第2話 【闇の胎動】

〈月下統一(げっかとういつ)帝国〉。この唯一無二なる大帝国が誕生したのは今から百年ほど前のことである。

 さらに東の大陸の、そのまた東に寄り添う小さな島国が、その国の名を改めて、〈月下帝国〉と称したのは、それよりさらに百年ほど前のことと帝国史は伝えている。

 突如、いずこかも知れぬ異層の世界から来訪した〈天翼人(あまつばと)〉に月を占領され、その宇宙艦隊の偉容に世界が圧倒されていた頃の――まだ、誰も魔法を知らなかった頃の話である。

 さて、その大陸のおまけのような小さな国が〈月下帝国〉を名乗るようになった切っ掛けは、その情勢を好機と捉え、世界に先駈けて異界からの来訪者と国交を結んだことにある。

 その開国の在り方は、弱者が強者に恭順を示す卑屈な外交に止まらず率先して異世界からの移民を受け入れ、民族的に同化していくのも厭わぬものであったというから、さぞや当時の世界各国を驚嘆せしめたことだろう。しかしながら、これは世界に出遅れた小さな国が起死回生を図(はか)り、その未知なる文明に頼ったと考えれば、なんら不思議なことではない。

 ともあれ、後の歴史家はこう語る。

 

 かの国ほどの柔軟性が人類共通のものであれば、逆に、その後のめざましき発展はなく、人類は未だ〈天翼人(あまつばと)〉の支配から脱していなかったであろうと。つまることろ宇宙(そら)から地上を睥睨されても、その恐怖を堪忍できる国などほかにはなかったということだ。やがて世界は宇宙に生存圏を求める戦争へ突入し、さしもの帝国も共存平和などといった理想を掲げていられる立場ではなくなってしまう。まさに、それは人類史上稀に見る大転換であり、地上もまた〈天翼人(あまつばと)〉と等しき力を持つべく魔法というものに未来を託す必要に迫られ、その努力はやがて、かの宇宙の支配者たる〈天翼人(あまつばと)〉にも劣らぬ魔法の文明圏を地上にもたらす結果へと繋がっていった。

 もはや、こうなると宇宙と大地の戦力差は僅かなもの。いや、数で圧倒的に不利な〈天翼人(あまつばと)〉が人類を支配し続けることなど不可能であったにちがいない。さても魔法歴九十二年のことである。ついに帝国の大艦隊が侵攻を開始し、月の都を包囲せしめ、苛烈な攻撃を行った。その侵攻は数年に渡って続き、数多(あまた)の惑星都市を陥落させたと言われている。一方、それに対する〈天翼人(あまつばと)〉も月における最大都市に立て籠もり、その攻撃に長らく耐え続けたと言われるが、やがて滅亡は免れぬと覚悟したのであろうか、あらかじめ太陽系内に張り巡らせておいた終焉魔法を喚起)させるや次々と自らの命を断ち、その呪いを空前絶後の魔術に託して、この世を去ったと言われている。その呪いが、かの恐ろしき怪物を生み出したのである。すなわち〈天魔(てんま)〉である。〈天魔〉は人類に対する呪いそのものであった。月を中心に発生した、それらの怨霊はすべからく地上へ殺到するや、そこに存在した数多の文明を滅ぼしてしまった。その壊滅的な被害から逃れることができたのは魔法の加護を最大に得ている、かの帝国のみであったと言われている。それ故、その後に科せられた帝国による世界復興もまた過酷なものであった。

 そこで新たな統治体制を築くべく月下皇帝は〈天翼人(あまつばと)〉との戦を(いくさ)勝利に導いた七人の英雄を滅びた世界各地に派遣し、それぞれに帝国を守護する国を興すよう勅命を下されたのであった。すなわち〈天枢(てんすう)〉、〈天璇(てんせん)〉、〈天璣(てんき)〉、〈天権(てんけん)〉、〈玉衝(ぎょくしょう)〉、〈開陽(かいよう)〉、〈揺光(ようこう)〉という七つの国の誕生である。やがて七つの国は、その後に興った様々な属将国に先駈けて帝国を支える責務を負うことになり、これまでの長年にわたり秩序を維持する役割を担ってきたのである。

 とはいえ情勢の変化は歴史の必須。さしもの帝国も長らく続く平穏の中では腐敗を止めることができず、それによって引き起こる様々な衰退は各国の覇権争いを増長させ、世は再び乱世の時を迎えていた。その最初の犠牲になったのが七天帥国(しちてんすいこく)の一つ、揺光帥国であった。それ以来、揺光国は衰退の一途を辿り、戦後の復興や朝廷から押しつけられた国民総出での防人(さきもり)任務に負担を強いられ、どの国よりもひどい財政難と人材不足に悩まされていたからである。

 おかげで国防の要となる士官学校も新帥都(しんすいと)である大穢土京(おおえどきょう)にわずか一校という体たらくであり、しかも、その学校を統括しているのも防衛省の任ずる〈生徒会〉と称する学生組織にほかならなかった。ただし、この生徒会、地上における兵力の半数近くを掌握し、帥都の防衛を担う士官学校を統括しているだけに、その権限は校内のみに止まらず、特に軍事面に関しては強い発言を有することで有名であった。

 さて、そんな生徒会室の隣に、これまた〈生徒会顧問(せいとかいこもん)〉という役職名を掲げた執務室がある。

 こじんまりとした部屋である。なぜなら、その部屋の主は一人しかおらず、しかも、ただの名誉職だからである。そんな顧問であるところの上弦朔夜(じょうげんさくや)は高等部翼士科(よくしか)の一年生に属している女子生徒である。只今もっか眉間に皺をよせながら生徒会から回された訴状に目を通しているところであった。ちなみに彼女は前(さき)の国主代理を務めた上弦帯刀(たてわき)の孫娘である。

 その祖父が昨年病で他界し、両親も幼い頃に亡くしているため今や国主代理の地位をも受け継ぐ立場にあるが、そんな名門の出自にもかかわらず、そのような名ばかりの閑職に甘んじているのは逆に、その身分が仇になってしまったからであろう。

 おまけに祖父が亡くなる前から国の要職は筆頭家老(ひっとうがろう)の十五夜重盛が独占しており、名門の家督を継いだからといって国政に関わるわずかな権限も与えられてはいなかった。その顧問の仕事も生徒会が見放した訴状に目を通すのが関の山で、今日も今日とて廃棄処分すれすれの書類しか持ってこれなかったと悔やむ友人の落胆もよそに漆黒の絹地に桜の花をあしらう唐衣(からぎぬ)型の特注制服も凛々しく真剣な顔で訴状を吟味している姿はじつに健気というよりほかにない。

「毎度のことながら、今日も特筆すべき懸案はございますまい」

 その姿を見るにつけ、つくづくと彼女の境遇を嘆かずにはいられない翼士科長(よくしかちょう)の十五夜深月(みづき)は今日も執務室の片隅にある給湯室で茶を沸かしながら盛大な溜息を漏らしているのだった。

「そういえば、街中で〈天魔〉に遭遇されたと聞き及びましたが、まことにございまするか?」

 そんな質問をしながら焜炉の火を止めた。だが返事はない。それでも気にせず急須に茶葉を放りこむ。てんこ盛りである。そこへ熱湯を注ぐと凄まじき色の濃茶(こいちゃ)が完成した。

「んっ、あぁ、鬼蜘蛛(おにぐも)のことか? もう二日前の夜のことじゃぞ」

 ようやく茫洋とした返事が返ってきた。仕事に没すると彼女はいつもこうである。しかも、持ち込まれた内容には一切文句を言わず、それどころか、今や『訴状のごみ箱』と揶揄する者もいるのに、そんな影口などどこ吹く風と、どんな些細も見逃すまいと心がけてくれる。

 やがて給湯室から出てきた深月は、その手に湯呑みを二つ抱えていた。

「いやはや、このところ中級あたりの出没率が少々高いとは懸念しておりましたが」

 その体が一瞬だけよろめいた。ぐらりと建物がゆれ、藍(あい)染めに銀糸で不死鳥の紋章を飾り縫いに散りばめた素襖(すおう)型の制服に微かな緊張が走る。震幅はそれほどでもなかったが、せっかく煎れた茶がこぼれてはいけないので反射的に湯呑みを机の上に避難させた。

「また地震でござるか。これも最近、多うござるな」

 若干、気むずかしそうな面差しで気遣わしく窓の外を見やる。この部屋は天守閣の十八層目に位置する四十階部分にあるので窓から見下ろせば翔空路(しょうくうろ)が一望できる。今日も多くの生徒が郭外に(くるわがい)蔓延(はびこ)る〈天魔〉を駆除すべく、その責務に勤(いそ)しんでいるようだが特に仕事に支障をきたしている様子は窺えない。それを見るともなく確かめてから深月は朔夜(さくや)のほうへ顔を向けた。

 今ではもう時代遅れの月代(さかやき)を剃り、きりりとした顔立ちにびしっと髷(まげ)を結った出立(いでた)ちは清々しいというより武骨な雰囲気を漂わせている。ともすれば威圧を与える士族然(しぞくぜん)とした態度も、その木訥(ぼくとつ)とした挙措に馴染むと莫迦(ばか)丁寧にしか見えず、同じ学年の朔夜にも慇懃(いんぎん)な態度で接するのは、そんな彼の生真面目さ故のことであろう。同じく一年生ながらも翼士科長の職務を拝命しているのは、その実力に加えて糞真面目な人柄を考慮されてのこととも言われているが。

「まぁ、自然現象だけになんともなるまい。それより、こんな学年末に、ほかの生徒会長が不在では、そちも大変であろう。早々に職場へもどったほうがよいのではないか?」

「そのような気遣いは無用にございまするぞ。さぁ、茶が入りましたぞ」

「うっ、かたじけない」そして毎度の如く朔夜の顔に亀裂が走る。

「苦(にが)ぁっ、熱ぅっ!」

 ちなみに、ここで言う、ほかのとは、技士科長と航士科長の二名のことである。

 生徒会は防衛省の任ずる三人の生徒会長が鼎立(ていりつ)して運営している組織であり、深月(みづき)以外の二人は数日前から他国の士官学校へ親善交流に赴いているので現在(いま)は国内にいないのだ。

「おや、そこまで眉間に皺をよせるほどの懸案などありますまいに?」

「それは、そちの煎れた茶のせいであろうが……とはいえ、またもや例の蜘蛛女(くもおんな)とやらの目撃談が相次いでおるようじゃの」

「それは先ほどの鬼蜘蛛と何やら符号いたしまするが、して、その後どうなりましたか?」

「うむむ、あれは何者の術であったかの。それはもう凄まじい奏焔(そうえん)魔法であったぞ。その鬼蜘蛛が恐れをなして逃げおったわい」

「逃げた? 鬼蜘蛛と言えば確か五級指定の〈天魔〉。そのような中級が状況の判断などできるとは思えませぬ。敵わぬ相手であろうとも闇雲に襲いかかるが常でござろう。そのような知性が備わってるとすれば少なくとも二級か、あるいは、それ以上の手強き相手にございまする」

「うむ、それ故、わらわも予断を許さぬ事態と思うておる。おまけに、その怪物を退けた術者もまた不明のままじゃ。ふり返った時には、もう誰もおらなんだぞ」

「さても解せぬ話でござるな。その者は逃げたのでござろうか? ならば何故でござる?」

「ふむ、そちは夜な夜な巷を騒がせておる謎の〈魔掟士〉の噂を耳にしておるか? この半年、わらわは毎晩のように、そやつを探して街へ出ておるが、まだ一度も出会えておらぬ」

「あぁ、亡き殿の幼き頃にも似ているとか噂されている?」

 思わず、ぞんざいな口調になってしまい、しまったと思ったが、すでに遅かった。

「そちは、ただの噂と申すか?」

 いきなりの仏頂面にも面食らってしまう。

「言うておくが先代様に似ておるという噂だけで興味を持っておるのではない。弱きを助け、人知れず悪に立ち向かう。そんな天晴れな人物が世に埋もれておるのが嘆かわしいのじゃ!」 

 そこは反論したいのを我慢しながら深月は目を逸らした。これさえなければ立派な姫様なのにと、その背後を見上げる。そこには豪華な扁額(へんがく)に収められた肖像画が飾られていた。緋色の束帯(そくたい)姿で佇む人物。描かれているのは九代目の国主、煌月鳳熾で(かがやづきたかおき)ある。さても朔夜姫(さくやひめ)の九代目贔屓は有名である。最も尊敬する人物は鳳熾(たかおき)様。もし将来、夫にするなら、かの御仁のような殿方がよいと公言して憚らない。確かに深月から見てもいい男とは思う。さすがは月下一の美丈夫(びじょうふ)にして史上稀に見る名君と謳われただけのことはある。ただし、史書に記(しる)される彼の評判は最悪と言ってもいいだろう。なにしろ史上最悪の反逆者として九年前の動乱の折に捕縛され、切腹を申しつかり、すでにこの世にいないのだから。だから心配にもなる。それでなくても彼女は朝廷や門閥貴族から煙たがられている存在だ。その状況も踏まえて少しは自重して欲しいものだが――……

「まぁ、よい。そのことは置くとして、ほかにも気になることがある。なんとも珍妙なれど、まだ、この寒い時期に学内で筍(たけのこ)がニョキニョキと顔を出し、早くも桜が三部咲きという怪奇現象が起きておるそうな……」

「……いやはや、じつにくだらぬ雑事ばかりで申しわけない。しっかり確認しなかったのは、それがしの責任でござれば、しかし、そのようなものは、まさしく地回りの管轄にござるぞ」

 地回りというのは町奉行配下の同心か、またはその者が手下に使う下級捕吏の別称である。

「いちいち気にするでない。そう気遣われては息も詰まりそうじゃ」

「あいや、これも性分にござれば」

「そちも難儀な性格じゃの」

 と、そっぽ向く朔夜の長い黒髪が不機嫌そうに跳ね、その気詰まりに困惑した深月は、ほかに話題はないかと思案し、ようやく先ほどの会話に共通のものを見いだした。

「そういえば桜と言えば――」

「うむ、そうじゃの、幼き頃を思い出すの……」

 ふと、寂しげに瞬く双眸に穏やかな光が宿り――その様子に安堵した深月の心もまた遠い過去へと飛翔していく。そう、かつてこの国の帥都(すいと)は大穢土京ではなく、ここから八十粁(キロ)ほど離れた破軍(はぐん)京というより大きな城邑(じょうゆう)に置かれていた。その山間の盆地に築かれた城は不死鳳(ふしとり)城と呼ばれ、三十八層の大天守を持つ城郭と、当時は東の帝都とも称された帝国随一の城下街を誇っていた。その城下には、これまた数百本もの桜が生い茂る小高い丘が連なり、その丘の一つには国主の命で創立された愛らしい幼稚園が建っていた。深月も朔夜も、かつては、その同じ学舎に通う園児であった。そして、今はこの場にはいない二人の友を加えた四人は幼いながらも、生まれし時はちがえども死す時は同じと心得よ、とまで誓い合ったほどの仲である。

 ただし、そうなるまでの経緯はあまり自慢できるものではない。そもそも当時の深月は朔夜のことをまるで疫病神の如く嫌悪していたし、もう一人の友に到っては恐らく自分以上に彼女のことを疎ましく思っていただろう。それが、いつしか互いのことを思いやれるほどの仲になれたのは、もう、この世にいない、もう一人の友のおかげであった。


その少年の名は天翼丸(てんよくまる)といった。歳が一つ下だったので、その男の子が入園したのは深月たちより一年遅かったが、それだけに、その少年が初めて幼稚園にやってきた日のことは覚えている。それは桜の舞い散るよく晴れた日のことであり、その日、幼稚園の前には大勢の人が詰めかけ、その少年が到着するのを今か今かと待ち侘びていた。やがて黒塗りの御用車が門前に横づけされるや喝采が起こり、車中から現れたその麗しき姿には誰もが見とれたものである。

「なんとも陽の光に亜麻色の髪が透けて、まるで天女の羽衣のように綺麗でござるな」

「辰砂(しんしゃ)染めの狩衣(かりぎぬ)が、これまたよう似合うておられる」

 桜吹雪(さくらふぶき)のなかを側近の衛士に傅(かしず)かれながらやってくる姿は、それはもう愛らしくて誰もが溜息を禁じ得なかった。ところが、そんななか、ただ一人だけ不機嫌な顔をしている者がいたのである。そう、なにを隠そう朔夜である。名門の姫様ということで日頃から注目の的になっていた朔夜であるが、その日が彼女の誕生日であったというのが、これまた間が悪かった。その日の主役は何があろうとも彼女でなければならなかったのだ。なのに、誰もがその日の主役もそっちのけで若様に夢中になっていた。

「どぅして、そんなに怒ってんのよぅ、朔夜ちゃん?」

「べつに、怒ってなどおらぬわ。ただ、わらわは代々守護代職を務める上弦(じょうげん)家の姫であるぞ。故に、あのような若造に膝を屈してなるものかと身構えておるだけじゃ!」

 さすがに、ほかの園児たちも彼女のただならぬ雰囲気に不安を隠し切れずにいる様子だった。

「なに言ってんのよぅ朔夜ちゃん。相手は若旦那様なんだから口を慎まないといけないよ」

「若旦那ではなくて若様じゃ。じゃが、その正体は魔王であるぞ。打ち倒すべき敵である」

「また、そんなトンチキなことを言って。いくら朔夜ちゃんでも倒せないよぉ。若旦那様にはどんな魔法も効かないって噂だもの」

「えーい、トンチキとは聞き捨てならぬ。そこまで言うなら、やってやるわい!」

 その雄叫びに深月はぎょとした。放っておくと何をするか分からぬ朔夜である。このまま見過ごせば、後で、どんなとばっちりを食うか知れたものではない。だが時はすでに遅かった。

「こらっ、そこの子供ら控えぬか!」

 と注意する衛士の傍にはすでに若様が立っており、慌てて平伏せざるをえなかった。ところがである。何をとち狂ったのか、朔夜は平伏するどころか傲然と睨み返して言い放ったのだ。

「おい、おぬしが天翼丸とか申す魔王っ子であるか!」

「む、それは余のことを言っておるのか? ふーむ、魔王っ子と問われると、そこは否と答えたいが、いかにも余が天翼丸だぞ。そう言う、そなたは朔夜姫であるな」

「わらわのことは、どうでもよい。それより父上から聞いたぞ! そちは魔王のくせに、わらわのことを、よ、嫁御にいたすとな! ははーん、〈天魔〉の中には美しい姿で人に近づき、心を惑わす怪物がおると聞くが、さてはその類であろう。わらわが退治してくれるわ!」

「さても、おかしなことを言う?」

 さすがに困惑顔の若様であった。

「いったい、姫は何を騒いでおるのだ?」

「はて、朔夜殿のご乱心はいつものことながら……」

 深月も同様困惑していた。

「ああ、なるほど、分かったぞ。これは余を歓迎する余興だな」

「えーい、ちがうわ、このたわけ!」

 と喚きながら地団駄を踏む朔夜に深月はさらに呆れると同時に先ほど感じた悪い予感を再び募らせた。居合わせた大人はただ驚くばかりで、その時点では、まだ子供の戯言(ざれごと)と思っていたようだが、朔夜の怒りが本物なのは理解できた。受け入れがたい現実から逃避するための妄想と言えばそうかもしれないが、まだ子供である。自分の望まぬものを自分勝手に排除したくなっても不思議ではない。逆に深月も子供だったからこそ、その怒りのほどを感じることができたのだが、そうは言っても、もはや、このくだらぬ暴挙を諌める気などまったく起きはしなかった。この馬鹿は一度くらい痛い目を見たほうがいいのだと、その時はそう思ったものである。


 当時、幼稚園に通う男子児童のほとんどが朔夜には酷い目に遭わされていた。給食のおかずを取られたり、袴の中に蛙を放り込まれたり、厠(かわや)の中を覗かれて糞じゃ、糞じゃと喚かれたり、偽造した恋文で赤っ恥をかかされたりと、それはもう名門の姫様とは思えぬ質の悪さである。

 毎日のように行う合戦ごっこでも幼稚園の庭に屍の山を築いては勝鬨(かちどき)を上げ、呆れたことに、その狼藉は同じ幼稚園に通う帝の御子息にまで及んでいたというのだから今にして思うと背筋も凍るような話だった。ちなみに、その御子息の名は二郎様といって今上帝(きんじょうてい)の第二子であった。母の身分が低く、兄の月影皇子(つきかげのみこ)が朝廷の実権を握っていたため政治の世界ではまるで重要視されていなかったが、そんな彼には物を新しくしたり古くしたりできる奇妙な力が備わっており、その一風変わった〈太極系〉の魔法のおかげで幼稚園ではそれなりの人気者になっていたのだ。

「そういえば、皇子様……いや、二郎にはそんな特技があったの」

 件(くだん)の訴状に目を通しながら物思いに耽るように朔夜はその思い出話をしばし中断した。

「天枢国で元気にしておるかの。色々と噂を耳にしておるが、それ故に心配しておるのじゃが」

「そうですな。ま、おっちょこちょいでしたが、彼には要領のいい所もありましたから、きっと大丈夫でござろう。暴君の如く君臨していた朔夜殿に比べれば、はるかにましな方でしたし」

「むぅっ、少しは手加減して申すがよかろう」

 八重歯も剥き出しにして、今にも噛みつきそうな顔をする朔夜に深月は苦笑を滲ませた。

「まぁ、あの頃の朔夜殿は情緒不安定だったのでござる。なにしろ貴殿に宿る魔法は世にも珍しき森羅万象に作用を及ぼすもの。それを久方ぶりに復活させた姫は生まれながらにその宿命を背負い、我が国の守護神となるべく育てられた。それに対する周囲の妬みもあったでござる」

「それを言うなら下弦家(かげんけ)の世嗣(せいし)であったそちも同じ。二代ぶりに開花した覇光の能力者であろう。しかし、そうは言っても、もはや我らがお護りすべき若様は、この世のどこにもおられぬ」

 瞑目しながら首をふる朔夜に、首肯しながら深月も顔を伏せるしかなかった。

 当時の朔夜は、それはもう手のつけられない暴れん坊だったが、そこに宿る魔力の資質はずば抜けており、そんな彼女を誰もが持て余していたというのが本当のところだ。まるで腫れものでも触るかのような態度で誰もが接していたのを、幼い頃の深月もそれなりに感じていた。

「――というてもの。やはり、わらわは弱く粗暴であった。それに引きかえ、すべからく家臣から慕)われる、あの御器量。天翼丸殿下に初めてお会いした時、わらわは、それを感じて打ちのめされたのじゃ。その妬心が、わらわの心を乱し、あのようなことを……」

 そう、あの日、朔夜は若様に挑んだのである。

 その身に宿る自慢の魔力を噴出させ、目の前にいる新参者に思い知らせてやろうとしたのである。

 しかし、そのような怒りまかせの魔法召還(まほうしょうかん)ほど危険なものはない。

「さても殿下が助けてくださらねば、あの時、わらわは確実に死んでいたであろうな」

 朔夜は瞑目しながら手をかざし、召還した漆黒の魔力の塊(かたまり)を掌の上で弄びつつ言葉を続けた。

「とはいえ、あれが我が血に宿りし、この力が完全に覚醒した瞬間だったとも言えよう」

 その魔法は万有に宿る重力を自在に操るもの。その威力たるや凄まじいものだった。おまけに初めて完全に目覚めた力である。怒りまかせの発動は制御不能に陥り、それを召還した者さえ飲み込もうとした。その危機をいとも簡単に救ってのけたのが若様であった。それは燦然と輝く紅の炎だった。若様の躯から緋色の魔力が迸ったかと思うと、あれほど荒れ狂っていた朔夜の魔法が一瞬にして消え去ってしまったのである。その後には強大な力で削り取られた地面が穴を開けているだけだった。その穴の底で朔夜が声を上げて泣いていた。入園式を彩る桜の花は根こそぎ散らされ、殺伐とした光景が広がっていた。そこに清々しい声が響いたのである。

「皆のもの喜べ、ついに姫が帝国屈指の魔法を復活させたぞ。さすがは余の許嫁(いいなずけ)じゃな!」

 ほがらかに笑いながら手を差しのべ、朔夜を穴から引きずり出したのも若様であった。

「まぁ、まだ妻を娶(めと)るなど、ずいぶん先の話じゃが、すでに大評定(だいひょうじょう)の場で決議されたことじゃ。今さら、そなたらがごちゃごちゃ言うてもどうにもならぬぞ。それより朔夜殿の父母が頻繁に家を空けていることをよいことに、いらざる不安を与えていた者がおったと聞くぞ。例えば、その身にはかくも恐ろしき魔力が宿っておるとか、誰もがその恐ろしき力を秘めた姫を疎ましく思っておるとか、さかしらに耳打ちして不安をあおり、姫の心を惑わせ続けた不届者がの」

「まさか、そのような……」

「調べは、すでについておる。のう、夜宵(やよい)に於吟(おぎん)」

「はっ、腰元に扮した間者(かんじゃ)数名すでに捕らえておりまする」

 すかさず若様の足下(そっか)に二人の〈魔掟士〉が跪いた。その者の名は深月も知っていた。普段は若様の母に随身(ずいじん)している側近で、その中でも腕利(うでき)きの二名が付き従っている。その事実を見ても若様の資質がずば抜けていることの証拠(あかし)であった。おまけに、みごとな機転で朔夜の立場を救ってみせたのである。朔夜のしたことは厳罰に処せられても当然のことである。それをあっさり不問に処すと宣したのだ。とはいえ、やはり深月には納得がいかなかった。

 あれだけの無礼をはたらいておきながら、それはないと思ったものである。

 ところが、そんな苛立ちも、その少年を前にすれば不思議とどうでもいいことのように思えてしまうのだから不思議でならなかった。

「おぉ、みごとな月代じゃな。さてはそなたが深月殿か? 天晴れなチョンマゲぶりだぞ!」

「な、なにを仰せになられます。拙者如きの髷に若様が興味を持たれるなど」

 心臓が破裂しそうなほど緊張し、それを目聡く朔夜に悟(さと)られ、あまつさえ対抗意識を燃やされたことも苦々しく、

「嫁になるのは、わらわじゃぞ!」と豹変したその態度にも腹が立った。

「こんな粗忽者を嫁にするのは、いかがなものかと思いまするが……」

「あはは、姫は粗忽者かぁ、ねぇ二人とも喧嘩はしないでおくれ。二人とも、これからは余の大切な学友になるんだから仲良くしてくれなくちゃ困るんだ。もし喧嘩したら二人とも火炙(ひあぶ)りの刑にしちゃうからね」

「「しゅ、終生、仲よくいたしまする」」

 それから若様は二郎様のもとへと向かい、その膝(ひざ)を屈して臣下の礼を取られたのである。

「皇子(みこ)様におかれましては、お初に尊顔(そんがん)を拝したてまつり、まことに恐悦至極――」

 大人顔負けの挨拶だった。そして、こう申された。

「皇子(みこ)様に、お願いがございますれば」

「く、くるしゅうない。麻呂にできることなら、なんなりと申せ」

「では、こちらへ」と若様が連れて行ったのは花も散り無惨な姿となり果てた桜の下だった。

 そして次の瞬間、誰もが目を疑うような事態が起きたのである。

 なんと無惨に散った桜の花が、再び満開とばかりに咲き誇ったのだ。

「これは皇子様の力が起こした奇跡です。それがしは少し力をお借ししただけのこと」

 やがて万雷の拍手が起こり、その歓喜のなかで誰もがこの国の安泰を予感したことだろう。

 されば、この若様なら、いずれ歴史に名を残す名君になられるにちがいないと。その若様が、一年後の政変によって、その幼き命を散らすことになろうとは誰が想像したであろうか。

 やがて、そこに園長先生でもある大姫様が駆けつけてきて少年を抱きしめた。

「よくできまちたねぇ。えらいわよ、あたしの坊や!」

「おやめください母上。それがしはもう赤ちゃんではございませぬ」

 少年はじたばたと抵抗したが、その可憐な女性は自慢の息子を放そうとはしなかった。あまりにも嬉しかったのだろう。女性は再び咲いた花が二度と散らぬようにと、そこにある木のすべてに魔法を掛けてしまわれた。なんとも親馬鹿な話であるが、さても、そんな経緯を得ることで四人はいつしか親しくなり、その永久の桜に永遠の友情を誓うようになったのである。


 「おい、そろそろ過去からもどってきてくれぬか」

 不機嫌な声を浴びせられ、ふと我に返ると朔夜の剣呑(けんのん)な目がじろりと睨んでいた。

「そんなに、わらわの過去が面白いか?」

それはもう、と言いかけて絶句する。

「それ以上ニヤニヤしたら当分は口もきかぬぞ」

 彼女はいつもこうである。少しくらい思い出に浸(ひた)っても、そのくらいの安らぎは弱音でもなんでもないのに、まるで過去と決別を図るかのようにふり返ろうとはしない。

「じゃが、やはり気になる」

「――はぁ、何がそんなに?」

 ようやく我に返って思い出されたのは、あのくだらぬ訴状の束である。

 よくぞ、あんなものを顧問室へ回す書類の中に紛(まぎ)れこませてくれたものだと怒りが込み上げてくるが、よくよく思い返せば、それを持ってきたのは自分である。

「それがし具申(ぐしん)いたすのでござるが、これから行う模擬戦のことでも打ち合わせしたほうが」

 深月はなんとか話の矛先を変えようと足掻いてみせた。

翼士科の生徒には様々な義務が科(か)せられる。課外活動に参加して〈天魔〉を駆除する任務もそうだが、ほかにも持ち回りで〈神機〉の模擬戦を行うことも義務とされている。日々の鍛錬は怠れない責務なのだ。

「そういえば、今日はおぬしが相手であったかの。ならば適当にお茶を濁すしかなかろう。そもそも、そなたと本気でやり合えば闘技場など吹き飛んでしまうわい。だいいち、そんなことしてみよ。また何を噂されるやら。重盛殿にもいい迷惑であろうが、そなたも生真面目じゃの」

「それは、まぁ心得ておりますが」

 十五夜家の養子となった深月には引け目があった。深月の義父(ちち)は朔夜を軽んじて憚(はばか)らぬと噂される筆頭家老の重盛である。深月は下弦家(かげんけ)の嫡男(ちゃくなん)であったが先の動乱で家を断絶され、今は家臣であるはずの十五夜家に引き取られている。筆頭家老の職も、もとを正せば下弦家の当主が代々その任に就(つ)いていたが、深月に家督(かとく)を継がせることを朝廷が嫌ったため重盛が就任し、ついでに深月も十五夜家の預かりとなってしまったのである。

 されど口さがない世間は噂をするものである。もしや御家老は主家(しゅけ)の御曹司を旗頭にして国を乗っ取るつもりではないのかと。

「まぁ世間は、そういう話題が好きじゃからの」

 しかし、朔夜はまるで動じない。

「それより、やはり気になるのは蜘蛛女(くもおんな)の目撃談じゃ」

 また、その話かと頭痛がした。

「さても、そこには、なにやら胡散(うさん)臭いものを感じる。ほかにも気になることがある。まとめるとこうだ。今、国内は枢軸連合への加盟をめぐって荒れに荒れ、小さいとはいえ地震が頻繁に起きている。そのようななか学内では、あの立ち入り禁止区域が温暖化し、謎の〈魔掟士〉や蜘蛛女とやらが出没しては世間を騒がせておる」

 それら脈絡のない事件をまとめて何か意味があるのかと深月は頭をかきむしった。

「だいたい、その蜘蛛女とやらはいったい何者でござるか?」

「うむ、わらわは今夜も出かけるぞ!」

「あいや、少しは控えられたほうがよいのでは? 姫様が夜な夜な町をうろつくのはどうも」

「むぅぅ、いらぬ気遣いは無用じゃと申したであろうに……あ、痛いっ!」

「い、いかがなされた?」

「なんでもない。書類の中に小さな蜘蛛が紛れておったようじゃ。少し手を噛まれただけじゃ」

 見れば、本当に小さな蜘蛛がいた。素早い動きで逃げようとしている。

 幸い、この国に毒蜘蛛の類はいないが、それでも噛まれた傷が心配だ。

「す、すぐに手当を!」

「些細なことじゃ必要ない。それより、さっきの話の続きじゃが、それについて、ちと、そちに相談があっての。最近どうも、わらわが町に出ると、瓦版屋や読売雑誌の記者どもが、すぐに居場所を嗅ぎつけてきよる。その対策として何かよい思案はないものかとな」

「あぁ、それなら」深月はようやく役に立てそうなことを見い出して目を輝かせた。

 かつて深月は一度だけ、この学校の大衆演劇部なる部活動の講演会に出演したことがある。

 その切っかけは、知人にせがまれたからである。

「すまんが廃部寸前で人手が足りぬのだ。どうか、たのむ」

 と、そこで引き受けたのが、どこぞの富豪が金に物を言わせて彫らせた観音像の役だった。

 台詞は一言もなかったが、半裸姿に金粉を塗りたくられたので往生させられた。

 ただし、そのおかげで舞台は盛況だったと知人は喜んでくれた。その知人は、現在、親善交流で他国に赴いているため不在だが、かの部室に顔を出せば部員一同、快く応じてくれるだろう。今でも彼らと校内ですれちがうと、なぜか手を合わせて拝まれたりする。

 そんな具合だから、演劇用の衣装くらいは喜んで貸してくれるにちがいない。


 その古い整備格納庫は、技士科棟と翼士科棟の間に位置する研究区の片隅に建っていた。

 それは煉瓦造りの瀟洒(しょうしゃ)な外観で、歴史を感じさせる重厚な建造物であるが、その周辺は生徒会が危険区に指定し、長らく立ち入りを禁じてきた場所である。というのも、その工場には、かつて途轍(とてつ)もない威力の氷襲系(ひょうそけい)の魔法が施されていたらしく、それによる影響か、その辺りは夏でも凍(い)てつくような寒さと氷雪に閉ざされており、これまでに何人もの学生がその好奇心と引きかえに校内にありながらも危うく凍死しかけるという事件を頻発させてきたからである。

 それが、どうしたことか。ここ数か月の間にすっかり様変わりしてしまっていた。そう、かつては極寒地獄と恐れられた氷の大地は緑の草木に覆われ、そればかりか、その周辺だけが早くも桜が三分咲き。近くの竹藪ではタケノコがニョキニョキと顔を出し、知る人ぞ知るタケノコ狩りの穴場としても知られるようになってしまった。

 さらには至る所で陣取合戦まで行われているらしく早くも花見場所の争奪戦までが勃発している様子だ。さても、かつての危険地帯が今や学内有数の憩(いこ)いの場と化しつつあるようだが、しかし、いくら危険がなくなったからとはいえ、技士科長不在の折りに、そのような珍事を、そのまま放置しておくわけにもまいるまい。

 そこで、このたび技士科長代理として全権を拝命した十五夜鏡花は、さっそく周辺の環境変化を探るべく調査を開始し、さらには、その一環として個人的に張り込みをすること四日目にして、ついに、その容疑者を突き止めることに成功したのであった。

「やはり、私の読みどおりでしたわ。ここで何かが行われているのは確実ですわね……」

 と、そんな確信を得た生徒会役員の鏡花は、この機会を最大限に活かすことにしたのである。

 なにしろ、そこで目撃した生徒というのが、あの火選崎翼だったからである。

「もし、あの痴(し)れ者が何か危険な実験でも行っているのなら生徒会の全力をもってそれを暴き、今度こそ、この学校から追い出すための致命傷にしてくれますわ。覚悟してらっしゃい!」

 はたして調査開始から六日目の今日も、鏡花は周囲に漂う異様な陽気に眠気を催(もよお)しながら旧格納庫が見える竹藪にひそみ、件の生徒が出てくるのを見張っていたのである。

 ところがである。その日、鏡花はさらなる怪奇現象を目撃してしまった。ふと、自分の影が動いた気がした鏡花は、そちらに目を移して思わず悲鳴を飲みこんだ。それは影ではなかった。それは無数の小さな蜘蛛だった。それらがゾロゾロと群をなし、どこかへ移動していくではないか―――

「ぎゃぁぁっ!」

 それはもう背筋も凍るようなおぞましさだった。


 さて今日も、やるべきことはやり終えた。

 どうやら昨日の授業で行った実験は成功のようだと、そんな確信を持てた翼は、いつも以上の充実感を漲らせながら自由研究に利用している工場をふりかえりつつ前髪を押し上げ、その壁に開いた穴を見つめていた。やがて結界に生じた穴が閉じ、壁が元通に修復されていく。

 そこで、ふと背後が気になり、ふり返ってみた。

「あれ、気のせいかな?」

 そこには誰もいなかった。ただ鬱蒼(うっそう)と繁る竹藪が存在するだけである。

「なんか、どんどん増えてるような気もするんだけどなぁ……」

 いや、気のせいではない。青々とした竹が文字どおり破竹の勢いで勢力を拡大している。

「こりゃまいったな」と、そんな感想を呟きながら翼は校門を目指して歩き出すのだった。

 工場から少し離れただけで寒さを感じ始めた。夕方になって冷えこみが増してきたらしい。

 それでも中庭へと続く坂道沿いの桜並木には蕾(つぼみ)が育ち、間近に迫る春の到来を告げていた。

 今、歩いてる道は小高い丘から校門へ向かっているので校内の施設を遠望することができ、遠く連なる野外闘技場から届く歓声も、その耳に捉えることができる。闘技場では〈神機(しんき)〉の模擬戦が行われており、それを観戦する生徒で盛り上がっているのだろう。

 翼も暇さえあれば観戦に赴くことがある。翼士生の試合を見学するのは技士生にとっても勉強になるからである。

 とはいえ、今は道草を食ってる場合ではない。早くしないと仕事の時間に遅れてしまう。

 それでも数ある闘技場の一つが気になり、思わず足を止めてしまった。というのも闘技場から立ちのぼる魔力の濃度が半端(はんぱ)じゃなかったからだ。観戦席も満員のようである。

「へぇぇ、久々に翼士科長と姫様の手合わせかぁ、これは確かに見学する価値ありだね」

 できれば遠望術を用いて見学したいが、万一にも魔法に影響を及ぼす例の体質が発動しては危険なので、それは遠慮した。なので聴覚のみで様子を窺うことにした。やがて闘技場の中に立つ二人の姿が脳裏に実像を結んだ。一人は腰まで届く艶やかな髪にすらりとした手足が魅力的な美少女で、もう一人は均整のとれた逞しい体躯(たいく)をした男子生徒である。

 二人とも、すでに〈魔掟書(まじょうしょ)〉を起動させ、鞘(さや)から抜いた〈操魔刀(そうまとう)〉を構えていた。

「魔神召還(ましんしょうかん)!」

 そこで〈神機〉を召還する呪文が叫ばれ、その声とともに〈相転移弦子(そうてんいげんし)〉の渦が巻き起こり、複数の魔法陣が出現した。同時に彼らの手にする〈操魔刀〉が様々な機械に変貌しながら巨大な人型兵器へと生まれ変わっていく。その中心に二人の生徒がいる。やがて二人を内包(ないほう)する魔法の巨人――〈天翼神機(てんよくしんき)〉が姿を見せる。出現したのは〈量産機〉とは性能からして異なる〈血銘機(けつめいき)〉と呼ばれる特別な機体が二騎である。一つは漆黒の鎧装甲(がいそうこう)に炎と桜の模様を散らした美しくも勇ましい姿をした機体である。銘(な)は確か〈不知火壱式(しらぬいいちしき)〉。あの朔夜姫の機体である。 もう一方は白銀に輝く半透明の鎧装甲に蒼炎(そうえん)と星を描く、これもまた見てるだけで溜息が出そうなほど美しい機体だ。こちらは翼士科長が魔装(まそう)している〈陽炎壱式(かげろういちしき)〉にちがいない。

 まもなく試合が開始された。それはまさに息もつかせぬ魔法と剣技の応酬だった。黒い機体が剣をふるたび魔力が鞭(むち)のようにしなって白銀の機体を襲ったかと思うと、今度は白銀の機体が槍をふるい、その攻撃をはね返す。黒い機体には重力を操る力があり、白銀の機体にはあらゆる攻撃をはねのける力が宿っている。それ故、最強の矛と盾が闘っているような印象を受けた。まさに一歩も譲らぬ攻防である。

 なるほど。さすがは校内でも一二を争う猛者同士の手合である。どれだけ術技を繰り出そうとも、いっかな勝負がつかない。翼は身じろぎもせず試合に夢中になった。しばらくして我に返ったのは銅鑼(どら)の音が鳴った後のことである。音は双方引けの合図である。そこでようやく袂(たもと)から取り出した懐中時計を確認して翼は慌てふためいた。

「やべぇっ、遅刻しちゃう!」

 翼は坂道を駆け下り、駐輪所から自転車を引っぱり出して帰路を急いだ。芸者の仕事も今年に入って五年目になる。最初の半年こそ見習いに甘んじていたものの、そこは母から芸の英才教育をほどこされた翼である。本来なら一年がかりで到達する座敷披露目も最短記録を樹立するや今では神楽町(かぐらちょう)でも五本の指に入る人気の太夫(たゆう)として活躍している。おかげで毎日が忙しい。

 士官学校は学費免除のうえ給料も出るが、それだけで生活費が賄えるほど気楽ではない。おまけに技士科の場合は研究費の資金繰りも大変である。それを工面するには働くしかない。もちろん世話になっている月花楼の主にして特殊部隊のお頭(かしら)である於吟(おぎん)からは援助の申し出も受けたが、これはお断りした。月花楼で働く人たちには花街(かがい)を拠点に行う諜報活動という任務もある。自分だけがのんびりと過ごしていては肩身が狭い。

 というわけで芸者の仕事を続けることにしたのだが、さても、これにはもう一つの理由があったりもする。魔術の心得のない庶民が暮らす下町では年間を通じて〈天魔〉などによる被害が頻発しており、時には死者が出ることもある。母が命がけで守った町を今度は自分が守りたいと思うのは当然の成り行きであったろう。

 確かに自分一人が仕事の合間に町を警護をしたところで何ほどの役にも立たないことは分かっていたが、せっかく修行した力を活かさないのは亡き母への冒涜(ぼうとく)にも感じてならなかったからである。

 ところで士官学校は、大半の生徒に自宅からの通学を要請している。

 もちろん学生寮も存在するが数が限られているので、すべての生徒を受け入れられる態勢にはなっておらず、そういう理由から寮に入れるのは遠方からの通学者に限られていた。

 当然ながら翼に入寮資格などなく、もっか生活の場としているのは月花楼の母屋である。

 翼は学校での活動を終えると、そこへもどり、支度(したく)をしてから座敷へ赴く毎日を送っている。

 その日も、月花楼へ帰宅した翼は急いで着付けの作業に入るのだった。

 本日、用意されていたのは紅梅(こうばい)の振り袖に揃いの花簪(はなかんざし)。帯は薄紅色の格子柄(こうしがら)。それをだらりと下げ、仕上げに髪を割れ忍(しのぶ)に結い、白粉(おしろい)を塗った顔に紅を差せば完成である。

 もちろん、女性の装いは整えるのに時間がかかる。そこは魔法を使えばあっという間にちがいないが、それをしないのが花街の流儀なので仕方がない。それに綺麗に仕上げるには魔法では無理がある。

 さても、お客と対面するのに乱れがあっては評判に関わるので手間を惜しんではいけないのだ。

 そんな感じで支度を終えると、今度は離れにある仏壇に手を合わせるのが日課である。

 仏壇には幾つかの位牌(いはい)に混じり、母、夜宵の分も置かれている。部屋は休憩室にもなっているので、ほかに二名の者がいた。彼女らも表向きは芸者だが、その正体はやはり諜報員(ちょうほういん)である。

 魔掟放送(まじょうほうそう)をつけ、報道番組に聞き入っているようだ。番組は評定の模様を中継しながら時折解説を入れる形で進行しており、なにやら連合への加盟をめぐって紛糾している様子である。

「すでに連合加盟は決定事項なのに今さらって感じだよね」

「士族は庶民人気を気にして一応、枢軸派の貴族を非難してるだけよ」

 そんな会話の合間にズズッと茶をすする音や煎餅を囓(かじ)る音も聞こえてきた。そのうちピピピッという音が耳に届く。これは地震速報だろう。さっきも着付けの途中で少しゆれた。

 そんな風に手を合わせていると、ふと背後に気配を感じた。体の向きを変えると、そこに於吟(おぎん)が立っていた。いつものように煙管(きせる)を吹かしながら立っている。今日は潰(つぶ)し島田(しまだ)の髪型に金襴(きんらん)の打掛(うちかけ)を羽織り、頭にはこれでもかと鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)を挿して匂い立つような色香をふりまいていた。

「さても今宵の仕事は扇屋(おうぎや)ですが、その前に若の耳に入れておきたいことがございます。さても知ってのとおり、今、国内は連合への加盟で紛糾し、いささか治安も乱れ、町方も対応が追いつかず少々騒々しくなっております。二日前も夢幻坂(むげんざか)あたりで〈天魔(てんま)〉の出没があったと聞き及びますが、さても一昨夜、若が仕事で赴いた座敷も夢幻坂あたりの料亭でしたね?」

「えっと、それが、どうかしたのかな?」

 あぁ、これはもう完全にばれてるね。

 魔掟放送を見ていた先輩二人も煎餅をくわえたまま部屋から出ていこうとしている。面倒ごとだと鋭く察し、すぐに逃げ出すとは見事な危機回避能力だ。さすがは忍びの者たちである。

「ことは然るべく時期がくるまでは軽率を慎まれるよう何度も申しあげたはずですが」

「でも、おいらの正体についてさえ何も教えてもらってねぇのに軽率とか言われてもなぁ」

「黙らっしゃい!」

 こともなげに遮られて口を尖らせた。毎度このくり返しだ。悄然と息を吐く。自分がどこの誰かも分からないというのは心細い話である。いつも、その話に及ぶと翼は途方に暮れる。

「それに五日前のことですが、紅色の直垂(ひたたれ)を身に纏(まと)った少年が淺草(あさくさ)通りの裏道に颯爽と現れ、夜陰に紛れて乱暴されそうになっていた女性を救ったという噂も耳にしておりまするぞ」

「へぇ、そうなの? でも、それが、おいらと何の関係が?」

「しらばっくれるのもいい加減になさい! 我らの目を誤魔化せるとでもお思いかっ!」

 ぴしゃりと言われてまた憮然とする。

「だって、見て見ぬふりなんかできないでしょ。だから不良貴族の御曹司たちに、ちょいと、お灸をすえてやろうとしたら火がぼぉぉって」

「全治数か月の大火傷はちょっとではありません。いくら若の体質が特異で、大概の〈天魔〉やゴロツキなどは問題にはならぬとはいえ、そのような歩く驚天動地は他におりません。今の状況で若の正体が世間に知れ渡る事は避けねばなりません。必ずや、若の力を利用する者が現れます。よろしいか、今宵はくれぐれも自重なさってくださいまし」

 於吟はやれやれと頭(かぶり)をふり、「さて、今宵の指名客ですが――」と話を続けた。

「あぁ、扇屋さんからの依頼だね。なんか、いわくつきの貴族らしいから気をつけるけど」

 さても太夫となると応対する客も様々だ。大金持ちの商人から士族まで。たまに偉そうな門閥貴族も相手することになる。気苦労の多い仕事だ。

「まぁ、仕事の方はさほど心配しておりませぬが、それよりも、くれぐれも今夜は……」

「あぁ、分かってるって、今夜は寄り道せずに帰るからさ」

 またしても小言を繰り返しそうなので慌てて立ち上がり、逃げるようにその場を後にした。


 東の大陸の、そのまた東に位置する揺光国において大穢土京(おおえどきょう)は国の玄関口に当たり、まだ、この国に朝廷が置かれていた頃からの経済的な要衝(ようしょう)をになってきた。街は碁盤(ごばん)のように区画(くかく)され、整然としながらも古風な町並を維持しており、高い城壁と高度な魔法障壁(まほうしょうへき)に守られた街は〈天魔〉の侵入も少なく、昨今では数ある城邑(じょうゆう)のなかでも比較的安全が確保されているほうである。

 その中心にそびえる天守閣は今や防衛本部としての役目をはたし、ほかの曲輪(くるわ)も士官学校などに改築されたが、城下を貫く朱雀(すざく)通りには今も特権階級御用達(ごようたし)の商家や武家屋敷などが建ち並んでおり、もちろん、その一角には、名門士族たる上弦家も屋敷を構えている。

 その邸宅の一室である。帰宅した朔夜は夕食も摂らずに部屋に籠もり、大きな鏡の前で〈魔掟書〉を手にしながら立っていた。まさに女神の如きと評しても差し支えのない肢体であるが、その念頭にあるのは今もなお訴状の内容である。さても、つくづく愚にもつかない些末な出来事ばかりだと翼士科長の深月などは断じたが、なにかしら引っかかるものがあったのだ。

 そう、最近よく街で目撃される蜘蛛女とやらの怪である。だが、生徒会はもちろんのこと、町奉行所もそのような珍事には前向きな姿勢を見せていない。されど聞き及んだ話によると、その怪人は、なんと〈天魔〉に変化するというのだ。そのこともずっと気懸かりになっていた。

 それに、これはさすがに無関係とは思うが、何がどうなれば、そうなるのか、あの立ち入りを禁じていた研究区の片隅がまるで常世(とこよ)の春が如き楽園に様変わりしているのだという話も耳にしている。その要因はまちがいなく、あの禁断の工場に隠されているのだろうが、こちらはもっか生徒会が全力を上げて、その謎に挑んでいるとのこと。ならば自分は、その蜘蛛女の謎とやらを追いかけてみようかと思い、今こうして外出をする準備をしているのだ。

 とはいえ、今や国主代理の地位を受け継ぐ身。おいそれと正体が露見してしまうような恰好で街をうろつくわけにもいかない。そこで友に相談してみたところ、ありがたい助言を賜った。

 いわく、古来より正義の味方が正体を隠して悪事を暴く時の恰好は決まっているのだそうな。

 さっそく朔夜は〈魔掟書〉を起動させ、その衣装に着替えてみることにした。ふむ、なるほどな。これなら誰もわらわとは気づくまい。朔夜は満足げに頷いた。

 その目の前にある鏡には深編笠(ふかあみがさ)で顔を隠し、黒小袖(くろこそで)に袈裟(けさ)を下げ、手に尺八を持つ虚無僧(こむそう)の姿が映し出されていた。

 正義の味方どころか、どうにも胡散臭い悪役風の出で立ちであった。


 大穢土(おおえど)京は古い物と新しい物が混在している。月花楼から扇屋(おうぎや)までは人力車を雇(やと)えばすぐの距離だが、ここはいつものように節約することにした。これも修行と、かなりの重さになる着物姿で街を闊歩(かっぽ)しだすと、どこからともなく人が集まり、さっそく声をかけてくる者が現れた。

「菊之助ちゃん。今日も一人で花魁(おいらん)道中かい?」

 菊之助とは翼の源氏名である。

「いつも、ご贔屓(ひいき)ありがとさんです」と翼も挨拶しながら道を行く。

 

 この仕事を続けると言った時、於吟は言ったものである。

「やるからにはちゃんとしてくださいよ。神楽町には国外からも客が訪れ、社交場に利用します。我々はそこから情報を入手します。そのためには本物以上に芸者らしくあらねばなりません。ただし情報も大切ですが、それより仕事を通じて様々な身分への理解を深めてください」

 さても、揺光(ようこう)随一の花街として内外にも知れる神楽町には二つの顔がある。

 その一つは芸子が妍(けん)を競う安らぎの町。つまり、誰もが憧れる花柳界(かりゅうかい)の風情である。その昔は敷居も高く、庶民などは近づくのも遠慮しがちだったが、昨今では度重なる戦(いくさ)で人口も減少し、以前のように客を選んでいる余裕はない。そこで数少ない遊興を供する街として、その役割を存分にはたすよう御上(おかみ)からもお達しが出されている。とはいえ古くから続く老舗(しにせ)は今もそれなりの身分でなければ相手にしない。そのような店の遊客は今でも特権階級ばかりである。

 それ故、光ある所には必ず闇も生ずるというもので華やかな宴(うたげ)の裏では熾烈(しれつ)な権力(けんりょく)争いも繰り広げられている。そこに映し出される人間模様を垣間見ることで様々な角度から社会の情勢を探ることができるのだと於吟は言うのだ。

 そんな街の中心へと翼は向かう。

 今日も大勢の人で賑っていた。やがて、しばらく行くと街を区分する廓堀(くるわぼり)に差しかかった。

 水路に沿って続く柳の並木にまじり店々の軒行燈が煌(きら)めいている。朱色の橋や欄干(らんかん)も美しく、行きかう人々の装いは、まるで春宵(しゅんしょう)に舞う蝶のようだ。そんな雑踏のなかに扇屋の暖簾もゆらめいていた。扇屋の敷居はそれほど高くない。庶民でも気軽に遊べる一般的な芸者茶屋である。

「ごめんください」と挨拶しながら暖簾をくぐると、なにやら浮かない顔をした女将が慌てた様子で飛び出してきた。

「ああ、菊之助ちゃん、ご苦労さん。今夜はなんや得体の知れへんお公家(くげ)はんが来店しはってな――」

 女将は冴えない表情である。訊けば、その男、ご家老様から預かった書状を月下楼に届けたいとか言っているらしく、それで、わざわざ月下桜から芸者を指名したとのこと。

「せやけど、見るからに金なんて持ってなさそうなお公家はんなんやけど、どないする?」

 どないするもなにも、ここまでくれば仕事するしかない。

「まぁ、そないしてくれると助かるけどな」どうも歯切れも悪い。

「なんや様子がおかしいんや。さっき、お酒を持ってったんやけど、お膳に箸を置いたまま口を着ける様子もなく、ただ、じぃぃっと、ただならぬ様子で眺めてるだけや。今や菊之助ちゃんも評判の太夫(たゆう)やさかいに狙うてる殿方も数え切れんちゅう話やで。せやから、気ぃつけとくんなはれや。もし危険やと感じたら逃げてくるんやで。この女将が退治してくれっさかいな」

 と拳を握りしめて二階を睨みつける女将に翼は苦笑を返しつつ玄関先へと顔を向けた。

 そこには下足番(げそくばん)をしている四十路(よそじ)男の奉公人がいる。

「どんな人物かは預けた物を見れば分かりんすよ」

 魔術御法度(ごはっと)の花街(かがい)では〈魔掟書〉や〈操魔刀〉の類は店に預けるのが仕来たりである。

「へい、お預かりした書は飾りっけなしですが重みのある立派なものでしたよ。安心してよいかと。ただ、もしかすると、おっぴろげに飲酒が許される年齢ではないかもしれませんがね」

「でも、あたいの見立てじゃ二十歳は超えてる感じがしましたけど」

 たまたま、その場に居合わせた仲居が首を傾げた。

「まだ未成年なんてことはないはずですよ。線は細かったけど、ちょいと、いい男でしたし」

 茶屋で仕事をしているだけに、それなりの器量ではあるが、それでも人気の太夫を前にしては女としての妬心が刺激されるのか、やや険のある口調であった。女将が溜息を吐く。

「未成年かはともかく、飲酒年齢の制限はあやふやですよって」

 もちろん学生の飲酒は固く禁じられているが、年若くして出征する者もおり、そういう者にはそれなりのお目こぼしもあるので、自然と取り締まりも緩くなってしまうのだ。

「では、これを」と翼は〈魔掟書〉などが入った手さげを店に預けて、さっそく座敷へ向かう。

 座敷は二階の奥である。着物の裾(すそ)を気にしながら階段を上がり廊下を進む。やがて部屋の前まで行き着いた翼は腰を落として床に手を着いた。そこで、おとないを告げるのが作法である。

 ところが襖(ふすま)の向こうから会話らしきものが聞こえてくるのだ。

 はて、客は一人と聞いていたのだが。

「じつに口惜(くちお)しや。今は陰膳(かげぜん)で無事を祈るしかできぬが、必ず救う手立ては考える故(ゆえ)な……」

 翼は地獄耳である。

〈魔掟書〉などなくても聴覚を鋭敏(えいびん)にすることなど容易いことだ。

 やはり客は一人のようだ。どうやら独り言を呟いているだけらしい。

「思えば、そのほうらには苦労ばかりかけて何も報いてやれなかったでおじゃるな。この身は遠くにあろうとも、そなたらの心は麻呂(まろ)と共にあると信じておるぞ。むっ、そこに誰ぞおる?」

 そう言うや衣擦(きぬずれ)の音がした。まさか気配を悟(さと)られたのか?

 どうやら今宵の客は徒人(ただびと)ではないらしい。急いでおとないを告げようとしたが遅かった。

 がらりと襖が(ふすま)開く。完全に虚を突かれてしまった。ましてや魔法が召還されているとは思いもしない。一瞬、何が起きたのかも分からなかった。と、次の瞬間、盛大な悲鳴が響きわたる。

「ぎゃぁぁぁぁっ!」

 そりゃそうだろう。いきなり全身が火だるまになれば誰でものたうち回るにちがいない。

 ただし、その炎は慌てて消したし、その質もきわめて安全なものへと瞬時に変化させている。

 ところが、さらに驚くべき事態が生じたのだ。なんと、その火だるま男の姿が変貌(へんぼう)したのである。今、目の前で暴れているのは、どう見ても十代半ばの少年だ。おまけに、その騒ぎを聞きつけて、ほかの奉公人や客人たちも廊下へ飛び出してきた。翼は慌てて襖を閉めた。

「なんぞ、あったんかいな?」

と女将の心配そうな声も聞こえてくる。

「えぇっと、春先なのに廊下にゴキブリがぁ!」

「なんや悲鳴は菊之助ちゃんかいな――って、ゴキブリはあかん。今から退治するでぇ!」

 こんな春先にゴキブリなんているわけがない。これから行われるであろう奉公人たちの苦労を思い、心中でつくづくと詫(わ)びながら翼は再び謎の少年と向き合った。

「あれ、ぜんぜん熱くないでおじゃる? 服も燃えていないでおじゃる」

 むくりと起き上がり首を傾(かし)げる少年である。一呼吸おいて、その目が大きく見開かれた。

「ということは、もしや、この女子(おなご)がそうでおじゃるか。これはびっくり仰天でおじゃる!」

 そんな驚愕を耳にしながら、今、目撃した現象を考察した。そう、襖が開いた瞬間そこにいたのは紛れもなく二十代半ばの青年であったはずだが――その男が、今や、どう見ても別人としか思えぬほどに若返っている。つまり、先ほどの姿は一種の変身状態だったということか?

「いったい今のは何だったの?」

「く、苦しいでおじゃる!」

「あ、ごめん」

 思わず握(にぎ)りしめてしまった襟元(えりもと)から手を放した。

 少年が着てる濃紺の狩衣は大人の丈(たけ)に寸法を取っているのか体の大きさに合っておらず、今にも脱げそうである。やがて胡乱(うろん)げに着衣の乱れを直しながら少年はやれやれと口を開いた。

「そうか……、家老の重盛殿の申していたことは本当でおじゃったか」

 なんだか、よく分からないことを呟いている。一方、その傍(かたわ)らで翼は冷汗を滲(にじ)ませていた。

「っていうか、ここは花街だぞ。なんで魔法なんて召還してんだよ。危ないじゃないか!」

「むしろ危険なのは、おぬしのほうでおじゃろうが」

「これは失礼……」しかも今は仕事中である。楚々(そそ)と居ずまいを正し、自己紹介をすませる。

「あちきは菊之助と申しんす」

 すると、またもや少年が目を瞬(しばたた)かせた。

「なんとしたことか。まことに芸者業を商っておじゃるか?」

「あい?」さっきから何を言ってるのだ。芸者が芸者を商うのは当然である。翼は両手を着きながら怪訝(けげん)に少年を見上げた。まるで少女のような繊細(せんさい)な面差しに、まん丸い眉化粧(まゆげしょう)を施した顔がなんとも滑稽(こっけい)である。その下にあるくりくりした瞳もまるで子狸(こだぬき)みたいで愛らしい。髪型もそのまま総髪(そうはつ)を垂(た)らしているので、なんだか七五三にやってきた稚児(ちご)のようにあどけない。

「ともかく申し遅れた。麻呂は餅突二郎(もちつきじろう)と申す者でおじゃる」

「んっ、モチヅキって、どこかで聞いたことがあるよね。あっそうか、確か四大公家(よんだいこうけ)筆頭の?」

「いや、そうではない。もちはもちでも食べるほうの餅(もち)での。望月(もちづき)ではなく餅突(もちつき)でおじゃる」

「つまり、ぺったんぺったん?」

「その表現はいささか――」

「ふーん、望月でなく餅突さんかぁ」

 っていうか、すごく怪しいんだけど。どう聞いても偽名っぽいし、と目を細めると、あたふたと目を逸(そ)らす。そういや望月家の分家筋が最近、朝廷への謀反(むほん)が露見したとかで断絶の憂(う)き目に遭(あ)っているとかいう噂を耳にしたことがある。

 なるほど、これは訳ありかもしれない。でも、そんなことは重要じゃない。問題は、ほかにもある。

「なんで子供のくせに花街にきてんだよ? 通報されたら、こっぴどく説教されちゃうぞ」

「くっ、麻呂を脅(おど)すでおじゃるか? ぬぅぅ、相変わらず微妙に性格が悪いでおじゃるな」

 そう言うや魔法が再び召還され、二十代半ばの青年が姿を見せた。なかなかの美形である。先ほどの面影も残っており、狩衣(かりぎぬ)を纏(まと)った姿にはそれなりの気品も感じられた。

〈魔掟書〉を必要としないのは恐らく〈血銘術〉(けつめいじゅつ)の類だろう。一方、翼の方は魔力を制御しているので再び、その謎の魔法が消滅することはない。とはいえ、すでに正体が露見しているので、その姿には違和感がある。子供が無理に背伸びをしているようにしか見えない。だが、そこに宿る表情にはどこか張りつめた気配も垣間見え、それが暗い影を落としていた。

 翼はそんな感想を抱きながら彼の隣に腰を落ち着けた。真向かいの床机(しょうぎ)には料理が並べられているが、それに手をつけた様子はない。しかも木片(もくへん)を削(けず)った板状のものが数枚束ねた状態で座布団の上に置かれている。さても、そこに人の名らしき文字が書かれてあることから位牌(いはい)のようにも見えなくもないが、その不可解な行動を今出会ったばかりの者に問いつめるのも、なんだか憚(はばか)られる雰囲気である。

「そなたには関係ないことでおじゃる」

 やはり咳(しわぶき)のような応(いら)えがこぼれ落ちた。気安く触れるなという警告だろうか、少年、二郎の醸す雰囲気が、一層、陰鬱と濃くなり、それが声にも顕れた。

 その気づまりな心地に翼は思わず視線を夜空へ泳がせる。

 窓越しに見る月は久々に金色に近く、いつものような闇色ではない。相変わらず月の光に浮かぶ巨大な魔法陣が人類に対する怨念を放っているが、いつもの禍々(まがまが)しさが多少は薄らいでいるように思えた。その月に向けて、いくつもの宇宙艦(うつふね)が航行していくのが見える。小さな光点が群をなし、はるか彼方(かなた)へ昇っていく様子はじつに美しい。さても士族や貴族の社会には危険も顧みずに、月へと巡礼する慣わしがある。月の魔力がその身に宿り、立派な〈魔掟士〉になれると信じられているからだ。

 しかし、あれにはそんな願いは感じない。あれには殺伐(さつばつ)としたものしか感じない。

 ふと気づくと、二郎も同じように月を見上げていた。

「せっかくの月夜も、あのような無粋(ぶすい)なものが夜空を支配しておれば台無しでおじゃる」

 さては二郎が口にしているのも、やはり新たな連合加盟国を迎えようとして月に集結しつつある連合艦隊への不快感であろうか? なんだか少し苛立っているようにも聞こえた。

 そこで思い到った翼は、おもむろに手を叩いてみせた。

 すると間髪(かんぱつ)入れず先ほどの仲居(なかい)が現れた。畏(かしこ)まる仲居に明かりを弱めてもらうようお願いし、ついでに三味線(しゃみせん)を持ってきて欲しいと伝えた。なにもこんなことは魔掟通信(まじょうつうしん)を用いればすむ話だが、そこはすべてを手ずから行う花街の流儀である。人をもてなすのは、やはり人の真心ということだ。

 まもなく行灯(あんどん)の火がいくつか消え、月の光が差し込みやすくなり、香炉(こうろ)から立ちのぼる香気に淡(あわ)く光がゆらめいた。

「されば、せっかくの月夜でござれば、まずは一曲にて心を解(ほぐ)しておくんなまし」

 と手前みそながら少しでも慰めになればと三味線を手にした。

 曲目は月光蝶(げっこうちょう)。亡くなった愛しき男(ひと)を想い、魂を蝶に変じて月まで恋人を探しに行く女の悲哀(ひあい)を謳(うた)った長唄(ながうた)で母の好きな曲だった。しなやかに指が三弦(さんげん)を走り、撥(ばち)が憂愁の音を奏でる。

 しばらく二郎も、それに聞き入っていた。

 やがて曲が終わると、

「かたじけない。仲間も喜んでくれたと思う」と礼を言った。

 仲間とは木片に書かれた名前のことだろうか。未だ頑(かたく)なな雰囲気が崩れてはいないが少しは落ち着いた様子の二郎は、やはり月を見上げている。そして、ぽつりと口にした。

「やはり何も覚えておらぬ様子でおじゃるな。しかし、再び訪れる危機は待ってはくれぬ」

「あい?」いったい何を言ってるのか。

 再び訪れる――とは、暗に九年前に起きた動乱のことを指しているのだろうか?

 その戦(いくさ)の契機(きっかけ)は天枢国が今上陛下(きんじょうへいか)に行幸(ぎょうこう)を願い出たことに端(たん)を発している。さても帝を天枢国の帥都(すいと)へ招いた前(さき)の天枢国主、冴月(さえづき)道雪(どうせつ)は城内の宮殿に帝を幽閉するや、そこを御所とする詔勅を発し、それを機に覇者へと登り詰めていくのだが、ここで、さらに事態をややこしくさせたのが、これに異を唱えた当時の揺光国主、煌月鳳熾で(かがやづきたかおき)ある。鳳熾は直ちに帝を救出すべく軍を発しようとしたが、なぜかこれが朝廷の逆鱗(げきりん)に触れてしまった。その真相は未だ明らかにされていないが、ともかく、これに抵抗しようと鳳熾もかつての帥都であった破軍京に立て籠もり、徹底抗戦の構えをみせたのである。もちろん朝廷も直ちに討伐の命を下し、まもなく天枢国の率いる連合軍が破軍の都を蹂躙した。やがて戦いに敗れた鳳熾は壮絶な自決を遂げた。しかし、それでも乱が収束することはなかった。揺光側は、その後も朝廷側に異議を唱え、不穏な動きを示し続けたのである。

 そこで、さらなる乱の拡大を恐れた朝廷は守護代職にあった上弦帯刀に国主の代理を務めるよう命じて混乱を治めたのだが、その一方で世を乱した罪として揺光側には第五惑星への防人(さきもり)を苦役と課し、領土のいくつかを没収した。

 おかげで、この国は、はるか彼方への〈天魔討伐(てんまとうばつ)〉に軍力のほとんどを割かれ、今も政治は朝廷から派遣された門閥貴族に食い荒らされている。この衰退をなんとかしようと、この国は連合への加盟に大きく舵を切ったのである。

 もしや訪れる危機とは、そのことを言っているのだろうか?

と、そこで二郎がおもむろに口を開いた。

「まことに心にしみる音曲でおじゃった。まぁ、つまらぬ話はここまでにして、そろそろ本題に入らないと日が暮れてしまうでおじゃる」

 とっくに日は暮れているのだが、相変わらず仰々しい口調である。

「すでに、ここの女将から話は聞いていると思うのでおじゃるが?」

「もしかして、ご家老様からの書状のこと?」

「そうでおじゃる。麻呂は家老の重盛殿を頼って、ある人物を探し出すため、この国へと参ったのだが、国の要職にある重盛殿の屋敷に世話になっておると、なにかと目立つのでおじゃる。されば、その人捜しは密かに行わねばならぬ。そこで月下桜に世話になりたいのでおじゃるよ」

 そう言って、二郎は、そのご家老様からの書状を翼に手渡す。翼はざっと、その書状とやらに目を通してみた。そこには、しばらく、この二郎と名乗る少年を月下桜で預かってほしいとのことが記されていた。

「なんだか話がよくわからないけど、ようするに月下桜に居候したいってことだよね」

「そうでおじゃる。迷惑をかけるがすまぬ。ただ言うておくが麻呂は銭など、ほとんど持ってはおらぬので、そのへんもよしなに頼む。仕事の手伝いなどいたすゆえ、くれぐれもよしなに」

「まっ、そこは、なんとかなるとは思うけど」

 それよりも、どうして、こんなことになるのか気になって仕方がない。書状には二郎の身分や正体については何も記されていなかった。妙な話だ。聞けば二郎は士官生の交換制度を用いて天枢国から揺光国へわざわざお忍びの留学生として赴いたらしいが――……

 と、しばらく考えこんでると、その様子を勘違いしたのか、二郎が深々と頭を下げた。

「迷惑は承知の上でおじゃるが、麻呂には、ほかに行く当てもないのでおじゃる」

「仕方ないね。ご家老様からの依頼となれば、お受けしないわけにもいかないしね」

 翼はため息交じりに件の書状を二郎に返した。


  夜ごと賑(にぎ)わう神楽町も中心街から外れると閑散としたものである。

 それでも、すれちがう町人が一様にふり返るのが気になった。

 ただし、いつもなら、この時点で、すでに野次馬どもが集まって来るのだが、まだ今宵はそのような事態には到っていない。なにしろ誰もが遠巻きにして、自分を避けるように過ぎ去って行くのだから、さもありなんである。そこは、やはり友の意見を取り入れて、なるほど正解だったのだろうと思うことにして朔夜はふと夜空を見上げてみた。

 さっきまで美しい姿を見せていた月は黒い雲に覆われ、いつしか朧気(おぼろげ)な闇色を放っていた。

 もうすぐ春だというのに肌を刺す冷たい風が吹き抜け、そこにも、なにやら不吉めいたものを感じた朔夜は〈魔掟書〉を起動させ、〈天魔防災局〉の情報を呼び出してみることにした。

 やがて〈弦子〉の結合が起こり、そこに映像が実体化した。そこから得られた情報によると、今宵の〈天魔遭遇率〉は一割未満だそうな。もちろん〈天蝕警報〉(てんしょくけいほう)などは発令されていない。

 天蝕というのは太陽系内に点在する魔力特異点のいずれかが発動し、〈天魔〉が大量発生する現象のことで特に月面で起きる天蝕は地球圏に甚大な被害をもたらす。さても五年前の士官生らの反乱により引き起こされた大天蝕害の恐ろしさは、まだ誰しもの記憶に新しいことだろう。それ故、危機管理体制はその後格段に進歩したと言われるが、しかし、いくら万全と言われても、そこに全幅の信頼をよせるほど朔夜はめでたくはない。比較的大きな災害は、ここ数年起きていないが小規模な被害なら毎日必ずどこかで起きている。

なにしろ城邑の一歩外に出れば、そこはもう人外魔境の世界なのだ。どこから侵入して来るか分からぬ〈天魔〉をすべて撃退するのは難しい。なので、そこは個々の防災意識によって逢魔(おうま)を回避するしかないというのが、もっぱら朔夜の見解である。

 しかしながら、今、心をざわつかせているのは、そのような危惧とは別種のものだった。

 すでに数名の尾行者を確認している。六人いる。その中の四人には見覚えがある。二日前、街で騒動を起こしたあの四人の浪人どもである。こそこそ物陰に隠れながらついてくるので、いかにも怪しげである。そして、もう一人は、なぜか屋根の上にいた。周囲に薄く術を散開させながら重力の変化に気を配(くば)っていたので気づけたのだが、そうでなければまったく気配を感じることはなかっただろう。そのことからも、なかなかの手練(てだれ)と推察出来る。

さらにもう一人いる。こちらは驚いたことに気配は感じるものの、どこにいるのかさっぱり分からない。ただし時を追うごとに、その者が発散する禍々しい魔力が強まっていくのは感じられた。

「ほぉ、この、わらわに喧嘩を売るとはなかなかの度胸であるな」

 夜陰に輝く蒼い月を見上げながら朔夜はわずかに口端を吊り上げた。

 

 扇屋(おうぎや)を後にしたのは夜の八時を少し過ぎた頃だった。今日くらいは早く帰って穏和(おとな)しくしていたほうがいいとは分かっていたが、まだ時間的に余裕があったので少し遠回りをして帰ることにした。まぁ、少しくらいの寄り道なら於吟も許してくれるだろう。

 二郎は再び少年の姿にもどっている。その二郎がやや不安めいた声音を吐き出した。

「この道で合っておるので、おじゃるか、なにやら人気もなく、薄暗い場所ばかり選んで歩を進めているように思えるのでおじゃるが……」

 なかなか察しがいい。そう、翼は表通りを避け、わざわざ人気のない道ばかりを選んで月下桜を目指していたのである。こういう人気のない道の方が犯罪は多い。それにひきかえ天魔は人気の多い場所に出没するので、あえて危険を避けているともいえる。とはいえ夜間は天魔の出没率が高くなるので油断はできない。なぜ夜の出没率が高いのかというと、そこもまた詳しい理由は分かっていない。一説では月の光に関係があるとか、ないとか。

「うん、まぁね。おいら一人なら天魔に遭遇しても、どうってことないんだけど、君の妙な魔法じゃ到底、天魔には対抗できないと思ってね」

 ま、それも人気を避けている理由の一つである。

「むむ、まぁ、言われてみればそうでおじゃるな。気遣い、かたじけない」

 二郎は素直に応じ、翼の横をてくてくと足早についてくる。

「つかぬ事を聞くが、大穢土京はそれほど天魔の出没率が高いでおじゃるか? そのようなことは耳にしたことがないでおじゃるが」

「うん、そうだね。そんなに頻繁に遭遇することはないけど……」

 おもむろに翼は口を閉じた。それは、いきなりのことだった。急にあたりに禍々しい魔力が充満しだしたのである。自然と歩みが止まり、翼は背後に二郎をかばいながら夜陰に閉ざされた路地裏の奥を凝視した。この禍々しい魔力には既視感を覚える。そうだ。二日前の夜にも同じような気配を感じた。そう、あの妙な鬼蜘蛛だ。

「二郎、おいらの後ろに隠れて離れないように」

 翼は二郎に注意を促す。二郎もやはり、その禍々しい魔力を感じているのか素直に応じ、翼の背後に回り込む。

「……なんという禍々しい魔力でおじゃるか。これほどの魔力を放つ天魔が、こんな人気のない所にわざわざ出没するなどあり得ぬでおじゃる……」

 二郎が何かを言いかけたときだった。その背後からポヒューと間の抜けた音が聞こえてきた。咄嗟には何の音だか分からなかった。プヒョーと空気の抜けるような音である。音のしたほうへ顔を向けると、なぜか虚無僧(こむそう)が立っていた。その謎の黒衣が尺八を吹き鳴らそうと躍起(やっき)になっては、しきりに首を傾げている。プヒッと屁(へ)をこくような音がした。どんくさい虚無僧もいたものである。やがて尺八のことは諦めたらしく、こちらへ近づいてきて、こう言った。

「なんとも禍々しい魔力が充満しておるようじゃのぉ。そなたらは無関係か。ならば即刻、ここから立ち去ったほうが身のためじゃぞ」

 なんと、その深編笠の中から聞こえてきたのは女性の声である。

 ……ん、待てよ、この声は?さらに、そこへ「若…」と呼びかける声がした。魔術による遠隔通話ではない。ただ遠く離れた所から囁(ささや)いているだけだが、そこは地獄耳である。ちゃんと聞こえてしまうのだ。声の主は月花楼で働く芸者にして女忍者であるところの狭霧(さぎり)である。彼女も同じく聴覚を鍛(きた)えているので誰にも気づかれずに会話ができるのだ。翼は「狭霧?」と小声で呼びかけた。狭霧は翼の監視役も兼ねているが、その役目を果たしているかは疑問である。

「ちょっと寄り道してるけど、於吟には内緒にしておいてね」

「二人だけの秘密ですね」いたく感動する声が返ってきた。

「それより、さっきから〈天魔〉の気配がするんだけど。こいつ、ただの〈天魔〉じゃないね」

「ぴんぽーん!」

「つっても、まだ、この程度の魔力なら余裕で対処できるとは思うんだけど」

「どんとこーい」

「でも、関係ない人が近づくと危険だから、そこは、いつもの術でなんとかしてね」

「合点(がってん)承知のすけ」てめぇ、ふざけてんのかっ!

 そこで狭霧の気配が消え、周囲に濃い霧が立ち込めだした。狭霧の召還した魔法である。

 これには五感や術式を狂わせる魔力が働いているので、ちょっとした結界にもなる。

 ところが、その得体の知れない気配は狭霧の術などなんの障害にもならないのか、どんどんと近づいてくる。やがて闇の中から蜘蛛の巣模様の小袖(こそで)を身につけた女が姿を現した。

「なっ!」

 深い闇と霧に閉ざされた視界不良のなかに二郎の声が響いた。その全身が震えているのも伝わってくる。確かに女の魔力は凄まじい。その影響だろうか周囲の壁も微かに震動しているが、そこは二郎も〈魔掟士〉の端くれなんだから、もう少し泰然としていてもらいたい。

 と、そこへ、いらざる邪魔者がさらに現れた。狭霧の術がまだ不完全だったのだろう。見れば謎の虚無僧のさらに背後からひたひたと近づいてくる数名の者の足音が聞こえた。

 その中の一人が名乗りを上げた。歳は三十路(みそじ)の半ば。そこそこ上等な黒羽織(くろばおり)を着ているが、その中の着流しは粗末な木綿地(じ)で、帯に差してる鞘(さや)も漆が(うるし)剥げており、どうにも冴えない風情(ふぜい)である。それでも月代(さかやき)なしの銀杏髷(いちょうまげ)にきりっとした眉はなかなかの男ぶりだ。

「やい、やい、ここは天下の往来。天魔の出没とありゃぁ、目をつぶるわけにはいかねぇな。お嬢さん、それに……なんか妙なお方、ここは見廻り同心の黄昏(たそがれ)真之介(しんのすけ)にお任せあれぇ」

 どこぞの歌舞伎役者かと思うような名乗りに翼はげっそりした。今感じている禍々しい魔力の程度から考えるに、これは見廻り同心ごときの手に負えるような事案ではない。

 ところが同心はお共の者とともに十手を構え一歩も引かぬ様子。そんな仕事熱心なところは感心するが二人とも足がガクガクと震えている。やはり怖いのだろう。それでも民間人を助けようとする根性は見上げたもの。だが、そのやせ我慢も次の瞬間には吹き飛んでしまったようだ。

なにしろ次に目撃した光景は、背筋も凍りくような怪奇現象だったからである。そう、ふと濃い影が一面に生じたかと思うと、闇が蠢(うごめ)いて女に襲いかかった。いや、そうではない。女は微動だにもせず、その闇に浸食されていく。それは無数の蜘蛛(くも)だった。全身を蜘蛛まみれにした女はやがて闇に溶けるように、その姿を変貌させていく。まずは頭が巨大化し、口から二本の牙が生え、手足が伸(の)びて四つん這(ば)いになったかと思うと、そこからまた太い足が生え、やがて全身が毒々しい縞模様(しまもよう)に覆(おお)われていく。その結果、なんと巨大な蜘蛛が姿を現した。

「な、なんとしたことでおじゃるか!」

 その姿は、やはり二日前の夜に目撃した、あの〈天魔〉に瓜二(うりふた)つであった。すなわち〈五級天魔〉の鬼蜘蛛(おにぐも)である。その怪物は中級ながらも厄介(やっかい)な魔法を使うので有名だ。その最たるものが体を細かく分裂させるという特異性であるが、さて、ここでむしろ気になるのは、何故、人間の女が〈天魔〉に変身したのかという、その一点に尽(つ)きるだろう。それでも、さすがに同心組の二人は、その場に踏み止まっているが、すでに腰が抜けている様子なので邪魔にしかなりそうにない。「やれやれ……」翼は〈魔掟書〉を取り出して身構えた。と、その刹那だった。

「世界を支配せし万有の力。我が意にそって黒弦(こくげん)の戦慄(せんりつ)となりて我らが敵を討ち滅ぼせ!」

 どこからともなく漆黒の魔力が出現した。それは鞭のように撓(しな)る魔力の塊(かたまり)である。そこに〈弦子〉を収束させながら凄(すさ)まじい重力を生みだしている。それが怪物の脚を一本断ち切った。

 さても翼にとってはもはや馴染(なじ)みの魔法である。その名も〈哭玄奏曲〉(こくげんそうきょく)。今日も夕方に行われた試合を見学したばかりである。いや、そもそも魔法に関わる者が知らないはずもない。なにしろ、その魔法は遺伝情報に術式を刻印し、肉体を術媒体(じゅつばいたい)に進化させた〈血銘術(けつめいじゅつ)〉なのだ。

 つまり、その一族の者にしか遺伝しない特殊(とくしゅ)な魔法なのである。なので本来なら呪文の詠唱(えいしょう)など必要としない。なのに、いちいち大袈裟(おおげさ)に召還する人物がこの国には一人いる。

 またかという思いで、ふり返ると、ちょうど謎の虚無僧が笠(かさ)を放り投げる瞬間と重なった。

 そこに現れたのは、闇の中でも燦然(さんぜん)と煌(きら)めく星の如き瞳(ひとみ)と、まっ赤な唇。(くちびる)まるで咲き誇る黒い薔薇のような美貌を包む漆黒の髪をなびかせ、黒曜石のように輝く(かがや)魔力を噴出させていた。 と、そんななか、翼の鼓膜(こまく)を不機嫌な声が震わせた。

「貴族の屋敷を見張れとの仰せにございましたから」

 そう、あの夜、結局、狭霧は渋々(しぶしぶ)ながらも、あの浪人どもの後をつけてくれたのである。

 その報告によると、その者たちは闇に紛(まぎ)れるように、ある貴族の屋敷に入っていったとか。

「さても、その浪人どもが、今日の夕方、貴族の屋敷からのこのこと」

 とはいえ狭霧の報告はいつ訊いても簡潔である。

「そこへ虚無僧が出てきてこんにちわ」

 簡潔すぎてじつに理解(わか)りずらい。

 なるほど、それで狭霧までがここへと導かれたというわけか。つまり姫様の屋敷を見張っていた四人組はそこから出てきた虚無僧が怪しいと確信し、その後をつけてきたのだと狭霧は言いたいのだろう、たぶん。――しかし、それはそれで大問題だ。そっと周囲に注意を向けると、少し離れた築地塀(ついじべい)の陰から、その四人組がこちらの様子を窺(うかが)っているのが確認できた。

 やはり連中と怪物には接点があるようだ。つまり姫様の命を狙ってると考えるべきか。

 その命を狙われているかもしれない姫様はというと、すでに〈操魔刀(そうまとう)〉を抜き放ち、起動中の〈魔掟書〉を宙に浮かせていた。その刀身(とうしん)は反(そ)り返った鎬造(しのぎづくり)。刃紋(はもん)は波打つ炎のような飛焼(とびやき)の乱込帽子(みだれこめぼうし)。〈神機・不知火(しらぬい)〉を封印する漆黒の名刀。その銘(な)を〈夜櫻(よざくら)〉というそうな。

「そなたら無事か!」

 と声をかけられて我に返った。怪物はいきなりの攻撃に怯(ひる)んだのか、後方に退い(しりぞ)ている。このまま逃げてくれることを祈(いの)ったが、そこまで都合のいい展開にはなりそうにない。ただ間合を取って様子を窺っているだけのようだ。すぐ横を見ると切断された怪物の脚が死に際の蛇のようにのたうち回っていた。それが、やがて砕けるようにして消滅した。

「うむ、〈弦子(げんし)〉に還元し、ひとまず消滅するところを見ると、やはり〈天魔〉の類じゃの。されど、五級が如き〈天魔〉など、我が愛刀〈夜櫻〉の加護あらば、なにほどことやあらん」

〈天魔〉の呪力は、それが持つ魔力に比例するが、かといって中級だとて安心はできない。

 もちろん姫様の立場を考えれば、そんな無茶を許すわけにもいかない。

「ここは危険です。朔夜様、どうか、お下がりください」

「えーい、邪魔をするな。そなたのような娘っ子に何ができる!」

 だが、姫様は一歩も引かない。その状況を察した黄昏(たそがれ)の旦那も漆(うるし)の剥げた鞘(さや)から〈操魔刀〉を抜いて怪物を牽制(けんせい)してくれているが、やはり腰が抜けているので邪魔にしかならない。

「やい、神妙にしろい!」と言ったところで、中級の〈天魔〉に言葉など通じるわけもない。

 いや、耳を疑うような事態が起きた。「町方風情(ふぜい)が邪魔をするな」なんと怪物の額に(ひたい)女の顔が現れ、虚(うつ)ろな声で応じたのである。驚いたことに言葉を解(かい)するらしい。得体が知れないにもほどがある。ますます姫様を矢面に立たせるわけにはいかない。騒ぎを聞きつけて野次馬も集まりつつある。狭霧が展開している術もそろそろ限界だろう。早々に決着をつけないと、このままでは犠牲者が出るかもしれない。と危惧した矢先のことである。

「あ、痛(いた)いっ!」

 朔夜姫が右手を押さえて苦しみだした。「ぬぅっ、手が焼けるようじゃ!」

 言わんこっちゃない。相手は人と〈天魔〉が合体した奇天烈(きてれつ)な怪物である。どんな攻撃を仕掛けてくるか知れたものではない。ただし怪物が鬼蜘蛛(おにぐも)の資質を受け継いでいるなら体を腐らす毒でも注ぎこまれたのだろう。だが、いつのまに? 見ていた限り、そんな術的な接触はなかったように思える。いったい、いつ仕込まれたのか? ともあれ呪力がすでに発動しているなら毒は時間を追うごとに威力を増していくはずだ。見れば姫様の右手が黒く変色して膨(ふく)れあがっていた。もはや一刻を争う事態である。さっさと解決するには魔力全開でいくしかない。

 それには着物や化粧が邪魔である。翼が使用している化粧にはある程度、魔力を抑制する成分が含まれている。毎度、出没する雑魚を相手にするなら女装のままでも充分だが相手は得たいの知れない怪物である。それに大事な着物に傷でもつければ於吟(おぎん)にこっぴどく叱られる。

 やがて決断するや翼は〈魔掟書〉を起動させた。召還した魔法はもちろん瞬間着替(きがえ)術である。その魔法の基礎となる物体操作に気合(きあい)を入れれば化粧など簡単に消し去ることもできるのだ。

 かくして紅梅(こうばい)の振り袖は紅の(くれない)直垂(ひたたれ)に変化し、割れ忍(しのぶ)の結髪(ゆいがみ)もほどけて総髪の少年が――

 いや、一人の青年が姿を見せた。服装や髪型はいつもと同じだが、ただし年齢の頃合がいささか普段と異なっている。そのちがいに当の本人である翼は気づいていない。

 なので驚愕する狭霧の声には首を傾げるしかなかった。

「わ、若様っ、そのお姿は!」

 おまけに朔夜までが目を皿のようにしている。着替術はべつに珍しい術ではない。

 それに芸者の正体がじつは男だったとしても、なにもそこまで驚く必要はないだろう。

 というのに二郎までがすっかり取り乱していた。

「な、何故、麻呂の術が勝手に召還されているのでおじゃる?」

 しかも、あまりにも慌てていたのか、道端に置いてある防火用の天水桶(てんすいおけ)をぶち倒している。

「気が散るから静かにしてろ!」と注意しながら翼は朔夜姫のもとへと駆けよった。

 その腫れた手に自分の掌(て)を重ねる。そこには本来なら白くしなやかな指があるはずなのに、今は痛ましい惨状を呈していた。翼は念意を集中させながら、そこに魔焔(まえん)を迸(ほとばし)らせた。

「あっ、痛みが消えていく」やがて姫の口から脱力した声が洩れた。

 だが、その余韻も束の間、それを味わう暇もなく釘を刺す狭霧の声が落ちてきた。

「いささか手を握りすぎでは?」

 なんて嫌らしい指摘をするのか、この女は。

 翼はあたふたと身を引いた。よろけるように撓垂(しなだ)れかかる柔らかな感触に胸が高鳴る。

 たぶん、姫様は意識が朦朧としておられるのだ。とはいえ世間がそんな事情を汲んでくれるかどうかは気が気でない。気づけば野次馬どもの数がさらに増えている。

「おい、あそこにいるのは朔夜様じゃね?」

「見て見て、姫様が男の人と抱き合ってるわよ!」

 これはまずい。瓦版屋(かわらばんや)にでも見つかれば何を書かれるか知れたものじゃない。

 翼は必死の形相でしがみつく朔夜を断腸の思いで引き剥がし、かつ丁重に言葉をかけた。

「姫の御身は必ず守ってみせます」

 ちょっとキザに演出したのは、つまり冷静になって欲しかったからだが、その効果は覿面(てきめん)だったようだ。思いのほか素直に引き下がった姫様は、しかし顔もまっ赤に俯いて、まるで茹で蛸の如しである。なんとか応急処置で毒は消したものの身体熱にうかされているのだろう。

 数日は治療に専念してくれるとありがたい。残る気懸かりは騒がしい野次馬どもである。

 おまけに、ピーッという笛の音も聞こえてきた。呼び子の笛である。きっと騒ぎを聞きつけて、ほかの町方まで駆けつけてきたのだろう。いったい狭霧は何をやっているのか?

「ううっ、殿下を惑わす女狐など醜聞(しゅうぶん)にまみれて恥をかくがいい」

 さらに狭霧の怒る声が耳目に響いた。これはわざと術を弱めているのに相違ない。これは後でお仕置きが必要である。いや、それだと逆効果かな。狭霧は折檻(せっかん)を喜ぶ体質なので別の方法を考えたほうがいいだろう。だが、それは、すべて片付けてからのことである。

 そこでようやく翼は怪物と対峙(たいじ)した。その額に浮き出る女の顔面が不気味である。

 その怪物が獰猛に多脚(たきゃく)を蠢(うごめ)かせて一気に間合を詰めてきた。

「ぎゃぁぁ!」ようやく事態の恐ろしさに気づいた群衆が今さらになって逃げ出していく。

 ところが、どうも様子がおかしい。怪物は逃げる群衆を追おうとするが、その前脚を後脚が止めているような不可解な動きを示(しめ)している。それでいて辺(あた)り構わず暴れるものだがら、なんとも始末が悪い。翼は〈魔掟書〉を起動させ、肉体強化の内系因子(ないけいいんし)を選択した。それを発動しつつ暴れる怪物の脚を掴(つかん)でみせる。凄まじい衝撃に全身が軋(きし)み、足が地面を滑った。それでも、なんとか巨体を押さえ込むと、そこへ鋭い爪が容赦(ようしゃ)なく叩き込まれた。

 次々と繰り出される多脚の攻撃をかわしながら怪物の腹に回し蹴りをお見舞いする。もんどりうって倒れる怪物。すかさず野次馬から歓声が上がる。「うぉぉ!」ってか――何やってんだ。さっさと逃げろよ。見せ物じゃないんだぞ。その群衆に向けて怪物が牙を鳴らす。と同時に怪物の尻のあたりから白い糸状のものが噴出されて翼の身体(からだ)に巻きついていく。視界を閉ざす粘着性の糸。まるで繭(まゆ)のように絡(から)まるその中から翼は宣告した。

「今、その魔法ごと燃やしてやるからな」

 さても怪物が〈天魔〉の類なら、それで片がつくはずだ。やはり絡(から)みつく糸は容易(たやす)く燃え上がった。〈天魔〉とは、その存在自体(じたい)が魔法に由来(ゆらい)しているからである。だが、そこで怒り狂ったかに見えた怪物であるが、なぜか、その頭部に浮き出る女の顔は泣きじゃくっていた。

「あなたを探していました」などと言っている。はぁ、どういうことだ?

「どうか、その魔法で、この忌(い)まわしき体を――」浄火して欲しいとでも言いたいのか?

 だが悲痛な訴えとは裏腹に怪物の口は邪悪に牙を鳴らしている。なんだか、よく分からないけど迷っている暇はなさそうだ。燃やしてくれと願うなら望みどおりにしてやればいい。

 次の瞬間、怪物の巨体が炎に包まれた。ところが、これがなかなかしぶとい。自から燃やしてくれと言ったくせに小さく分裂し、この場から逃れようと足掻くのだ。

 それを放置すれば、再び姫様の命を狙うのは目に見えている。

「今夜はもう逃がさないっての!」

 さらに魔力を拡散させる。散)り散りになる蜘蛛が次々と灰燼(かいじん)に帰していく。その炎の中から女の裸体が転がり出た。その一糸纏(まと)わぬ姿が地面に倒れ伏すや、その惨状に群衆の悲鳴が谺(こだま)した。ただし、翼の行う〈血銘術(けつめいじゅつ)〉は魔法そのものを燃やせることに、その最大の特徴を持つ。 いかに〈天魔〉と融合していようが、もとが、ただの人なら命に別状はないだろう。

 気づけば、いつのまにやら四人組も消えていた。恐らく、あの連中は、今そこに倒れるている女を監視(かんし)していたにちがいない。ともあれ、もはや、ここに長居(ながい)するのは得策ではない。

「狭霧っ!」と合図するや、合点承知と霧が濃くなり、次の瞬間には、もうすでに別の場所に移動していた。そこは武家屋敷などが建ち並ぶ朱雀(すざく)通りの真ん中である。よくやったと褒めてやりたいが帰宅する方向とは真逆である。もう刻限も遅いので辺りに人影はなく、その閑散とする闇の中に三人は立っていた。空間を一瞬で移動できる瞬転術(しゅんてんじゅつ)が発動したのである。さても狭霧はこの術の達人である。といっても、そう何回も発動できる術ではない。この術は魔力の消耗が激しいのだ。

 と、その逃走劇の立役者に向けて胡乱な眼差しが向けられていた。

「なんじゃ、こやつは! いきなり現れおって、いったい何者でおじゃるか?」

 その視線の先に黒ずくめの女が無愛想に立っている。髪を無造作に束ねているだけで化粧っけ一つない。一応、彼女も芸者の端くれなので、それなりに整った容姿はしているのだが、表情が乏しく、死んだ魚のような眼をしているので、見慣れてないとちょっと危ない人に見えてしまう。しかも酒癖が悪く、座敷に上がると必ず仕事もそっちのけで大酒飲みに変貌するので、客の評判はもっぱら悪い。なので、於吟は彼女に別の仕事を与えている。

 つまり翼の護衛である。そんな狭霧が、自分に向けられる警戒心など気にするはずもない。

 やはり、訝しむ二郎の存在など、まったく眼中の外に置いて、こう言った。

「いささか問題が発生しております」

「はぁ、なに言ってんのお前? あ、こいつも、おいらと同じく芸者なんだけど、今はなぜか黒ずくめだね。そのことは、また後々説明するよ。どうにも、ややこしい話だからさ」

「ふむ、月花楼とは、かくも怪しき店でおじゃるな。ま、今はそれでよいとして、まずは貴殿に発動している術を解除せねばならぬでおじゃるな」

 えっ、それはどういうこと?

 すると手鏡(てかがみ)が差し出された。持ち主は狭霧である。今は忍び装束の狭霧もたまに芸者の仕事をするので、そのような品を持っていても不思議ではないが、その微動だにしない鉄面皮(てつめんぴ)を鏡に映しているところを想像するのはかなり怖い。

 その無表情に微かな戸惑いが浮かんでいた。

「ご立派に成長なされておいでです」

 そこでようやく鏡に映る自分の姿に面食らった。

「誰これ?」「貴殿でおじゃる」「え、でもこれ?」

 どう見ても二十代半ばの青年ではないか。

「どうして、そんなことになったかは定かではないでおじゃるが、恐らく〈弦力無限(げんりょくむげん)〉の力が、いや、ともかく麻呂の術が勝手に発動してしまったでおじゃる。今、解除するでおじゃる」

 すると、鏡に映る姿がどんどん若返っていく。

「うわ、すごいね! 自分以外も変身させられるなんて!」

「なにも作用を及ぼせるのは、人物だけではないでおじゃる。麻呂は物に備わる時間を操り、その質を変えることができるでおじゃる」

 なるほど、ようやく合点がいった。しかも、そこで、いいことを思いついてしまった。

 やがて、年齢相応(としそうおう)の姿にもどれた翼は神妙な顔をしてため息交じりにつぶやいた。

「こりゃ、今夜も於吟に、説教されちゃうな……」

「御意……」狭霧は相変わらず無表情である。

 と、こうして、三人はとぼとぼと、ようやく帰途につくのだった。





 

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