第2話 上京でなくて上浜っていうんですかねえ?
「あの、ではなぜ家業である『語り部』を継がずに『噺家』になったのですか? ご両親に反対はされなかったのですか?」
−−ああ、そう思いますわねえ、普通。けれど『語り部』という家業は、自主的に我が家で行っていたものではなくて、まだ仮名文字もなかったような古代のヤマト王権の時から大王家や朝廷よりわたしの養父方の祖先である氏族が『委託』を受けて行っていたもので、義父の家の姓(カバネ)だって『語部』というこの家系だけのものだったのです。ご同業らしき有名な方にに稗田阿礼さんていう舎人がいて『古事記』の編纂に関わったとされているのですが、この方の氏族の姓はわからないとかなかったらしいです。たぶん、稗田さんのところは『古事記』だけでお役御免になったのでしょうな。まあ架空人物説もあるくらい謎のお方なんでねえ。
養父の家系はずっとその後も各時代の朝廷から内々に『委託』をあくまでも「口伝」で『委託』されていたのですが、平成の世になって、ぶっちゃけて言えば『国立公文書館』さんから唐突に「デジタル化の安定と経費および人件費削減によりその職を解く」と養父に「口伝」されました。養父は先祖代々の任を解かれたショックで痴呆というか認知症になってしまってまもなく亡くなり、養母もあとを追うように逝ってしまいました。ちょっとねえ……それ以来、わたくしは反体制派ですよ。もちろん、マルキストみたいな左にはいきませんよ。いつだって真ん中シャッキリですよ。この物言い、問題ないよね?
わたくしは天涯孤独の身に戻りまして、これからどうして生きていこうか悩みましたら、たまたまテレビで『笑点』をやっていましてね。ああ、こんなバカなこと言っているだけでカネになるならいいなと思って、噺家になろうと思いました。わたくしは元来バカバカしい「笑い」が好きでしたのでね。
「『語り部』のお宅にテレビがあったのですか?」
−−ふふふ、メグちゃんは『語り部』を伝統芸能とか『〜道』みたいな古典芸能的な求道者と勘違いしていますねえ。『語り部』はあくまでも時代の先端を行く職業ですよ。つまり解任されるまでわが養家は「特殊みなし公務員」のようなものだったのです。公的な記録にはどこにも残っていないでしょうがね。全て「口伝」ですからね。
さらに言えば先祖以来の記憶の継承とともにこの世界に起きるあらゆる事象をなるだけ新たに記憶する必要が任務としてありました。常に情報量は増えていったのです。田舎のことゆえテレビは公共放送と民放のネット局三つでしたが、テレビ受信機は四つあって常に付いていましたし、新聞も全国紙にスポーツ紙と可能な限りの地方紙が毎朝配達されてきましてそれを読みましたし、最後の方は衛星放送のパラボラアンテナもつけて、さらにそれ用の受信機を新たに購入していました。当然ラジオも聴きましたし、雑誌だって毎日書店の外商さんが運んできましたよ。少し、養父は情報過多気味でしたね。生真面目過ぎたんですよ。それで解任されてガックリしたという部分もあったのではないですかねえ。わたくしはその点、血の繋がりがない分、いい加減な性格もありましたよ。後付けで厳しく鍛えられましたが、逃げ道はいつも持っていました。
「当然、その全部を観たり聴いたりはできませんよね?」
−−もちろんできません。ただ、慣れてくるとその情報が必要か不要かが分かりますので、不要と判断すれば記憶からパッと消えます。ただし、秘するべきものを敢えて記憶しておくこともありました。それは要するに国家に対する養家としての担保ですね。ですから、わたくしは国家から弾圧を受けたら、今でもそれを開示することができます。ただし、物的証拠がないのが弱点ですよ(笑)。それにしても情報は大量にありました。ですから、家業が無くなるまでは『笑点』のような娯楽系番組は不要な情報に分類されましたのでわたくしは存じ上げませんでした。もちろん噺家という職業もです。それが、養父母がいなくなって初めて『笑点』のような本来わたくしが好んでいた「笑い」が目に飛び込んできたわけです。
なので当初は『大喜利』こそが落語の全てで、司会をされていた三波伸介さんが落語界で一番偉い人だと思っていました。まさか『大喜利』が本質は寄席の余興で、しかも三波伸介さんが噺家ではなく、喜劇人・コメディアンだったとは思いもよりませんでしたので、この世界に入ってからからそれを知り、とてもびっくりしましたねえ。
「では何故『笑点』に出られていた師匠方でなく、超マイナーでおそらく予備知識もない萬願亭一門に弟子入りしたのですか?」
−−予備知識は実はあったというか、良いご縁で持つことができました。わたくしが噺家になろうと決めたそのタイミングで、わたくしの師匠である九代目・萬願亭苦楽が岩手県で独演会を開いたのです。わたくしは盛岡まで電車に乗って、噺を聴きに行ったのです。
普通、独演会と言っても、お弟子さんや、客演の噺家が一席演るのですが、その時はどういう訳か苦楽師匠が一人で一時間ほどの古典の大作を三つ、休憩を入れて演りました。既に師匠は老境に入っていて、身体も細かったのにも関わらず、とても迫力がありました。苦楽師匠は歌舞伎の『荒物』とでもいうのですかねえ、豪快な噺が得意でしたので、身振り手振りも派手でして、聴いているというより観ている感じがして、思わず手に汗を握りました。
故に、すぐに楽屋を訪れて、弟子入りを願い出たのです。ちょうどその頃、萬願亭一門は先代の八代目苦楽が亡くなり、わたくしの師匠である九代目が写楽から止め名である苦楽を継いだのですが、兄弟子の安楽師匠、気楽師匠らその襲名に反発して、一門から飛び出し、落語協会と落語芸術協会に加入してしまい、わたくしの師匠苦楽の下には堕楽兄さんという人はとても良いのですが『寿限無』もできなくて、十年以上前座というお人しかいないという惨憺たる状態だったのです。何せ、本来の萬願亭一門は独立独歩で、苦楽、安楽、気楽という通称『三楽』という三本柱で運営されていたのに苦楽師匠だけになってしまったのですからね。ただ、わたくしの師匠である九代目苦楽は玄人さんやプロの演芸評論家さんから「大名人」と呼ばれていたので、一人でも客は呼べました。しかし、いろいろと持病がありまして、長い興行を演るのは厳しかったようで、金銭的には苦労していたようです。
「はい、ではまたCMです」
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