第3話 春雷

 あの怪異に遭遇した夜から五日が過ぎていた。風も凪(な)いだ路上には青い帷(とばり)がおり、看板などの灯(あか)りを妖しく包んでいる。神楽町(かぐらちょう)は今日も大勢の人で賑(にぎ)わっていた。時刻は夜の十時過ぎ。深夜と呼ぶにはまだ早いが月は相変わらず禍々(まがまが)しく巨大な魔法陣を浮かべている。その陰に怯えるように星々は凍(い)てつき、今宵も〈天魔〉に遭遇しそうな気配が濃厚である。ふと頭上の屋根を見上げていた翼は、そこにいつもの気配がないのを確かめてから軽く溜息を吐くのだった。

 ここ数日、狭霧には別の仕事をまかせている。そう、国姫(こっき)、朔夜の警護である。隠遁術(いんとんじゅつ)などに優れた彼女は、ああ見えて武術の腕も確かなので人知れず要人警護をするような役目には適任なのだ。その狭霧の報告によると今のところ不穏な動きは鳴りを潜(ひそ)めているとのこと。だが油断は禁物である。闇に蠢く(うごめ)怪しい陰はいずれまたその姿を如実(にょじつ)に現してくるにちがいない。

「むっ、次の角を曲がった辺りで急激な魔力――いや、呪力の上昇を感じたでおじゃる」

 歩調に合わせてゆらめいていた魔法提灯が急にその向きを変えた。

「どうも、このところ毎日でおじゃるな。まだ地震も続いておるし、不気味でおじゃる」

 そうこぼしたのは餅突二郎(もちつきじろう)という少年だ。御家老様の命により月花楼に引き取られ、次の日から翼の専属太鼓持(せんぞくたいこもち)として働かされているこの少年は年齢(とし)は一つ上だが同じ士官学校に通う技士科の留学生である。しかも留学生である彼は所属する組は異なれど、なぜか自らの希望で翼と同じ学年に所属しており、そのためか互いに気心も少しずつは知れるようにもなってきているものの、やはり彼我との間には依然と壁もあるような、そんな気もする今日この頃であった。

「やはり、あの夜に遭遇した怪異も含め、何かが起きようとしている前触れでおじゃるかの?」

 その怪異の主役である例の蜘蛛女(くもおんな)が誰の命を狙っていたかについては恐らく二郎も気づいているのだろう。そのうえで、こちらの出方を見定めようとしているような口ぶりだった。さては、あの夜、二郎は、ほかの何より蜘蛛女の正体に驚いていた様子である。その一方で芸者菊之助の正体を最初から男と知っていた様子も窺えた。さても、そこから導ける彼の正体とはいったい如何なるものなのか。それが気になって仕方がない。ただし、あのような得体も知れぬ怪異を生み出せる相手と関わりがあるとなればもはや尋常なことではあるまい。

 故に、そこも考えて背後にいる巨悪を見極めなければ真相を暴くどころか下手すりゃ、こちらが闇に飲み込まれてしまいかねない。〈天魔〉と人を融合させるなどまさに悪魔の所行である。それだけに事件に関わってしまった後のこともそれなりに気懸かりにはなっていたのだが、はたして、それについては、あれ以来、仕事の行き帰りで出くわすようになった同心の旦那が教えてくれた。

 その旦那が言うには、「今のとこ命に別状はねぇみてぇだ。もっか国立病院で治療中だとよ」とのこと。まずは生きていると分かり、安心した。

 〈天魔〉に取り憑(つ)かれているとはいえ、彼女はあくまで人である。あの時、彼女に宿る呪力を燃やした瞬間、それは確信した。

 きっと、あれは何者かが意図的に植えつけた呪いのようなものである。

 それ故、このまま放置しておけば彼女の命を蝕んでいくことにもなりかねないが、しかし、それを危惧したところで今のところ、そこに手出しができるような余地はない。それより今は、昨今増えつつある〈天魔〉の被害から、この街を守ることを優先して考えるべきであろう。

「ま、とにかく急ごうぜ」と翼は駆け出した。

 二郎も後からついてくる。

 しばらく行くと悲鳴が聞こえてきた。どこぞの芸者と、その同伴(どうはん)出勤に付きあう大店(おおだな)の主といった二人組である。その行く手には、なんと、見るもおぞましき怪物が立ち塞(ふさ)がっていた。

 身の丈(たけ)は六米突(メートル)はあるだろうか。全身が黒い羽毛に覆(おお)われていて、その猛禽類のような頭部には鋭い嘴(くちばし)といった異形である。おまけに四つの翼に六つの目。なんと脚が三本もある。

「ほう、これは珍しい。〈三級天魔〉の酸興鳥(さんよちょう)でおじゃる。これまた物騒なのが現れたものでおじゃるが、さても、あやつの魔法はあらゆる物を溶かすので、ゆめゆめ侮ることなきように」

 これまで一度も下級の〈天魔〉すら倒そうとはしなかったくせに口だけは達者な二郎である。

 しかしながら、彼がその身に宿す特殊な魔法は決して侮れるものではないだろう。

「……じゃぁ、頼むよ」と目配せすると、

「了解でおじゃる」と請負い、二郎はその件の魔法を召還した。

 直後、翼も術を発動する。と、次の瞬間、麗しき芸者姿が二十代半ばの青年へと変化する。

 さても総髪結(そうはつゆい)をなびかせ、天魔〉と対峙する姿は、なかなかどうして立派な若侍である。

 その瞳に射抜かれた〈天魔〉は、やがて一瞬にして炎に包まれるや消滅し、あわや〈天魔〉の餌食になるところであった芸者は夜闇に歓喜の声を響かせた。

「きゃぁ噂は本当だったのね。ついに会えたわ、女装した鳳熾(たかおき)様の怨霊にっ!」

 じつに不本意である。されど認めざるをえまい。どうやら十歳ほど成長した自分は、とある有名人にとても似ているらしい。とはいえ命の恩人を捕まえて怨霊扱いするとはいったい如何なる了見か。これでは、ますます世間を騒がせてしまっているではないか。

 最初はここまで変装に凝れば、さすがの於吟も文句は言えまいと思っていたのに、これでは逆効果である。しかも最近は呆れてものも言えないのか、べつだん怒らないかわりに、その目つきがやたらと怖い。

「やれやれ今夜も片付いたのはいいけどさ。さすがに怨霊って、そりゃないよね」

 やがて年齢相応の姿に復活した翼は、肩の荷を下ろすように再び帰路へと足を向けた。

「でおじゃるな。それにしても町方や翼士科は何をしているでおじゃる?〈天魔〉の被害(ひがい)は増加の一途でおじゃるぞ。もしや街を護る結界に何か不具合でも起きているのではあるまいな?」

「そりゃぁ、どうかなぁ?」

 と返しつつも、なにやら胸騒ぎを覚えた。そもそも〈天魔〉は人の住む場所へ集まってくるものである。故に宇宙で発生した〈天魔〉もすべからく地球へ押しよせるので今や地上は〈天魔〉の巣窟といっても過言ではない。おかげで人々の生活圏は城壁と結界に守られた城邑内に(じょうゆうない)限られている。しかも奴らは夜行性のうえ神出鬼没ときたものだ。特に月の魔力が強まる蒼(あお)い夜は出没率が高まり危険である。なのに恐怖も慣れると大胆になるのか昨今では蒼夜(そうや)を恐れる人などあまりいない。

 そんな危険から善良なる市民を守る方策は主に二つある。一つは〈天翼士〉が毎日城外に出て〈天魔〉の駆除に励むこと。もう一つは城壁にそって張りめぐらせた魔力障壁を維持し続けることだが、この結界がかなりいい加減なものときている。結界は〈天魔〉の出没を自動感知して呪力ごと城外へ転移(てんい)させる代物なので、べつだん退治をしてくれるわけでもないし、しかも感知力が大雑把(おおざっぱ)なため強い呪力にしか反応せず、呪力の低い下級はほとんど笊(ざる)状態である。おまけに、ちょっとした事故で能力低下をきたすので万全とも言いがたい。

「それでも、三日に一度くらいの遭遇率だったんだよ。それも、だいたいが六級以下だったさ」

「おぉーいっ!」と、そこで声をかけられた。

 ふり向くと、黒羽織(くろばおり)の裾(すそ)を十手と一緒に帯に巻きこむ町方独特の恰好をした男が初老の岡っ引を連れて小走りに駆けてくるところだった。

 さても穢土町(えどまち)奉行所の定廻(じょうまわ)り同心、黄昏真之介と、その配下の松次親分である。

「こんばんわ。黄昏の旦那さんと親分さん」

「ちっ、また先を越されちまったか。やったのはお前らだな?」

「ええ、まぁ、そうなんですけどね」

 今は少年らしく二郎とお揃いの水干(すいかん)を身に纏(まと)っている翼は申し訳なさそうに頷いた。

「いや、正直なとこ感謝してるぜ。〈天魔〉狩りなんて町方風情にゃ荷が重ぇんだ。このところの人員削減で過労気味だしよ。知ってっか、例の連合加盟の準備とやらで門閥出(もんばつで)が朔洲城(さくしゅうじょう)に駆り出されちまっててな。今、この城下に残ってんのは俺らみたいな下っ端ばかりなんだぜ」

「ははぁん、なるほどぅ」と翼は二郎と顔を見合わせた。

「そういば士官学校においても門閥出の者が大勢、朔洲に派遣されているでおじゃるな」

 朔州は揺光国における第二の城邑都市である。

「そうそう、あいつら狡(ずる)いよね。朔洲で警備の仕事をするかわりに期末試験が免除だなんてさ、しかも、その人員削減のおかげで被害が増えてるし!」

「おいおい、そんなに怒んなって。俺たちだって頑張ってんだから」

「ちなみに先ほど出没したのは三級の酸興鳥(さんよちょう)でおじゃったがの」

「ぶっ、三級とは、これまた物騒なのが出やがったな。こいつは命拾いしたぜ。まぁ、あれ以来、魔術の修行にも精を出すようにはしてんだが、正直、六級以上はまじ勘弁だぜ。と、まぁ、そういうこって。じゃ、おいらは仕事だからよ。気をつけて帰ぇんなよ」

 そう言い残して真之介は、また夜の街へと消えてしまうのだった。


そんな神楽町から穢土本町(えどほんまち)を抜けて城の大手門へ続く朱雀通りの中ほどに十五夜家の屋敷が建っている。さても堅固な土壁に囲まれた広い邸宅である。

 ただし、その内部は到って質素な造りになっていた。

 屋敷の主である十五夜重盛(しげもり)が国の窮乏を憂え、質素倹約を旨(むね)としているからである。

 さて、その屋敷に暮らす深月の一日は多忙である。

 まずは朝も白み始めた頃から起き出して〈練心(れんしん)〉の業を行い、精神を統一してから竹刀を手に屋敷の道場で汗を流す。そして誰よりも早く登校し、精力的に生徒会の仕事をこなすのだ。

 おまけに生徒会の職責以外でも剣道部の主将として活躍し、部員の育成にも余念がない。

 まさに日々これ精進の毎日である。

 さても、今日とて常在戦を心構えに精励恪勤怠(せっれいかっきんおこ)たりなく非打ち所のない学活を終え、いつも通り午後八時頃に帰宅した深月であるが、今宵はそんな彼を思いもかけない事態が待ち受けていた。いかに油断大敵を心がける深月といえど、まだ育ち盛りの少年である。とりもなおさず帰宅をすればまずは夕飯を戴くのが常である。その食事に深月はかなりの時間を費やしている。体の基本は食にありを信条に、どの食材も三十回は噛んで咀嚼(そしゃく)し、農家の方々への感謝も込めて飯は一粒残さず平(たい)らげる。そうして体を整えて自室にもどり、よくやく緊張の糸を緩めるのだが、その日、居室(きょしつ)へもどった深月はちょっとした異変に戸惑ってしまった。

 それは、いつものように着替も後回しに本日の予習復習を終わらせておこうと机に向かった矢先のこと。ふと、そこに妖しげな書物が置かれていることに気づいたのである。

 見れば、いかにも低俗そうな週刊誌である。しかも、その表紙を飾っているのも女性の水着姿ときたものだ。もちろん、そんなものを購入した覚えのない深月は内心穏(おだ)やかではいられなかったが幸い今は部屋に一人きり。中を覗いてみたくなるのが男の性というものだ。

 ところが、その手の雑誌といえばまずは定番のお色気写真である。

 やはり初心者には少しばかり刺激が強すぎた。

「むぅ、見れば見るほど奇妙な写真でござるな。うっ、いかん、つい熱い血潮の高ぶりが」

 慌てて懐紙を鼻に詰め、心を鎮(しず)めるのに四苦八苦した。

「だが、何故この女子は怒り狂っておるのやら。これでは色気もくそもあるまいに。いや、それがよいのかもしれぬな。なにやら、それがしが風呂場を覗いてるような心持ちになってくる」

 どうやら、その写真は風呂場で撮影されたものらしい。

 ただ、面妖なことに被写体の少女はなぜか怒り狂っている様子なのだ。写真の画像は湯気で曇(くも)っているので肝心な部分は何も見えないが、それでも全裸であるのは想像するに難(かた)くない。

「なになに、今、神楽町で人気の菊之助ちゃんは十五歳。月花楼に所属している芸者さんです。彼女の入浴現場を激写しちゃいました。投稿してくれたのは同じく月花楼で働く狭霧さん二十歳とな。いやはや、なんとも悪質な。はっ、いかん。こんなものを読んでおる場合ではない。早々に適切な処分をせねば、それがしの性分を疑われかねん」

 しかし時はすでに遅かった。

  

 予想通り兄は雑誌に夢中になるあまり部屋を覗(のぞ)かれていることに気づく様子もなかった。

 おかげで愉快な惨状を見ることが出来たが、まさか、あれしきの芸能誌にそこまで興奮するとは思っておらず、そんな兄の行く末に少なからぬ懸念が生じてしまう鏡花であった。

 その兄はというと今度は屑籠を抱えて、なにやら途方に暮れている。

 さては雑誌の処分を考えあぐねているのだろうが屑籠の中は綺麗さっぱり何もない。

 この屋敷で働く腰元が毎日掃除をしているので、いつもそのような状態になっている。

 そのまま捨てては大いに目立つこと請け合いだろうと鏡花はしめしめとほくそ笑んだ。

「くっ、捨てられぬとあらば、せめてどこかに隠しておかねばなら……ん、なになに、はて、この記事は? 朔夜姫、深夜の逢瀬(おうせ)発覚か? これはいったい如何なる事態にござるか!」

「さぁ、お兄様、ここからが本番ですわよ。さぁ、よぅくご覧になって――」

 さらに、そんな思念を送ると兄は破らんばかりの勢いで雑誌を捲(めく)り始めた。

「なんという破廉恥! この男は何者でござるか!」

 凄まじい怒気だった。さすがの鏡花もそれには首を竦(すく)めた。

 とはいえ、その雑誌(家来に買いに行かせた)を兄の部屋へ持ち込んだのは自分である。

 今日、学校へ行くと姫の噂で持ちきりだった。鏡花はその姫に対する兄の気持ちを知っている。それは恋とも呼べぬ、ただの友情を引き伸ばした拙い絆でしかないが、それでも兄に慕われている彼女のことが羨(うらや)ましくて、つい、こんな悪戯(いたずら)を仕掛けてしまったのだ。

 これで兄の熱も少しは冷めればいいのだけれど。

 と、そんな期待を胸に抱いていると背後に人の立つ気配が感じられた。

「これは、お嬢様、いったいこんな所で何をしておいででございますか?」

 見れば、家中の者が一人、そこに怪訝な顔をして立っていた。

「いえ、何も、あなたはお兄様にご用かしら?」

「殿がお呼びでございますからね、では、ごめん」

 

 なんとか平常心を復活させて義父(ちち)の書斎を訪れた深月は部屋の前に立ち、おとないを告げた。「入れ」と短い声が板戸を隔てて聞こえてきた。一呼吸おいて引き戸を開けると簡素な佇(たたず)まいが目に映った。暗い部屋である。倹約のためか燭台(しょくだい)は一つしか灯されていない。

 厳(おごそ)かに入室を終えた深月は畳に跪座(きざ)し、まずは義父の多忙を労った。

「此度(こたび)は連合加盟の準備万端よろく執着至極(しゅうちゃくしごく)にございます」

「うむ、ご苦労。じゃが、そのような、かた苦しい挨拶は必要ないぞ」

 と苦笑を浮かべる重盛は揺光国の支柱と謳(うた)われる初老の重臣である。

 防衛総監や士官学校長などの職責を兼務し、かつては国防の一翼を担(にな)って数多(あまた)の戦場で活躍したこともある勇将だけに、その容貌の鋭さや醸(かも)す気迫は相当(そうとう)なものであるが、さりとて、そんな重盛も深月と会う時だけはその表情に穏やかな光を灯(とも)す。それが深月にはどこか心許(こころもと)なく、つい実子のような振る舞いを心がけねばと気遣(きづか)う言葉を口にさせるのだった。

「もう、お年ですから無理は禁物でございますぞ」

 かえって余所余所(よそよそ)しい態度はいつものことである。ついでに部屋が暗いので、あたかも密談をしているような錯覚も覚える。世間では朝廷の威(い)を傘に権力を独占していると揶揄(やゆ)される義父(ちち)であるが、そのような噂に自分が含まれているのも申し訳なく、心ならずも、他人行儀を演出させてしまうのかもしれない。一方、重盛にしても、深月はかつての主君の子である。どうしても掌中(しょうちゅう)の珠(たま)が如き情愛を隠しきれぬのも無理はなかった。

『そなたは、いずれ主家を再興せねばならぬ身じゃ。それまでは十五夜家の嫡男(ちゃくなん)として生き、将来の足がかりとされよ』と重盛は常々、深月にそう言い聞かせてきた。

 しかも、重盛には、れっきとした嫡男がいたのにである。その嫡男――右近(うこん)は五年前に起きた士官生らによる暴動――〈第二次揺光動乱〉の折りに亡くなっている。

「さて、明日にも月へ向かう準備のため朔洲へ赴くのだが、そなた、期末考査の予定は?」

「は、抜かりはございませぬ。すでに今学年の単位はすべて取得しておりますれば」

「ならば結構。私と同道し、久しぶりに、そなたの管轄地(かんかつち)へ向かおうぞ」

「いえ、朔洲は、それがしの管轄ではございませぬ。今は父上の預かりにございます」

「いつかは、そなたの管轄となる。そちは姫様とちごうて頑(かたく)ななところが玉に傷じゃな」

 その言葉に深月は顔を顰(しか)めた。義父が遠回しに言っているのはあの記事のことにちがいない。「それ、それがいかん。そのような頑なさでは人心は集まらぬぞ。生真面目もほどほどじゃ」

「とは申せ、朔夜殿は少しばかり羽目をはずしすぎではございませぬか?」

「よいよい。その年齢(とし)にもなって浮いた話の一つや二つなくてどうする?」

「なくて結構でござる。それより、入院しておられる朔夜殿の容態はどうなのでごさるか?」

 またもや〈天魔〉に遭遇し、此度は深手負ったとの報(しら)せは深月の所にも届いているが、これについては口外せぬようにとの指示も同時に国防省から伝えられていた。

「うむ、それについては箝口令(かんこうれい)をしかせてもろうた。まぁ、この時期に姫様が狙われたとあっては動揺も大きい。連合加盟に支障をきたすでの――」

「は? 今、狙われたと申されましたか?」そんな話は聞いていない。

「さても、これは口外せぬようにな。どうやら姫の暗殺を企む者がおったようじゃ。隠密任務に関わる者から情報がもたらされた。仕事にあぶれた浪人者を数名、金で雇(やと)った門閥貴族がおるらしい。だが、確たる証拠(しょうこ)もなしに門閥に手を出すわけにはいかん。白を切られればそれまでじゃ。逆にこちらの立場を危うくしかねん。それに問題はそれだけではない。朔夜殿が遭遇した〈天魔〉、じつは人の魂と結びついておるそうな。しかも、その正体や、かなり厄介な血筋の姫での。恐らくは禁術の類(たぐい)にちがいないと思うが、それ故、もっか国立病院の医師団に術の解除を試みさせておるところよ。じゃが、これがなかなか難しいらしい。その姫君もまだ昏睡(こんすい)状態から脱する気配が見られぬと言うし、これでは捜査も進展せぬわい。――ん、どうした?」

「それがしの聞きちがえでなければ、今、国立病院と申されましたか?」

「そう言うたが? はて、何が気になる?」

「つまり同じ病院に入院している朔夜殿に再び危険が及ぶかもしれぬということでござる」

「そちの言いたいことは分かる。じゃが禁術に対処できる施設などほかにあるまい。なぁに、心配いたすな。あらゆる部署(ぶしょ)から優れた〈魔掟士〉を掻き集めて警護に当たらせておる」

「なら、よいのですが。しかし、そのような禁術に遭遇した朔夜殿は本当に無事なので?」

「うむ、医師団の報告によると、幸い何者かによる適切な処置で事なきを得たとのこと。明日の検査で異常がなければ退院だそうな。医師たちも驚いておったぞ。生死に関わる重篤(じゅうとく)な呪いが綺麗さっぱり消えていたとな。おかげで二日ほど寝込むくらいですんだという話である」

「では、その者を召(め)しだし、その禁術とやらの解決に当たらせてはいかがですか?」

「むぅ、それは考えぬでもないが、いささか問題があってのぅ」

 なんとも歯切れが悪い。深月は業(ごう)を煮やした。

「問題とは何ですか?」 

かの雑誌にすっぱ抜かれた不届き者が術者に決まっておりまする」

「そなた、まさか、あのような芸能誌を読んだのか?」

「あいや、それがしは購入した覚えはないのですが、なぜか、おかしなことに……」

「そうか、そなたが、あのような雑誌を。真面目すぎて心配していたが、それはよい兆候じゃ」

「いえ、だから、それがしは……」

「よいよい、恥ずかしがらずともよい。まぁ、そう焦(あせ)るでない。近日中に謎も明らかになろう」

「いえ、それについては拙者も独自で調べてみたいと思いますが」

「はぁ、そちがか? どうするつもりじゃ? 謎の男の居場所など、わしは知らぬぞ」

 じつは、この重盛。その謎の男がどこにいるのかを知っている。

 いや、知っているのは十五歳の少年だが、なぜか世間に流布(るふ)している噂との間にはかなりの年齢差が生じており、どうして、そうなったのかも知っているだけに、そのあまりの莫迦さ加減(かげん)に洗いざらい喋ってやりたいのを我慢してるというのが、じつは本音であったりもする。

「とりあえず、明日、病院へ行ってまいります」

「それは口実ではあるまいな? まぁよい。そのような体たらくでは、どうにもなるまいて。えーい、そこで、もじもじするな。まったく、これでは先が思いやられるわい。まぁよい。久しぶりに愉快な思いをさせてもろうた。明日は花でも買って見舞ってやるがよい。午後にも検査は終わるそうじゃ」

 ふと、そこで深月は違和感を覚えた。はて、いつもの父上と、どうも様子がちがうような?

 べつに普段から無口なほうではないが、今宵はどうも多弁がすぎる気がしてならない。

「さて明日の休日は楽しむがよい。その後は多忙になるぞ。そなたを呼んだのはほかでもない。月での調印式が終われば祝賀行事が予定されておる。その警備の統括(とうかつ)責任者をまかせたい。すでに防衛省へは通達しておる。朔洲はそなたに。大穢土京の防備は朔夜殿にまかせる所存だ」

 

 寝台に女が横たわっていた。身に着けているのは白い小袖と下袴(したばかま)のみ。うなじの辺りで切り揃(そろ)えた短い髪と、やや面窶(おもやつ)れはしているものの精悍な目鼻立ちが印象的である。

 女は横になったままゆっくりと目を開けた。ここはどこだ? 意識が朦朧としていて体が動かない。なんとか首を左右に傾けて状況を確認してみたが自分のほかには誰もいないようだ。

 闇に視力が慣れてくると、様々な魔術装置が目に映った。それらは寝台と一体化し、何種類もの魔法陣を発生させながら自分を取り囲んでいた。なるほど、ここは治療室か――。

 それは分かる。分かるが、どうしてこんな所で寝ているのかが分からない。

 天枢国と国境を接する潤樹国(うるきこく)に向けて出師(すいし)し、反乱を企てた国主を説き伏せ、再び軍門に降るよう諭すことが出来たのが数週間前のことである。

 それから、ようやく数年ぶりに天枢国の帥都たる貪狼京(たんろうきょう)に帰還し、帝に拝謁するため皇居へ赴いたのが数日前だったと記憶している。最近は病に伏せがちな尊顔を拝(はい)することが出来たのは僅かな時間だったが、それでも慰労の言葉を賜り、天枢望月家(てんすうもちづきけ)の家督を継ぐことを許された。

 そして、その夜、慰労の晩餐会が催された。都中から士貴族が集まり大へんな賑わいだった。おかげで朝廷の名だたる重臣に挨拶するだけでも一苦労し、宴(えん)もたけなわになる頃にはへとへとになっていた。確か、その帰路の途中で不穏な事件に巻き込まれたような気もするが、はたして、それからのことが思い出せない。

 いや、それより以前もあやふやで、どこまでが真実か信用できなくなってくる。何かほかにも重要な事があったように思えるが頭の中に霧でも発生しているかのごとく何も見えてこないのだ。――と、突然、激しい頭痛に女は苦悶の表情を浮かべた。寝台を囲む装置が警報を鳴らし始める。さらに意識が混沌とし、息苦しくなる。そして身の毛もよだつ禍々しい呪力を感じ取った。虚(うつ)ろな視力で捉(とら)えたのは、そこらじゅうから染(し)み出してくる闇色のゆらめき。

「双月皇子(ふたつきのみこ)様……」誰かに助けを求めるように、その名を口にしたが、虚しく意識は途切れ、やがて漆黒の闇が満ちていった。

 

 翼は夢を見た。奇妙(きみょう)な夢である。それでいて、なんだか、おめでたいほど脳天気な夢だった。

 内容は桜の咲き誇る庭園で、ただひたすら子供と戯れ遊んでいるだけというものだが、その夢に出てくる桜の木には魔法が掛けられており、永遠(とわ)に散ることのない花は夏でも冬でも満開のままだという。そればかりか幻術(げんじゅつ)まで駆使して派手な桜吹雪を演出してくれるという念の入りようだ。ただの夢にしてはやけに鮮明で、そのじつ、子供っぽい空想だと思ったものである。

 なのに、なぜか目が覚めた時には胸をえぐられるような寂寥感(せきりょうかん)に襲われていた。

 翼は目を擦(こす)りながら、まだ夜中かと思うような薄暗さの中で懐中時計を探した。時計は文机(ふづくえ)の上に置きっぱなしになっていた。手に取ると、すでに午前九時を過ぎていることが分かった。 このところ仕事帰りに夜回りをしていたので疲れが出たのかもしれない。昨夜は遅くまで試験勉強に打ちこんでいたのに、それも途中からの記憶が飛んでいる。いつのまにか睡魔に負けて無意識のうちに寝床に潜りこんでしまったらしい。明日から試験が始まるのに、なんという失態だ。おまけに完全に寝坊である。

 夜回りには、あの二郎も付き合ってくれているが、実際に〈天魔〉や街のゴロツキと対峙(たいじ)するのは翼である。二郎は得意の魔法を発動した後は、いつも見ているだけなので、さほど疲れてはいないのだろう。隣に敷いてあった布団はすでに畳まれた状態になっていた。二郎は翼の部屋で寝起きしている。

 ふと見れば文机の上に置き手紙が残されていた。手に取って読んでみると、『ちょっと出かけるでおじゃる』と書いてある。

 窓越しに外を見ると、あいにくの曇空でゴロゴロと雷まで鳴っていた。

 空は厚い雲に覆われ、せっかくの休日なのに気分もどんよりしてしまう。

 ちなみに士官学校の休日は交代制である。それぞれの隊ごとに予定が組まれ、翼や二郎が所属する隊は毎週月曜が休日になっている。今日はその月曜である。なので二郎と図書館にでも行って試験勉強でもしようかと思っていたのに、その二郎もどこかへ出かけたらしく朝から出鼻を挫(くじ)かれた気分である。それなら一声かけてくれてもよかったのにと口を尖らせていると激しく雷の音が鳴り響いた。どうも嫌な予感が募ってくる。脳裏には、あの〈天魔〉に取り憑(つ)かれた女の顔が浮かんでいた。さても自分にかけられた呪いを焼いてくれと願った女――

 されば彼女を蝕(むしば)んでいるあの術は、恐らく魂に〈天魔〉を取り憑かせ、その力を融合させる未知の魔法である。その呪縛を取り除き、安全な状態へもどすとなると、いくら魔法を燃やせる魔法でも万全の効果を期待できたかどうかは怪しいところだ。

 聞くところによると、女は国立病院に保護されているそうな。病院には優秀な医師が揃(そろ)っているので、もしや有効な手だてが見つかるかもと期待はしているが、今のところ、そういった朗報はもたらされていない。とはいえ、もっかの課題はやはり姫様の安全である。院内に狭霧を送り込んでいるので姫様の安全は心配いらない。その狭霧からの報告では、今日の昼にも姫様は退院の運びになるそうだが、そこで気になるのが暗殺を企む者たちの動向だ。このところ鳴りを潜めているそうだが、たんに今は院内の警備が厳しくて手が出せないだけかもしれない。何か行動を起こすとすれば今日をおいてほかにないだろう。そして二郎が朝から姿を消している。蜘蛛女の怪異に遭遇した時の狼狽ぶりから考えて二郎と女との間には浅からぬ縁(えにし)があったと見てまちがいない。

 しばらく泳がせて様子を見るつもりだったが、その思惑に二郎も気づいていたとすれば厄介である。例の女が国立病院に保護されていることは二郎も知っている。

 ここは急ぎ狭霧の応援に向かったほうが賢明な気がしないでもない。

「でも、病院かぁ……」と溜息がこぼれた。

 じつは翼にとって医療施設ほど避けたい場所はない。医療現場はともすれば士官学校などより魔法に満ちている。しかも人命に関わるだけに万一にも魔法を燃やせる魔法が発動すれば大惨事になりかねない。なので姫様の警護は狭霧に丸投げしてしまったのだが――

「まぁ、母さんの見舞いの時みたいに万全の態勢で臨めば大丈夫だとは思うんだけどね」

 やがて意を決した翼は寝床から起き上がり、いそいそと出かける準備に取りかかるのだった。


 白い包帯が解かれていく。

「どうです?」やがて露(あら)わになった右手を凝視しながら朔夜は主治医の祝詞村(のりとむら)に訊(たず)ねてみた。

「えぇ、大丈夫ですよ。検査の結果も良好です。退院しても何の問題もないでしょう」

 その言葉を待っていた朔夜は安堵の息をもらした。

「でも見事な応急処置でしたね。あれがなければ今頃、死んでるか、よくて右手首切断でした」

「切断とはまた……」

 それほど危険な目に遭(あ)っていたのかと改めて思い知らされた。

「最新式の魔法義手を試せるかと期待していましたのに、じつに無念であります」

 ヨレヨレの白衣を着た三十代の青年が薄笑いを浮かべた。強くなってきた雨が診察室の窓を叩き、遠くで雷が鳴っている。その稲光が主治医の眼鏡にぴかりと反射した。先ほどから続いている微弱な地震が薬品棚をゆらし、外の通路からはなぜか盛んに赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。おまけに診察室の中は魔力の節約と称し、ほとんどの燭台が消されて、かなり薄暗い。

朔夜は顔を顰(しか)めた。目の前にいるこの若き名医、祝詞村幻斉(のりとむらげんさい)は、その口で人を殺すとまで噂されている。その祝詞村が嫌らしい笑みを口の端に浮かべた。

「それどころか全身に毒が回り、えぐい腐臭をまき散らしていたかもしれませんね。ですから、もう危ないことはしちゃ駄目ですよ」

「承知した」

 ここは素直に反省の色を見せておこう。でないと、もっと嗜虐的(しぎゃくてき)な言葉を連ねてくるのだ、この男は――

「心のこもらない反省など無意味なんでけどねぇ」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

「まぁ、いいでしょう。小言はここまでにして。それにしても〈天魔〉の呪いをここまで見事に封じるのは、この私でも難しいものです。いったい何者が姫様の命を救ったのでしょうか?さても思いつくとすれば、一人だけ心当たりがないわけでもないのですが」

「なんじゃと、今なんと申した! そちは、その者を知っておるのか? そやつ何者じゃ!」

「おや、ご執心ですね。でも私が知ってるのは十五歳の少年ですから、あの雑誌の青年とは」

「やや、あの雑誌のことは忘れよ。いや忘れてくれ。うーむ、どうも年齢不詳であるな。男か女かもよく解らぬし。ともかく、その者のことを話してくれぬか。しかし、十五歳じゃと?」

「以前この病院に母親が入院してましてね。その息子がよく見舞いにきてましたよ、女装して」

「はぁ、女装? なにやら理解し難い単語が混じっておるが、何故そのような?」

「男ながら芸者の仕事をしていたらしく、その仕事の前に母を見舞っていたそうで」

「なんと!」

 そういえば、あの者も最初は芸者のような恰好をしていたような気もする。

「おぬしは、どうして、その者が男だと分かったのじゃ?」

「母親が息子と言ってましたから、そうなのでしょう。ともかく、その少年には驚くべき才能がありました。彼の母はもはや余命いくばくもない重篤な魔病患者でしたが、彼の行う術がことのほか効果を発揮しましてね。なんと一年近くも延命してしまう快挙を成し遂げたのです」

「ちょっと待て。そんな年端(としは)もゆかぬ少年に治療を手伝わせたのか?」

「まぁ、倫理的に問題がなかったとは言いませんが、その術が我々のものより優れていると解れば医師立ち会いのもと試してみるのは吝(やぶさ)かではありません。彼は母を救いたい一心で魔検証(まけんしょう)を売り、治療費の足しにしようとしたくらいです。なるたけ応援するのが人の情けでしょう。それに母を想う子の気持ちに応えるのも人としては当然。なにも患者のために尽くすだけが医師ではございません。それに魔検証の買い手を仲介したのは私です。咎(とが)められるなら私こそでしょう」

「なんとも健気な話じゃが」

「ま、正論だけではどうにもならぬほどこの国が傾いていることは姫も存じておりましょう。綺麗ごとだけでは人は救えませんよ。九年前の敗戦がこの国に多大な犠牲を強いております。所領を減らされ、第五惑星への軍派遣という重い苦役が未だ復興の足枷(あしかせ)となり、国民を苦しめております。その挙げ句、連合の軍門に降るとは、ますます未来は暗澹としておりますなぁ」

「むぅぅっ」ぐうの音も出なかった。

「じつに、その通りじゃが、して、その少年には医師界随一の性悪……いや、奇才と謳(うた)われる貴殿をも唸(うな)らせるほどの才があったと?」

「えぇ、魔病関連についての才を垣間見たにすぎませんが、しかし彼が医学校に通い、真剣に知識を深めれば、きっと私には及ばないまでも、それなりの名医にはなれたでしょう。それを何をとち狂ったのか士官学校など受験すると言い出しましてね。医学を目指すなら学費くらい援助できると言ってあげたのに彼の意志は変わらずで、じつに残念です。士官学校なんて魔力自慢の低脳どもが行くところですからね。おやおや、姫様、何かお気に召さないことでも?」

 今、話してる相手が士官生と知りながらわざと口にしているのだろう。さらに気を逆撫(さかな)でするようにオギャー、オギャーと外から聞こえる赤ん坊の泣き声がさらに大きくなっていく。

「じつに煩(うるさ)いですねぇ。本日、出産予定の妊婦などいないはずですが?」

 そこへ勢いよく扉が開かれ、純白の洋風袖袴(ワンピース)を身につけた看護士たちが雪崩れ込んできた。

「大変です。特別病棟の周囲に大量の着衣が散乱し、その中にたくさんの赤ちゃんが!」

 さても、女性看護士らの言っていることは甚(はなは)だ理解不能なものだった。

「今、保育室に運び込んでいるところなんですよ!」

 なので朔夜も看護士らと一緒に、その保育室とやらへ行ってみることにした。 

 はたして、そこは大量の乳幼児で埋めつくされていた。みんな元気に這いずり回っている。

「なんと、おむつが飛びかっておるな! ほーれ、泣くでないぞぉー、よーし、よーし」

 オギャーオギャー。

「ほーら、高い高ぁーいっ!」

オギャー、オギャー。

 近くにいた赤子を抱えて朔夜は相好を崩した。そこで気になり、つと質問を口にしてみる。

「つかぬことを訊くが、男の子と女の子は分けたほうがよいのではないか?」

「そんな面倒なことやってられませんわよ!」

 看護士たち全員に睨まれてしまった。



あらかたの看護士が避難し終えたのを見届けてから、その青年医師は安堵の息を吐き出した。

 それから着ている白衣に手を突っ込み、一本の鍵を取り出した。これは先ほど、とある男の衣服をまさぐり拝借した物である。それを持っていたのは警備の責任者らしき人物であったが、その男はすでに小さな赤ん坊に姿を変え、真っ先にここから運び出されてしまっていた。

「まずは成功でおじゃるな」

 そんな独白(どくはく)を呟きながら通路を進んだ。やがて行き止まりになる。行く手を塞(ふさ)いでいるのは堅固な金属製の扉だ。その向こうが特別病棟である。手にする鍵を中央の鍵穴に差し込むと扉はあっけなく開いた。施錠機能が働いているのか扉を潜ると自動的に閉まり、勝手に鍵が掛かる。そこで青年は〈魔掟書(まじょうしょ)〉を取り出して身構えた。きっと厄介な結界が待ち受けているにちがいないと、そんな予測をしての行動であるが何の反応も起きなかった。思わぬ肩すかしに首を傾げる。今、立っている辺りには侵入者を阻む強力な魔法陣がいくつも刻印されているのに、それらが発動する様子はない。すでに解除式が打ち込まれているのだろう。そこから導き出せる解答は一つしかない。つまり自分より先に侵入した者がまだ中に残っているということだ。嫌な予感に急(せ)かされるように通路を走り、奥にある治療室へ駆け込んだ。中はさらに暗かった。それでも恐れずに進んだ。  そのうち目が慣れてくるとカサカサとした音が耳に届いた。数々の装置に囲まれて一人の女が寝台に横たわっていた。着物は薄い小袖と下袴のみ。いささか扇情的(せんじょうてき)な光景だが、目が釘付けになったのは別のものだ。女の体から蜘蛛(くも)の糸のようなものが放射状に伸び、その上を人の頭ほどもある蜘蛛の怪物が這いずり回っている。その糸に絡まり数名の男が倒れていた。皆、白衣を着ている。すでに息絶えているのかぴくりとも動かない。

「なんとも不憫(ふびん)なことでおじゃるよの……」

 と青年は掌を合わせた。きっと彼らは、この事態に立ち向かおうとした医師たちだろう。

「さても、しぶとき禁術でおじゃるな」

 もしくは解除しようとすれば働く悪辣な罠でも仕掛けられていたか。世にも恐ろしき策謀をめぐらすあの男なら、そのくらいのことはやりそうだ。

 そう思いながら充満する呪力を凝視した。そこに出現していたのは複雑な魔法陣である。しかも、そこから溢(あふ)れ出す呪力といったら只事ではない。それは闇色の炎とでも形容すべき形なき存在で、恐るべきことに少し接触するだけで魔力が悉(ことごと)く奪われていく。

 寝台を囲む〈天魔〉の分裂体(ぶんれつたい)もそれを警戒しているのだろう。恐らく禁術がこの闇色を呼びよせるのと同時に解放された〈天魔〉の力が彼女を守ろうと働いているのだ。

 その証拠に鬼蜘蛛(おにぐも)たちは彼女の傍(そば)から離れようとせず、近づかなければ敵意を見せない。

 周囲に満ちる謎の魔力がなければ、自分も医師たちと同じような運命を辿(たど)っていただろう。

 いや、よく観察すると、まだ微かに息があるようだ。ここはなんとしても助けてあげたいが、さて、どうしたものか。禁術の影響で罪なき人が命を落とすのは忍びない。こういう時こそ活躍できる〈魔掟士〉を目指し、修行に明け暮れたというのに、その願いは未だ叶っていない。今のところ自分に宿るこの力は、他の魔法に対してほとんど効力を発揮しないのだ。さても、いくら周囲の時間に作用を及ぼし、呪力の進行を遅らせることができても、それでは根本的な解決には到らないだろう。――と、しばらく、そんな逡巡(しゅんじゅん)をしていると、やがて建物が大きくゆれだし、その震幅(しんぷく)に共鳴するかのように、さらに激しく闇色の呪力が迸(ほとばし)り始めるのだった。


 すべての寝台が、やたら元気な赤ちゃんに占領されていた。

 そんななか、祝詞村(のりとむら)の目だけが険悪に吊り上がっていた。

「いったい警備の者たちは何をしていたのだ?」

「それが一人も見当たらないのです。ただ彼らの物と思しき衣服だけが散乱しておりまして」

「衣服だけを残して残らず消えただと!」

 その声量の剣呑さに赤ちゃんが一斉に泣きだした。

 そんな部屋の片隅には袴や褌(ふんどし)などが無造作に積み上げられている。

 朔夜はそれを訝(いぶか)しく眺めながら危惧(きぐ)すべき憶測を口にした。

「これら一連の現象が魔法による仕業だとすれば見過ごせぬ事態であるぞ」

「まぁ、そうですけどね」祝詞村も頷く。

「昨晩、特別病棟で異常な魔力が検知され、今朝がたまで、その対策を練(ね)っていたそうです。患者は呪力障壁(じゅりょくしょうへき)を施(ほどこ)した特別な治療室の中ですから当面は安全だと思いますが、それでも棟内(とうない)は危険な呪力に満ちていたでしょう。禁術が何らかの異常を起こしているのだとすれば医師団の安否も気懸(きが)かりですな。彼らからの連絡は?」

「今朝早く、その病棟内に入ってからは何の音沙汰もありませんが」

「なんだと! だから私にまかろと言ったのだ。無暗(むやみ)に手を出すからこんなことになる!」

 そう吐き捨てるや祝詞村は部屋から出ていこうとした。

 と、その矢先である。突如、建物が大きくゆれて辺り一面が得体の知れない呪力に包まれた。

 廊下(ろうか)からも悲鳴が聞こえてくる。咄嗟に目を向け、窓から向かいの病棟を見やると、そこもまた、なにやら濃い闇色に包まれていた。それと同じ現象が、ここにも充満しつつある。

 朔夜は舌打ちした。間の悪いことに、今、手元には〈操魔刀(そうまとう)〉どころか〈魔掟書(まじょうしょ)〉すらない。

 病院内ということで油断していたのがまずかった。

 どんどんと呪力が濃くなっていく。それに触れると体から力が抜けていくような感覚を味わった。おまけに白い靄(もや)までが発生しだした。また新手の魔法かと思ったが、それが攻撃してくる気配はない。ただ、その向こうから一人の看護士が突如、現れたことに驚かされてしまった。


「国立病院前ぇ、国立病院前ぇ~」

 電車が駅に近づくと車内に放送が流れ、少女は吊革(つりかわ)から手を放し、降車口へ向かった。ギィィっという制動音を響かせて電車が止まると扉が開き、少女は傘を小脇に抱えて駅の歩廊(ほろう)に降り立った。じつは、この少女、変装した翼である。といっても好き好んで、こんな恰好をしているわけではない。そもそも女装は趣味ではないし、今回の装(よそお)いも士官学校の女子用の制服を身に着けているが、それも嗜好(しこう)による選択ではない。この姿はあくまで医療施設(しせつ)へ乗り込むための方便であり、それも気の進まないことなので、お下げに結った三つ編みに瓶底眼鏡といった野暮ったさも気にしていない。それどころか芸者なみの濃ゆい化粧をしているので傍から見ると途轍(とてつ)もなく怪しく映る。

 だが、そうは言っても医療施設へ赴(おもむ)く時は、この化粧と眼鏡が必要不可欠なのである。やがて遠ざかる電車を見送りながら翼は改札口を目指して歩きだした。

「それにしても腹が減ったなぁ」

 大穢土京には放射状に伸びる八本の市街線と二本の環状線と合わせて十本の路面鉄道が走っているが、国立病院は神楽町から見ると城の反対側にあるので城邑内を半周もせねばならず、おかげで目的地に到着した頃にはすっかり昼時を回っていた。

 急いでいたため朝飯を食いそびれた胃袋が盛大な音を鳴らしていた。

「おい、そこな女子(おなご)」と突然、呼び止められたのは、そんな時である。

 ふと、ふり向くと、そこに一人の少年が立っていた。

「士官生の女子ともあろう者が大衆の面前で盛大に腹を鳴らすとはいかなる了見じゃ」

 翼は目を瞠(みは)った。この爺(じじ)むさい口調に、いかにも優等生らしい面構(つらがま)え。おまけに常軌を逸した時代錯誤のチョンマゲとくれば一人しかいない。うわ、まずい。こいつ鏡花の兄貴じゃん。

 おいら、あの子も苦手だけど、この先輩はもっと苦手なんだよね。

 翼は、すぐにも逃げだす態勢を整えた。

「あっ先輩、おはようございます。急いでますので、これにて失礼」――と即座(そくざ)に回れ右。

「あ、待ちたまえ」その制止をふり切り改札を潜る。駅から病院へ続く大通りは、それはもう立派なものだが、その両側には見舞い客や患者を見込んで商いをする店が軒を連ねている。

 しかも、行き交う人々の傘も咲き乱れ、そこを駆け抜けるのはなかなか難儀しそうだ。

「これ、待てと言うに」やはり、すぐに追いつかれてしまった。

「何故、逃げるのだ?」

 そりゃ面倒くさいから。とは言えないので咄嗟の嘘で誤魔化した。

「本当に急いでるんです。祖母が急な病で入院することになり朝から何も食べずにここへ」

「なんと、そうであったか。いや、そうとは知らずに無礼を申した」

「いえ、べつに、いいっすけど、それより先輩はどうしてここに?」

「む、それがしか……それがしは友の退院が決まってな」

「そうでしたか。じゃぁ急ぎませんとね」

「うむ、だが、その前に拙者は花屋へ立ちよらねばならぬ大切な使命がござっての」

「へぇぇ、じゃ、おいらは、その隣の甘味屋に」――もう、腹の虫が限界だっつぅの。

 というわけで、それぞれの目的地に向かって歩きだし、やがて、甘味屋の前で御手洗(みたらし)団子(だんご)を注文していると、その隣の花屋からも「たのもうっ!」と、喧(やかま)しい声が聞こえてきた。

「はいはい、なんでございましょう!」

「拙者、花を所望(しょもう)したい。だが何を求めてよいのか分からぬ故、ご指南いただきたい」

 慌てて飛び出してきた女性店員は、案の定、すっかり困惑した様子である。

 そんな様子をそれとなく観察しながら翼は焼きたての団子にかぶりついた。

「ほう、花言葉でござるか?」今度は店の中から声が聞こえてきた。

「相手は女性ですか。では、この薔薇(ばら)などいかがです。花言葉はずばり愛でございますよ」

「あ、愛となっ!」一瞬、鼓膜が破れるかと思うような叫び声だった。

 いったい何事かと覗いてみるとモジモジする先輩の前には紫雲(しうん)や朝雲(あさぐも)といった薔薇の名品が並べられ、その向かいでは花切り鋏(ばさみ)を手にした店員が笑みを浮かべていた。どうやら、いい鴨(かも)だと思われているらしい。店員が薦める花はどれも高級品ばかりである。ここは同じ学校の誼(よしみ)で助け船を出してやろうかと翼は団子を囓(かじ)りながら、まごつく先輩の横から顔を覗かせた。

「あのですね先輩。薔薇の花って、その色によって言葉の意味がちがうんですよ。この桃色の薔薇なんて蕾(つぼみ)が開いちゃってるから一本十文です。淡い色の薔薇には病平癒(やまいへいゆ)の意味もあるんです。それから、こっちの胡蝶蘭は特売価格。見舞いの相手が学生なら、そのへんが相場ですよ」

「おぬし、なかなか詳(くわ)しいの」

 芸者の仕事に人づきあいはつきものである。このくらいの知識は常識の範疇だ。

「では、それで、お願いするとしようか」

 先輩が承諾すると、店員は残念そうに舌打ちした。翼はこっそり舌を出す。ご愁傷さま。

 やがて店員が手早く花束を仕上げていく。それを見ているのも気詰まりなので、さっさと退散することにした。ところが、その時である。地面がぐらりとゆれて家屋を激しく軋ませた。

 かなり大きなゆれだったので慌てて外に飛びだす。

「また地震か?」と先輩も出てくる。

 まだ雨降り止まぬ路上は道ゆく人で溢れかえっていたが、そこが不穏な静謐に包まれていた。誰もが何かに怯えるように立ち竦(すく)んでいる。やがて病院のほうから悲鳴が起こり、人波が押しよせてきた。翼は首を傾げながら深月と顔を見合わせた。

「まさか先ほどの地震で病院が倒壊したのではあるまいな?」

「いやいや、あの程度の震度で潰れるような建物じゃないでしょ」

 一瞬のゆれは大きかったが、もう収まっている。それに古いとはいえ病院は立派な木造建築だ。火事ならいざ知らず地震などのゆれには強いはず。それに逃げてくる人は、皆、病院から遠ざかろうとしている。地震による倒壊なら、なにもここまで逃げてくる必要もないはずだ。

「あのぅ、何かあったんですか?」

 すぐ前を行く男を捕まえて訊いてみた。

「よく分からねぇが、なんか恐ろしいことが起きてるみてぇだぜ」

 じつに不可解である。男はそれだけ告げると走り去ってしまった。

「ここにいても埒(らち)が明かねぇや」

 そう唸(うな)るや、翼は男とは逆の方向に向けて駆けだす。

「あっ、お客様、お花は?」と慌てる店員を置き去りにして深月もその後を追いかけてきた。

 やがて病院の前に到着した二人は揃って目を瞠った。まるで建物が燃えているかのように見えたからだ。いや、そうではない。大きな三階建が黒い炎のような闇色に包まれていた。

「なんだ、あれは?」凄まじい呪力も感じられた。そこへ深月が挑(いど)むような目を向けるや、なんの躊躇(ためら)いもなく突っ込んで行こうとするのを翼は慌てて引き止めた。

「先輩、まずは落ち着いてください。どう見ても無防備に飛び込むのはまずいですよ」

 これほどまでに呪力の満ち溢れる中へ入って行くのは、さすがの翼でも二の足を踏む。

「それでも拙者は行くぞ!」と先輩が魔法を召還した。

〈弦子〉が収束し、複雑な魔法陣が浮かび上がるや、そこから輝く結晶体が次々に現れ、それらが周囲の魔力を吸収しながら強力な魔法障壁を造りだしていく。

〈魔掟書〉を必要としないのは、もちろん〈血銘術〉だからだ。そう、確か魔法名は〈響火衰月(きょうかすいげつ)〉。それは敵対する者から魔力を奪い、結界となさしめ、その力を攻撃に変えて敵を討つ攻防一体の覇光魔法である。もし相まみえればこれほど厄介な術もほかに類を見ないだろう。正直言ってかなり興味がそそられる。ここはお手並拝見といこうか。

「なら、おいらも連れてってください!」

「うっ、そんな目で見つめられても困るでござる」

「まだ中に祖母がいるかもしれません。心配なんです!」そういう設定だから。

「お願いします先輩!」さても先輩が女に弱いことは先ほどの花屋で学習ずみだ。ここはもう一押ししてみよう。

「先輩のことは信頼してます。きっと守ってくれると信じています!」

「ならば拙者にまかせるがよい」じつに、ちょろいもんである。


闇色の呪力が光を奪い、視界を閉ざしているが、まったく動けないほどではなかった。

「だが、この闇色の呪力の中では魔法が効力を失うらしい。簡単な光学(こうがく)術でさえ発動しない」

 と祝詞村が〈魔掟書〉を片手にぶつぶつ言うのを聞き流しながら朔夜は彼の横に突っ立っている謎の女を見つめていた。先ほど霧のようなものが発生し、そこから、この女が出てきたようにも見えたのだが、恐らく気のせいだろう。祝詞村も同じく胡乱(うろん)な視線を向けている。

「おい、お前……」

「はい、私、狭霧は新入りの看護士にございます」

「お前、どこから入ってきた?」

「それよりも、ここに懐中電灯がございます」

「なにぃっ!」

 ばっさり無視された質問など最初からなかったように祝詞村は女の肩を鷲掴(わしづか)みにした。

「でかしたぞ新入り! 貴様がその手にする原始的な文明の利器こそ今は何よりも貴重だ!

ともかくだ。今すぐ行動を起こさねばならん。この不可解な事態はまちがいなく特別病棟に原因がある。さぁ、ついてこい謎の女!」

「――はい!」

というわけで特別病棟へ向かうことになった。

 ちなみに、ほかの看護士たちは足手まといということで置き去りにされてしまった。


「さすがは十五夜先輩です。こんな得体の知れない呪力の中でも魔法が使えるなんて!」

「うむ、拙者の術は広範囲に及ぶ魔法にこそ威力を発揮するのだ。ただ、いささか、いつもより魔力の消耗が激しいな。この黒い呪力の塊(かたまり)のようなゆらめきは一種の結界のようだが……」

 深月の術は浮遊しながら障壁を生みだす結晶体で構成されており、それが常に魔法反応の光を発しているので視界を確保するのはしばらく不自由しなかったが、それでも闇色の呪力は時間を追うごとに濃度を増し、今では手探りで前に進むしかない状況に追い込まれている。しかも、ほとんどの者がすでに避難したらしく、院内の通路には誰もいなかった。そこにオギャーオギャーと赤ん坊の泣き声が響き、それに混じって啜(すす)り泣く女の嗚咽(おえつ)が聞こえてくる。古い木造なので床がギィギィと軋(きし)み、これまた心穏やかではいられない。ふと深月の足が止まった。

「別の通路を選ばぬか?」

 まぁ、気持ちは分かる。

「でも、気になります。どうして赤ん坊の泣き声がこんな盛大に?」

「そうかな? ここは病院だから不自然ではあるまい」

「だったら確かめに行きましょうよ」

 明らかに先輩の足取りが遅くなった。それでも、その背中を押して進み、

「ここから聞こえます」

 と指さすと、その扉には保育室と記されていた。

「お先にどうぞ」

「なに、拙者が先か?」と絶句する先輩に「どうぞ」と重ねると恨みがましい目を向けられた。

「まさか先輩?」

「びびってなどおらぬ!」

 先輩は渋々(しぶしぶ)といった体で引手に指をかけ、しばらく躊躇(ためら)ってから、「南無三!」と全開にした。

 かくして、そこには大量の赤ちゃんと数名の看護士が取り残されていたのである。彼女たちは互いに身をよせあい、闇の恐怖に耐えていた。

「救助にきてくださったのですね!」と涙ながらに感激された先輩は、

「うむ、まかせるがよい」などと調子のいいことを言っている。

 とにかく看護士たちに、どうしてこうなったのか事情を訊くことにした。


 その頃、院内の食堂では、とある密談がかわされていた。すっかり闇に埋没(まいぼつ)した広間は得体の知れない呪力に満ち溢(あふ)れ、そんななか机と椅子だけが並んでいる。さても、このような状況になってから小一時間ほど経過しており、彼ら以外のすべての客が避難してからも久しいが、男たちはある密命を帯びているので逃げるわけにもいかず、さりとて怖いので、ここから一歩も動けずにいたのである。

「おい、どうする? これは絶好の機会じゃないのか?」

 一同に派手な羽織(はおり)を着用し、これまた派手な拵(こしら)えの鞘(さや)を腰に差しているが総じて臆病者であった。しかも、よく見れば、その着物の裾(すそ)は擦(す)り切れており、刀の柄(つか)もボロボロである。

 彼らは最近ある貴族に金で雇われた浪人者たちである。このところ危い仕事を請(う)け負って、なんとか糊口(ここう)を凌(しの)いでいるが、今回の依頼はその最たるものだった。

「我らだけで国姫、朔夜を暗殺しろとは……無茶も大概にしろでござる」

「では、どうする。このまま逃げるか? だが金は欲しいぞ」

 じつを言うと、この会話は院内が得体の知れない呪力に包まれる前からくり返されていた。

「さても、あんな天魔憑きを召し抱えているなど怪しきことこの上なしじゃ。信用できぬわ」

「なにやら、あの貴族、想像もつかぬ雲上人(うんじょうびと)の命令には逆らえなかったとか……」

「だが、ここで逃げれば士族の名折れ。この状況は天が我らに味方しているとしか思えん」

「待て待て、どんな状況であれ、朔夜姫を狙うなど我らには荷が重すぎるぞ」

「それに、たとえ事が成就しても、全てを知る我らを生かしておくわけがない。以前、神楽町にて姫を暗殺しようとした時もそうだ。我らは姫の足止めを命じられたが、あれはどう考えても我らだけを下手人に仕立てあげる腹づもりだったとしか思えん。最初から切り捨てるつもりだったのよ」

「やはり逃げるか?」

「でも金は欲しい」もはや堂々めぐりである。

「うーむ」と腕を組んで思案する。そこで、なにげに向けた懐中電灯の明かりに照らし出されたのは食堂の片隅に置かれた食券売り場である。

 その売り場の上には金庫が置きっぱなしになっていた。


 その闇の中で苦悩している者がもう一人いた。その者には特殊な力が備わっている。それは時間の概念(がいねん)を操れるという稀(まれ)に見る才能であったが、残念なことに、こういう修羅場では、あまり役に立たないのが常であった。それでも、その力で周囲に宿る時間を停滞させれば少しは呪力の影響から逃れることができるのか、そんな健気な努力を続け、闇から身を守りつつ、被害にあった医師たちを冒(おか)す魔毒の進行を遅らせようと必死に足掻(あが)いている最中であった。

 その胸に刻々(こっこく)と不安が広がっていく。いずれ、このままでは座して死を待つことになる。予定ではすでに術の影響は解かれていたはずなのに、それがまだ稼働しており、さらなる事態を引き起こしているとは思いもしなかった。やっと再会できたのに、これでは一歩も近づけない。

 ようやく確かな情報が得られたのはこの国にきてから半月ほどが経過した頃のことだった。さても家老の重盛殿の世話になりながら自分なりに探索を続けていたが、所詮は素人(しろうと)の仕事である。彼女がこの国の貴族に預けられたという情報だけは掴(つか)んでいたものの、それ以外のことは何一つとして耳に入ってこなかった。その状況が一変したのは今は芸者として身を立て世間の目から逃れている旧友のおかげであろう。しかしながら、その友人は重盛殿の言っていたとおり幼い頃の記憶を失い、まるで別人のようになっていた。それはとても寂しく、思っていた以上に辛い現実でもあったが、その少年が数奇な人生を歩んでくれていたおかげで、こちらの思惑どおりに彼女との邂逅(かいこう)まで導くことができたにちがいない。とはいえ朔夜姫が謎の〈魔掟士〉たる旧友の行方(ゆくえ)を追っており、その旧友が街を守るために毎夜のごとく夜回りをしているからといっても、まさかここまで上手くいくとは思っていなかった。いわく、その少年の近くにいれば、もしかすると重要な手がかりを得ることができるかもしれないという妙案。まさに重盛殿の慧眼(けいがん)と情報力には感服するばかりだが、なんと、それから間もないうちにそれが実現してしまい、いささか面食(めんく)らい、心が引き裂かれるような現実をつきつけられた次第である。

 こうなっては、もはや、じっと様子をうかがっていられるような心境ではなかったのだ。

 ただし、この単独行動はさすがにまずかったようだ。はたして蜘蛛女の正体が自分の探していた人物と判明したのはよいが、いささか危険な状況に陥(おちい)っている。こんなことなら素直(すなお)に支援を請(こ)うべきであったと今さらの後悔もなきにしもあらずだが、されど、かの旧友をこれ以上この件に関わらせるべきでないと判断したことはまちがいではない。それでなくても彼は昨晩も仕事帰りに夜回りをしていたうえ、帰宅したら帰宅したで試験勉強に打ちこんでいた。朝方気づいたら、そのまま机に突っ伏して眠っていた。それを布団まで引きずっていったのは自分である。そんな彼をまたもや面倒に巻き込むのは躊躇(ためら)われたし、すでに禁術が無効化されているのなら一人でも何とかできると思ったのだ。

「とは申せ、〈火鳥封月(かちょうふうげつ)〉の力があれば、この医師たちは確実に救えたでおじゃる」

 それに引きかえ自分の非力が呪わしい。このままでは医師たちと同じ運命を辿るは時間の問題だろうし、さても禁術が解除されていないのでは彼女をここから救い出せても意味がない。

 かの少年に宿る奏焔(そうえん)の力は、それが魔法なら消し去ることができるので、まったく効果がなかったとは思えぬが、ここへきて、さらに禁術の力が増し、なおかつ別の何かへと変化しつつあるということは、この状況へ導くための姑息(こそく)な罠が仕組まれていたと推察すべきであろう。

 今は亡き揺光国主、煌月鳳熾(かがやづきたかおき)が家臣らともに滅びた際、その怨念から途轍もない魔術的怨霊が生みだされ、それが破軍の帥都(すいと)を滅ぼしたという。その闇に墜ちた怨念を街ごと封印するために少年の力が人柱として利用され、その影響で過去の記憶まで失っているというが。

「やはり、ここは、なんとしても麻呂に破軍の封印を解除させたいのでおじゃろうな」

 あの妄執(もうしゅう)に染まりきった男の姿が瞼(まぶた)に浮かび、にわかに全身が寒気に包まれた。

 

 看護士たちの話によると、昨晩、特別病棟で魔病(まびょう)患者に対する施術が試みられ、それからしばらくした深夜に異常な魔力が検知されたとのことである。そこで急遽、医師団が集められ、夜を徹しての対策会議が開かれた後、再び、彼らが病棟内へ入ったのが今朝がただったという。

 それ以来、彼らと接触した者はいないとのこと。といっても、それを危ぶむ者などいなかった。特別病棟と一般病棟は隔離されており、医師団との接触も必要ない限りは行わないよう厳命されていたからである。

 しかも特別病棟の周囲は厳しい警備態勢にあり、医師団も先鋭中の先鋭とくれば、誰もが安全性に疑問を抱かなかったのも無理はない。そんななか警備の担当者らが忽然(こつぜん)と姿を消し、大量の赤ん坊が発生するという事件が起きたのである。

「じつに面妖な事件でござるな」

 眉間に皺(しわ)を刻む深月(みづき)の傍らで、なんだか悪い予感に誘われていた翼は背中に嫌な汗をかいていた。もし、この事件に魔法が絡んでいるとすれば、そんなことが可能な人物はさても一人しか思いつかない。やがて話を聞き終えた翼は深月と部屋を退出し、その足で特別病棟を目指すことにした。ちなみに看護士たちは足手まといなので、その場に置き去りにするしかなかった。


「まさに油断大敵でござるな」

「それより迷子になってません?」

 どうも同じ廊下をぐるぐる回っているような気がする。

 さっきも、とんだ道草を食ったばかりである。

「ここにちがいない」と自信満々に言うので、定食の値札が貼られた扉を開けると、やはり、そこは食堂だった。おまけに男が四人、ちょうど盗みを働こうとしている現場にも遭遇した。

「この曲者め!」と、そこへ先輩の声が響き、驚いた四人がいきなり抜刀して襲いかかってきた。先輩も刀を抜いて応戦の構えである。おかげで滅多に見られない眼福にもありつけた。

 そう、先輩の〈操魔刀(そうまとう)〉である。その美しさと言ったらなかった。刀身は青みを帯びた鎬造(しのぎづく)りで、その鎬(しのぎ)にそって浮かぶ棟焼(むねやき)の刃紋(はもん)も妖しげに神秘的な輝きを放つ大層な業物(わざもの)であった。

 その白刃の煌めきが突進してきた男を金庫ごと袈裟切りにした。金庫は真っ二つに割れ、小銭が飛び散ったが曲者は肩を砕かれただけのようだった。血飛沫を上げることもなく悶絶し、そのまま昏倒してしまう。そんな練達の技を目の当たりにしては歯向かう意志など消え失せても仕方なきことであったろう。

 男たちは床に額を擦(こす)りつけ、口々に許しを請(こ)いだした。

 そんな連中がたまさか武士道一直線の先輩に出くわしたのが、これまた運の尽きだった。

「そのほうら墜ちるところまで墜ち、士の誇りまで失うたか。即刻、刀を返上して腹を切れ」

「しゃらくせぇ。相手は二人だ。しかも女連れだぞ」

「おぬしらの相手など拙者一人で充分でござる。安心せい。魔法までは使わぬでおいてやる」

「くそう、若造が舐(な)めやがって!」

 と三方から先輩を取り囲んだ。多勢に無勢を侮ってか、それとも、たんに腕がないだけか、誰の目にも分かるほど隙だらけだった。一方、こう見えて、先輩は剣道の大会で優勝したこともある猛者(もさ)である。やはり勝負は一瞬で終わった。わずかな動きで相手の剣筋をかわすや目にも止まらぬ一閃が駆け抜けた。男たちはただ呆然とした苦悶を残し、その場で目を回している。

「心配いたすな。刀背打(みねう)ちでござる」

 と意識をなくした浪人たちを見下ろして御満悦の先輩に翼は呆れながら言ったものである。

「いちいち恰好つけてないで手伝ってくださいよ」

「なんじゃな、化粧の濃ゆい女。曲者を成敗したのだぞ。少しは労(ねぎら)ってくれてもよかろうが」

 翼は浪人たちの着ている上着を剥(は)いで、その下帯を外し、それぞれの手足を縛(しば)ろうと悪戦苦闘していたのである。帯は四本しかないので上手く縛れない。このまま放置して逃げられでもしたら面倒だし、さて、どうしたものか。こいつら、姫様の命を狙っていたあの四人組だよね。

「なに心配は無用じゃぞ。自力では動けぬよう足首の腱(けん)も断っておいたでござる」

 帯は止血に用いるしかなかった。

「どこが刀背打(みねう)ちだよ。いくらなんでも、やりすぎじゃないですか!」

「賊に情けをかける心情など持ち合わせてはおらん。おぬしは現状を理解しておらぬようだな。看護士らの話を聞いたであろう。今がどれほど不可解な状況であるのかを。そのような時に潜んでいるなど、ただの盗人ではあるまい。ここは徹底的に叩きのめしておく必要があったのだ。どうせ後々、騒ぎになるから先に言うておくが、今、この病院には朔夜殿がおられるのだ」

「えっ!」ここは知らなかったふりをしておこう。咄嗟に出た驚きは演技である。

 そこで先輩の身体がふらついた。「くっ、いささか魔力の消耗が厳しくなってきたぞ」

 さては無理もない。ずっと魔法を発動しっぱなしなのだ。そろそろ疲労が頂点に達してもおかしくない。なのに、まだ目的の場所が見つからない。面倒なので奏焔魔法を発動させて、この不可解な事態を一気に解決してやろうかと、そんな思いが頭をよぎるが焦りは禁物である。 

 まったく、こんな時こそ狭霧の支援が必要なのに、いったい、あの残念くのいちはどこで油を売っているのか――

「とにかく急ぐぞ」

「はい!」というわけで、今なお迷走しているという次第である。

「あのぅ先輩、そっちは御婦人用の厠(かわや)ですよ。何をどさくさに紛れて」

「むぅっ、案内標識とかないのか。特別病棟が一階にあるのは確かなのだが」

 と苛立つ先輩の双眸が闇の中でも分かるくらいに輝いた。

「あったぞ!」ついに見つけた標識である。

〈特別病棟〉と書かれた文字版(もじばん)が矢印とともに天井からぶら下がっていた。

「壁ではなく頭上にあったとは迂闊(うかつ)であった」と、その矢印に従って進むにつれ闇色がますます濃くなっていく。その闇のなかに突如、青白い女の顔が浮かび上がった。

「ぎゃぁっ!」

 恥も外聞もなく二人の絶叫が迸(ほとばしっ)た。

「うるさい!」と闇の中からまた別の声もした。見れば、そこに三人の男女がいる。

 彼らは行き止まりにある金属扉の前に立っていた。しかも闇に浮かぶ不気味な顔は狭霧ではないか。

「なんだ驚かせんなよ」

 と息を吐くと、狭霧の目もびっくりした猫の目ように大きくなった。

「むっ、化粧の濃ゆい女。この看護士と知り合いか?」

「なんだ、新入り、お前の知り合いか?」

 双方からの質問に翼は慌てた。しかも、この男、母の主治医をしていた祝詞村(のりとむら)じゃないか。

 さても今回の微に入り細にこだわる変装と、この闇のおかげで、この口汚ない性悪医師)もさすがに気づいてないようだが、ここで正体が露見しては面倒だ。なんとか切り抜けねばなるまい。

「あはは、お婆ちゃんたら、また、そんな恰好で人を驚かしたりして、もう病気はいいの?」

「お婆ちゃん?」

 素で応じる狭霧に翼はうんざりである。

「やだな、もう、健忘症が(けんぼうしょう)また酷くなっちゃって」

 なにしろ、そういう設定だもの。

 静寂を湛える男二人の視線が途轍もなく痛かった。そこへ天の助けと鮮烈な声が響いた。

「おぉ、深月ではないか! 何をしておるのだ、こんな所で?」

 その輝きは闇の中でもはっきりと分かるほどの美貌である。

「あっ姫様じゃん。お疲れ様です」どさくさに紛れて翼は敬礼した。

「うむ、ご苦労じゃの」と朔夜も律儀に敬礼を返してくれる。

 その横で途端によそよそしくなる先輩に翼はなにやら感じるものがあった。

 先輩の言ってた友人というのは彼女のことだろう。あの花屋で四苦八苦していたのも彼女のためだったにちがいない。ここは後輩として助け船を出してやるのが人の情けというものだ。

「先輩ったら姫様の見舞いにきたんですよ。さっきも花屋でどの花にしようか悩んじゃって」

「ほう、おぬしが花とは珍しいの。して、その花とやらどこに?」

「あっ、忘れておった。すまぬ、この騒ぎで失念してしまい……」

「あ、でも、すごく頑張ったんですよ。それはもう、今にも店員を切り殺しそうな勢いで」

「貴様、余計な事を申すでない!」

 射殺さんばかりに睨まれた。

「なんだ、お似合いの二人だな」

 さらに朔夜が爆弾発言を投下する。

「やや、これはちがう。誤解でござるぞ朔夜殿。それがしは、この女とは何の関係も」

「まぁよい。それよりも、どうしてここに?」

 その再びの質問には翼が答えた。

 先輩はなんだか一気に老け込んだみたいにしょげかえっている。どうやら魔力も相当に消耗したらしい。ちょっと心配になりながら看護士たちから聞いた話を説明した。

「そんなことなら知っている」

 やがて朔夜の隣にいた祝詞村が侮蔑(ぶべつ)の表情を浮かべた。さっきから何をしているのかと思えば、金属扉に聴診器を当てて中の様子を探っていたらしい。

「さても、祝詞村殿、何か分かりましたか?」

「うむ、鍵が掛かっておる」――え、それだけ?

 そこに聴診器が活躍する余地があるのかと首を傾げていると、その白衣眼鏡はこう言った。

「なれど、この向こうから謎の呪力が発生しているのは確かだ。されど残念ながら鍵がない」

「ならば」

 そこで幽鬼(ゆうき)の如く立ち上がったのが十五夜先輩である。刀の鯉口(こいくち)が切られた。

「待て、不用意に開けるのは危険じゃぞ!」

 そんな忠告も耳に届かぬ様子の先輩は刀を居合(いあい)抜きに一閃、まさに一刀入魂とはこのことだ。

 目にも止まらぬ神速が煌めいたかと思うと扉は砕かれ、ガラガラと崩れ落ちた。

「ふん、刀の錆(さび)にもならぬわ」と、いちいち格好つけなきゃ気がすまないのか、この人は。

「ったく、これだから深月には困ったものじゃ。刀を持つと人が変りよる」

 だが、そんな愚痴も一気に溢れ出てきた闇色に掻き消されてしまう。

「くぅぅ魔力も体力も根こそぎ奪われていく。これでは何も見えぬし、動けぬではないか」

 朔夜が呻く。この闇の中でも周囲を把握(はあく)できるとすれば、それは自分のほかには狭霧くらいだろう。まずは鋭敏な聴覚で周囲の状況を脳裏に描いていく。この程度なら、なにも〈魔掟書〉を起動するまでもない。翼は入り口でまごつく者たちを残し、さっさと棟内へと歩を進めた。視(み)ろ視(み)ろ視(み)ろ。この闇の正体を見極めろ。さらに通路を行くと、その奥に隔離された病室があった。寝台に女が横たわっている。その周囲には鬼蜘蛛(おにぐも)の分裂体がうじゃうじゃいて、その糸に絡みながら数名の医師が気を失っていた。総じて肌が黒く変色しつつあるが、まだ息はあるようだ。空気の微弱な流れを観測するだけで様々なことが分かる。

 翼はやれやれと嘆息し、床に目を落とした。そこに二十代半ばくらいの男がまるで子供のようにうずくまっていた。

「君、そこで何してんの?」

 少しくらい意地悪な口調になってもこの際はご愛嬌である。

「翼殿ぉ!」

 魔法で二十代の姿を維持している二郎が目に涙を浮かべて顔を上げた。

「助けにきてくれたでおじゃるか?」

 取り敢えず無事だったことに満足することにして、「まぁね」と頷く。

 訊きたいことや言いたいことは山ほどあるが、今、それを問いつめても無駄だし、答えられるような状況でもない。

「さぁ、帰ろう。こんな所にいてもろくなことないよ。ただ一つだけ教えてくれない?」

「ほう、その話、わらわにも聞かせてもらえぬか」

 咄嗟に身をかわせたのは感覚を鋭敏にしていたおかげである。刹那、黒光りする重力魔法の剣尖(きっさき)が向けられた。朔夜の〈血銘術〉が織りなす魔法の槍。その穂先が翼へと向けられていた。

「ふむ、わらわの一撃をかわすとは、やはり徒者(ただもの)ではないな」

 闇に意識を凝らすと、朔夜姫のすぐ後でおろおろしている狭霧の姿があった。

「女に免疫のない深月は誤魔化せても、わらわの目は誤魔化せぬぞ。おぬし、この前、下町で出会うた芸者であろう。いや、まことに芸者かどうかも怪しきものよ。そのほうらは何者じゃ」

 こうなったら、しらばっくれるのは難しい。

「あのぅ、十五夜先輩は?」と陳腐(ちんぷ)な返事で一時(いちじ)休戦を申し込んでみる。

「さっきの抜刀で力尽きた。祝詞村はただの医師。濃い呪力にあたって同じく昏倒しておる」

「姫様も限界でしょ。おいらは先輩の魔力に守られてましたから、まだ余力がありますけど」

 こうなったら持久戦かな。

 でも、そこに倒れる医師たちの様子を視る限り、悠長(ゆうちょう)に構えている暇はなさそうだ。

「狭霧たのむ」と誰にも聞こえぬ無声音で命じると、その一瞬で狭霧から魔力が噴出した。

「なにっ!」驚いたのは朔夜である。

「同じく、この不可解な呪力を浴びながら、何故、そのほうらは――」と咄嗟に魔法を再発動させたが、その翻(ひるがえ)る一閃は狭霧の体をすり抜けた。

 その魔法の霧が再び出現した時には首筋に小柄(こづか)が突きつけられていた。小柄とは〈操魔刀〉の鯉口に添(そ)え付けられた小刀である。

「ご無礼を」と一言断り、狭霧は当て身を喰らわせた。

 くっ、と顔を歪めて朔夜は昏倒。それを床に寝かせてから狭霧が無言で頷いた。

「というわけで、改めて教えてくれる。つまり、あの女の人を救いたいんだよね?」

 もう一度、二郎に問いかけた。

「そうでおじゃるが……」

「まぁ、協力するのは吝(やぶさ)かじゃないんだよ。正直に言やぁいいのにさ」

「かたじけないでおじゃるぅ!」

「うわ抱きつくな。なんだ鼻水でぐしょぐしょじゃないか。あっ、汚いから擦(こす)りつけるな!」

 喚きながら翼は眼鏡を外し、魔力を全力でふり絞(しぼ)った。野暮ったい三つ編みが解け、女子用の制服が深紅の直垂(ひたたれ)に変化する。じつは、この緊急時だからこそ試してみたいことがある。

「あっ、また麻呂の魔法が勝手に発動しているでおじゃる!」

 それは自分の魔力を二郎の魔力に同調させるという挑戦だ。やはり二郎に宿る魔法の性質が瞬時に理解できた。この前はまだ漠然としていたが今回ははっきりそれを感じることができた。

「もう君は限界だろ。医師たちの命を守ろうとして、よく頑張ったよね。どうやら、おいらには他人の能力を、その場限りで拝借できる変な力が目覚めちゃったみたいなんだよね」

「なんとな!」

 

 その一部始終(いちぶしじゅう)を薄れゆく意識のなかで朔夜は茫洋(ぼうよう)と眺めていた。幾つかの魔法が同時発動したせいか少女が直垂(ひたたれ)姿の青年へと姿を変えていく。

「……鳳熾(たかおき)様か、いや、ちがう、あれは」

 声にならない声がもれた。その瞬間、深紅の魔力が迸る。紅蓮の炎が立ちのぼり、漆黒の闇を焼き払う。闇は風に煽(あお)られる木の葉のように蹴散らされ、そこに心地よい温もりを感じた。あの蜘蛛女(くもおんな)に遭遇した夜も、これに似た感覚を味わっている。いや、過去にもこれと同じ安らぎを何度も味わっている。だが、その力は、ある少年の死とともに永遠に失われたはずなのだ。

 それがなぜ、ここに蘇(よみがえ)っているのかも不思議でならず、今こそ真実を確かめなければならぬのに体がどうしても動かない。ゆらめく炎に揺蕩(たゆた)いながら朔夜は深い眠りへと沈んでいった。

 

 一方、翼は寝台に横たわる女に視線を向けていた。今度こそ禁術の正体を見極めろとばかりに瞳が緋色に輝き、その光芒(こうぼう)が術式の奥底に眠る禍々(まがまが)しい執念を捉(とら)えた。その闇の中に見たものは白い狐の仮面を被(かぶ)った修験者風の男が数名と一人の貴人の姿であった。男は二十代に変身した二郎にどことなく似ていたが、その目はまるで地獄の底でも見ているかのように冥(くら)く、憎しみを凝固させたような冷たさに満ちていた。その男が闇の中から囁いてきた。

「よくぞ術を解いたものよ。さすがに煌月(かがやづき)の血は侮(あなど)れぬな。だが、まだこの女を渡すわけにはゆかぬ。この禁術は破軍の怨霊より抽出した魔力を触媒に鬼蜘蛛と融合させて成り立っておる。その結合が解ければ怨念の残滓(ざんし)が女の魂からもれ出し、すでに穿(うが)たれた封印の亀裂から闇に眠る呪いを呼び覚ますといった寸法よ。ほれ見よ、闇に住まう怨霊どもが女を奪いにくるぞ」

 すると、時同じくして女の周囲の闇だけが色濃く凝縮した。それは無数の手だった。たくさんの黒い手が女に群がっていく。その手にゆさぶられるようにして女がうっすらと目を開けた。「叶芽っ!」と二郎が叫び、

「殿下…」と女が応じる。その目から一筋の涙がこぼれ落ちた。

「お会いしとうございました。うっすらとですが、なんとか記憶がよみがえってきました。私は月陰皇子(つきかげのみこ)様の術中に墜ち、もはや、この身は……」

 その束の間を邪魔するように無数の手が絡みついていく。そこへ渾身(こんしん)の炎を叩きつけた。

 女の身体に宿る禁術はすでに消えたはずなのに、どうして呪力が衰えないのかと焦った。

 その呪力が周囲の空間に無明の穴を穿(うが)ち始めたからである。まるで無数の手が闇の底へ引きずり込もうとしているようだ。二郎が慌てて駆けより、女の手を握(にぎ)りしめた。

「ようやく、そなたを見つけたのじゃ。なのに……」

 悲痛な声音ごと二郎も闇の中に引きずり込まれようとしている。その手を女がふり解(ほど)いた。

「禁術は消えても我が魂(たま)には、まだ〈天魔〉が巣くっておりまする。私から離れてください」

 その声も無明の闇に消えようとしていた。もはや打つ手はないのか。やがて女は闇に没し、その姿を消してしまう。それを機に周囲は一変し、平穏が取りもどされた。幻でも見たかのように忽然と闇色も消え、ただ嗚咽(おえつ)する二郎が閑散とする病室にうずくまっているだけだった。

「そなたの力でも救えないとは、どういうことでおじゃる!」

 その肩が悲しみに震えていた。翼にも何が起きたのか理解できない。ただ救えなかったという事実だけが突きつけられる。激しく床を叩く二郎の肩にそっと手を置き、その慟哭(どうこく)に静かに頭をふった。それを合図に狭霧の身体がゆらめいて霧散(むさん)する。その霧が二人を静かに包むや、この場から消し去っていく。後には遠くに鳴り響く雷鳴の音だけが残された。


                               第四話へ続く

   

  大谷 歩  メールアドレス

    oayumu@gmail.com


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