月下天翼神記

大谷歩

第1話 劣等生のような優等生

蒼(あお)い満月の夜だった。なのに小雨のぱらつく奇妙な夜更けである。


さても、こんな夜は出るという。刻限は夜の十一時を少し過ぎた頃。それでも店先に釣られた軒行燈(のきあんどん)はまだ赤々と灯り、大勢の人が行き交っていた。ここは大穢土京(おおえどきょう)随一の歓楽街、神楽町(かぐらちょう)、夢幻坂(むげんざか)。高級料亭や芸者茶屋が軒を連ねる一角だ。そんななか一軒の暖簾(のれん)がゆれて色鮮(いろあざ)やかな振り袖が飛び出してきた。

「あんの好色爺ぃ! おいらの尻(けつ)を散々撫(な)で回しゃがって気色が悪いったらありゃしねぇ!」

 激(はげ)しく地団駄(じだんだ)を踏んでいるのは、年の頃(ころ)は十五歳くらいの少年である。もちろん少年なので少女ではない。つまり女形(おやま)芸者というやつだ。されど道行く人の誰もがそれに気づいていないのか、その粗暴な振る舞いには顔を顰めている。それもそのはず、割れ忍の結髪に花簪を挿した手弱女(たおやめ)ぶりは、どこから見ても可憐な少女のそれにしか見えず、くっきりとした目鼻立ちに紅を差した唇はサクランボのように淡く、瑞々しい果実を思わせた。

「くそ、覚えてやがれ!」それでも店先の暖簾に罵声を浴びせる姿には、どこか愛嬌があり、通りすがりの酔っぱらいが、ついからかってしまったのも無理からぬことだろう。

「よう、嬢ちゃん、あんたの尻なら一両は出してもバチは当たらねぇな」

「うるせぇや! おとといきやがれってんだ!」

 少年は歯も剥き出しにして酔っぱらいを追い払った。ついでに掌を返し、お天道様の機嫌を窺う)。まだ雨は止みそうにないが、それほど気にするような雨量でもない。なので傘もささずに歩きだす。そこへ、どこからともなく囁く声が落ちてきた。

「でも気前のいいお客様でしたよ」

「そっかなぁ、ちょっぴり小遣いをくれただけじゃん。おいらの尻(けつ)にゃ十両の価値はあるぜ」

「……ぎょ、御意」されど声の主はどこにも見当たらない。

「じゃぁ帰ろうぜ。明日も学校だしさ」

 そう言って辻を曲がり、路地裏へ消えていく。少し道を逸れただけで雰囲気ががらりと変わるものだ。そこは薄暗く、堀割り水路から漂う湿った空気に満ちていた。貧乏長屋が軒を連ね、小さな屋台がぽつぽつと明かりを灯しているだけで、決して治安のいい場所とは言いがたい。

「ご免ください。今夜は白天と大根をもらおうかな?」

「おやおや、菊之助(きくのすけ)ちゃんかい。今日はずいぶんと遅かったんだね?」

「うん、今夜はしつこい客だったんだ。しかも助平(スケベ)な爺ぃでさぁ、やってらんねぇよ」

「そうかい。なら腹も減ったろ。こいつは取っときな」

 おでん屋の親父は少年の愚痴を聞き流しながら煮卵を一つおまけしてくれた。

「ありがとう!」先ほどの不機嫌もどこへやら、ニコニコと二文銭を出して紙皿を受け取る。

 まだ寒気も残る二月も末である。熱々の夜食で体を暖めなければ夜道も辛い。

「ねぇ狭霧(さぎり)もどう? おやっさん。煮卵をおまけしてくれたよ」

 ここの屋台は出汁が濃いめで、その茶色く染まる煮卵がまた格別なのだ。

「あれ、なんか妙だね」ふと立ち止まり、菊之助は白い襟足(えりあし)も悩ましく頭上に連なる人家の屋根を見上げてみた。いつも無口な相棒がいつもにも増して無口なのがどうも気懸かりである。

「おーい大丈夫か?」と虚空に放ってみるが、それも闇に溶けた。しばらくすると、頭上から女が落ちてきた。見れば全身黒ずくめの女が仰向けに倒れて目を回している。その着ている服は俗にいう忍び装束であるが、顔には白粉(おしろい)が塗られているので首から上だけ目立っている。

 というのも、この女、つい先ほどまで菊之助と一緒に派手な着物姿で座敷に上がっていたのである。そのせいか肌もほんのり色づき、その目も心なしかトロンとしている。これでも腕利きの〈くのいち〉だという触れ込みなのだが、それだけに目を覆いたくなるような有様だ。

 猿も木から落ちるとは聞くけれど、屋根から落っこちる忍者なんて聞いたこともない。

「やっぱり飲みすぎじゃないか。護衛がそんな体たらくでいいのかよ! おいらが散々尻を撫で回されているのも知らんぷりこきやがって、この蟒蛇(うわばみ)め! 軽く一升は超えてたぞ!」

「はい、とても美味しゅうございましたよ、ひっく……」

「誰も飲んだ酒の感想なんて訊いてねぇっつうの、この酔っぱらいが!」

 まったく反省の色もありゃしない。

 そこへ「きゃぁぁ!」と今度は闇につんざく女性の悲鳴である。

「まったく今夜は何だってんだい!」

 悪態をつきながら菊之助は相棒をそのまま放置し、表通りに復帰してみた。すると朱雀(すざく)通りと夢幻坂(むげんざか)通りが交差する四辻の真ん中に人が集まっていた。その群衆を掻き分けて進み、人いきれを抜けると、そこに一人の侍が立っていた。編み笠を被り、おまけに唐傘まで差している。小雨にしては大袈裟なことだ。しかも四人の男に囲まれて喧嘩を売られている最中のようだ。囲っているのはいかにも柄の悪そうな連中である。揃って極彩色な羽織を着こみ、派手な鞘を一本差しにしている。大方、用心棒で食いつなぐ浪人者といったところだろうが、いかんせん、ここが魔法や喧嘩が御法度の花街であるにもかかわらず四人はすでに鞘から刀を抜いている。その傍らでは今にも泣きそうな娘が震えあがっていた。ははーん、酒に酔った浪人どもが、どこぞの看板娘に不貞を働こうとして咎め立てでもされたのかな? 菊之助はそう推測した。

 やがて浪人者と、お侍との応酬が始まった。

「貴様、我らに逆らうとはいい度胸だな。俺たちゃ朝廷直参の門閥貴族(もんばつきぞく)に仕える家中の者だぞ」

「ほほう、門閥配下の士族にしては身形がいささか野暮ったいがの」

 いや、人のことは言えた義理じゃないだろう。

 粗末な着流しに綿入といった侍も一見して浪人者だと分かるような出で立ちである。

「とはいえ貴族の家中とやらが町娘に狼藉とは情けない。ほら吹きもそこまでくれば見上げたものよ。そのうえ御上より賜りし刀を軽々しく抜くとは言語道断。そのほうらこそ覚悟いたせ」

 身形にしては凄まじく尊大である。よく見れば腰に帯びた鞘はとても立派な造りだ。黒漆に螺鈿細工で桜をあしらう豪華な代物である。そこから抜かれた刀もこれまた夜陰に溶ける漆黒の刃で、その柄(つか)には〈月下緋桜(げっかひざくら)〉の家紋が刺繍されていた。しかも、妙に甘ずっぱい声である。

「あちゃぁ、またかよ」菊之助は頭痛でも堪えるようにこめかみを揉んだ。

 そこへ耳障りな愚痴も飛びこんできた。

「置き去りとはひどぉございますぅ」

 またしても姿は見えず、それどころか、その声はほかの誰にも聞こえないようだ。

 その囁く声が狼狽えた。「またですか!」若干、悔しさも滲でいる。

 と、そうこうしているうちに、その浪人者の編み笠が宙に投げられた。

 そこに姿を見せたのは夜陰にも麗しき燦然と輝く容姿。長く煌めく黒髪に白い肌。清楚というにはあまりにも鮮烈な美貌が魔力を帯びた月の光に照らされて浮かんでいる。

「いよぅ待ってましたぜ、お姫様。おまえらこそ跪きやがれ! さても、その正体は我が揺光(ようこう)帥国(すいこく)が誇る国姫(こっき)様。世にも名高き黒揺姫(こくようき)、朔夜(さくや)様とはこの御方だ。そのほうらこそ頭が高ぇ!」

 町人たちが面白がって騒ぎ立てる。しかも、えらく調子のいい合いの手まで入る始末である。

「やかましいやい! なにが国姫だ。もとを正せば、ただの陪臣(ばいしん)の娘じゃねぇか!」

 浪人どもの渋面たるやこれ如何(いか)にであろうが、されど、いくら吠えても負け惜しみである。 今や彼女は国主代理の地位にある御方だ。浪人どもからすれば身分は彼女のほうがはるかに上である。町人たちも完全に無視である。

 さても、この辺りでは夜毎くりひろげられる〈姫様の世直し劇〉が名物となっていた。

「そうじゃねぇかと思ったぜ。さっそく瓦版屋の記者も嗅(か)ぎつけて集まってきてやがるしよ」

 おまけに昨今は、それを見物するために、わざわざ下町へと繰りだす輩までいるくらいだ。

「ふふっ、刀を抜いたからには覚悟ができているのであろうな」

 一方、なぜか嬉しそうに凄んでみせる姫様である。浪人どもは額に汗滲(にじ)ませて後退っている。

 いやはや大の男が揃っていながら情けないものだが、それも無理からぬことだろう。

 なにしろ、この姫様の勇名は七天帥国や二十八宿将国を束ねる月下統一帝国中に轟いている。

「今夜も先を越されましたか」

 不服そうな声がもれた。どこぞの屋根の上で女忍者が歯噛みしている姿が目に浮かぶ。

「べつに、おいらは姫様と競ってるわけじゃないからさ」

 と、次の瞬間である。何者かの鋭い視線を菊之助は感じた。それは、ぞくっとした悪寒をともなって首筋を駆け抜けていった。

 慌てて渦中の姫様に視線をもどすと、ちょうど浪人どもが悔しげに刀を収めているところだった。先ほど感じた不穏な殺気は彼らのものではないだろう。しかし、その中の一人が舌打ちしたのを菊之助は聞き漏らさない。その去っていく四人の背中を胡乱な眼差しで見送った。

「なんか、あいつら怪しくね。狭霧、連中の後を追えよ」

「今夜は勘弁してください。狭霧はほろ酔い気分でございます」

 あれ、忍者って、こういう時こそ活躍するんじゃなかったっけ? ほろ酔い気分ってなんだよそれ? まぁいいや、この馬鹿には後で説教しておこう。それより今はこの場に沸き起こりつつある魔力、いや呪力こそ捨て置けない。それは浪人どもが刀を納めた途端に湧き起こった不穏な気配である。その異常に気づいた姫様も夜の帷に向けて〈操魔刀(そうまとう)〉の剣尖(きっさき)を向けている。

「なに奴じゃ!」と叫んでも、そこに誰かいるわけではない。

 浪人どもが立ち去った闇の向こうには不気味な魔法陣が浮かんでいた。

「出たぁ!〈天魔(てんま)〉だぁ!」 

 野次馬とばかりに群がっていた町人たちが蜘蛛の子散らすように逃げ惑う。さても凍りつくような蒼い月。こんな夜は出るという。たちまち辺りは大騒ぎである。なにしろ突如そこに現れたのは優に人の五倍はあるかという怪物だ。黒々とした巨躯(からだ)に黄色の縦縞(たてじま)。剛毛を生やした多脚に鋭い爪。全身から呪力という呪力を漲らせ、八つもある眼を鈍く光らせている。その姿は、まるで巨大な蜘蛛の如しである。

「鬼蜘蛛(おにぐも)だぁ!」町人たちは右往左往。なのに、またしても暢気な声が囁かれる。

「今夜は賑やかですね」いたって動じる気配もない。

 ま、この程度で狭霧が動くことはないのだが、せめてこれだけは命じておかねばなるまい。

「さっさと逃げる準備はしといてよ」

「――御意っ」

「じゃ、とっとと片付けるからさ」

 と慌ただしく逃げ惑う人波に紛れて凄まじい魔力が励起した。芸者、菊之助の眸が紅に輝き、その見据える先に緋色が走る。その刹那、地上から炎が立ちのぼり、巨大な蜘蛛を直撃した。

 いや、そうかと思いきや、怪物は逃げるように後退り、再び魔法陣の中へと消えてしまう。

 後には何も残らず、ただ人気のない通りに、なにやら酒臭い霧が立ち込めているだけだった。


              【第一話 劣等生のような優等生】


 うだるような暑さだった。翔滑路(しょうくうろ)に面して開けているとはいえ、整備格納庫の中はお世辞にも風通しのよい環境とは言えない。厚い壁に囲まれているので熱気がこもりやすく、いくら換気をしたところで、その効果は微々たるものである。すでに壁かけの温度計の針も六十度を超えていた。ようやく梅も見頃な三月になったばかりだというのにである。

「教官もう耐えられません!」

 午後からの授業はもはや目も当てられない惨状だった。この期に及んで終業の鐘など待っていられる状況ではない。まだ残り三十分ほどあるが、その苦行に耐えるなら、まだ深夜の町外れで〈天魔〉にでも遭遇したほうがましに思えるほどの危機感にも満ちている。

 その切羽つまった状況が、臨時教官という立場ながらも、ついに権限を越える決断を促した。

「訓練は中止します。小論文を提出した者から速やかに避難してください」

 どうせ次の授業もこの続きである。しかも、ほとんどの生徒が論文を書き終えている。

 それに、このまま継続すれば体調不良を訴える生徒も、必ずや続出することになるだろう。

 ただし、約一名のみこの場に残し、こんな事態を招いた責任を取らさねばなるまい。

 とはいえ、もうすでに彼には罰が与えられ、その課題に取り組んではいるものの、これがまた毎度のことながら頭痛の種である。そう、きっと今日も苦情の嵐にちがいない。

「はぁ~~っ」と晦日宵越(つごもりしょうえつ)は辟易としながら庫内の状況を確認してみた。

 いや、どうやら杞憂に終わりそうだ。もはや抗議する気力もないらしい。生徒らは論文の提出も我先にと脱兎の如く退散していく。机の上には適当に書いたとしか思えない用紙が山積みになっていた。再び作業場に目を移してみた。雑多な機械類に囲まれた一角に机や椅子が並び、その中に異質な物体が転がっている。それが本来の性能をはるかに超える威力をいかんなく発揮し、凄まじい熱波を放っている。おかげで、この酷暑である。さても本日の課題は『旧式の動力機関から新型なみの魔法反応を引き出す手法を模索せよ』というものだった。確かにこれは熟練の技士でも手こずるような難問だっにちがいない。とはいえ、もう少し努力の片鱗を見せて欲しかったと思う。ほとんどの用紙がぺらぺらの薄さである。これではまともな考察など期待できるはずもない。宵越は不機嫌に吊り上げた眉もそのままに積まれた用紙の底から二十枚を超える唯一気合いの入った論文だけを取り出してみた。その論文の表紙には火選崎翼(かえりざきつばさ)という件(くだん)の男子生徒の名が記されていた。その用紙を捲(めく)る。そこには旧式機関の特性を活かした再構成に始まり、固定魔法の連鎖反応によって魔力が効率よく反映できるよう工夫した設計理論が述べられていた。じつに基本に忠実で、それだけでも及第点を与えて然るべき内容である。

 ただし、それで終わらないのが、この生徒の困ったところなのだ。論文内容はそこから徐々に常軌を逸した試みに走り、ついには細かな部品に到るそのすべてに〈劫火(ごうか)の術〉を定着させる前代未聞の結論へと達している。つまり、その結果が、あの危険物体というわけだ。

 そう、あんな恐ろしい動力機関を搭載した機体は危険どころの話ではない。そんな轟々と炎を吹き上げる〈天翼神機(てんよくしんき)〉を魔装(まそう)してみなさい。あっというまに黒焦げになっちゃうでしょうが。あちゃぁ、これはかなり悩ませちゃってるかもしれないわね。と胸が痛んだ。なぜなら彼をそこまで追いつめているのは、ほかならぬ自分だからである。もちろん、その責任は感じている。なにしろ、この生徒ときたら、こんな失態を演じる前からすでに問題児扱いされており、教官たちからの評判も最悪だった。むしろ劣等生としての地位は、この程度ではゆるがない。

 とはいえ今回の試みに対する評価を正しくすれば、彼の資質がいかに優れているかは気づけそうなものである。それを理解できない教官たちの目が節穴なのか、もしくは気づいてながら無視しているのか――ともかく彼の評価が不当に貶められているのは確かである。その悲しき現実は彼の能力とは無関係のところに存在している。それ故、彼が問題を起こすたびに、まるで見せしめのような懲罰が言い渡され、実際、ほとんどの授業で彼はそのような憂(う)き目に遭っている。にもかかわらず、常軌を逸した挑戦を続けるのは、それこそ成績不良で進級が危ぶまれているからだろう。時に人は活路を求めて破滅へ向かうものなのかもしれない。なのに、それを諭しもせず彼の愚直につけこんでいるのには訳がある。その行いが教官として恥ずべきものであることは自覚しており、毎度の如く激怒した挙げ句に職場を放棄する主任教官を責める資格なんて自分にはないことも認めているつもりだ。されど、毎度のように錯乱する主任教官の姿を思い出すたびに笑いが込み上げてくるのもまた否めない事実ではあるのだが。

「ふふ、今日という今日はもう許しません。限界という限界まで腕立て伏せでもしてなさい!」

 ときたものだ。今頃、彼女は教官室の片隅で次はどんな罰を与えようか悩んでいるにちがいない。と、そんな想像をしながら汗を拭い、すでに崩壊した授業風景をもう一度見渡してみた。

 もう、ほとんどの生徒が退出を終えていた。

 そんな宵越の耳に、まるで足りない皿でも数えるような苦悶の声が伝わってくる。

「ふんぐぅ、七十一ぃ、ふぐぐ七十二ぃっ」

 どこぞの怨霊かと思いきや件の火選崎翼がしぶとく腕立て伏せを続けているのだ。真剣にやっているようだが、もはや危篤寸前の海老みたいにピコピコと尻しか上がっていないのが滑稽である。それでも長い髪をふり乱して行う落ち武者さながらの異様さには鬼気迫るものもあるのだが、そんなことには臆する気配も見せず、そこへ汗まみれの侮蔑を向ける女子生徒がいた。

「ちょっといいかしら」

「ねぇ、やめなって委員長ぉ。怪奇崎(かいきざき)なんかに近づくと魔力が不調になるって噂だよ。きっと〈天魔〉の呪いが感染するからだって、みんな言ってるし、しかも今日はさらに暑苦しいし」

 その背後にも数名の女子生徒がいるが、こちらも多分に洩れず汗まみれのヘロヘロ状態だ。

 ちなみに〈怪奇崎〉とは件の男子生徒に付けられた異名である。

 いつも長い総髪(そうはつ)を前後に下ろし、その隙間から丸い瓶底眼鏡が爛々と輝く、その素顔もまったく見えない怪しげな風貌と、彼にまつわる数奇な噂から、そんな異名を賜ったらしい。

「それに、ほかにも怖い噂があるよ。その素顔を見た者は必ず〈天魔〉に遭遇するとかさぁ」

 いやはや、もはや学校七不思議みたいなことになってないか。そもそも、その話の発端は彼の母が〈天魔〉に呪い殺されたとかいう噂に起因しているらしいのだが、ま、それも無理はない。この世において〈天魔〉ほど人を恐怖させるものはない。しかも、その〈天魔〉は人を呪い、その怨念は伝染すると言われ、往々にして被害にあった者への差別意識を増長させている。

 もちろん、〈呪い〉は伝染したりしないので、それに関しては単なる迷信にほかならないが。

「そのような噂にふり回されるなど士官生としてどうかと思いますわよ」

 やはり、ぴしゃりと正論で黙らせる女子生徒。だが宵越には、なにやら胡散臭いものが感じられてならなかった。彼女の名は十五夜鏡花(きょうか)。中等部技士科の三年生にして早くも生徒会の幹部に名を連ねる優等生である。その凛とした佇まいは、まさに清楚という言葉がよく似合う。

 さても、その髪型は千鳥結(ちどりゆい)。着ている萌葱(もえぎ)色の制服は生徒会の幹部にのみ許された特注品で、それは一般の女子生徒が着ている朱色の小袖(こそで)に袴(はかま)といった制服とはちがい西洋風の装いも可憐な紋付背広(ブレザー)に洋風筒袴(スカート)といった出で立ちである。その彼女の口から不機嫌な声が放たれた。

「毎回、迷惑しておりますのよ。授業妨害もこれで何度目ですか? そろそろ本気で反省する気があるのなら、それなりの態度で示してもらえないかしら?」

「えっと、それにつきましては只今もっか鋭意努力中なんですけど」

「だいたい今日の課題の意味を理解してまして? ――模索せよ。つまり理論構築し、それを論文にまとめる。それだけでよかったはずです。それを危険も顧みず動力機関を組み上げるなど正気の沙汰とは思えません。それに今日も〈魔掟書(まじょうしょ)〉の使用は禁止だったはずですが?」

「だから何度も言ってんじゃん。〈魔掟書〉なんて使ってねぇっつうの」

「嘘おっしゃい。この期に及んで白を切るつもり?〈魔掟書〉も用いずに、どうやって奏焔(そうえん)魔法の第十三番技にあたる劫火の術なんて荒技を連続召還できると言うのです?」

 そりゃ長い術式を気の遠くなるほど唱え、辺り一面魔法陣だらけにすれば可能だろう。ほとんどの魔法が、その魔法陣をまず形成するところから始まる。〈相転移弦子(そうてんいげんし)〉は人の心を介してあらゆる法則に作用し、そこに不確定の理(ことわり)を示す。その現象を魔法と呼び、それを召還する技法を魔術と呼ぶ。それを可能にする〈弦子(げんし)〉は〈願い〉を形にする言葉、つまり呪文によって結晶化し、魔力に反応することによって物理法則を歪める。そして結晶化した〈弦子〉の波紋を魔法陣と呼び、その法則を理解することで魔法を召還することができるのだ。ただし、それを行うために必要な知識を体得するのは並大抵ではない。それに魔法を召還するのにいちいち呪文を唱えるのも実用的ではない。なので、それを補うものが発明された。それが〈魔掟書(まじょうしょ)〉である。〈魔掟書〉は魔法の術式を記録しておける便利な術具で、術を書面に固定しておくと、後は魔法の概念を心に描く〈練心(れんしん)〉という作業を行うだけで魔法を召還できる。これを用いれば複雑な詠唱が省けるので低段位(ていだんい)の者はもちろんのこと、上段位者もこれに頼ることが多い。

「べつに嘘なんてついてねぇんだけどさぁ。じゃぁ、おいらにどうしろっての?」

 やがて戸惑う男子生徒に対し、鏡花は耳を疑うような提案を持ちかけた。

「もうすぐ自由研究の提出期限ですわね。あなたが今作成している論文を見せていただけないかしら。……いえ、べつに、私は、あなたの成果をどうこうしようとは考えておりませんわ。ただ、その内容次第では共同研究という道を模索してはと思いまして」

「お断りします」

 当然だ。他人の論文を見せろなんて、どんな理由でも、それは技士科生(ぎしかせい)のすることではない。

「ですが、あなたの成績では高等部への進級は難しいと思いますけど?」

「まだ、そうと決まったわけじゃ」

「これは、あなたのためでもあるのですよ。例えば、私との共同研究という形にすれば教官たちも無下にあなたの評価を下げたりしないと思いますけど」

 とても親切心から言ってるとも思えない。

「でも、やっぱり自分でなんとかします」

 なおも拒絶する火選崎に対し、ついに鏡花の取り巻きたちが不満の声を露わにした。

「なによ、怪奇崎のくせに委員長のありがたい申し出を断るなんて!」

「課外任務にも参加してないんだから、どうせ暇でしょ!」

「授業で禁止されてる〈魔掟書〉を、こっそり使用する卑怯者なんかと組んだら委員長の経歴に傷がつくだけだよ」

 さらに嘲笑を浴びせる仲間に迎合する鏡花ではないが、それでもしつこく念押しする。

「まぁ、共同研究の件は考えておいてください。ちゃんと封印術を施していたことは評価に値しますが、一歩まちがえれば大惨事だったのですよ。そのこと、お忘れなきよう」

 そう締めくくり足早に出口へ向かう。周囲の連中もそれに従った。確かに火選崎が組み上げた動力機関は宇宙艦(うつふね)も動かせるほどの威力を発揮している。それを考えれば、そもそも、この程度の暑さですむはずがないのである。奏焔(そうえん)魔法の固定化は複雑な魔法陣さえ構築できればさほど難しいものではない。実際、その魔法を利用した動力機関は数え切れないほど存在する。

 問題は、それをどう制御するかである。とはいえ彼女は勘違いをしている。あの危険物体に魔力を制御する術など仕込まれてはいない。さらに言えば、この世には〈魔掟書〉も呪文詠唱も必要としない魔法が存在する。その事実を噛みしめながら宵越は件の少年を見つめた。

「毎度の懲罰ご苦労さま……」少年に罰を与えた教官はあれから一度も様子を見にこない。気に入らない生徒にのみ罰を課すこと自体が最悪の指導とも言えるが、それに対して責任を持たないところが、すでに教職者として破綻している。

「もう、そのくらいでいいんじゃない。後は自己申告でいいわよ。どうせ誰も見ちゃいないんだからさ」

 それでも彼は限界まで努力を続けるだろう。そういう、がむしゃらな子は嫌いじゃない。

「はい、頑張ります! 百八十一ぃ!」

「うん、いい返事ね」って今なんて言いました? 百八十一? 思わず目を瞠(みは)る。

 首筋に浮かぶ汗。されど、この酷暑である。その程度の汗ですむわけがない。よく見ると、少年の身体から薄い光の膜が広がっていた。宵越は朱色の軍服の内側から〈魔掟書〉を取り出し、起動させた。それは、もともとは革の装丁(そうてい)だったが、今はその面影もない。隙間もなく色とりどりの硝子玉(ガラスだま)で飾られているからだ。この書には自ら研究した魔法や先祖から受け継いだ術式などが記録されている。かつて、自分も士官生だった頃から使いこんでいるので、書の角が少し擦り切れているが、これまで幾多の危機をともに潜り抜けてきた戦友であり、帯刀(たいとう)を許された〈魔掟士〉である〈天翼士(てんよくし)〉にとっては魂とも言える〈操魔刀(そうまとう)〉と同じくらい大切な代物なのだ。やがて発動によって宙に浮いた〈魔掟書〉に宵越(しょうえつ)は念意(ねんい)を集中させた。恐らく、あれは魔力の飽和現象にちがいない。やはり溢れる魔力が大気中に存在する〈弦子(げんし)〉を輝かせていた。その光の特徴は備わる資質を表しており、主に物理的な変化には色が付きやすく、はっきりした発色は熱量や質量の増大、または空間作用や物質変化に優れているそうだが、ここまで鮮烈な赤も珍しい。さて、どれほどの力が顕現しているのかと近づき、改めて少年の噂を(うわさ)思いだした。―― そう、魔力の不調である。

 その言葉どおり発動した万能視の術が一瞬で消滅してしまった。この反応もこれで三度目だが、やはり慣れない。〈魔掟士〉としては当然とも言える恐怖が喚起される。その反応は、ここにある魔法がさらに別の魔法によって激しく燃やされているという証拠なのだ。その力があの危険物の熱を抑えているのだ。さらに目を細めた。これも今さらだが、彼が〈魔掟書〉など用いていないことにも心がざわつく。彼は嘘(うそ)などついてない。彼の〈魔掟書〉は貴重品棚に保管されているはず。宵越は戸棚まで確認しに行った。やはり書はそこにあった。ごく普通に市販されている書のように見えるが、その厚さが尋常ではない。書は魔紙を付け足し、術を固定させていけば魔法の種類を増やすことができる。魔紙は〈弦子(げんし)〉から複雑な技法をもって製造されるが大量生産される代物なのでさほど高価ではない。ただし、ここまでの書を完成させるには相当な努力が必要だったろう。確認した資料によると彼の魔力資質はたかが三段位。〈魔掟士〉としての将来性は平均以下といったところである。だが、いずれ世界は、この少年から目が離せなくなるはずだ。我々はそんな未来に躊躇いつつ、ある計画を始動させたのである。

 まだ成長しきれてない体は一見、華奢(きゃしゃ)に見えるが無駄なく筋肉が発達していることが分かる。

 その動きにゆれる髪の狭間が少年の素顔を垣間見せた。紅玉を思わせる紅色の瞳。長い睫毛に利発)そうな眉。それらが小さな輪郭(りんかく)に配置され、中性的な魅力を醸(かも)しだす。敢えて欠点を見い出すとすれば、少々、生意気に見える口端(こうたん)の吊り上がりだろうか。それも、どこか拗ねてるみたいで愛らしい。彼の正体を見抜けない女子生徒たちの目の節穴には心底から同情するが、これほどの逸材が評判になれば大騒ぎどころの話ではない。

「あ、そうそう、君の造った危険物だけど、ちゃんと始末しておいてよね」

 そう言い残して出口へ向かう。目の前に広がる翔空路は、そろそろ課外任務へ赴く翼士生たちで慌)ただしくなる頃だが、今のところ大穢土京は平穏そのものである。だが、いつまでもこの日常が続かないことを予期しているだけに気分は否応なく沈みがちになる。

 昼下がりの空は澱(よど)みなく、不穏さの欠片(かけら)もないほど澄んではいるが、その果てに墜ちる地平線には〈蒼い月〉が顔を見せようとしている。さて、この先どうなることやら。

 深い溜息をもらしながら宵越は整備庫を後にするのだった。

 


力をふりしぼり、上体を反らしたまま翼は(つばさ)倒れ込んだ。「ふぐぅーぅっ!」と力を抜いた途端)に手が滑り、おでこを床にぶつけたが、その痛みは、やり遂げた充実感に消されていった。

 すでに誰もいない庫内に虚しく声が響き渡る。

「あれ、さっきまで晦日(つごもり)先生がいたはずなんだけど……ま、いっか」

 理不尽な懲罰も向きあいかた次第で気分も変わる。そう気づかされたのは最近のことだ。

 以前、腹筋五百の途中で倒れた時に先生にこう言われた。

『試練は乗り越えられる者にしか与えられないとは言うけれど意外とあれは真実ね。なにせ乗り越えた者だけが生き残り、また新たな試練と闘わなきゃいけないんだもの。……えっ、なんの慰め(なぐさ)にもなってないって? じゃ、こういうのはどう? あたしは試練より、努力って言葉が好き。長い人生、報われない努力もあるけれど、でも、それは決して無駄じゃないわ。どんな努力も心の糧(かて)になり、そして、どんな魔法も、その心が引き出す素敵な奇跡なんだもの』

 おかげで少しは毎日を達成感で過ごせるようになったような気もする。

 だから、その出会いには、それなりに感謝しているつもりだ。

 

 それは半年ほど前のことだった。

 その日、翼は放課後の空き時間に整備工場の使用許可がもらえないかと考え、その申請をしに教官室を訪ねたのだが、生憎(あいにく)と訪れたのが昼休みとあって室内は閑散(かんさん)としたものだった。 どうやら教官は一人しかおらず、その日はいつもとちがい部屋中が甘酸(あまず)っぱい香りにも包まれていた。ふと見ると机が並ぶ一角に見慣れぬ姿がある。長い髪を払う仕草も優雅に足を組み、淑やかな指使いで化粧直しでもしている様子。その姿に我知らずと鼓動の高まりも感じたものである。されど次の瞬間、その椅子がくるりと回転し、溜まった肺の呼気(こき)が絶叫となって迸った。

「ぎゃぁぁぁぁぁぁっ!」

「なによ、そんなに驚かなくてもいじゃないっ!」

 しかも、こちらをふり向くや拗ねた仕草で頬を膨らませている。

 なんと、そこにいたのは最強濃度の化粧も凄まじき年齢不詳の男だった。

「もう、あなたの外見だって威張れたものじゃないわよ! なによ、その落ち武者みたいな恰好? 顔くらい見せなさいよ! あら、可愛いいじゃない。なんで隠すのもったいない!」

 説明するのも億劫(おっくう)というより、声も出なかったというのが正直なところだ。

 なので前髪を指で摘まれても体は硬直したままだった。

「ふん、なによ! そうよ。あたしは男よ。でも心は女。なにか文句あるかしら?」

「言いたいことなら山ほどあります」

「お願いっ、傷つくことは言わないでっ!」

 まっ赤な口紅。べったり塗られた白粉(おしろい)。そんな外見とは裏腹に意外と繊細な人なのだろうか?

 とはいえ顎には髭剃り痕も生々しく、なぜ、そんな所に亀の子束子(たわし)がと思いきや、それが半分剃られてもなお太い眉毛と分かり、さらに驚愕。おまけに鋭く強調された睫毛といったら見る者に戦慄を与えずにはおかないだろう。だが、そんな混沌要素も、その悲劇を生みだす肉体美と女性用軍服)が織りなす怪奇現象に比べたらまだ見られたほうである。ともかく昼休みとはいえ、なぜほかに教官が一人もいないのか、その理由だけは、なんとなく理解できた。

「なによ。ジロジロ見ちゃって。だめよ、教官と生徒との間には超えてはならない壁があるんだからね。まぁ、いいわ。あたしは臨時教官の晦日宵越よ(つごもりしょうえつ)。君は中等部技士科の火選崎(かえりざき)君ね?」

 初対面の教官が、自分のことを知っていることに今さら驚きなど感じなかった。

「用があるなら遠慮せずに言いなさい。あたし、こう見えて、かなり権力、持ってんのよ」

 そう言って朱色に染まる女性用軍服の襟元を摘んでみせた。驚いたことに少佐の階級章が付いていた。士官学校の教官は退役まじかの軍属が多く、階級も中尉以上は見たことがない。

 なので、これには驚かされた。なるほど努力すればオカマも出世できるんだな。

「今、あなた、失礼なことを考えてたでしょ?」

 でも、互いに面識がないのは好都合なので、ともかく用件を告げてみることにしたのである。

「うーん、とは言ってもねぇ、一人の生徒にそこまでの便宜(べんぎ)ははかれないかもぉ」

「――ですよねぇ」

「でも、研究区の奥に古い工場があるわよね。あそこなら許可が出せるかもしれないわよ」

 やはり無理かと肩を落とした。

 オカマ怪人。もとい晦日(つごもり)教官の仰る工場については考えなかったわけでもない。

「でも、あそこは危険です。今までどれだけの人が、あの工場の秘密を求めて死にかけたことか。噂では恐ろしい危険物が保管されていると聞きますし、それに生徒会が許してくれません」

「べつに生徒会は工場の使用を禁じているわけじゃなく、あの一帯への立ち入りを禁じているだけよ。施設の管理は国防省の管轄なの。だから私が申請すれば問題ないと思うわ」

 そう言うや、いきなり教官は魔法を召還してみせた。発動したのは〈氷烈槍陣〉(ひょうれつそうじん)という氷襲(ひょうそ)系の攻撃魔法である。いきなり足もとから迫り出す鋭い氷の剣尖(きっさき)が問答無用で襲いかかる。

「いくら強力でも、それが魔法である限り」

 突然のことで制御なんてきかなかった。一瞬で魔法が燃えあがり消滅してしまう。

「――って、いきなり何をするんですかっ!」

「合格ね。すごぉい、これが魔法史に燦然と輝く〈火鳥封月(かちょうふうげつ)〉かぁ。あたし初めて見たかもぉ。もしかして、あなた、自分の価値に気づいてないの? ならさ、どうなのよ。まだ見たことのない至高の魔法世界を覗いてみたいと思わないの? ねぇ、そこんとこ、どうなのよん?」

「何を仰ってるのか理解できませんけど」

「えぇぇ、なによ、その反応ぅ。べつに誤魔化さなくてもいいのにぃ。でもさ、だいたいにして、そもそも、なんで工場なんて借りたいの? 授業の課題なら研究室でも充分でしょ?」

「それは、そのぅ、学年末の自由研究課題で高得点を狙いたいからなんですけどぅ……」

 なかなか本音が言えずにへどもどした。

 少し本心を言えば、士官生の主な義務である課外任務に参加できない自分を慰めたかったというのもある。人類共通の敵である〈天魔(てんま)〉を駆逐し、国民の安全を守るという責務に邁進しながら学校生活を謳歌している連中が羨ましくないかと言えば、それは嘘になる。翼士科(よくしか)は高等部に進級しないと課外任務を拝命(はいめい)しないが、技士科(ぎしか)は中等部の三年にもなると優秀な生徒から順に翼士生に勧誘される。その課外任務は強制ではないものの〈神機(しんき)〉を整備する重要な役割を担(にな)うので、翼士生はなるたけ優秀な生徒を仲間にしようと躍起(やっき)になる。ところが翼の成績が最悪なのは多くの生徒が知るところであり、特に翼士生は整備の担当者を勧誘する際は必ず〈技士科目録(もくろく)〉なるものを参考にする。目録は生徒会が発行しており、購買部で購入できるが、情けないことに翼はその目録の最後にある〈決して勧誘してはいけない〉に名を連ねている。

「なるほどね」卓上の魔法端末(まほうたんまつ)をいじりながら教官は肩を竦めた。「自由研究は内容次第では考査試験よりも高い評価を得られます。でも、そんじょそこらの成果じゃ認めてもらえない」

 先生が凝視する画面には翼の成績表が映し出されていた。

「特に実技がひどい。進級に影響する教科も全滅じゃない。これでは先が思いやられるわね」

 そう、このままでは進級が危うい。士官学校は中高一貫(いっかん)の教育体制を敷いており、中等部三年の成績は高等部への進級に大いに関わってくるのだ。

「うーん、でも、これだと留年にならないわよ」

「えっ、本当ですか先生!」

「うん、だって成績不振(ふしん)で退学だもの」

「…………」

「でも、その諦めない姿勢に免じて協力してあげてもいいわよ。ずっと地の底を這いずってたいならかまわないけど、もし空高く飛べる力が君にも秘められているのだとしたら、その可能性に賭けてみない。あたしは、きっかけを与えることしかできないけど」

「いや、もう、このさい学校に残れるんだったら何だってしますよ!」

「なら、君に任せたい仕事があるの。ちょっと命がけになるかも、だけど」

 やはり、あの工場を押しつける気だ。でも、退学になるかどうかの瀬戸際である。

「さて、どうするかは、あなたしだい。ただし聞いて驚くなかれ、じつは、あの工場にはね、じゃーん、なんと、あの伝説の〈天翼神機(てんよくしんき)〉が眠っているのでぇす!」

 はぁ伝説の〈神機〉だって? それは、あの英雄戦争でも活躍した世界に七騎しかない機体のことか? 我が国のそれは十年前の動乱以降その行方が分からなくなっていたはずだけど。

「じつは、その〈神機〉を復活させることのできる人物をずっと捜していたのよ。どうかしら、あなたの手で、かの伝説を甦(よみがえ)らせてみない? 本当は、あたしのほうから出向こうかと思ってたんだけど、あなたのほうから会いにきてくれるなんて、とっても嬉しいわ」

 そんな不穏な言葉も、もはや耳には届いていなかった。


 その時のことを思い出しながら翼は汗を拭い、しばらく庫内から翔空路(しょうくうろ)を眺めてみた。

 この技士科棟は城内にある魔掟士官学校内の建物で、その内部には整備工場や格納庫、研究施設などが備っている。今いるのは第五格納庫である。ここからだと大穢土朱雀城の天守閣はさすがに基底部しか見えないが、その下層に広がる翔空路は、その三分の一ほどが見渡せる。

 ちょうど四騎の〈神機〉が魔法陣を輝かせながら舞い上がろうとしていた。ただし、搬入口から臨)める視界には限りがあるので彼方へ飛び去る彼らをずっと目で追うことはできない。それが技士生に許された世界の限界なんだろうと翼は思っている。そんな翼を、かつての英雄たちが見下ろしていた。機種銘は〈疾風(はやて)参式(さんしき)〉。なんらかの理由で主を失い、訓練用に回された〈天翼神機(てんよくしんき)〉である。もはや飛ぶこともなく、その猛禽類のような翼を折りたたみ、兜(かぶと)や大袖(おおそで)などの鎧装甲(がいそうこう)も外しているので、彼らがどれだけの敵を葬り、どれだけの〈天魔(てんま)〉と闘ってきたかは想像するしかあるまいが、それでもなお、その姿は威風堂々としている。人類共通の敵、〈天魔(てんま)〉。かつて太陽系を支配していた〈天翼人(あまつばと)〉が、その滅亡とともに解き放った呪いの死兵。そんな怪物を相手に、もしくは国どうしの戦(いくさ)を勝利へ導くために〈天翼人(あまつばと)〉の兵器を人類でも扱えるようにしたのが、この魔法の巨人と言われている。それは宇宙はもとより、あらゆる空間に対応できる魔法の兵器だ。翼が在籍している技士科は主にこの〈神機〉を学ぶ学科である。そして本日、行われた訓練もまた、その〈神機〉の動力を深く理解するのが目的だった。

「まぁ、悪いことばかりじゃないけどね。授業が途中で終わったのは幸いかも……」

 放課後の空き時間が増えるのは素直に喜ぶべきことである。忙しい毎日、時間はいくらあっても足りない。ただし、その甲斐(かい)もあってか、例の自由研究はもう後一歩の所まできている。

さても、その進捗を一気に進めるにあたり、どうしても試みたい実験があったのだ。そう、授業中なら好きなだけ機材を扱えるので失敗しても痛くないし、どうせ自分の書いた論文なんて誰も評価してくれないのだがら無茶な実験でもしたほうがましなのである。それに今日の授業も、いつものように〈魔掟書〉の使用が禁止になっていたので誰も魔法なんて召還していなかった。それもまた、翼にとっては好都合だった。そんな言い訳を並べながら授業を中止に追いやった例の危険物へと近づき、その前にしゃがみ込んだ。それは今もなお凄(すさ)まじい熱波を放っている。おもむろに前髪を掻き上げ、その熱の塊(かたまり)をじっと見つめた。やがて威力が減衰し始める。その反応に思わず表情を曇らせた。また今日も失敗だろうか。その力は授業中もずっと維持していたので、本来、この動力機関が放出する熱は、そのほとんどが漏れることなく相殺され、おかげで、この程度の暑さですんではいるが、今ここで、さらなる負荷(ふか)を与えて実用性を試す必要があった。動力が唸(うな)りを上げるたびに冷や冷やしたが、ここは耐えろと祈りながら魔力を強めていく。この場合、翼が行う術の成功が、すなわち失敗を意味している。それは体質的な力なので、〈魔掟書〉を用いる必要もないが、それだけに扱う時の慎重は考慮せねばなるまい。

 なにしろ、この力のせいで幼い頃の記憶をすべて失ったというのだから、どれだけ危険かは推して知るべしであろう。いったい、どういう理屈で、そうなったかは不明だが、母からは常々そのことを肝)に銘じるよう言われてきたので、かなり危ない目に遭ったにちがいない。

 さても魔法による文明開化をえて二百年あまり。現在、人の生活する場には様々な魔法が溢(あふ)れ、あらゆる場所に魔法を媒体(ばいたい)とした施設が存在している。そういった環境が、この体質の影響を受けるとどうなるか。恐らくは社会的な混乱だけではすまないだろう。人それぞれに宿る魔法の質は生まれた環境と同じでどうにもならないが、この先も平穏に生きていくには、この力の制御は不可欠だった。そのため母の指導のもと、その訓練だけは毎日欠かさず行ってきた。それは外部への影響が少ない聴覚を鋭敏(えいびん)にすることで内的魔力を高めるといった修行である。特に聴覚因子は内的波及の強い魔法感覚のため翼の場合は自力で体質を相殺できる作用が起こり、魔法を制御しやすくなるからである。

 とはいっても四六時中ずっと地獄耳でいるのは無理がある。そこで士官学校に通うようになってからは髪に遮蔽術(しゃへいじゅつ)を施し、さらに外的影響を及ぼしやすい視力因子を抑制する眼鏡を取り入れ、二重の安全策を取るようにしたのである。もちろん、そこまでするのは通ってる学校が学校だからである。ここでは、あらゆる場所にて魔術の訓練が行われている。技士科(ぎしか)は翼士科(よくしか)に比べて、まだ魔法への依存度が少ないが、それでも、たまに魔力資質の低い生徒が影響を受けたりするので気は抜けない。というわけで、現在(いま)、最も悩んでいるのが、この厄介な力を存分に発揮できる方法を模索する研究である。

 翼はもう一度、注意深く動力機関を観察してみた。いつもなら、ここで魔力に耐えきれず、術式が崩壊してしまうのだが、今回はどうも様子がちがうようだ。一旦、出力が衰えはしたが再び威力が増し、明らかにそれまでとは異なる力に変換されているようだ。もう少し詳しく調べる必要はあるが、なかなか具合はよさそうである。やがて安堵の息をもらし、それから教壇横の棚から〈魔掟書(まじょうしょ)〉を取り出して起動させた。光の波紋をゆらめかせて宙に浮かぶ〈魔掟書〉。そこから様々な立体を組み合わせた複雑な模様が出現する。これは前もって組み上げておいた厄介な力を中和できる魔法陣である。そんな光が充満するなか魔法が召還され、機関の動力が停止した。これで一安心である。後は庫内の整理をするだけでいいだろう。


 さっさと必要のないものを鞄の中へ押しこみ、続けて物体操作を応用した術を発動した。

 これも便利な魔法である。なにしろ発動時にある程度の汚れは取れるし、魔法で生みだす亜空間(あくうかん)に何着もの服を封印しておけば時と場合によって着替えができる。

 翼は機械油で汚れた着物を脱着し、綺麗な羽織袴(はおりはかま)へと一瞬で変装(へんそう)を遂げた。

 この白地に朱色の炎を袖口に描いた長羽織(ながばおり)は一般の男子生徒に支給される制服である。

「じゃ、さっさと片付けるか」

 幸い、庫内には作業用の魔法機械が数台常備してある。着替えを終えて、すっきりした翼は再び術に集中した。書に念意が反応し、その意志に従い機械が動き始める。やがて次に目を開けた時にはすっかり庫内は片付いていた。ふと気づくと、その中の一台がすぐ横に停止していた。それは小型の積載車(せきさいしゃ)に数本の腕を取り付けたような形をしている。数台ある内のこれだけが黒く塗装されており、翼はクロという名をつけて気に入っていた。翼の感性からすれば物にもそれぞれ個性があり、この魔法世界を構築する〈弦子(げんし)〉にも時折それを感じることがある。この力もまた上手く説明できない体質だが、これを用いると物体の構造を理解できたりするので工学を学ぶうえでは大いに役立った。ただし、これもまた、いいことばかりではなかった。

 

 それは四年ほど前のことである。

 その日、母が入院していた病院を見舞った翼は、彼女が気落ちしている様子に気がついた。

 訊くと、家から持ち込んだ魔掟放送の受信器が壊れてしまったのだと母は言う。

「あぁ、やっぱりね。それ、たぶん魔力を受信する装置だと思うよ」

 じつは、その箇所が壊れるのは前から予測していたので、すでに部品を購入ていたのである。

「なんか、最近、触れるだけで、ある程度、物の構造が分ったりするんだよね」

 すると、母はなぜか嬉しそうな顔をするのだった。

「うふふ、もう、それは仕方ないわね。でもね、その力は悪い面だけじゃないと思うわ。わた

しの反対を押し切って士官学校を受験すると決めたんだから頑張りなさい。あなたが修行した治癒術(ちゆじゅつ)は具合がいいわ。治療費の高い施術(せじゅつ)なんかより、よほど効果があるように思えるもの。あなたには、きっと色々な魔法を引き出せる、そんな力が宿りつつあるんじゃないかしら?」

「まさか、そんなことは、さすがにないと思うけど」

 でも、母の言ったことは、もしかすると当たっていたのかもしれない。

 なぜなら、その時、母の魔力を通じて、その死期が近いことも分かってしまったのだから。

 

 まだ復興途上にあった大穢土(おおえど)京に〈天魔〉が襲来する事件が起きたのは、それよりさらに一年ほど前のことだった。当時、大穢土京を占領していた連合軍に対し、士官学校の生徒たちが暴動を起こしたのが、そもそもの要因と言われるが、ともかく、それが引き金となり、〈天魔〉の襲来、つまり〈天蝕〉(てんしょく)が起きたのだと、後に政府が発表していたのを今でも覚えている。

 さても〈天魔〉とは謎に満ちた存在である。宇宙から人類を支配した〈天翼人(あまつばと)〉が、その滅亡の際、太陽系規模の魔法を発動させ、自らを怨霊化(おんりょうか)させたという説が今でも有力だが、それ以外のことは何も解っていない。ともあれ、その脅威は未だ人類を存亡の危機に陥れており、いくら帝国旗下の国々が、担当する宙域を決め、それぞれの惑星(ほし)に軍を派遣しているとはいえ、その脅威を完全に排除するにはほど遠く、おかげで熟練軍人の大半が常に宇宙へ出征している今、慢性的な人手不足も増大する一方で、そのため地上における防衛力は、どの国も若い士官生に依存しており、彼らはそれを〈天魔(てんま)狩(が)り〉と称して互いの腕を競いあっている。

 ただし、そのような風潮は死と隣合わせの宇宙では考えられないことである。ましてや未曾有の危機が迫れば、たちどころに、その脆さが浮き彫りになるのも無理からぬことだった。

 無論、魔術の心得のない庶民に〈天魔〉に抗う術(すべ)はない。〈天魔〉に対抗できるのは強い魔力を持つ〈魔掟士〉か、もしくは魔法で稼働する機械仕掛(じかけ)の巨人だけである。その〈神機〉をもってしても〈天魔〉と闘うのは命がけであり、その呪いに対抗できる力を身につけてなければ、たとえ、その場は切り抜けても不治の病に冒(おか)され、やがて死に至ってしまうのだ。

 母の病は、そのような不幸が重なり起きた悲劇だったのではないかと今でも思っている。

 その頃、庶民の暮らす下町には非難用の地下壕(ちかごう)などは建設されておらず、〈天魔〉の攻撃から逃れるには城のある中心部まで逃げなければならなかった。今も世話になっている仕事先の従業員と一緒に町を脱出したので詳しい経緯(いきさつ)は知らないが、聞いたところによると、母は大勢の人が避難する時間を稼ぐために、その身一つで〈天魔〉の群に立ち向かったのだそうな。

 おかげで多くの命が救われたが、〈天魔〉と闘った母は呪いの病に冒され、起き上がるのもやっとの身体(からだ)になってしまった。もちろん、そんな身体では仕事に行くこともできやしない。

 当時、派遣業に登録し、仕事の依頼を受ける芸者を生業(なりわい)にしていた母は敢(あ)えなく入院を余儀なくされてしまい、たちまち明日からの生活にも困窮する事態となってしまった。

 そこで代わりに翼が仕事に出ることにしたのだが、はたして、その雇い主になってくれたのが母も世話になっていた芸者派遣業〈月花楼(げっかろう)〉の主――律響(おとなり)吟子(ぎんこ)その人であった。

 その昔、遊女の文化として栄えた花柳界は、現在(いま)では、もてなしの心を楽しむ社交場として利用されている。もちろん、そのような舞台の主役は現在でも女性が主流だが、なかには男が扮する女形(おやま)の芸者もいて、それなりに活躍している。

 さても幼い頃から歌舞音曲(かぶおんぎょく)を学ばされ、男ながらも食いっぱぐれのないよう育てられた翼だけに、その将来性を見こまれ、住み込みで働かないかと話を持ちかけてくれたのだ。

 今になって思えば芸者の仕事というのは魔法に関わらない数少ない職業なので翼の体質には都合がいいと母は考えていたのだろう。とはいえ、いくら芸の素養があろうとも、たかが見習いの駆け出しでは満足な稼(かせ)ぎは得られない。住み込みなので食うには困らないが毎日の稼ぎは母の入院費に消えていき、そんななかで闘病する母のためにできることは限られていた。そこで翼は大金を得るための手段に訴えた。

 さて国が実施する公共奉仕の一つに魔力検定なるものがある。これは就職や就学などに利用される政府公認の証明書だが、世間では資質に恵まれた庶民がこの公式記録を売って金にする行為が横行していた。逆に士貴族(しきぞく)ながらも資質に恵まれなかった者が見栄でそれを購入する行為も後を絶たなかった。とはいえ、これは違法な行為ではない。そのような需要は高く、なにより国政を支配している特権階級が黙認しているので取り締まりの対象にならないのだ。現に、翼が魔検証を(まけんしょう)売った相手も国政に関わる士族の娘であり、そのおかげで大金を手にすることができたのだから批判など口にできる立場ではない。ただ、その代わりと言ってはなんだが、本来、その娘のものであった愚にもつかない資質が公式記録として保管されてしまうので、その代償は充分だったと言えるだろう。

 と、まぁ、そんな苦労までして工面した治療費だが、この先のことを考えると普通科の学校へ通うのは断念せねばならなかった。どの国もそうだが、学費が免除になるのは〈魔掟士官学校〉だけである。金もかけずに学問を身につけるなら魔法は避けて通れぬ道なのだ。ところが今までろくすっぽ魔法なんて学んだことのない翼では士官学校を受験するなど無謀もいい話であった。

 だいいち何をどう努力すればいいのかさえ分からない。たまたま相談できる相手がいたからよかったものの、そうでなければお手上げだったろう。

 そこで、またもや助けてくれたのが月花楼の主、律響吟子(おとなりぎんこ)その人であった。

 吟子こと於吟は、この界隈(かいわい)では強面(こわもて)の女親分で通っており、泣く子も黙る凄腕の〈魔掟士〉としても知られていた。いつも派手な打掛(うちかけ)を羽織り、煙管(きせる)を燻らせてる姿はちょっとした迫力ものだが、人情味に溢れる侠気(きょうき)の持ち主で、そのため町の人たちからもけっこう慕われていた。


「――とはいえ藪から棒になんだい。そういや、お前さん、この前、士官学校で行われた姫様ご帰還の式典を見学しに行ったんだってね。そこで何か思うところでもあったのかい?」

「いえ、べつに、おいらも男ですし、やっぱ芸者仕事もいつまで続けられるか分からないし」

「まぁ、切っかけはどうでもいいよ。ただし〈天魔〉さえいなけりゃ、それで世のなか安泰なんて思ってるようじゃ務まらないよ。なにせ〈天魔〉という共通の敵がいるのに未だ人類は団結せず、各国の覇権争いは酷くなる一方だ。世の乱れを〈天魔〉のせいにして御上の批判をするのは簡単だが、さても、そんな理屈だけで通らないのが〈魔掟士〉の世界ってものさ」

 と小物入れの抽斗(ひきだし)を開け、そこから手帳のようなものを取り出し、それを差し出してきた。

「なんですかそれは?」

「おいおい、〈魔掟書〉も知らないのかい?」

 話には聞いたことがあったが、見るのは初めてだった。大きさは学校で使う帳面の半分くらいだろうか。表紙は鮫皮(さめがわ)の装丁(そうてい)で、そこには月に向かって飛翔する不死鳥の姿が描かれている。高価な品であることは一目で分かった。というより一般の書でさえ庶民には高嶺の花だ。

「そんな高価なものを頂くわけには――」

「まぁ、そう気にするな。これは、お前の父が持っていたものだから好きにすればいいさ」

「えっ、そうなんですか? でも、おいらに扱えるでしょうか?」

「じつのところ一般的に言われる魔力資質と将来性との関係はいい加減なものさ。いくら資質が高くても努力しなきゃヘボだし、才能がなければ技巧を凝(こ)らすこともできない。それでも努力すればそれなりに能力は向上する。庶民に魔術が浸透しないのは単に教育を受ける機会が少ないからだ。なにしろ今じゃ、ほどんの者に〈天翼人(あまつばと)〉の血が混じってんだからね。とはいえ、はやまったね。なにも魔検証を売らなくても母親の治療費くらいは都合してあげたんだけどね」

「いえ、飯が食えるだけでもありがたいのに、これ以上、お世話になるわけには――」

「でも、士官学校の受験にゃ、その魔検証ってのが物を言うんだよ。まぁ生活に支障がない程度に術を扱えるなら一段位。お前も魔掟放送や固定魔法の公共設備くらいは利用するだろ」

「ええ、昔はよく故障させてましたけど、おいらの場合は何か異常でもあるのでしょうか?」

 されど、どさくさに紛れて質問してみたものの於吟は言葉を濁(にご)し、話を先へと進めていく。

「それはまた説明する。まず〈魔掟書〉が扱えなきゃ話にならん。そのうえで、ある程度の素質があれば二段位。それを超える超感覚や身体強化は三段位。まず士官学校への入学が許されるのは三段以上だ。でなきゃ〈魔掟士〉になるのは危険と判断されて受験資格さえ与えてもらえない。次いで物体操作などの基礎的な資質があれば四段位。さて、ここから先は高等魔術の世界だ。つまり〈奏焔(そうえん)〉〈氷襲(ひょうそ)〉〈風陣(ふうじん)〉〈雷陣(らいじん)〉〈練金(れんきん)〉〈水演(すいえん)〉〈地転(ちてん)〉〈天音(てんおん)〉〈覇光(はこう)〉〈創生(そうせい)〉〈森羅(しんら)〉〈太極(たいきょく)〉などの万象大系のいずれかを〈魔掟書〉を用いて召還できなきゃ翼士科は受験できない。さても魔検証ってのは受験において、その水準に達しているかの目安にされる。本来の魔検証なら余裕だったが、あれじゃ書類選考で落選だ。だから取り敢えず目指すなら、技士科か航士科(こうしか)だね。航士科なら今すぐにでもいけるぞ。あそこは魔力より体力重視だからな。ただし、技士科を目指すなら今年の入試は諦めな。来年の転入試験に賭けるしかないだろう」

「一年でなんとかなりますか?」

「するしかなかろう。お前のことだ。母の病をこそ気にして、その決意を固めたんだろうから」

「分かってます。もう今さら何かしても無駄だってことは、でも、何もできないのも辛くて」

「まぁ、焦るな。一つ言っておこう。お前は内系資質も外系資質も悪くない。ただ治癒術を扱うとなれば外系資質に加え、様々な内系感覚の術が必要になる。それに伴う知識量も半端じゃない。超感覚は三段位水準だが物理魔法との組み合わせが難しい。技を磨くしかない。それこそ努力だ。だが、その部分を鍛えることは、お前の力を制御することにも役に立つはずだよ」

「おいらの力……?」そう、それが最も気になっていたことだ。そして死んだ父のことも。

「すべての魔法に君臨する奇跡。その身に術式を刻印し、代々に渡る血によってのみ伝える魔法。呪文も〈魔掟書〉も必要としない、その魔法は〈血銘術(けつめいじゅつ)〉と呼ばれている。お前こそ、この世に唯一ある奏焔(そうえん)魔法のすべてを召還できる熾天(してん)の力や、退魔の力を宿す者なんだけどね」

「は?」思わずきょとんとした。「えっと、それはどういうことですか?」初耳である。

「詳しいことはまた話す」また、それか。

「それよりも、その前に一つ重要な話がございます」

 そう言って於吟はおもむろに手を叩いた。すると大勢の者が部屋の中に集まってきた。

 それほど広くない部屋が、着飾った女たちの噎せ返るような香りでいでいっぱいになった。

「いつか、こんな日がくることを心待ちにしておりましたよ」

 いきなり豹変した於吟の口調や、そこに平伏するみんなの態度に翼は目を丸くした。

「よくぞ決心なされましたな。殿下の出生については、まだ詳しく申し上げる訳にはまいりませんが、これより一同、心より忠誠を誓う所存にございます」

 それから間をおかずして、魔術の修行が開始されることになったのである。


 士官学校の入試は選択する学科にもよるが、単に術の優劣を競うだけでなく、それを活かせる知識も要求されるので、まずは〈練心(れんしん)の業〉という念意を集中させる訓練と同時に様々な学問を身に付けていく修行が行われた。なぜなら術式を作るにあたり、まず必要となるのが用いる語彙(ごい)の質だからである。つまり、どんな言葉が、どのように魔力を引き出すのかを見極め、さらに発音や抑揚(よくよう)も念頭に入れながら呪文を練らなければならない。

 しかも、ただ言葉を並べるだけでは術は発動せず、詠唱魔法による奇跡を起こすには呪文を唱えると同時に求める物理法則の歪みも頭の中で計算せねばならず、その二つの要素が組み合わさり、初めて魔法は召還されるからである。すなわち〈魔掟書〉とは、その複雑さや困難さを解消する物であるが、それを普遍とするには、まず詠唱による召還を成功させねばならず、それを実現するには日々の努力のほかに道はない。とまれ〈魔掟士〉とは、まず知識人たらねばならぬとは於吟の言であったろうか――さしずめ月花楼にはまさにそのような研鑽(けんさん)を積んだ〈魔掟士〉がゴロゴロおり、そのような先輩たちが寝食も忘れ、持てる知識や技を競うように伝授してくれたのだから目指す技能の質が飛躍的な進歩を遂げていったのは言うまでもない。

 さても、そんな修行が半年ほど続いた頃であったろうか。その日、於吟に連れられやってきたのは月花楼(げっかろう)の地下にある書庫であった。芸者の仕事というのは存外(ぞんがい)これで様々な知識が必要とされるので魔術とは関係なく、ここで本を読む先輩たちもたくさんいる。

「さて、ここには魔術の指南書(しなんしょ)も豊富に取り揃えてございます。遠慮せず学んでください。そうですね。ここにある本を片っ端から魔術的に記憶していくことも日課に加えましょう。しかも、ただ記憶するだけでなく如何なる時も知識を検索できるよう魔術複製しておいてください」

「えっ、それ、まさか本気で言ってる訳じゃないよね?」

 すでに亜空間を創出し、そこに様々な物を保管しておく術は学んでいた。〈弦子〉を用いた記憶媒体を〈練心〉する術もこの前、習得したばかりだが、さりとて言ってることは鬼だった。

「では書をお貸しくだい。思ったより習得が早いので書の力を抑えます」

「えぇっ、また何でそんなことを?」

 慌てて訊き返すも、さっさと奪われ、そこに特殊な封印術まで施されてしまった。

「これも修行です」と突っ返されたそれを受け取ると書は外見からしてまるで別物に変化していた。不死鳥の紋章は消えてなくなり、心なしかボロくなったような気もしてならなかった。

「さても特殊な万能視でも用いない限り書の本来の姿が見破られることはありません。これも殿下の正体を隠すためです。取り敢えず、この魔力反応を抑制した書を使いこんでください」

 それ以来、修行はさらに辛いものになった。〈魔掟書〉の調整は術の精度に関わる重要な要素なので、その性能を抑制されては修行に影響が出るのも当然である。魔法を一つ召還するにも今までの倍の負担がかかるようになってしまった。ただし、それも二月もすれば慣れるもので、書を複製する作業も、その頃には一日に十冊以上も記憶できるようになり、いつしかそれらの修行が母と離れて暮らす翼の拠(よりどころ)にもなっていった。

 

 ところが、その年の暮れだった。ついに母の容態が悪化し、そのまま帰らぬ人となってしまったのである。それは転入試験を三ヶ月後に控えた寒い日のことで、その時になって初めて母が延命治療を拒)み続けていた事実を知り、翼は深い悲しみに包まれてしまった。


「もう助からないと分かっていたのです。ですから金銭的な負担をかけまいと治療を受けずにいたのでしょう。若が工面した費用も手つかずで残されておりました」

「どうして、そんなことを!」

 病室で静かに目を閉じ、横になる母に何度も呼びかけたが返事が返ってくるはずもなかった。「呪いに冒された者は大変な苦しみを味わうものですが、恐らく痛みはなかったのでしょう。これほど安らかな顔で逝けたのは若が施された治癒術が効いていた証拠(あかし)です」

 そう言って微笑む於吟であったが、その表情は痛切というよりほかになかった。

「若君、お許しくださいませ。若の育ての親である夜宵を見捨てたのは我らでございます。先年の動乱の折、決して、その争乱には関わるなと御家老様から命じられておりました。殿下のことはもちろんのこと。我らの正体、決して世間に知られるわけにはならぬとの仰せで……」

「つまり母さんは、その命に背き、一人で〈天魔〉に立ち向かったってこと?」

「仰せのとおりにございます。ですから我らのこと、お恨みくださってもかまいません。ですが、いつか親子でいられなくなることは夜宵も承知していたことでしょう。その時は潔く――」

「だからって、なにも命を投げだす必要なんてないじゃないか!」

「恐らくは殿下をお守り育てることを最期の御奉公と決めていたのではないかと」

「御奉公だなんて言いかたしないでくれよ。今でも母さんは、おいらの母さんなんだぞ!」

「ありがたき幸せにございまする。夜宵は果報者でございまする」

 そこで目を瞠った。あの気丈な於吟が、その身を嗚咽に震わせていたのである。

「どうか、夜宵の意志を継ぎ、立派な士におなりください」

「意志を継ぐ?」

「夜宵は殿下に覚悟のほどを問われたのです。〈魔掟士〉とは魔法の掟に従い、特別な力を操る者。その力は世のために活かさねばなりません。士道とは何かと問えば様々な答えが返ってくるでしょうが、少なくとも夜宵が心した覚悟とは、喩え、何があろうとも誇りを失わず、その不屈を貫くこと。いかに命に背くとも、その正義を諦めない信念を身をもって証明したかったのでございましょう。若を育てた火選崎夜宵とは、まさにそのような至誠の士にございました」

「士の誇り、諦めない信念、おいらだって、そんな〈魔掟士〉になりたいよ!」

 そっと寄り添う於吟の胸のなかで翼は声を嗄らして泣き叫ぶのだった。

 

 そして次の日から、ますます修行に打ちこむようになったのである。おかげで試験に合格できた翼は迎えた春より技士科の中等部へ入学し、二年生の訓練隊に所属することになった。だが、そんな悲しみを乗り越え、並々ならぬ覚悟を抱き、様々な知識や技を身につけた翼である。一年遅れの転入とはいえ、まだ未熟な同級生に劣るところなど何一つとしてありはしなかった。

 それどころか、彼らをはるかに凌駕していたと言っても過言ではなかったろう。

 さても同じ学年の者からすれば、じつに目障りな者が転入してきたものである。

 やがて、そんな妬心(としん)が様々な軋轢(あつれき)を生みだしていくことになるのだが――……


「今や帝国の覇者と言えば天枢帥国(てんすうすいこく)です。かの国が率いる枢軸(すうじく)連合に我が国も加盟し、それによって国防と産業を振興させていくべきだと考えます」

 その日行われた外交戦略という講義では互いに議論をしあう機会がもたれた。

 士官学校はなにも将来士官になる人材だけを育てているわけではない。その日の授業は世界の情勢を踏まえて今後の国のあり方を議論するというもので、なかでも終始に渡り、そのような持論を展開したのが隊きっての優等生、十五夜鏡花だった。鏡花の父は筆頭家老の十五夜重盛である。重盛は士官学校長や国防総監といった重職を兼務する辣腕家だが、なにかと朝廷におもねる傾向の強い人物として知られていた。なので、その影響もあってか彼女が主張した発言はいわゆる枢軸派(すうじくは)と呼ばれるものであり、それに対し、真っ向から反論したのが翼だった。


「それは四天同盟(してんどうめい)の軍門に降るのと同意です。かの国々が朝廷の威光を利用して得る利益は連合の全体には行き渡っておりません。その盟主たる天枢(てんすう)国にはまだ大国の矜持というものがあるようですが、ほかの天璇(てんせん)、天璣(てんき)、天権(てんけん)といった枢軸連合の中核をなす三帥国(さんすいこく)の悪評は日に日に増すばかりです。彼らが利益を独占するため、ほかの国々は搾取に喘(あえ)いでいるのが現状です」

 それに賛同する者もいた。生徒の意見は二つに分かれ、なかなか結論は出ない。

 それもそのはず。このような対立は常に政治に澱みを与え、国の行く末を巡っては激しい論争が起きていた。たかが士官学校の授業内で議論に決着などつくはずもないのである。

 やがて、そんな議論から数日が過ぎた日のことだった。その日、学校へ行くと教室の黒板の前に人集(ひとだか)りができていた。近づいてみると、そこに翼の魔検証(まけんしょう)が貼られていた。翼は慌ててそれをむしり取った。もちろん、その紙面が示す内容が真実とは限らないし、魔力の善し悪しが、そのままの力量とも限らない。それに、ここが普通の学校なら問題にもされなかったことだろう。されど特権階級の巣窟とも言えるこの学校はちがう。彼らの属する社会では魔力資質が社会的な地位を決める要素にされている。とはいえ個人情報を勝手に公表するなど名門の血筋でも許されることではない。しかも暴露された内容はそれに止まらなかった。そこには差別的な文言を用いて悪し様な内容が記されていたのである。例えば母の職業が芸者であったことや、その母が〈天魔〉の呪いに罹(かか)ったことなどが、それだった。さらに許し難いのは、賤しき身分の芸者風情が男を騙した金で息子を裏口入学させたという根も葉もない一文が添えられていたことである。いったい誰がこんなことを? べつに疑ったわけではないが翼の目は咄嗟に鏡花の姿を探していた。鏡花は自分の席に坐り、静かに本を読んでいた。そこへ視線を投げると、今気づいたと言わんばかりの様子で立ち上がり、黒板消しを手にして悪辣な文字を消してくれた。ただし、それも束の間、彼女の口から洩れた囁きに心は完全に打ちのめされてしまった。

「たかが平民のくせに調子に乗るからですわ」

 しかも災難はそれで終らなかった。その日の放課後である。翼は教官室に呼び出された。

「君を審問会に掛けることにした。我々も、こんなことはしたくないが君を疑う者が多くてね」

 そこにも何者かの悪意を感じはしたが、もはやどうすることもできなかった。さても教官たちが疑ったのは翼の〈魔掟書(まじょうしょ)〉である。〈魔掟書〉には幾つかの制約があり、法に定められた条件を満たしてなければ違法とされる。まず術具として、それ自体に魔力を向上させる機能はなく、無理に脳を活性化して念意(ねんい)を高める効果などを付属させるのはその違法行為に該当する。

 もちろん翼が法を犯すはずもなく調べた結果は異常なし。だいいちである。技士科の訓練は〈魔掟書〉を含むすべての術具を除外した状態で行われることが多い。さても訓練がそういう条件で行なわれるのは、どんな状況でも術具に頼ることなく対応できる力を養うことにあり、そもそも〈魔掟書〉もなしでは大した術も発動できないのが技士科に属する者の常であった。

 さればこそであろう。なおのこと向けられる疑惑の念が晴れることはなかった。

 なにしろ誰の目から見ても翼の知識や技術が一般の水準を超えているのは明らかであり、

 そこに何らかの魔術的な支援がないとは誰も言い切れなかったからである。

 やがて、そんな疑念に対する鬱積(うっせき)とした思いが自然と態度にも顕れるようになってしまった。

 それはまた、ある日のことだった。整備訓練中のことである。

「どうして脚部の出力数値を教本どおりに設定しないのか?」

 そんな教官の詰問(きつもん)に対し、翼は思わず反抗的な態度を取ってしまった。

「この出題には環境条件を湿地に設定せよとあり、その基本解答は確かに仰るとおりですが、ただ考えるに、これでは逆に出力が強すぎて地面に機体が沈む不安もあります。新たに数値を算出し、設定を見直したところ滞空機能を活かして脚部出力を抑えたほうが有効だと考えます」

「なんだと貴様、神聖なる教本に楯突くとは何ごとか、そんな馬鹿は校庭でも走ってこい!」

「そんなぁ~」じつに理不尽な仕打ちであった。とはいえ身から出た錆とはいえ、まさに後悔先に立たずである。というわけで、それ以来、どういうわけだか翼だけが常に厳しい評価を受けるようになり、そのおかげで成績は下降の一途を辿るようになってしまったのだ。

 やるせない溜息が口から洩れ、深閑とする庫内に散った。相変わらず教官たちの辛辣な評価や理不尽な懲罰は止まる気配もない。このままでは退学処分になるのも時間の問題だ。その結末を回避するには、もはや正攻法ではどうにもなるまい。幸い、今日の実験は成功のようだ。今日ものんびりしている暇はない。やがて翼は通学鞄を背負うと整備格納庫を後にし、翔空路脇の歩道を駆け抜けて人目を気にしながら例の工場へと駆け込むのだった。 

 さても、その工場の内部である。その轟々と炎が猛り狂う結界の奥。

 そこには、まさに不死鳥の如き姿をした神々しいばかりの〈神機〉が屹立していた。

                                

                                第二話へ続く 

  大谷 歩  メールアドレス



    oayumu@gmail.com


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