第3話 修行といっても……

「では九代苦楽師匠に弟子入りしてからのことをお話しいただけますか?」


 −−ええ、ようがすよ。噺家の師匠の弟子になりますと「住み込み」で、師匠の身の回りのお世話だけでなく、奥さまのお手伝いやら、兄弟子の付け人などの雑務をやり、そのことで行儀作法や上下関係なんていう要は職人さんやお坊さんの修行みたいなことをしなくてはならないのですが、苦楽師匠のところは奥さまが既に鬼籍に入られていて、当時大学生だった苦楽師匠の娘さん、これは今の快楽師匠なのですが、快楽師匠が家事全般を一人でしますし、苦楽師匠のお世話も全部一人でやってしまわれちゃうのです。わたくしが手を出そうとすると「あんたは余計なことに首を突っ込まないで、落語の勉強をおしよ!」と怒られてしまうのです。

 それで、唯一の兄弟子、堕楽さんは十年以上前座なので付け人は不要でしたし、とても優しくてイジメなんてのもなく、わたくしに『古典落語全集』という分厚い本を「おれ、これ難しくて読めないからやるよ」とわたくしにくださいました。まあ、自慢なんですけど、わたくし家業の都合で記憶力が良かったので、その全集を一晩で全部覚えてしまいましたかねえ。古典噺というのは大体五百話くらいなのです。わたくしは『広辞苑』や平凡社の『大百科事典』吉川弘文館の『日本史大事典』なんていう何巻もあるものを養家にいるときに覚えさせられていたんでね、今でいう「速読法」みたいなものですな。

 翌日、苦楽師匠が「あなたも噺家を目指してここに来たのだから、聞き齧りで噺の一つや二つはできるでしょう? つっかえてもいいから、ちょいと聴かせておくれよ」などと言うものですから覚えたての古典噺を二十本ほど聴いて貰いましたら苦楽師匠が両の目をひん剥きまして「あなたは何本、古典噺を覚えているんだ?」って聞いて来ますので「はい、昨日の夜に五百本ほど覚えました」と真っ正直に答えてしまいました。わたくしもまだ青二才でしたね。「能ある鷹はソフトバンクホークス」っていうでしょ?


「いいえ、言いませんねえ。初耳です」


 −−ああ、そう? マグちゃんは半分アメリカさんだから「ことわざ」には疎いのかしら?


「いえ『能ある鷹は爪を隠す』なら知ってます」


 −−なんだ、知ってるじゃん。わたくしは噺家ですから物事はひん曲げていうの。婉曲表現、チャンチャカチャンですね。


「きっとそれも昭和のギャグなのでしょうが、わたしには全くわかりません」


 −−昭和でゴメンね、ゴメンね〜。それでですね、苦楽師匠は古典を口伝で教える必要がなくなったので、気が抜けたのか指導の意欲を削がれたのか、きちんと正座してたのに胡座に変えてしまって「これからの噺家は古典噺だけじゃなく新作も演じなくちゃいけないよ。とりあえずさあ、三十分くらいの新作噺を拵えて来なさいよ。一週間もあれば足りるかね?」と言われましてね、その晩のうちに『瀬戸際の魔術師』『地獄のサタディーナイト・フィーバー』『ホエールズが優勝した日』『クロネコの痰絡みて宅急便』『ルイ・ルパン五十三世記』の五本を考えました。

 で、翌日に苦楽師匠の前でそれらを披露しましたら「台本は今あるかい?」と訊かれたので「はい、脳みそにあります」と答えましたら、師匠が「悪いがちょいと紙に書き下ろしてくれるかい」と言われました。「はい」とは答えましたが、実はわたくしは左ギッチョの超悪筆で、自分の書いた文字を自分で解読できないのですよ。当然、他人には象形文字というかそれ以下の昔、長電話しているときにメモ紙に無意識で描いちゃうようなミミズかヘビが発狂したようなものにしか見えません。困っておりましたら、堕楽兄さんが心配して事情を聞いてくれ「おれさあ、ボールペン習字一級だから代筆してあげる。でも、難しい漢字は書けないから、ひらがな率は高いよ」と申し出てくださったので、口述筆記して貰いました。兄さんの字は本当に美しかったですよ。でも、小学校二年生の国語教科書くらいの漢字量でしたかねえ。

 それで完成した台本を師匠に持って行きましたら「おお、ひらがなが多くて読みやすいね。これは『一門預かり』ということにして金庫の中にきちんと取っておきますよ」と何故か懐に入れていました。

 一ヶ月後の師匠の独演会ではそのうち三本演じられましたかねえ。別に『一門預かり』なのでわたくしは全然構わなかったのですが。


 ただねえ、やっぱりわたくしもなだ子どもでしたんで心の隅では「大人って……」と世間の厳しさというものを初めて肌で知りましたかねえ。

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