、朔夜はただ鷹揚(おうよう)に忠告を口にした。

「ここは危険だぞ。おぬしらの手には余ると思い、様子を見にきたのじゃが」

「お気遣(きづか)いは無用です。技士生の問題は技士科長代理たる私に一任されております」

「なら、その手並み、拝見といたそうか――」

 と答えるも、それは再びの騒音に掻(か)き消された。不思議なことに、工場の外壁にはどこを見渡しても入り口らしきものが見当たらない。それ故(ゆえ)だろう。侵入を果たすのに手こずった技士科生徒会は〈魔法に対する魔法による解決策〉を早々に諦(あきら)めて強硬手段に訴えることにしたようだ。

 工事現場でよく見かける掘削機が再び唸(うな)りを上げ始めた。

「さても〈魔掟士〉ともあろう者が無粋な真似をするものよ」

 やがて掘削機の音が鳴りやみ、続いて煉瓦の崩れる音がした。周囲に異変が生じたのは、その時である。壁に開いた穴に向けて勢いよく空気が流れ込んでいくのだ。朔夜は瞬時に魔法を召還した。その掌(てのひら)に生じた黒い球体を回転させながら壁に開い穴を塞(ふさ)ぎにかかる。と同時に爆音を轟(とどろ)かせて炎が吹き出した。かろうじて間にあった漆黒の重力球が、それらの炎を吸いよせて爆風もろとも上空へと威力を分散させる。それは、まさに天を衝(つ)くような火柱であった。

「だから危険じゃと言うたであろうが! このような強力な魔法に何の手立てもなく挑むなど自殺行為じゃぞ。それにしても、これでは、まるで火炎地獄のようではないか――」

「くっ、火選崎め、いったい何をしでかしたというの。このままでは、すませませんわよ」

 と唇を噛みしめる鏡花だが、一介の技士生でしかない彼女にはどうすることもできない。

 不穏な呟きが耳を掠(かす)めたが、聞こえなかったふりをし、

「皆の者、少し離れて待機しておれ」と言い置いて朔夜は瞬間着替え術を発動した。

 漆黒の特注制服が銀色の物々しい衣服に包まれていく。

 やがて頭の先から足の先までが物々しい魔術装甲に覆われた。

「もしやと思い、用意しておいてよかった」と呟く。

 それは航宙科から借りてきた、あらゆる環境に耐えられる特殊な宇宙服である。航宙士はこういった物々しい宇宙服を着用して宇宙空間で作業をすることがある。

「じゃが、これだけでは、この業火にいつまで耐えられるか分からんな……」

 そんな独白を残して結界内への侵入を果たした。

 入る間際(まぎわ)に術を再発動し、崩れた瓦礫に重力を纏(まと)わせた。重力で固定し、一時的に壁を修復したのである。朔夜の血に宿る〈哭玄奏曲〉(こくげんそうきょく)は重力という森羅万象を自在に操ることができる。

 ただし、さすがに今回のような危険極まりない環境の中では、その自慢の能力もどれほど役に立つかは定かではなかった。朔夜は自分の周囲に強力な重力場を形成し、それを結界となさしめ、その相殺力をもって炎から身を守りながら進んでいくしかなかった。

 それは時に表すと寸刻にも満たない試練であったが、魔力を悉(ことごと)く消耗するには充分すぎる過酷な挑戦だった。

 はたして後少し結界を抜けるのが遅ければ、まちがいなく命を失っていただろう。結界を抜け出した時には魔力も消耗しきっており、再び瞬間着替え術を発動するのが精一杯だった。しかも立て続けに目を疑うような光景にも遭遇した。意識が朦朧とする中で見たものは深紅の鎧装甲(がいそうこう)でその身を飾る美しい〈神機〉が魔力を宿しつつある、そんな場面だった。なので混乱する頭を冷静にしようと朔夜は件の報告書を頭の中で反芻(はんすう)してみるのだった。

 さても中等部技士科の三年生が九年前の動乱以降始まって以来の偉業(いぎょう)に取り組んでいるという。その下町に住む少年は女形芸者(おやまげいしゃ)という一風(いっぷう)変わった仕事を生業(なりわい)としており、過去に母の入院費を稼(かせ)ぐため本来の魔力検定を売り渡したという経歴の持ち主だった。

 はたして、なにやら、どこぞで聞いた話かと思いきや、あの性悪医師(いし)の顔が思いだされ、朔夜は苦虫を噛み潰(つぶ)したものである。

 ただし、少年の素性については、それ以上の明確な説明が避けられており、いくら読んでもそれ以外のことは謎である。それでも、そこに潜む異常さは、その内容以前に明らかであろう。

 およそ一般の生徒に、そのような機密文章が作成されることなどありえない。それが示唆(しさ)するものとはいったい如何(いか)なるものなのか――もし、それが望むべく真実なら、それに勝る慶事(けいじ)もあるまいが、生憎と、そのような夢物語を鵜呑(うの)みにするほど、おめでたい性格ではない。

 されど目の前にある現実までは否定しきれなかった。咽がカラカラに渇(かわ)いていた。

 そうでなければ叫んでいただろう。思わず賞賛の拍手を送ってしまったのは、その捌(は)け口をほかに求めた結果にすぎない。なにしろ、これが興奮せずにいられるものか。なにしろ、あの〈凰火零式〉が甦っているのだ。

 だが残念なことに、そこまで盛り上がった昂揚感(こうようかん)も一気に萎(しぼ)み、落胆(らくたん)の色に変じてしまう。なにしろ、そこにいた者たちの奇天烈(きてれつ)な姿といったらなかった。


 今の気分を正直に言い表すと――こりゃまいったな。である。

「えっと、おいらが火選崎ですが……」と答えると彼女は頷き、それから整備架台のほうへ視線を向けた。やがて、その表情に感嘆の色が浮かぶのを目の端に捉えつつ、その余波を受けるように翼も深紅の機体を見上げてみた。

 その全体的な形状は流麗の一言である。ただし頭部を覆う兜(かぶと)の天衝(てんつき)は不死鳥を象(かたど)った勇壮なもので、そこに収まる秀麗さとは不釣り合いながらも祈りを捧げる乙女のような静謐さをもって世界を睥睨(へいげい)している。その神秘に輝く瞳には碧玉(へきぎょく)を加工した水晶玉が用いられ、絢爛(けんらん)たる鎧装甲(がいそうこう)には金色の火柱を上げる不死鳥の図柄と〈凰火零式〉の文字が記されている。その見事な仕上がりは接合部も見えぬ緻密(ちみつ)さと相(あい)まって、もはや兵器と言うより神殿に屹立(きつりつ)する女神像のような荘厳さを漂わせている。

 その美の総決算が今や無数の術式と融合しながら燦然(さんぜん)と輝いているのだから、思わず見とれてしまうのも無理はない。

「むぅぅ、なんという美しさじゃ。まるで、わらわのようじゃな」

「――はい?」

 とはいえ、すべての魔法導入が終るまでには、まだしばらく時間がかかるだろう。

「いや、何でもない。それにしても見事な魔法導入であったぞ、火選崎殿。して用件じゃがの。そのほうに訊ねたいことがあって参った。過ぎること一週間ほど前のことじゃが、そちは、どこで何をしていた。その日、そなたと、わらわは下町の国立病院の中で出会わなかったか?正直に答えよ。そなたも、この学校の生徒ならば、わらわのことはよく知っていよう」

 いかにも黒揺姫(こくようき)――朔夜、の名を知らぬ者など、この国にはいないだろう。ましてや士官生なら尚更である。ただでさえ彼女に期(き)する希望を胸に秘(ひ)め、この学校への入学を果たした生徒は多いのだ。特に庶民や下級士族に属する者はそのはずである。


 翼もまたその例外ではなかった。


 それは母が入院してしばらくしてのことだった。

 その頃には芸者の仕事にも慣れてきて、なんとか一人で座敷もこなせるようになっていた。そんなある日、とある料亭で催(もよお)される酒宴(しゅえん)に招かれ、政府高官の相手をすることになり、その席で応対した若い士族との会話が、その後の人生を左右することにもなるのだが、その一件には、この姫様も大いに関わっていた。

「さても、この冬に帰国された朔夜様が来春にも士官学校に転入されることになってな」

「はて、朔夜様と申されますと、あの上弦家の姫様のことですか?」

「そうじゃ、四天同盟の一つ天璇帥国(てんせんすいこく)に人質として送られてから早、五年。他国で逆賊の誹(そし)りを受けながら筆舌に尽し難い苦労をなされたと聞き及んでいる。そこで、このたび姫様の帰国を祝い、ささやかな祝賀行事が催されることになってな。その式典では士官生らによる〈神機〉の御前試合が行われる予定なのだが、その手合わせには姫様も参戦されたいとの仰せでの」

 と、そんなことを唐突に語り出した青年士族に翼は思わず酌(しゃく)をしていた手を止めてしまった。

 それは、ぜひとも見学したいと思ったからだ。

「その祝賀行事ですが、あちきも参列できないでしょうか?」

 以前から将来について悩んでいた翼である。士官になる道も模索(もさく)していたので、気づいた時には、そんな不遜な言葉が飛び出していた。

 ところが、なぜか、お叱りを受けるどころか意外にも若い士族は喜んでくれた。

「それはよい。さても祝いの席じゃ。華(はな)やかにせよとの仰せでな。可能なら着飾ざったご婦人を同伴してもよいとのこと。これは姫様の帰国に花を添えたいとのお考えであろう。そのような晴れ舞台に評判の菊之助殿と同席できれば、それは小官としても鼻が高いわけでござるがの」

 というわけで、その日、それなりに着飾ざってではあるが、行事に参列できた翼は、はたして、その当日、会場を埋め尽くしたその勇壮な姿には、ただ言葉を失うほかなかった。

 会場に出揃った綺羅星(きらぼし)の如き〈神機〉の数々。それが時には人の命を奪う兵器であるのも忘れて夢中になった翼は、なかでも漆黒に炎を描く美しい機体に目が釘付けになったものである。

 やがて御前試合が始まった。

「ふむ、あれは他国にも知れる〈不知火(しらぬい)壱式〉という銘(な)の機体でな」

 その日、同伴してくれた士族が教えてくれた。それはまさに黒曜石のように輝く機体だった。

 しかも、その全身から吹き荒れる魔力といったら肌が粟立つほどで、その漆黒の魔法が幻影の如く翻(ひるがえ)るや重力を自在に操る力で次々と他の〈神機〉を薙(な)ぎ倒(たお)していく。

 よく見ると両肩に据(す)えられた大袖(おおそで)の盾には、それぞれ〈不知火壱式〉の文字が金色で記(しる)されており、それとともに描れる夜空に舞う桜吹雪と上弦の月も美しく、それを認めた翼は思わず目を瞠(みは)ってしまった。月と桜といえば上弦家の家紋、〈月下緋桜(げっかひざくら)〉の紋章が脳裏に浮かんだからである。芸者の仕事をしていると特権階級に関する知識は否応もなく詳しくなるものだ。

「ほぅ、よく気づいたな。そうじゃ、あの機体を魔装(まそう)しておられるのが我らが姫様じゃ」

 はたして、その黒き〈神機〉を魔装(まそう)した姫様は試合の数々において無敵の力を誇(ほこ)り、かくして、すべてに勝ち抜いた彼女はその勝利を宣言するかわりに、こう演説したのである。

「国を守るに必要なのは士道を貫(つらぬ)く覚悟じゃ。そこに魔力の資質や身分の差など関係ない。誰であれ志あらば理想を抱いて高みを目指せる国。それが、わらわの理想とするところである。この春、わらわは士官学校に入学する。それを期に改革を行うことを宣言する。それについて賛同する者あらば同志となろう。我こそと思う者は、わらわのもとに集うがよい!」

 一瞬、静まり返った会場に重い空気が立ち込めた。その原因は不快感を露(あら)わにする貴族たちの白けた態度によるものだったが、その中にあっても、その青年士族だけがどこか悠然と笑っていたのが印象的だった。その澱(よど)みを、しかし、やがて大きな喝采(かっさい)が押し流していく。

 それは主に庶民や下級士族の歓声であったが、その熱狂ぶりは門閥(もんばつ)を鼻にかける貴族たちの数を圧倒していたのは言うまでもない。

 なにを隠そう翼もまた、その中にあって大いに感銘(かんめい)を受けた一人であった。


「さても、返答やいかに?」その声に、ふと我に返った。

「まさか麻呂のことや翼殿の正体がバレてしまったのではないでおじゃろうな?」

 ひそひそと心配げに二郎が囁(ささや)いた。翼はそのいずれにも応(こた)えず立ち上がった。

「されば咽が渇(かわ)いておられると申されましたね。しばらくお待ちあれ」

「あっ、こら、一週間ほど前のことを話せ!」

「はて、その日、おいらは私事で外出してましたが姫様とお会いした記憶はございませんが」

「そうか、いや、妙なことを訊(たず)ねてしまい、失礼いたした。許せ……」

 軽はずみに自分の正体を明かせないことは承知している。喩(たと)え、姫様であろうとも彼女の立場がはっきりしないうちは迂闊(うかつ)なことを口にするのは控(ひか)えたほうがいいだろう。まだ何も分かっていないのだ。

 そんな思案をしながら翼は冷蔵庫の扉を開けた。そこには昨日から仕込んでおいた緑茶がいい具合に冷えている。翼は羊羹(ようかん)を切り分けて茶を注ぎ、朔夜の前に差し出した。

「ちょっと一休みしませんか?」

「おぉ、羊羹じゃな。これはかたじけない」と朔夜はごくごくと、まず冷茶を飲み干した。

「ぷはぁ、生き返るのぅ」よほど咽が渇(かわ)いていたのだろう。素早くおかわりを注ぐ。

「茶がこれほど美味とはまさに甘露じゃ。して、あの機体じゃが、そのほうらが、あれを?」

「それは、まぁ、そのう……」と言いよどむ。

「麻呂は少し手伝っただけでおじゃる」と羊羹を頬ばりながら二郎が応じた。

「それはまことか?」と、それに肯(うなず)いていいのか迷っていると、またもや二郎が横槍を入れた。

「麻呂がきた時には、もうほとんど修復は完了していたでおじゃるよ」

 

 一方、そうはいっても朔夜には俄(にわか)には信じられなかたった。事態を整理するので精一杯だった。〈神機〉の修復は機体を製造するより困難ではないが、それは機種や場合によって異なってくる。もちろん量産型の主力機などの修理なら一からの製造課程より手間いらずなのは明白だが、血銘術のような特殊な魔法に同調できる〈血銘機〉などを修復するとなるとそうはいかない。我が〈不知火(しらぬい)〉や深月の愛機である〈陽炎(かげろう)〉の如き〈血銘機〉ともなると熟練の技士が数ヶ月かけて一人で行うのが常であり、だからこそ、その製作過程も極秘とされ、それ故、その修理や修復には量産機を一から製造する以上の困難を余儀(よぎ)なくされる。ただし量産機も時には、その修理に困難をきたす場合がある。もちろん日頃(ひごろ)行われる〈天魔戦〉などによる損傷程度(ていど)なら高等部に進級したばかりの技士生でも充分に対応できるが、何らかの理由で主(あるじ)を失った機体を再び別の者が魔装(まそう)できる状態まで復元するとなれば最低でも二級技士の資格を取得していなければ難しいと言われている。

 というのも、主(あるじ)なしの機体は、えてして〈天魔〉の呪いに冒(おか)されていたり、見るも無惨(むざん)な姿になっていたりと尋常でない場合が多く、大抵は廃棄(はいき)処分にされるので訓練などに用いる機体を整備するほかは、そのような試みが行われることは滅多にない。それに前任の魔装(まそう)者に同調する魔法が残っていれば一旦(いったん)それを初期化せねばならず、それをすべての部品に対して行った上で不備を見つけて適切な処置も施(ほどこ)さねばならない。それは気の遠くなるような作業である。

 もちろん中等部技士科の三年生などの手に負えるような作業ではない。

 ここでようやく結論が出た。やはり晦日(つごもり)殿にからかわれたのだろう。にしても、こやつらは何者じゃ。二人とも鬱蒼(うっそう)と伸びる前髪がまるで落ち武者の如く垂れ下がり、なんとも滑稽(こっけい)な姿である。どうも気になるのは、その片割れの前髪から微かな魔力を感じることだ。たぶん遮蔽術の(しゃへいじゅつ)一種だろう。しかし理解に苦しむ。わざわざ視界を悪くして何の得になるのか? 晦日殿の報告によると、この者こそ〈凰火〉を蘇らせることのできる唯一の後継者だという話であるが、どう考えても、それこそ質の悪い冗談にしか思えない。

 ふむ、なるほどな。もしかすると、あの〈神機〉は外面(そとづら)だけを真似た複製機ではなかろうか。つまり、その中味は量産型の〈火燕(ひえん)〉か何かを利用した改造機にちがいない。

 そこでようやく、そこに心の落としどころを見つけて朔夜は胸をなでおろした。

 とはいえ、それもまた、そんじょそこらの技士生には真似の出来ない成果である。おまけに今さらの如く、この工場の使用許可がよく下りたものだと呆れもした。

 きっと晦日殿が尽力したにちがいない。そんな混乱する頭を一陣(いちじん)の風が冷やしてくれた。

 ふと見れば魔法陣が激しく渦巻(うずま)き、〈神機〉へ吸い込まれていく。魔法導入が最終局面を迎えているのだ。複製機にしてはよい出来映えだと感心もした。

 その風が少年の髪を波打たせ、そこに垣間(かいま)見えた素顔(すがお)に一瞬、心が飛び跳ねた。

 と、その刹那(せつな)である。凄まじい魔法反応の輝きとともに魔力の収縮が始まった。〈神機〉の足もとに複雑な立体魔法陣が展開し、そこに向けて機体が分散しながら吸い込まれていく。やがて最後に一際輝くと、そこに鮮やかな紅色(くれないいろ)の大太刀(おおだち)が姿を現した。

 刀は抜き身の状態でわずかに床から宙に浮いている。思わず息を飲む。刀身は途轍もなく長い小烏造。(こがらすづくり)その百二十糎は(センチ)あろうかという刃紋(はもん)は虹色に煌(きら)めく皆焼(ひたつら)の火焔帽子(かえんぼうし)。柄(つか)は白色の鮫皮(さめかわ)で鳳凰を象(かたど)る鍔(つば)が金色に輝いている。誰がどう見ても大業物(おおわざもの)の一品に違いない。記憶の片隅(かたすみ)にある名刀〈鳳煽火(ほうせんか)〉に瓜二つのような気もするが――いやはや、まさか刀の姿まで忠実に再現していたとは驚きである。

「成功だ!」「成功だ!」とモサモサ一号とモサモサ二号が手を取りあって喜んでいる。

 が、しかし、この工場を取り巻く現状を鑑(かんが)みれば、そんな悠長(ゆうちょう)なことはしていられない。

「おい、喜んでる場合ではないぞ。〈操魔刀〉への封印が成功すれば、工場はどうなるのじゃ?」

「それは魔力の供給が断たれちゃいますから、ありの儘(まま)の姿にもどると思いますけど?」

 そういえば、彼らは生徒会が執行令を発動したことなどまったく知らないはずである。

 そこで、かいつまんで事情を説明してやると、案の定、モサモサどもは目を丸くして驚いた。

「なんで、そんなことになるんですか。ちゃんと研究目的での使用許可は取ってますよ!」

「それはそうなんだが一人厄介(やっかい)な奴がおっての。ほれ、さっそく噂をすればじゃ」

〈神機〉を封印していた結界が解けるや、ここはただの整備工場である。学内のどこにでもある施設なので、もちろん出入り口も存在する。その厚い隔壁(かくへき)扉が開いたかと思うと役員どもが雪崩(なだ)れ込んできた。その先頭に立つ少女を認めるや「うへ」と火選崎が顔を歪めたが、足早に近づいてくる十五夜鏡花は意にも介さず腰に手を添(そ)えるや威勢よく執行令状を突きつけた。

「火選崎翼! 直ちに生徒会室まで出頭しなさい。学内を騒がせた今回の珍事について色々と尋問させていただきますわよ……って、あれ? ちょと、いたっい、どっちがどっちなのよ!」

 なにしろモサモサしたのが二人もいるので戸惑うこと山の如しである。

「あのさ、委員ちょ、おいらはこっちだけどさ」

「まったく騒々しい連中じゃな」

 朔夜はやれやれと肩を竦(すく)めた。

「これは異なことを申される。姫様こそ、そこで何をされておりますのやら?」

「見て分からぬか。羊羹(ようかん)を馳走になりながら後輩たちと親睦を深めておるのじゃが」

「なにを悠長な。この者はですねぇ」

「うむ、わらわは決めたぞ。この者たちを生徒会顧問の役員に勧誘しようと思う」

 半ば冗談まじり、半ば本気でうそぶいた。そこにいる全員が息を飲む気配を感じながら朔夜は鋭く目を細めながら立ち上がった。さても晦日殿の今回の支援は一歩まちがえれば個人的な贔屓とも取れる行為だが、この少年に行われてきた不当な扱いを鑑(かんが)みれば理解のできる範疇(はんちゅう)である。このような形での研究提案や陰ながらの支援も窮地(きゅうち)にある生徒を救うための方便とすれば教育上なんら問題ないと考えうる。

 そのことは朔夜のほうでも、ある程度(ていど)調査し、ここへくるまでに確認している。むしろ火選崎という生徒に行われた不当な差別や教官たちの理不尽な評価こそ許し難き不正と言えるだろう。晦日殿の報告を受け、すぐにも監査を開始したが、それだけでも見過(みす)ごせぬ成績の改竄(かいざん)や過小評価など目に余(あま)る行為が多数見つかった。

 そして、その後すぐ、それらの愚行に荷担(かたん)した教官どもを呼びつけ、尋問したところ誰が裏で糸を引いていたのかも判明した。晦日少佐のほうでも彼に対する正当な査定をやり直しており、その報告もまとめて書類に添付(てんぷ)しておられたので間もなく彼の名誉は回復されるはずだ。

 その一連の事柄から得られた結論は、はたして近年稀(まれ)に見る逸材が見つかったというものだ。

「な、何を言ってるんです? 冗談も大概になさいませ。万年、成績最下位の平民風情が姫様の役に立てるはずがありません。今回も恐らく無責任に世間を騒がす実験でもしていたのです。調べれば分かります。となれば、この痴れ者には厳しい処分が言い渡されましょう」

 見下すような一瞥をくれ、驕慢(きょうまん)をまき散らす。悔しげな表情を床に落とし、拳を握りしめる少年の姿に朔夜の心が痛んだ。この期(ご)に及(およ)んでもまだ自分の立場を理解しない少女には哀(あわ)れみを覚えた。まるで昔の自分を見ているようで悲しくもなった。

 とはいえ、学内の改革にもっと真剣に着手していれば、こんな不正は防げたかもしれない。

 さればこそ自分にはその指針(ししん)を示す義務がある。

 遅きに失した励ましになってしまうが、それを謝罪に朔夜は少年の肩に手を差しのべた。

「そなたは胸を張れ。立派な成果をなし遂げたのじゃ。その一方、不正を取り締まるべき者が、それを野放しにするどころか、自ら進んでその黒幕に成り下がるなど、まことに度し難きことよ。おぬしら、わらわに与えられし唯一の権限を忘れたわけではあるまいな。国姫(こっき)、朔夜の名において不正を裁(さば)く大目付(おおめつけ)の権限、ここに発動いたすぞ。皆の者、神妙にいたせ」


 肩に添(そ)えられた手に翼はどこか懐かしい温もりを感じていた。そこに意識を向けると咽の渇きが癒(い)えるように心が軽くなっていくのも不思議であった。翼は恐る恐る顔を上げた。そこには、なぜか朔夜の苦痛に喘(あえ)ぐ表情があった。一方、鏡花の挑戦的な視線は相変わらずである。

「いかに姫様とて聞き捨てなりませぬ。いったい、どういうおつもりですか?」

「控(ひか)えるがよい。何故、わらわがこの場にいるかも理解できぬほど、そのほうは愚鈍ではあるまい。もはや調べはついておる。この者の成績が不当に貶(おとし)められていたことは明白じゃ。恥を知らぬ教官どもには、それなりの制裁を与えると、そのほうへの晦日殿からの伝言であるぞ」

「な、何を根拠にそのような。この者の魔力検定はどうしようもないほど――」

「さて、過去に魔検証を、ある士族に売却した事実も判明しておる。べつに違法ではないが、褒(ほ)められた行為でもない。だがな――」

 厳しい目に射抜かれて翼は悄然と項垂(うなだ)れるしかなかった。

「そうせねばならぬ事情もあったのだ。くだらぬことだが、決められた査定はどこまでもついて回る。その査定の低さが差別を生むことも多々あろう。だからこそ高値で取引(とりひき)される」

「薄汚い下賤(げせん)の考えそうなことです。そうまでして金が欲しいなんて」

「生まれながらに、なに不自由なく暮らせた我らには分からぬことよ。だが世の中、そうでない者のほうが圧倒的に多いのだ。そのほうらは何を根拠に平民だ庶民だと蔑視(べっし)しておるのじゃ。貴公らに、はたして人を見下すほどの、そのような立派な資格でもあるのか?」

 いつしか、しんと静まりかえっていた。朔夜が居ずまいを正して翼の正面を向く。

「許すがよい。もう少し早く知っておれば、このような目に遭わせずにすんだものを。くだらぬ階級意識に囚(とら)われる者が多いのは、わらわの不徳のいたすところじゃ」

 思わず熱いものが込み上げそうになった。労(いたわ)りの言葉が身に染みたからではない。その信念に心打たれたからである。姫様は、まだ、あの時の理想を諦めていなかったのだ。

「父の威(い)を借りるのもたいがいにせよ。このことを深月殿が知ればどれほど悲しむか分からぬそなたではなかろう。今のおぬしを見ておると昔の自分を思いだす。ありのままの自分を受け入れられず硝子(ガラス)細工のような甲冑(かっちゅう)を心に纏(まと)い、歪(ゆが)んだ矜持で世界を睥睨(へいげい)していたあの頃のな」

「何を仰(おっしゃ)っているのか分かりません。我が国随一(ずいいち)の〈魔掟士〉と称される姫様と、この私が同じ境遇だとでも? ふざけないでください! そこまで愚弄(ぐろう)される覚えはありませんわ!」

「そうではない。そもそも魔力の資質が、それほど重要か。逆に、そのような資質にふり回される者の気持ちなど考えたこともあるまい。どちらにせよ、弱き心では同じことじゃ。かくいう、わらわとて手を差しのべてくれる友がいなければ今頃はどうなっていたことか。きっと見下げ果てた畜生(ちくしょう)になり下がり、どこかで人の恨(うら)みでも買って犬死にしていたであろう。だが、わらわは幸運にも価値ある友情を育むことができ、それが今も心の支えになっておる。もう、あれから九年も経(た)つのだな。その歳月がわらわに与えたものは悲しき惜別(せきべつ)や国の衰退。他国で受けた屈辱に、大切な者たちの死と向きあわねばならぬ空虚であった。思えば辛いことばかりであったが、それでも忘れえぬ過去の煌(きら)めきがあったおかげで道を過(あやま)たずに生きてこられた。そちにも、そのような先を照らす光を見つけて欲しいと願うばかりじゃが、しかし罪は罪ぞ」

「くっ、もはや、この期に及んでは……」

 そう応えるのがやっとの声で押し黙り、ついに鏡花は平伏(ふれふ)した。

「では早々に立ち去るがよい。わらわはまだ彼らに訊きたいことがあるでな」


「いや、もう、その時間はないでおじゃる」いかにも、それは異質な声だった。

「どういう意味じゃ?」表情も険しくふり向く朔夜だが、それを無視して二郎は床から宙に浮く〈操魔刀〉のほうへ歩いていく。「この時を逃せば、すべてが無駄になるでおじゃる」

 言いしれぬ胸騒ぎを抑えながら翼はその後を追いかけた。

「どうしたんだよ、なに拗ねてんだよ?」

 

 一方、二郎は釈然(しゃくぜん)としない思いに自分の不甲斐なさや戸惑いを滲ませていた。

 麻呂が拗ねているじゃと? いや、確かにそうかもしれない。なにしろ、この二週間もの間、彼の作業を手伝っていたのは自分である。なのに、そこへいきなり現れ、あっというまに友の窮状を救った朔夜には嫉妬せずにはいられなかった。これでは、あまりにも惨(みじ)めである。

 幼い過去、自分だけが他国に引き取られ、自分だけが不幸を味わってきたと思っていたのに、これでは心を歪(ゆが)めなければならなかった理由も、それに対する贖罪(しょくざい)の機会も失われてしまう。

「すまない。いくら考えても、ほかに思いつく方法がなかったでおじゃる」

 急に辺りが暗くなり、気温が下がったようにも感じられた。開け放たれた扉から濃い霧が流れ込んでくる。

「何をなさるおつもりか?」と発するその声にも応(いら)えをみせず二郎は〈操魔刀〉を握りしめた。その剣尖(きっさき)が向かう先に翼が立っている。


 翼は声を強(こわ)ばらせた。「いったい何の冗談だよ?」

「あるべき姿を取りもどして欲しいだけでおじゃる」

「だから言ってる意味が分かんないんだっての!」

「麻呂を信じて欲しいでおじゃる」

「信じてるよ。でも、言ってくれなきゃ分からないことだって……かはっ…」

 翼の口から乾(かわ)いた息がもれた。

「若ぁっ!」と建屋内(たてやない)に立ち込める霧からは絶叫が迸(ほとばし)る。

 えっと何が起きたんだ? ズズッという感触に続き、焼けた火箸(ひばし)を押しつけられたような痛みが脳天へと突き抜けた。その現実に手が赤く染まる。血がポタポタと滴(したた)り落ち、ふと俯(うつむ)くと、刀の尖端が腹に突き刺さっているのが見えた。そこから大量の呪力が溢れ出している。

「おのれっ!」魔法を解除し、実体化した狭霧が二郎に斬りかかろうとした。

「やめろ狭霧!」そうしているうちにも滴る血から魔法陣が次々と顕現(けんげん)し、闇色の呪力が噴出しだした。なぜここに、あの闇色が再現するのかと訝(いぶか)しんだところで理由など分かるはずもない。足下から渦を巻く闇色がさらに勢いを増し、突風のように翼の髪を跳ね上げた。


 朔夜は息を飲んだ。されど、その余韻(よいん)を確かめる寸暇(すんか)も惜しかった。少年は血を流して苦悶(くもん)に喘(あえ)ぎ、今にも儚(はかな)く消えそうだ。その様子をもう一人の少年が見下ろしている。手から刀がこぼれ落ちた。その震える手が髪を掻き上げる。「なにっ!」朔夜は再び驚愕した。悲嘆に暮れる双眸が苦痛に喘ぐように見下ろしている。「まさか二郎か? なぜ、おぬしがここにいる?」

「ごめん、こうするよりほかになかったんだ。でなきゃ――」はらはらと涙がこぼれ落ちた。

 そして身を翻(ひるがえ)し、渦巻く闇の中へと自らを投げ入れ、そのまま二郎は消えてしまった。


 すでにどっぷりと闇に浸かっていた。逃れようと藻掻(もが)けば藻掻(もが)くほど闇色がまとわりつき、冥(くら)き穴の底へ引きずり込もうとする。鈍(にぶ)る頭で判断しても状況が絶望的なのは分かっていた。

「おい、しっかりしろ! こら意識をしっかり持て!」と、体をゆさぶる声もどんどん遠のいていく。きっと流れた血が多すぎたのだろう。そう思いながら翼は広汎(こうはん)する闇を見つめた。

「狭霧、おいらはもうこの呪力から逃れられそうにもない。ほかの生徒を避難させるんだ」

「しかし、それでは若が!」

「言うことを聞け。おいらは大丈夫だ。傷も大したことはない」

 だいたい、あんなへっぴり腰(ごし)で刺されても致命傷(ちめいしょう)になどなるものか。

「おいらは、あいつを見捨てない。ここで見捨てたら、あいつとは、もう二度と会えないような気がする。あいつは大事な友達だ」

 だから諦(あきら)めない。自分が正義と信じた道を貫くことを放棄しない。

 それが、おいらの士道なんだ。その想いが二郎にも伝わることを願っている。

「だから狭霧は、ほかの生徒たちを頼む。そして、このことを於吟に伝えてくれ」

「ですが!」狭霧の苦渋(くじゅう)が耳に痛い。

「たのむよ」と、そんな笑顔を最後に力尽き、なんの抵抗もなく闇色に翻弄(ほんろう)されていく。その体を支える朔夜も同じく闇に捕らわれていく。

 

 やがて闇に浸食される工場内に変化が起き始めた。

 途轍(とてつ)もない力が暴風雨のように吹き荒れ、あらゆるものを変貌させていく。

 狭霧は、その唇に苦悶を噛みしめたが、もはやどうすることもできなかった。

「必ず助けに参ります」せめて託された主命だけは果たさなければならない。

 そんな一言しか残せぬ自分を呪いながら狭霧は魔法を発動させた。

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